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2.冥府



 降り立った先は、闇一面に薄紅色に光る水晶が群生した世界だった。

 夕暮れ時の、まさに太陽が沈み切る前の色をした空の光を受けて、冥異水晶は頼りなく光る。その隙間を、白くてふわふわのうさぎが軽やかに駆けていた。冥府は兎でいっぱいである。


 何処まで行っても同じ景色だ。フローティアはなんだか不安になってきたが、ここまで来て引き返すなんて真似はできなかった。ゆったりと歩むリヴィメラに手を引かれたまま、煌めく水晶と駆け回る兎を避けるようにして進む。


「……ねえ、リヴィメラ。一つだけ聞きたいのだけれど、いいかしら」

「どうぞ。私の真名以外なら何だって答えましょうとも」

「もしかして、全てが貴方の仕業だったのではなくて?」

「仕業、と言うと?」

「アラン様やお父様が私を疎んでいたのは、貴方が仕組んだことではないの?」

「いえ全く。貴方の性質と彼らの性根の問題です」

「………………そう」


 仮に仕組まれたことであっても、フローティアはそこまで怒りはしなかっただろう。むしろ安堵すらしたかもしれない。

 だが、リヴィメラはきっぱりと断言した。冥府の王は基本的には嘘は吐かない。嘘であるか否かを濁し、真実を伏せ、事実を語らないことで罠に嵌めるだけで。

 なんて厄介な男だろう、と眉間に皺が寄るのが分かったが、フローティアはとりあえず彼の言葉を受け止めるだけに留めた。


 アランや父はどちらともフローティアを嘲り虐げる男だったが、彼らがフローティアに求めるものは真逆だと言えた。

 お前といると気詰まりする、と溢したアランに合わせて態度を柔らかいものに変えれば、フローティアに監視をつけていた父から『公爵家の娘が男に媚を売るとは何事か』と叱りを受けた。

 フローティアは完璧な令嬢にならなければならなかった。同時に、アランの理想の女性であるように振る舞う必要もあった。それでいて父の満足する娘でもいなければならなかったのだから、どう足掻いても無理な話だ。


 無理だと分かっていても叶えようとしたものだから、フローティアは段々と『自分』というものさえ見失いつつあったのだが、本人には自覚がない。周囲から見たフローティア・バーノッツはあまりにも『理想の淑女』すぎて、誰もが深層意識で薄らと不気味さを感じるほどだった。

 フローティアは、多面的に存在する人間性の全てで『完璧』であろうとした。そんなことは不可能だと、子供でも分かるのに、フローティアはついぞ理解しなかった。理解せず、己を律し続ける様はもはや自傷にすら近かった。


 自分を殺してでも家族に愛されたかった。だって、彼らの間に愛が存在しない訳ではないと目の当たりにしているのだ。

 フローティアさえ居なければ、家族はとても仲睦まじかった。互いに愛し合い、尊重し、未来に希望を持って支え合う、素晴らしい家族だった。


 結局、フローティアは彼らにとって『家族』ではなかったのだろう。

 そしてきっと、フローティアは誰とも家族にはなれない。新しい家族となる筈だった婚約者さえ、あのアランだ。結婚生活がどんなものになるかは、想像に難くなかった。けれども結婚さえすればいずれは分かり合えるし、幸せになれる筈だ、と信じてしまった。人間は希望がなくては生きてはいけない。その上、提示された逃げ道はアレである。


 ……リヴィメラとならば、『家族』になることは出来るだろうか。一瞬、頭の片隅に浮かんだそれを、フローティアは軽く首を振ることで打ち消す。

 リヴィメラは確かに優しいが、それは彼なりの──つまりは人の理を外れたものの優しさである。仮に、『根源』を知らないままだったのなら彼の手を取るのを躊躇うことはなかったかもしれない。いや、どうだろう。リヴィメラは味見をした結果、フローティアの抗議を聞いてようやく人間の脆弱さを認識するような存在である。何も知らぬまま冥府に来ていたら、ある日突然廃人になっていたかもしれない。


 ………………やめよう、無意味な想像だ。無意味で、更に言えば恐ろしい想像だ。


 フローティアはゆっくりと瞼を閉じた後、気分を切り替えるように軽く息を吸った。

 場所は冥府であるとはいえ、せっかく全てを投げ出して遊びに来たのだ。気が滅入るようなことをわざわざ考える必要はない。この先のことも、今はまだ。

 

