アインの守るもの
「当初から何のための魔術なのかは気になっていたわ。もちろん、今とは次元の違う魔術研究がなされていた時代だもの。ただ理解ができないだけという可能性も多分にあるし、明白な使用シーンがなければ魔導書が存在してはいけないというのも私の先入観である可能性が高い……でも、どうしても気になった」
リリエイラさんは静かに「鏡」を見上げ、少しだけ間をおいて。
「だから、呪文を解析した。魔術というのは構造に哲学が出るというのが私の持論でね。どんなに洗練しても方法は常に複数あり、絶対の正解というのが存在しない……だからこそ、最優先課題としてその人が学んできたこと、選んできたことが魔術式に強く反映される。そこに魔術開発の意図が見えるはず、と思ったのよ」
リリエイラさんは僕の胸を指さす。
「ユーカの『強さ』……別の言い方をすれば、彼女があの状態からゴリラになるほどに積み上げた時間と鍛練の蓄積物。それの量がイレギュラーでアイン君が受け入れられないのか、あるいは最初から適合者を厳選する前提で呪文を組み上げたのか。いや、それは有り得ない。魔導書を開くだけで軽率に自動発動するような魔導書を、そうまで相手を選ぶ魔術で作るのはリスクが大きすぎる……それが何を意味するのか」
僕に講釈をしているような、そうでないような。
リリエイラさんはどこか遠くを……多分、遥か古代の誰かを幻視するように、語り続ける。
「私は違和感の正体を求めて、幾度も呪文全体をなぞって、ようやく理解した。……あれはね、そんな風に使うものじゃなかった。『ユーカが』使ったという事実に、私たちは目が曇っていた。……あなたに宿っている力は、その命が尽きる時に封印がほどける。それは、人が人を救うために、命以外の全てを渡す魔術」
彼女の瞳が、古代から現在に焦点を結ぶ。
「死の淵にいる大切な人のために、何もできなかった誰かが作った……『その時のための魔術』よ」
「……!!」
「あなたが、妹さんにそうしたかったように。まだこの世で共に生きて欲しい人を呼び返すために、与えられる全てを与える魔術。……古代文明には治癒術がなかったのか、あるいは治癒術があってさえ、それが必要だったのかはわからないけれど」
胸に手を当てる。
そこに、力の塊を感じる。
あの日から未だに揺るがず、解放の時を待っている、ユーカさんの……大英雄の、人生の塊。
「つまり、最初から見当違い。あなたはユーカの後継者なんかじゃなかった。ユーカの『強さ』は無駄打ちで、あなたが死ぬその時に命を救う可能性がある……ただそれだけ。それだけだったはずなのに」
「僕は、ユーカさんを追った。追えてしまった……」
「……そう。あまりにも奇跡的な偶然。あなたという異常な原石が、たまたまユーカの目に留まってしまった。だからみんな勘違いした。いえ、今もしているという方が正しいかしら」
疲れと悩みを濃縮したような溜め息を、リリエイラさんは深く深く吐き。
「これを公表すべきかどうかは悩むわね。もうゴリラユーカは戻ってこない……伝説の“邪神殺し”は、もういない。人類は世界を切り開く刃を、とんでもなく軽率に失ったと」
「……“邪神殺し”の力なら」
「ややこしいことを言わないで。あなたは邪神を殺していない。ユーカがそう呼ばれたのは邪神を殺したからよ。あの力を持っているからって、同じことができるかは完全に別問題。これは展望とか期待の話じゃなく、ただの現実の話」
リリエイラさんは切って捨てる。
「ユーカはその力をギリギリで乗りこなして英雄になった。でもあなたは死ぬことを恐れていない。命を捨てることを簡単に決断できてしまうような人間は、危険を乗りこなすのには不適格よ。だからユーカの偉業をあなたがなぞれるとは、私には思えないの」
そこまで一気呵成に語り尽くして、それからリリエイラさんは一息つき。
「駄目ね。人に話すにしろ、肝心の私が冷静じゃないわ。もう少し落ち着くまでこの話は寝かせないと」
「……リリエイラさんでもそうなることあるんですね」
「本当に遺憾だけど、私、感情の制御は割と下手な方だという自覚はあるわ。……特にユーカのことに関しては」
「……親友、なんですね。本当に」
「……こちらはそう思ってるのだけどね。ええ、ユーカは初めて私が遭遇した、心の底から私と同格以上と認められる人間。生まれも特別、能力も最高と思い上がっていた私に、それとは何の関係もない、本物の英雄の格ってものを見せてくれた。時代を変え、世界を変える者っていうのは、ああいうものだと……だからこそ、私は……」
「…………」
リリエイラさんがユーカさんに抱く感情は、複雑だ。それはドラゴン戦からの短い間を見ているだけでもわかる。
それは友愛でもあり、親愛でもあり、崇拝でもあり、畏敬でもあり。
ユーカさんのことを何でも知っているようで、それでいて英雄たるユーカさんの深奥を知り尽くすのを諦めているようでもあり。
