3.一息
「それでは王妃様、どうぞごゆるりとお過ごしくださいませ。必要なものは此方で全て整えておきます故、ご心配なく!」
大浴場の前まで辿り着くと、礼をとったニンアは側に控えた使用人に仕事を引き継いだ。
身についた反射で穏やかな笑みを返すフローティアの視界の端で、クラシカルなメイド服を着た兎人の女性がそっと頭を下げる。
「ユラと申します。王妃様の身の回りの世話をするべく参りました。着替えの為にお身体に触れてもよろしいですか?」
丁寧に、落ち着いた声音で言葉を紡ぐ彼女は、先ほど城内でフローティアを見に来た冥府の者たちと比べると、随分とヒトに近い形をしていた。あくまでも、彼らに比べれば、という話だが。
頭部は白い毛並みの兎そのものだが、首から下は体毛に覆われている以外はほとんどヒトと同じような作りをしている。他の異形のものたちと違って手足が五本も六本も生えていたりはしないし、目も二つきりで、口も慎ましく可愛らしい。
その顔も現世の兎と変わらないような見目をしていることから、フローティアは彼女が『外部から連れられた王妃』に合わせて用意された使用人であることを察した。
冥府に存在する者の中で、一番他者を怖がらせないで済む容姿の者が選ばれているのだろう。
フローティアは彼らの気遣いに応えるように、礼を失さない程度の親愛を込めて微笑みを浮かべた。
「ええ、よろしくお願い致しますわ。式典用のドレスを着替える暇もなく此方に来てしまって。こんな面倒な作りのドレスの対応をお願いするだなんて申し訳ないくらいなのですけれど……一人では流石に脱げそうにない代物ですの」
フローティアは卒業パーティの最中に、リヴィメラの手によって冥府へと連れられた。
当然、身につけているものは門出に相応しく──というより家名に傷をつけないための──豪奢で華美なドレスだ。
飾りとして重ねられた生地は厚く、構造も普段使いのものより複雑で、一人では到底脱げそうにない。フローティアは着替えに使えるような魔法は身につけていないのだ。
脱がせやすいようドレスの構造を簡単に説明するフローティアに、ユラは目立たないように目を瞬かせた。
熟練のメイドであるので、告げられる説明は並行して頭に入れている。けれどもその目は、じっと観察するように、それでいて不躾にならない程度の塩梅でフローティアを見つめていた。
ユラはこの城に勤めてかなり長いが、第一にどの種族にも疎まれにくい見目をしていることと、彼女自身がこの仕事を好んでいることから、歴代の王妃の世話係を任されてきた。
リヴィメラが連れてきた『王妃』はこれまでに七.五名いる。
人間が三人、魔獣が二人、ほとんど魔獣に分類されるものが一人、そして精霊が〇.五名だ。
今回のフローティアのように現世から連れて来た者もいるが、多くは他世界から連れられてきた。
彼女たちはその殆どが、正直に言えばユラにとってはあまり好ましくない反応を示した。
例えば玩具を扱うかのように顔や耳に触れようとしたりだとか、挙句の果てに尻尾を見せてほしいなどと言い出したりだとか、あからさまに生き物として下に見るような態度であったりだとか。要するに、『存在を軽んじる』行為ばかり受けてきた。
別に、これが王妃という立場の者から『使用人』への命令として行われるのならば、ユラは甘んじて受け入れただろう。だが、彼女らから向けられる感情は、ユラにとっては得体の知れない不気味さを含んでいた。
察するに、彼女たちはユラを『人格ある正当な権利を持つ存在』だと思っていないのだ。
それはユラにとっては使用人という身分を軽んじられるよりも、余程辛いことだった。なんなら、ほとんど魔獣扱いだった王妃に『兎は弱い』と謗られたのが一番マシだったくらいである。
王の見る目がないのだ、と言えばそれまでだったが、ユラはこれまでの全ての『王妃』に対し、あまり良い感情は抱かなかった。無論、仕事であるからして、職務は全うしたが。
だが、フローティアは少し違うようだった。彼女は最初こそユラの風貌に驚いたようだったが、瞬き一つの間に無遠慮な驚きは淑女の笑みの奥へと隠し、あくまでも立場ある者として指示を口にした。その所作からは、冥府という場所でどのような礼儀を払うべきか、少し緊張が滲み出ているようにすら思う。