 リヴィメラに連れられたまましばらく進むと、荘厳な城が見えてきた。黒水晶を思わせる輝きを宿した城壁に、雪が舞うように正体の分からない光源が散っている。

 美しいが、やはり何処か不気味な印象を受けた。黒く塗りつぶされたような城門は、まるで異界の化け物が大きく口を開けているようにさえ見える。


 僅かに狼狽え足を引いたフローティアに、リヴィメラは優しく、宥めるような声音で語りかけた。


「心配はいりませんよ、フローティア。此処では貴方を軽んじるものは一人もおりません」

「…………私の心配は別のところにあるのだけれど、貴方に言っても理解はしてくれないのでしょうね」

「ああ、そうそう、もちろん、頭がおかしくなったりもしません。ちょっともね」


 揶揄うような響きが気に食わなかったので、フローティアはほとんど振り払うようにして足を進め、自ら扉を開いた。さざめく様な笑い声を溢しながら、リヴィメラがその後を追う。


 扉の向こうは、外壁からは想像ができないほどに明るかった。一転して、暖かみのある暖色の灯りが美しい装飾の施された城内を照らしている。

 フローティアの国の城とも然程変わらないように見える。無意識に安堵の息を溢した彼女は、そこで飛びつくように走ってきた人影にびくりと足を止めた。


「王! 我が敬愛なる王よ! とうとう御伴侶を連れられたのですね!」

「ええ、私の愛しのフローティアです。皆さん優しくしてくださいね」

「勿論です!」

「ちょ、ちょっと、わたくしはまだ妻になるとは────」

「おっと、話を合わせてください。ニンアが悲しんでしまいますからね」


 友人という話で連れてきたのではなかったか? 不平をそのままに睨み上げたフローティアに、リヴィメラはそっと、少しばかり困ったように耳打ちした。普段見せるような『困った素振り』の声ではなく、本当に参っている様な声だった。

 彼でもそんな声を出すことがあるのか、と思っている間に、フローティアは決定的な反論の機会を失ってしまった。


 フローティアの身の丈の半分ほどしかない、小さなローブを目深に被った臣下らしき存在は、顔は見えないが笑顔と分かる声音で高らかに答えると、城の中へと駆けて行った。


「みんな! 王がようやくまともな伴侶を見つけてきたぞ!」

「ほんとか!? 今度は壊れてないか!?」

「話も出来るし見た目も二足歩行だ! あととても美しい御方だぞ!」


 高らかに告げられた言葉に、城の奥からわらわらと異形の者たちが姿を現した。


「なんだと! まさか意思のある存在を連れてきたとは! 何年振りだ!?」「素敵ね」「あら本当、かわいい人間だわ」「信じがたい快挙だな」「本当か? 実は中身がおが屑だったりしない?」「見ろよ! ちゃんと動いてるってば!」「わー、可愛い」

「急いで宴の準備をしろ! 王妃様が食べられるものをご用意するんだぞ! 間違っても炎泥蜘蛛トゥアラップの足なんか出すなよ!!」


 小さな歩幅を目一杯使って進むニンアは、張り切った様子で城の奥へと走って行った。その後を追って、異形のものたちも瞬く間にあちこちへ散っていく。

 呆気に取られて固まるフローティアの隣で、リヴィメラは何処か誇らしげに告げた。


「彼が我が城の宰相です。私がいつまで経っても伴侶を伴わず、冥府の希望を作る努力をしないので未来を憂いているのですが、随分と元気になったようですね」

「そう、それは……良かった、わね」


 かつかつと鉤爪で床を掻いて走って行くニンアの背を見ながら、フローティアはふと呟く。


「随分とお若い方に見えるけれど、冥府では年齢は役職に関係ないのかしら?」

「ありますが、他の誰も私の右腕をやりたがらなかったので、彼に決まりました」

「…………それは、ええと、大丈夫なの?」

「何がですか? ニンアは優秀な使徒ですよ」


 心から信頼を寄せている声音だったので、フローティアはそれ以上ニンアに言及するのはやめることにした。

 視界の端で小さな体が足をもつれさせて転ぶのが見えた気がしたが、見なかったことにもした。ローブからは、尾羽に似たふわふわの毛が食み出ていた。


 城は、何処もかしこもお祭り騒ぎだった。

 フローティアが通るたびにあちこちの闇から様々な存在が姿を現し、口々に褒め言葉を呟いては風のように去っていく。

 戻ってきたニンアに王妃の部屋だという一室に案内され、湯浴みの準備をするのでしばし待ってほしい、と告げられた時には、フローティアはおそらく一生分の褒め言葉を浴びせられていた。


