2話 方向音痴の帰り道
本編開始です。
はっはっと漏れ出る自身の呼吸音、踏みしめる度加速する車輪の静かな回転と時折訪れる段差の揺れ。暮れなずむ空はまだ明るいが、周囲の木々や田畑を茜色に染め上げている。
予定は遅れ気味で、今はただライトの先を見つめ前へ進むことだけに集中しなければならない。
しかし、こんな場面でこそ何故か余計な事が頭に浮かび始めるものだ。
__高校一年の頃から毎年、夏休みには伯父の家を目的地とした自転車旅行を行っていた。愛車は貯金を崩して買ったシクロスバイクで、今年で四回目にもなるとフレームやハンドルに傷が目立ってくる。
旅程は一日目にキャンプ場を目指し、二日三日と伯父の家に宿泊した後キャンプ場にまた一晩泊まる。たいした旅行でもないのだが……一年目の夏がそれはもう酷かった。
一時停止してはスマホの地図アプリを凝視、気づけば高速道路に入りかけ、いつの間にやら小さな神社でどん詰まる。
薄暗くなったキャンプ場で空より暗い顔でテント張りに四苦八苦、目的地まであと半分といった所でパンクし、伯父の軽トラックにピックアップされる等々。
こういうときだけは頼りになるあいつがいれば良いのだが。方向音痴の男が自転車で一人旅なんてのが、そもそもの間違いなのかもしれない。
それでも二回、三回と繰り返し同じ場所を目指せばミスも減ってくる、そう……そのはずなのだ。
「――どこだ、ここ?」
トンネルを抜けるとそこは深い森だった。
周囲は木々に覆われている、そこまではいい……
しかし本来は木々の合間から視界に飛び込んでくるはずの海が見えない。
どれだけ見渡しても木・木・木。
混乱する頭を掻き毟りつつ、ふと足元に目線を下げるとスニーカーは柔らかい地面を踏んでいた。
「は、……? 道路は? 」
先ほどまでコンクリートの地面だったはずが、赤茶けた剥き出しの大地に変わっている。いよいよもっておかしい。髪を両手で掻き回しそうになるのをなんとか堪え、嫌な予感に従い振り向いた。
「あぁあぁ分かってた、どーせトンネルも消えてんだろうよそりゃあ」
混乱しきった頭を落ち着ける為、ひとまず深呼吸をする。
………………よしっ落ち着いた。
パンッ!
と一つ頬を打ち付け気合を入れると自転車のホルダーからスマホを抜き取り確認する。時刻は六時手前、電波は圏外で地図アプリは現在地を表示してはくれない。これが夢でないことは未だにジンジンと痛む自分の顔面が証明済み。
「………確かに俺は自他ともに認める方向音痴だがこれはない」
これだけ異常だと独り言の一つも増えると誰にともなく言い訳しつつ、周辺を散策してみるが道標になる物は見つからない。
そうこうする内に浅い川沿いの少し開けた場所に出たので、ここまで押してきた自転車を置き空を見上げる。
「赤かった空が青色に、でもって山の上には彩雲ときた」
彩雲なんてのはネットでしか見たことがないから正確には違うのやもしれない。だがこんな状況なのに綺麗なものは綺麗だ。
……いや、空の美しさに心奪われている場合でもないか。
これが夢でないなら信じたくはないが俺は遭難したことになる。山で迷った際のセオリーを知らない訳ではないが、突然見知らぬ場所に居たんじゃその知識もあまり役には立たないだろう。
一応コンパスとダウンロードしてあるオフラインの地図で現在地と照らし合わせることはできるが、とはいえ指標が無さ過ぎる。上から眺めるのが一番ではあれど、高所恐怖症の俺には取り辛い手だ。
今出来るのは落ち着いて行動し、必要なら食事や休憩を取りつつ尾根を下ること。傾斜が緩やかな山だがさすがに沢沿いを降るのは危険だ、自転車も押せる所までは荷物を載せて運ばせたい。
ひとまず目標を定めた途端、自身の空腹に気がついた。
本来であればとっくにキャンプ場に到着している時間だ。
「それにさっきまで何十キロと走ったもんなぁ……」
自分でも分かる程度には張りを失った声と今にも鳴り始めそうな腹を想い、もはや現実逃避気味に食事の準備を始める。
まず手持ちの水分はスープ用のトマトジュースが一缶、普通の水筒に麦茶、ラミネートの水筒に水、ペットボトルホルダーのボトルはほぼ飲み干していた。やりたくはないが、最悪水は近くにある川から汲み上げタオルでろ過し煮沸するしかない。
道中水道がほぼないので多めに持ってはいたが、キャンプ場に辿り着けないことを思うと心もとない。
調理を始める前に一応ソーラーチャージャーを充電しておこう。モバイルバッテリーもあるにはあるがかっこよさ半分、災害時の備え半分で買ったものが役立つ状況を喜べばいいのか悲しめばいいのか…。
気持ちを切り替えメスティンに小瓶のオリーブオイルを少し垂らす。伯父に貰い予め切ってパック冷凍しておいた手作りベーコン、タマネギ、ジャガイモ、パプリカ、それとキュウリをナイフでカットしバーナーで炒める。
冷やして食べたかったとぼやきながらキュウリの残り半分を齧り調理を続ける。
早ゆでのマカロニと固形コンソメ、少量の水とトマトジュースを入れひと煮立ち。最後にクレイジーソルトとコショウで味を整え簡易ミネストローネの完成だ。
きらきらと揺らめく川面を眺めながら、食材を混ぜるのに使っていたスプーンでそのままぱくりと一口頬張る。
「……うまい」と思わず声がこぼれた。
疲れた身体にこの適度な酸味と塩気は沁みる。
恐らく遭難しているのにのんびり飯なんてしていていいのかという弱気な声と、休憩や暖かい食事は重要だと言う冷静な言葉が脳内でせめぎあう。
パニックも起こさず出来ることを淡々とこなす自分を俯瞰してみると、いまだにこれは夢だと信じたいのかもしれない。
不安を振り払うように二口目を頬張ろうとしたとき、前方から鋭い、人の叫び声の様なものが響き渡った____