『とうとうまともな王妃様をお連れになったぞ!』というもはや勝鬨じみた声は、もしかすると嘘ではなかったのかもしれない。
考え事をしつつも、ユラは手早く丁寧に、最善を尽くした手つきで脱がせたドレスを丁重に扱った。フローティアのサイズに合わせた入浴着は、既に用意してある。
大浴場はその名の通り、入浴の場としてはかなり広い。深く澄んだエメラルド色に輝く湯を見たフローティアは、素直に驚きの声を上げた。
「まあ! 冥府のお湯は、不思議な色合いをしているのね。もしかして、お水もそうなのかしら?」
「大浴場に引く為に地下から汲み上げた湯が特異な魔力を帯びているため、このような色をしております。此方の湯は魔力による効能は認められておりませんし、浸かる分には人体にも特に影響はありませんが、多量に経口摂取するとやや肌の色が緑になる……と言った事例が報告されておりますね。
飲料用の水は現世と同じく無色透明ですので、ご安心ください」
「そうなのね、それは良かったわ」
フローティアは小さく笑うと、ユラの手に任せて身を清めた。
彼女が世話をされることに慣れている者であるのは、その所作を見ればすぐに分かった。おそらくは、『自身の世話をする為に用意された者』に仕事を与えることの重要さも理解しているのだろう。
艶やかに煌めく金の髪を丁寧に洗い終えたユラは、微かに安堵の吐息を溢した。この王妃様ならば、きっと冥府の希望となってくれるに違いない。
「温度も丁度良いし、香りも素敵だわ。これだけでも、此方に来た価値があるかもしれないわね……」
それはユラに聞かせるつもりというよりは、殆ど独り言に近い声音だった。
エメラルド色の湯に浸かり、手のひらで掬っては眺めるフローティアの横顔は、確かに言葉通りに純粋な感動に満ちている。
しばらく湯を堪能したフローティアは、ふと思い出したようにユラを見上げた。
「そういえば、冥府には梟がいると聞いたのですけれど……あの荒野のような場所に、生き物は住めるのかしら?」
純粋な疑問以外の含みはない問いだった。
ユラは少し迷ってから、出来る限り分かりやすく伝えようと口を開く。
「そうですね……此処では生物というのは現世のように生息するというよりは『存在する』というのが正しいかと思います。住むというより、居るだけです。
我が君が仰っている『梟』というのは、恐らくは水晶の森に居る夜栄梟のことかと思いますが……その、現世の梟とはかなりかけ離れておりますので、王妃様の想像するような生き物ではないかと……」
「確か、目玉と足が多いと聞いたわね」
「……眼球が十二と、足が六本在ります」
ユラの答えに、フローティアは静かに天井を見上げた。多すぎるわね、と思っているのが、その表情から容易に察せられた。
ユラは何処か気まずい思いで、微かに慌てたように言葉を重ねる。せっかく訪れた『まともな王妃様』が、冥府に忌避感情を抱いてしまうのは悲しい。
「一応、現世と同じ見目の生き物もおります。王妃様は水晶群の兎はご覧になりましたか? あれらはかなり現世の兎に近い形をしております。
兎というのは古来より冥府の象徴でありながら現世と冥府を繋ぐ存在であり、『兎』に近い定義の存在は比較的、目や手足の数が現世に似るのです。例えば、私のように」
両手を広げて見せたユラに、フローティアが視線を向ける。興味深そうに目を瞬かせたフローティアは、そっと柔らかな笑みを浮かべた。
「確かに、兎は現世と変わりませんでしたわね。冥府のことは現世に殆ど伝わっていないものですから、どうしてあんなに兎が多いのか、少し疑問に思っておりましたの」
「冥府では原初の兎は最も存在の強い生き物ですので、大抵は何処にでもおります」
「そうなのですね。ところで、もしかしてユラさんも冥府の中ではかなり身分の高い方なのかしら?」
フローティアの疑問は、ごく自然なものであった。『兎』が冥府の象徴とも言えるような存在であるのなら、それは当然、兎人であるユラもそうであろう、と思ったのだ。