 リヴィメラは途中で『ちょっと用事が出来ました。夕食の時にまた会いましょう』などと言って何処かに消えてしまった。毎度のことながら勝手な男だが、フローティアもこの八年の付き合いで慣れているので軽く流して見送った。


 リヴィメラはいつだって自分の好きなように振る舞う。その自由奔放さが心底羨ましくて泣いたのはいつのことだったか。

 思い出しかけて、淑女にあるまじき態度で泣き喚いた記憶が恥ずかしくなったので、すぐに奥の奥にしまい込んだ。


 与えられた一室で、フローティアはそっと窓際に歩み寄る。城の外には、何処までも水晶の森が広がっていた。美しいが、やはり何処か恐ろしい。


「面白いところだと言っていたと思うのだけれど……」


 リヴィメラの感性を信用した自分が間違っていたのだろう。フローティアは苦笑と共に景色から目を逸らし、そこでノックの音に返事をした。骨の髄まで染みついた、極めて淑女らしい対応だった。


「王妃様、先程は驚きのあまり失礼を致しました。わたくしめは、ニンアと申します。真人鳥イディットの上級使徒で、この国を宰相をしております。……まあ、実際は雑用係の様なものですが」

「丁寧にありがとうございます、ニンアさん。わたくしはフローティア・バーノッツ、人間界では公爵家の令嬢をしておりました。冥府のマナーを存じ上げないので、何か失礼があった際には教えてくださると嬉しいですわ」


 ニンアはやはり黒いローブを目深に被ったまま、左手を胸の前に置いて礼を取った。フローティアはひとまず、習った通りの淑女の礼を返す。

 ついでに心配していた事柄のうちの一つに言及すれば、ニンアは飛び上がるほどの勢いで背を正した。


「そんな! 滅相もございません! 王妃様がいらっしゃったというだけで、冥府のものはこの上ない喜びなのですから、失礼などとてもとても! もし仮に無礼があったとして、あらゆる無礼が許されるのが王妃様にございます!」


 フローティアはその言葉に、曖昧な苦笑を返した。

 もし仮にフローティアが本当に王妃としてやって来たとしても、その言葉は受け入れがたかった。身分を笠に着てあらゆる無礼を許されようとするなんて、まるでアランのようだ。フローティアが望む『立場ある者』の態度ではない。


 ほとんど無意識に浮かんでいた苦笑を穏やかな笑みへと変えたフローティアは、身丈の低いニンアに視線を合わせるように膝をつくと、ローブの奥に隠れた瞳を見据えた。


「ニンアさん、一つお伝えしておきたいのですけれど、わたくしは自分の至らぬ点を立場で許されるような人間にはなりたくはないの。どうか、遠慮なさらずに教えてくださいな」


 心からの言葉だった。フローティアは実際は王妃では無くただの客人である。リヴィメラがそれをいつまで隠しておくつもりかは知らないが、少なくとも滞在する間は失礼のないように振る舞いたいのだ。


 出来る限り真摯に告げたフローティアに、ニンアは呆然と彼女を見上げ、息を呑んだ。


「なんと……我が王はようやくまともな御伴侶を……」


 深く影を落としていたフードから、短い嘴を持った鳥の顔が僅かに覗いた。全体的に黒く、柔らかな羽で顔が覆われているのが分かった。

 期待に輝く瞳がフローティアを見上げている。もし仮にフローティアが本当に伴侶として此処に来たのなら、その瞳は彼女にとっても心地よい輝きだっただろう。実際のところ視線を受けるフローティアは、相当の居た堪れなさに襲われていた。


