Episode06 陽だまりの人生相談②
「……俺は、宮城県から出てきたんだ」
街の雑音の中にも、雪ヶ谷さんの声は妙にはっきりと聞こえる。
「宮城って言っても仙台でさ、都会なんだよね。だから都会の雰囲気には慣れていたし、向こうの製菓専門学校を卒業して東京に出てきた時も、そこまで混乱したりはしなかったよ。でも、仙台と東京は決定的に何かが違うなって思った」
「何か、ですか」
「ああ。仙台はあれでもけっこう、のんびりした雰囲気なんだよね。でも東京は違う、何もかもがせかせかと忙しなく動き回ってる。電車はちょっとの遅延でも謝罪するし、都心の方は夜遅くまでビルの明かりが消えないし。なんて言えば通じるのかな、誰も彼もみんなが必死に頑張っている街なんだなって感じたもんだよ。良い意味でも、悪い意味でもさ」
語り続ける雪ヶ谷さんの向こうでは今も、たくさんの人が往来している。
肩越しに私はそれを眺めていた。あの人たちもみんな、何かしらに頑張っているんだろうな。仕事に勉強に、他の色んなことに。
「──それさ、この子の話に何か関係あるの?」
小山さんの冷めた声に、雪ヶ谷さんは目を丸くする。で、照れたように手を振って笑い。
「いや、直接関係がある訳じゃないけどさ……。ただ、この街にはきっと他にも頑張っている人がたくさんいるから、そういう人に意見を求めてみてもいいんじゃないかって、そう思っただけさ。色んな努力の形がある。細かく計画を立てて計算しながら努力する人もいれば、やる時はやる! って言って計算抜きでがむしゃらに突き進む人もいるからな」
「努力してる人ってことですか……?」
「そうそう、ひたむきな努力を重ねてる人にね。俺とかね」
そう雪ヶ谷さんが言ったとたん、両脇から突っ込みが入った。文字通り、みぞおちに。
「げふっ!?」
「嘘つけ」
「苦労なんてしてないでしょ? 他のパティシエさんに作るの任せて客引きしてるくせにー」
「バっ……それ言うなそれをっ!」
「もう遅いねー。ね、今の聞いてたよね?」
私は一も二もなく頷いた。
雪ヶ谷さんの顔が瞬時に絶望の色に染まる。ごめんなさい、さすがに今のは聞き流せって方が無理あるわ。
雪ヶ谷さん、自分で作ってないんだね……。ちょっとがっかり。なんつって。
「君らのせいで彼女に余計な先入観を植え付けてしまったじゃないか。どうしてくれるんだ」
「遅かれ早かれバレることだったんじゃないの?」
「そーそ、早い方がお互いのためでしょ?」
小山さんも荏原さんも、雪ヶ谷さんの目付きはまるで意に介している様子がなかった。本当、楽しそうに絡むなぁ、この人たち。親子みたいだよ。
分かってる。
今がどうかはともかく、雪ヶ谷さんがこれだけ美味しいケーキを作れるようになるまでには、きっと大変な苦労があったはずだ。腹を立てたせいか再び夕陽色に染まったその顔には、深く刻まれたシワが苦労の跡をありありと浮かび上がらせている。
横の二人だってそうだよ。底辺ってさらっと言ったけど、小山さんと荏原さんだって必死に勉強して東工大に入ったんだろう。東工大は一朝一夕の勉強で入れるほど生易しい学校じゃない。そのくらい、私だって知ってるもん。
相応の努力の果てに、今こうしてこの人たちはここで笑っているんだ。私が輪の外にいるような気がした理由、やっと分かった。
「……あ」
目のやり場に困って腕時計を見た私は、小さな声を上げた。
「どうしたの?」
荏原さんが尋ねてくる。
「さすがにそろそろ、帰らなきゃです……」
腕時計を見せながら私は小声で答えた。時刻は午後四時半、塾が終わったのが四時くらいだから、もう三十分以上も費やしてしまったことになる。
今日の分の勉強、やらなきゃ。そう思い始めたら、何だかすっごくもったいない時間の使い方をしているような気がしてきた。
「もう、帰るのか?」
「はい」
雪ヶ谷さんは残念そうな顔をした。この人の表情の変化は、見ていて面白い。
「もう一口食べていかないかい?」
「いえもう、たくさん頂きましたし……」
「じゃあ……また、来てくれるかい」
「あ、それはもう、もちろん!ぜひ!」
私の声は変に上擦った。
そうだ、そうだよ。さっき雪ヶ谷さんに遮られて言えなかったのは、この一言だったんだから。
短い時間でも、立ち寄ってよかった。ここに来て、またこの人たちと会えるのなら、また来たい。ここにいると、素直にそう思えるんだ。
「そうかそうか。ここはいつでも君のことを待っているからな」
雪ヶ谷さんはそこまで言ってから、少し目付きを変えた。
「ところで、帰る道は分かるのか?」
……私は固まった。
そういえば私、迷ってここに辿り着いたんだった。どうしよう、道が分からない。
えっと確か、駅前広場を横切って左折して……あれ、右折したんだっけ?
頭の中で地図記号がぐるぐる暴れ回って、混乱する。見かねたのか、荏原さんが言い出した。
「私がエスコートしよっか? 自由が丘駅まで行けばいいんでしょ?」
「あ、はい」
「じゃあ、私についてきてよー」
荏原さんはそう言うと、もう先に立って歩き出そうとする。私は慌てて後を追いかけながら、背後を振り返ってぺこりとお辞儀をした。美味しいケーキを、ありがとうございました。
雪ヶ谷さんが叫んでいる。
「待った、君の名前をまだ聞いていなかった!」
「藤井芙美です!」
私も叫び返した。