11.プレゼント [前]
イョンの村を複製してから、しばらく経ったある日。
フローティアは行き先を決める為の冊子を開きながら、傍らに控えるユラに呼びかけた。
「ユラさん。もし良かったら、次の行き先を一緒に考えてくださらないかしら」
「……私に、ですか?」
すらりと伸びた白い耳の片方が小さく跳ね、真意を問うようにフローティアへと向かう。
ユラの視線に込められた意図を知ってか知らずか、フローティアは冊子を指でなぞりながら呟いた。
「強い思い出にするのなら、向かう場所の素晴らしさも大事だけれど、やはりどういう目的で向かうかが重要になると思って。
皆さんの好きな場所を選べたら、それは私にとっても嬉しいことですもの」
「それは勿論、おっしゃる通りにございます。ですが……もし城の使徒の希望をお聞きになるならば、ニンア様の意見を聞くのがよろしいかと」
軽く腰を折り、ゆっくりと柔らかい声音で告げたユラに、フローティアは小さく微笑みを浮かべた。
「もう聞いたの。どうやら重要な希望地があるようなのだけれど、安全性に欠けるからお教えできません、と言われてしまって。
勝手に探そうとするのも要らぬ心労をかけてしまうかと思って、結局やめにしたわ。リヴィメラと一緒に行くから大丈夫──とは、逆に言いづらいものね」
苦笑と共に新たなページを捲るフローティアの傍らで、ユラは静かに一度、目を瞬かせた。
冥府の王妃というものは、真に望んだものしか複製することは出来ない。
だからこそ、選ばれる存在には献身や自己犠牲精神ではなく、自らの為にこそ望みを叶えようという意志の強さが必要になるのだ。
そうした性質はつまるところ、我の強さと表裏一体のものである。
リヴィメラがこれまでに連れてきた王妃候補も同様で、彼女たちに一定の強い癖があったのはその辺りも関係してのことだ。
フローティアは一見、献身的で自己を顧みない性質を持つ女性に見える。
だが、顕現を実現するほどの献身とは、もはや、ある種の譲りようのない我だと言ってもいい。
それは、ある意味では我が王よりもずっと厄介な性分ではないだろうか。
何某かの感情を抑えるかのように胸元に手を添えたユラは、ひとまず全ての思考を傍に置き、要望に応えるべく口を開いた。
「……私は、冥府の光景そのものが好きです。変わらぬ空の色も、それを受けて光る冥異水晶の煌めきも、その間を跳ね回る兎たちも。全てを愛おしいと思います」
真摯な声音で告げたユラに、フローティアは一度、ゆっくりと目を瞬かせた。
そのまま、特に言葉を紡ぐでもなく、彼女は視線を窓の外へと向ける。
遠くに聳える雪山と、美しい花畑。
依然として、それ以外の場所は闇に包まれるようにひっそりとしている。
ユラは戻ってきた視線に応えるように、言葉を重ねた。
「正確に言えば、此処より三度ほど前の冥府の光景です。滅亡を重ねれば重ねるほど、冥府は徐々に寂しい場所になっていきます。水晶の森も、昔はもっと豊かな場所だったのです」
「そうだったの。それは……一度見てみたかったわ」
フローティアの声には、心からの憧憬がにじんでいた。
正しく聞き取ったユラの肩から、目立たない程度に力が抜ける。
一呼吸置いたユラは、少しためらうように言葉を区切りつつ、そっと提案を口にした。
「その、よろしければ、記憶をお見せしましょうか? 誓って、勝手に王妃様の御心を覗くような真似は致しません」
「まあ! そんなことが出来るの?」
期待に目を輝かせるフローティアに、ユラは控えめな仕草で軽く指を鳴らした。
途端、窓枠にぴょこりと白い兎が顔を覗かせる。よく外で跳ねている、現世にいる兎と同型のものだ。
催促するように窓を叩く手に答えて鍵を開くと、軽やかに跳ねた兎はユラの傍へと駆けて行き、指示を待つように彼女を見上げた。
「個体名はありませんが、一応は私の専属の部下ということになります。