 だが、この可愛らしい小鳥のような顔を持つ彼をがっかりさせるのは、恐らくこの何倍も胸が苦しくなるだろうというのはさほど考えるまでもなく予想が出来た。

 恐らくリヴィメラは何度か彼を本当に悲しませたことがあるに違いない。あの困りようは、経験者のそれだった。


 さて。この期待をどうはぐらかしたものか。

 美しい笑みを湛えたまま内心焦り始めていたフローティアはしかし、そこでハッとしたようにフードを被り直したニンアが話題を変えたことでそれ以上の言葉を探さずに済んだ。


「ああ! そうです、そうでした、わたくしは王妃様に湯浴みの準備が出来たとお伝えしに来たのでした。着替えも用意してございますので、どうぞご心配なく!」

「まあ、ありがとうございます。何分、準備もなく着の身着のままで来てしまったので何の用意もなくて」


 というか、殆ど拉致である。あの場であそこまでされて、やっぱり止めるわと言える人間が一体どの程度居るだろう。もちろん、わざわざあの場に残りたいなどとは思わなかったが。

 有難いのは本当だったので感謝の気持ちを伝えたフローティアに、ニンアは何かしら感じるところがあったのか少し呆れたように息を吐いた。


「どうせ我が王が無理に連れ立ったのでしょう? 大丈夫です、着の身着のままであるだけでも素晴らしいことです。大抵は手足や正気すら持たずに、…………いえ、何でもありません」

「………………ニンアさん、少しお聞きしても?」

「な、なななな、なんでしょう……」


 大浴場に案内してくれるらしいニンアの後について部屋を出る。途中、明らかに不穏な言葉が溢れ出たので笑顔のまま問いかけると、ニンアは恐る恐る、と言った様子で振り返った。


「ええと……そうね。リヴィメラが人間を連れてくるのは、私が初めてではないのね?」

「……まあ、そう、です」

「…………今まで来た方はどのような方々だったのか、教えてくださる?」

「………………いえ、その、……何と言いますか……」


 ニンアは短い歩幅で必死に歩きながら、時間稼ぎのように言葉を濁した。だが、歩幅が歩幅なもので、一向にタイムリミットは訪れないようだった。


「……これまでに人間の方が三名、魔族が二名、殆ど魔獣に分類される方が一名、それと精霊の方が、ええと、……〇.五名ほど……」

「…………そう。あまり深くは聞かないでおきますわね」

「し、しかし皆、王妃様と出会う前のことにございます! 古くは五百年ほど前、最近でも八十年前のことですので……! その……!」


 ニンアは慌てた様子で言葉を重ねた。

 彼はどうやらフローティアが『自分が何番目に連れてこられた妻であるか』を気にしていると思っているようだったが、フローティアが気にしているのは『此処に来た何人が無事に生き延びたのか』である。

 根本的に心配している部分が違うのだが、少なくとも誤魔化した辺り、彼も薄々は分かっているようだった。


「王妃様が心配なさる様なことは何もありません! 結局誰もが冥府の希望となることはなく、無事に、そう、無事に寿命を全うしただけですので……!」

「無事に、ね」


 分かりやすく焦った様子で此方を見上げるニンアに、そっと微笑みを返す。

 二十秒ほどの沈黙。鉤爪が床を掻く軽やかな足音と、フローティアの靴音が静まり返った廊下に響く。

 やがて彼は小さい肩を更に小さく落とすと、告解じみた声音で言葉を紡いだ。


「その……王は自分より弱い存在がどの程度の真理に耐えられるのか、ご存知ではないのです。何せ、この世で最も根源に近いお方ですから、加減が分からず、皆この程度なら耐えうるだろう、と」

「…………そのようね。私も経験があるから分かるわ」

「なんと……! 既にアレをご経験されているのに、それでも我が王と添い遂げるおつもりで……!」


 アレと言ったわね、冥界でもあれはアレ呼ばわりなのね。フローティアは何処か遠くを見るようにそっと視線を逸らした。

 どうやらリヴィメラは王であることを除いても、冥府でも特異な存在として扱われているらしい。人類の歴史書では冥府については契約関係にしか触れられていなかった。人類が冥府のものと関わるのは、大抵の場合悪魔的契約でしかないからだ。

 リヴィメラが八年もの間フローティアと友人で居続けたのは、極めて稀なことだと言える。


「(………………これからも、是非とも〝友人〟であり続けたいものなのだけれど)」


 案内された大浴場の扉を前にしながら、フローティアは心の底からの呟きを落とした。



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