何でも話す相棒でありながら、頭脳派と肉体派の微妙な距離感を埋めることはなく、その割り切りが互いにいい影響を及ぼしているようにも見えるけれど、
「ごめんなさい。……アイン君に強いことを言うのは八つ当たりだっていうのは、自分でも理解しているのよ。あなたは被害者で、それでもユーカによく答えてくれようとしている。でも……」
「……特に根拠のないことを言われているとも思ってませんけどね」
苦笑する。
彼女の焦燥はよく分かる。
ユーカさんという、もっともっと時代を切り開けたはずの偉大な英雄は、その力を失った。
あの魔導書を手に入れたというたった一つのかけ違いで、その道はプツンと途切れた。
激動すべきひとつの時代がとうに終わってしまっていたことを理解したリリエイラさんが、平静でいられない気持ちはよく分かる。
せめてと思った継承もまやかしで、ユーカさんが入れ込んで育て上げた僕は自滅上等の狂人一歩手前。戦闘力だけは育っているものの、僕までが散った時にユーカさんの失望はいかばかりか。
と、彼女の視点と立場を慮れば、僕が腹を立てるような部分は何もない。
「一応、僕にだって目標はありますよ。ユーカさんのようになる以外にも」
「……聞かせてもらえるかしら」
「ユーカさんを可愛いワールドに定住させることです。もう師匠気取りなんかやめてそうしてもいいと思えた時に、ようやく僕はユーカさんを暴力の世界から解放できる。殺して殺して、恐れられることしかなかった彼女の人生を、あの姿に相応しいものにしてやれる」
「……アイン君」
「もっと可愛い服を喜んで着て欲しい。どうでもいいワガママを言って、髪型を変えることに悩んで、恋や結婚をポジティブに語って……そんな、あれくらいの女の子なら当たり前のことをやり直させたい」
僕がメガネを押しながら語った夢を、リリエイラさんは若干引き気味に。
「まるで年下みたいに語ってるけど……あの、ユーカはもう25歳よ……?」
「やろうと思ってもできなかった人に関係ありますか。せっかく魔導書の力で見た目だけでも十年若返ったのなら、僕は彼女を今からでも15歳として扱い直す覚悟があります」
「……あ、あのー……真顔で語ってるけど、わりとディープにこじれた性癖の話になってない……? 可愛い事できなかったのは事実だけど、それでもユーカの自意識自体は25年分積み重なってるわけで……そんな素直には」
「やらせますよ。女の子ってのはガサツに扱えばガサツになりますけど、女の子扱いすれば女の子なりの自尊心がちゃんと育つんです。僕は慣れてます」
「あの……いえ、いいんだけど……なんか君、違う方向にちょっとヤバめのもの抱えてるのね……?」
リリエイラさんが諦めた顔をする。
ヤバいと言われる筋合いはあまりないと思うんだけど。
単にユーカさんを非冒険者方向に導いたうえで付き合い、結婚するつもりなら、いずれにせよそういう女性としての育成は多少なり必須だと思っているだけのことで。
中身はともかく見た目は縮んでしまったのだ。いずれにせよ大手を振って恋愛や結婚に臨むなら、再び大人になるまで待つ必要はあるだろう。
結局妹の代わりじゃないのかと言われればそういう部分も完全にないとは言い切れないけど、現実としてユーカさんを幸せにするって、そういう方向しかないと思うので。
「だから、死を簡単に受け入れると思われてるなら間違いです。……普通よりは諦めがいいかもしれませんけど、生きる理由はないわけじゃない」
「……ま、まあ、そうね……はぁ」
リリエイラさんは溜め息をつき。
「言っておくけど、若返ったからって寿命自体が十年延びてるわけじゃないわよ。あれはあくまで贈与の魔術であって、ユーカがあなたより5歳年寄りなことは変わらないはず」
「それぐらいは想定内です」
寿命を奪われたわけでないのなら、悪い話でもない。
ユーカさんだって納得するだろう。
翌日。
カイとロナルドは商工会議所に戻らせる。
攻め込むからと言ってゼメカイトを明け渡すわけにはいかない。ロナルドには防衛の要としてしばらく頑張ってもらうしかない。
同様にリリエイラさんも学院から動くわけにはいかない。
その代わり、学院所蔵の魔導具の中から伝声魔術の水晶が僕らに貸し出された。
……どっかで見たような奇妙な形の水晶。
「嫌な思い出が蘇りますね……」
「でも同じことするにはこれしかないのよ」
そう。多少色が違うものの、ハルドアのクローサ防衛戦でフィンザル公爵が伝令に持たせて使っていたものとほぼ同じ魔導具だった。
同等品が全然関係ないここで出てくるあたり、意外とメジャーな魔導具なんだろうか。
「偵察用の使い魔の操作限界もこれ経由で伸びるから、少しは融通の利く運用ができると思うわ」
僕たちのパーティにはあまりそういう後方担当がいないのでありがたい。
「そんじゃ……ちょいと冒険するとしようか、アイン」
「うん」
必要なものを空飛ぶ絨毯に載せて。
荒野を突破し、山三つほど超えた先にあるドーレス遺跡へ。
思い付く限り過去最大のモンスターの大群を突っ切る過酷な遠征が、始まった。