原初の存在である彼女を通じて魔法を施すことで、私の記憶を王妃様にお見せすることが可能です。
お許しいただけるようでしたら、彼女を抱えていただいてもよろしいですか?」
ユラの白い手のひらが、傍の兎を示す。
フローティアには想像もつかない種別の魔法だったが、特に臆することもなく頷いた。
許しを得た白い兎が、軽やかな足取りでフローティアの膝の上へと収まる。
「背の辺りに手を置いて、目を閉じてください」
言われたままに瞼を下ろしたフローティアの手に、そっと柔らかな暖かさが重なる。ユラの手のひらだろう。
その温かさすら微睡みに消え、気づいた時にはフローティアの前には見慣れた闇に包まれた──それでいて、見覚えがないほどに煌びやかな冥府の光景が広がっていた。
空は変わらず日が沈みきる少し前の夕暮れで、遠くには全てを飲み込むような闇が続いている。
けれども、ランタンを模したような水晶が宙に浮いているおかげか、現在の冥府のような物寂しさは感じなかった。
精緻な作りのランタンたちは、時折じゃれ合うようにぶつかって、涼やかな音を立てている。
中心街らしき場所の道は何処も整えられていて、整然と並んだ美しく伸びた水晶が、遠くに聳える屋敷へと繋がっていた。
いくつもの塔が併設された屋敷は、周辺をぐるりと澄んだ湖が囲み、透き通った橋が入り口まで渡されている。
導かれるように足を進めたフローティアの眼前には、冥異水晶の並ぶ庭園が広がっていた。
夕暮れを受けて仄かに赤く染まった水晶の合間を、兎たちが楽しげに跳ねている。
ふと、兎たちが一斉に動きを止めた。
気を引かれたように立ち上がった彼らが、赤い瞳を屋敷の扉へと向ける。
きらきらと艶めく兎たちの視線の先に現れたのは、穏やかな陽だまりを思わせる色合いのドレスを着たユラだった。
ゆったりとしたドレスに暖かそうなケープを合わせていて、今よりも少しだけ、身体を覆う毛が長いように見える。
心を許し切った様子で庭を歩く彼女の後ろから、側仕えらしき身なりの同族の少女が駆けてきた。
『ユーラメイア様!』
弾むような声が響いたのを最後に──華やかだった景色はさっとフローティアの意識から掻き消えた。
そうして。
瞬きの後に景色が消え失せた時、目の前には深淵の如き夜空が広がっていた。
フードに覆われた夜空を見つめて数秒、夢から覚めたような感覚で、それがリヴィメラだと気づく。
悲鳴を上げかけたフローティアは、すんでのところで咳払いで押し殺した。
「な、何か用かしら?」
「いいえ、なにも。ただ少し、兎になれたらよいだろうな、と思っていたところです」
「兎に?」
フローティアは、自分が明確に妙な顔をした自覚があった。
どろりとした、深淵を思わせる色の兎を想像したせいである。
意図が汲み取れずにしばらく困惑した様子で軽く眉を寄せていたフローティアは、やがて素直な感想を口にすることにした。
「悪いけれど、似合わないと思うわ」
「ええ、ええ、私もそう思います」
軽い調子で同意したリヴィメラに、フローティアは片眉を上げる。だったら何故そんなことを、と思っているのが分かる表情だった。
だが、彼女はそこで、リヴィメラよりも優先すべき用件があったことを思い出したようで、依然として目の前に陣取るリヴィメラから視線を外すと、傍らに控えるユラへと目を向けた。
「記憶を見せてくださったこと、感謝致します。とても素敵な光景でしたわ」
「……お役に立てたのならば何よりです」
ユラの浮かべた笑みには、ほんの少しだけ誤魔化し──主に、この場の空気に対しての──が含まれていた。が、気に留めるほどでもない。
焦りを感じさせない手つきで、それでいて極めて迅速に、フローティアの膝の上で縮こまっていた兎を抱えたユラは、慣れた様子で壁際に立ち、早急に気配を消した。
それとなく、開けた窓から直属の部下を逃している。フローティアは目の端でその光景を確かめながら、笑みの滲む吐息を溢した。
「それで? 本当は何の用だったの?」