ユラは広げた両手を静かに下ろしてから、左手を胸の前に置き、冥府の者の礼をとった。
「一応は上級使徒のひとりですが、この仕事が好きなので使用人をしております」
「仕事が、好き」
フローティアは、少々面食らった様子でユラの言葉を繰り返した。隠しきれない驚きが、瞬きに現れている。
ユラはどう答えたものか逡巡したものの、素直に肯定を返すことにした。例え誰にどう思われようと、ユラが心からこの仕事を愛していることには変わりないし、それ以外に答えようもなかったからだ。
頷きと共に肯定を返したユラに、しばらく声もなく固まっていたフローティアは、二分ほどの間を空けてから、呆然としたように呟いた。
「素敵だわ……」
それは、純粋な感動がそのまま声になったような響きをしていた。ユラの耳は随分と高性能なので、そこに含まれた憧憬と感嘆を正しく聞き取って、面映さに微かに揺れる。
夢見る乙女のような顔でユラを見つめていたフローティアは、はっとしたように表情を取り繕うと、淑女然とした仕草で軽く首を傾けた。
「その、冥府の方々は現世での兎の扱いについてはどのように思っているのかしら? わたくしの国では、兎は食卓に上がることが多くありましたの。象徴たる兎を食べている、というのは、冥府の方にとってはあまり心象がよくない、ということはあるかしら」
「王妃様の御懸念は、現世の価値観からすると最もなものです。ですが気になさる必要はありません、現世の兎は、冥府から『食用に』と使わされたものですから」
ユラの言葉に、フローティアは首を傾げたまま困ったように動きを止めた。
受け止めた言葉を理解するのに、少しばかり情報が足りないのだろう。ユラは静かに、それでいて柔らかい声音で続けた。
「冥府では『美味しい』は『愛しい』と同義なのです。美味しいものを愛しく思い、愛しいからこそ口に運び、対象を美味だと感じます。
現世と違い、冥府では肉体的な『死』が存在しません。仮に全身を『食事』に使用されたとして、他者に取り込まれた命は再び何処かで同じように生を得るのです。
まあ、大抵のものは自身の一部を提供することで愛情を確認することが多いのですが……要するに、現世の兎は冥府より遣わされた愛の形のひとつですので、王妃様が心配なさるようなことは何一つございません」
説明を聞きながら、フローティアは昔の記憶を手繰り寄せていた。リヴィメラに初めて『味見』をされた時のことである。
あの時のフローティアは、冥府の者にとっては人間が食糧として魅力的なのだと判断した。実際に少し味見されて、美味しいですね、と言われたのだから当然の予測だ。だが、話を聞くに、あれはどうやら、愛情表現の一種だったらしい。
リヴィメラはその辺りは一切説明しなかった。別にわざとではないだろう。『聞かれなかったから言わなかった』のだ。そういう男である。なんと厄介な。
そして、フローティアは此処に来てようやく、リヴィメラの言う『結婚』がなんたるかを理解し、これまでの王妃たちがどうなったのかを察した。
相手を食し食されることが『愛』だと言うのなら、当然、王妃たる存在はリヴィメラを『食べる』必要があるだろう。
あの、根源に最も近い存在を、である。
間違いなく、脳味噌が破壊されるだろう。
そして二度と使い物にならなくなるに違いない。
少し触れただけでああなのだ、絶対にそうなる確信があった。
「王妃様? お湯加減がよろしくありませんか……?」
「大丈夫よ、とても丁度いいわ」
小さく震えたフローティアに、ユラは心からの心配を込めて声をかけた。フローティアは微笑みながら答える。
その笑みは微かに引き攣っていたが、ユラはそれ以上、特に問いを重ねるようなことはなかった。
湯に身を沈めながら、フローティアは静かに前方を見据える。
やっぱり、早いところ城内の彼らに『フローティアは王妃ではなくただの友人である』と言ってもらわねばなるまい。
夕食の際か、その後にそれとなく話をしよう。フローティアは小さく溜息を吐くと、一先ずはゆっくりと身を休めることにした。