とん、と自身の隣を軽く手で叩き、リヴィメラに座るようにと促す。
しばし無言でフローティアを見下ろしていたリヴィメラは、それでも特に異を唱えるでもなく、素直に隣へと腰を下ろした。
一連の流れの中で、どういう訳か視線が一定の位置──つまりは膝──から動かなかったことについては、フローティアは一切気づかなかったフリをした。
察したことには察したが、言及したいかと言えば別だったからだ。
「貴方に贈り物を差し上げねばと思いまして」
「贈り物? 何か祝い事でもあったかしら」
「おや、お忘れですか? 今日は貴方の誕生日だったかと思いますが」
「…………お忘れだったわ、すっかりね」
フローティアは時計を探して室内を見やり、すぐに正確な時刻を知るすべがないことに気づいて、視線を戻した。
フローティアの出身国では、誕生日とは当日の正午に祝うものである。
朝から色々と次の目的地を探し回っていて、そんな時間になっていたことにも気づかなかった。
そもそも、冥府には暦らしきものが見当たらない。意識しないのだから気付きようもなかった。
まあ、リヴィメラはしっかり覚えていたようだが。
「…………ありがとう」
なんだか妙に照れ臭い気持ちで小声で礼を口にしたフローティアに、リヴィメラは何ら変わりない態度で、虚空から花束を取り出した。
リヴィメラは、毎年必ずフローティアの好む花をくれる。
フローティアの一番に欲しいものがそれでもあるし、バーノッツ家の屋敷で、フローティアの私室に置いておくものの中なら一番無難だからだ。
例年と同じく丁寧に包まれた花束を受け取り、再び感謝の気持ちを言葉にしようとしたフローティアは、そこで追加で差し出された小箱に目を瞬かせた。
「これは?」
「ちょっとした記念の品です」
なんとも軽い声音と共に、小箱が開かれる。
そこに収められていたのは、真紅の宝石の嵌められた指輪だった。
完全な環ではなく一部が開いており、両端にはそれぞれ宝石と、トエズの花を模した装飾が施されている。小振りだが可憐で愛らしい花が、精巧に再現されていた。
惚けたように見つめていたフローティアは、知らぬ間に詰めていた息をそっと吐き出してから、何処か、浮いて千切れたような響きの声で呟いた。
「とっても素敵だわ、ありがとう、リヴィメラ」
「ああ、本当にお気に召したようで何よりです。それで、どの指にしましょうか」
「え?」
「環が開いているので、軽いサイズ差なら合わせられるのですよ」
知っている。形状自体に見覚えはあるし、機能上の特性だって勿論理解している。
リヴィメラだって、フローティアにその程度の知識がないなどとは思っていないだろう。
要するにこの問いの意味は、贈られた指輪にどういう意味を持たせるか、でしかない。
「………………」
ほんの一瞬、左手の薬指に目をやったフローティアは、引き剥がすかのように視線を外すと、努めて澄ました顔で告げた。
「右手の人差し指にするわ」
「では、そのように。手を取っても?」
「結構よ。自分で嵌められるから」
返ってきたのは、押し殺すような笑い声だけだった。フローティアの唇が、反射的に軽く引き結ばれる。
少々、つっけんどんな響きになりすぎたかもしれない。これでは意識しています、というようなものである。
フローティアは理性を無視して勝手に拗ねたような顔つきになる表情筋をなんとか淑女の笑みで誤魔化すと、丁寧な手つきで受け取った指輪を人差し指へと嵌めた。
落ち着いた輝きの銀色は、驚くほどしっくり収まっている。見下ろしている内に、取り繕ったような笑みは心からのものに変わっていた。
慈しむように指輪をそっと撫でてから、フローティアは隣に座るリヴィメラへと顔を向ける。
「ねえ、リヴィメラ。あなたには誕生日がないのよね?」
「そうですね。そもそも生じた際には暦の概念がなかったもので」
昔、フローティアが初めて誕生日を祝ってもらった時のことだ。
フローティアは素敵なプレゼントをくれたリヴィメラにお返しがしたいと思い、彼の誕生日を尋ねた。
返答は『ありませんね』だ。なんとも雑な返答であるが、それ以外に答えようもないことは十分に伝わった。
無いものは仕方がない。残念ではあるが、フローティアはそれ以来、貰った時に心からの礼をすることでお返しとしていた。
その時からずっと、言おうとして、言えなかったことがある。
フローティアはリヴィメラを見つめたまま、躊躇いを押し切るように言葉を紡いだ。
「だとしたら、私が決めても構わないわよね……?」
それを口にするのは、少しばかり勇気のいることだった。
生まれた日というのは、存在に関わる。冥府の王という存在に、勝手に意味を与えるような真似をして良いものだろうか。
思いがそのまま仕草に現れ、ほんの少しだけ視線を落として尋ねたフローティアの耳が、さざめくような笑い声を拾った。
「お好きにどうぞ」
機嫌よく響いた声に、フローティアの唇からは強張りの解けた吐息が落ちる。
気を取り直すように一拍置いたフローティアは、明確な意思を持って口を開いた。
「じゃあ、今日にしましょう」
「お揃いとは素晴らしい、素敵な誕生日ですね」
どうやら、心の底から喜んでいるらしい響きだった。ここまで喜んでいるのは、ここ数年でもあまり見た覚えが無──いや、ある。卒業パーティの日がそうだった。
何処か遠い目になりかけたフローティアは、振り払うようにして緩く頭を振った。
「誕生日おめでとう、リヴィメラ。何の用意も出来ていなくて後日になってしまうのだけれど、その、何か欲しいものはある?」
「では。貴方にひとつ贈り物をしたく思います」
「…………だから、私に与えるのではなくて貴方に、」
「ゼリーにしましょう」
フローティアは、言葉を紡ぐより早く、ただ視線で尋ねた。
そこに込められた意味を理解しているだろうに、リヴィメラは何一つ頓着した様子なく、何やら楽しげに続けた。
「貴方の助言を経て、幾度か味の改良をしてみたのです。渾身の出来ですから、これは是非とも試していただかなければ、と」
「……あのね、リヴィメラ。提案なのだけれど、そう、膝枕でどうかしら」
「中に現世の南国産の果物も入っているので、新しい食感も楽しめる素晴らしい品になっていますよ」
「……もしかして、もう出来上がっているのね?」
「お持ちしましょう」
いえ結構よ、と口にするより早く、フローティアの前には涼やかな器に盛られたゼリーが現れていた。
色合いに毒々しさは無い。むしろ、上部から薄く紫の光が降りるように色が移り変わっているところなどは極めて上品で美しかった。
愛らしい桃色の果実が散らされている辺りも絶妙な配置で、もはや小賢しいとすら言える。
「……………………」
「ああ、なんと素晴らしい日でしょう。自身が存在する事実にこれ程までに感謝したことはありません」
「黙ってちょうだい」
「成る程、黙ったら食べていただけるので?」
「…………………」
フローティアは答えなかった。誕生日を祝う、と決めたのは自分自身だったからである。
彼女は人生におけるあらゆる覚悟を決めた顔で、無言で器を見つめたのち、意を決して、正確に言えば三度ほど決し直して、添えられた銀の匙を手に取った。
ユラの方面から、微かに短く息を吸う気配がした、ような気がする。意識に入れている暇も、余裕もなかった。
そうして、艶やかなゼリーをひと匙掬い上げた、その時。
「────え?」
フローティアの足下から、まばゆい光が立ち上った。
軽い困惑の声と共に、視線を床へと向ける。
そこには、古代エビドウム文字による魔方陣が広がっていた。
「これは、──召喚?」
「王妃様!」
戸惑いの声を上げるフローティアの横で、ユラが思わず、と言った様子で駆け寄る。
だが、その手が届くよりも先に、フローティアの姿は光の粒子に包まれるようにして掻き消えてしまった。




