焼けるクルミ
「あの、大丈夫ですか?そろそろ面会時間がそろそろ終わりますので...」
声をかけられて意識が戻ってきた。
今まで何をしていたのだろう。思考を放棄して、ただただ呆けていた。
こんな機械の塊が廊下に転がっていたのでは、患者も見舞いの人も気になっただろう。けれども、他の誰かに声をかけられた記憶はなく、この看護師に声をかけられるまで、僕は本当に意識が飛んでいたように思う。
「面会、時間」
僕が戸惑い気味にそう言葉を発すると、看護師は困ったように笑いながら、当院の面会時間は夜の八時までなんです、と告げた。
「...すみません、見窄らしいところをお見せしました。大丈夫です。帰ります」
なんだかとても情けない。
軽く腰を曲げて挨拶をすると、腰の辺りの部品がパキンとなった。
―このまま壊れてしまえばいいのに。
悲観的な思考が僕を支配している。未だに困り顔の看護師に、もう一度だけ会釈をしてノワの病室に向かおうとすると、小走りの足音が廊下に響いた。
「マッセ!少し、いいかい」
僕を引き止める声に振り返ると、先生が手招きをして呼んでいた。
「面会は八時までと聞きましたが」
僕はそう言って、まだこちらを見ている看護師に視線をやる。
「君はいいんだ。僕が、話があるから。ああ、あなた。気を遣わせてすまない。仕事に戻ってくれ」
最後まで困り顔だった看護師は、はい、と返事をしてすぐ近くの病室に入っていった。
面会時間が終わろうとしている時間帯。見舞いに来ていた患者の家族や知り合い達が廊下を歩いていく気配がする。先生と僕は、階段を登ってすぐのところにある小さな談話室の隅に腰をおろした。間接照明の橙色のせいで、まだ夕方なのではないかと錯覚してしまう。今日は一日があっという間で、なのにとてつもなく長く感じて、自分でもよく時間の感覚がわからなくなっている。
たくさんのことがあり過ぎた。こんなに切迫した気分を味わったことはない。処理しきれない感情と、それでも次々に迫る現実に、神経がやられてしまったのかもしれない。元々、人間かどうかも怪しい体なのだ。僕の神経なんて最初から―そもそも「僕」という存在なんて最初から―存在すら不明確で、本物かどうかなんて怪しいのではないだろうか。
「ノワさんの手術についてだ。今夜、睡眠導入剤を服用して寝てもらう。明日の早朝、彼女が目覚める前に麻酔を投与して手術を行いたいと考えている。目が覚めて、一から状況を説明する事は困難だろうから。今の彼女に余計なストレスは与えない方がいいだろう。勿論、君も。…ノワさんは身寄りがないそうだから、君に伝えて了承を得たいと思っていてね。医療倫理的に問題はあるかもしれない。でも、私は君たちの事が、」
「先生」と、僕は先生の言葉を遮った。
「すまない。一気に話しすぎたね」
先生は申し訳なさそうに頭をさすった。
違うんです。僕は先生の言葉を一字一句逃さず理解した。どうしたって、ノワの体に関わることだから、僕の半端な頭でも、それらは当たり前のように浸透してくる。
「違うんです」
ポツリと零した言葉に、先生は僕の顔を覗き込んだ。
「相談が、あります」
僕は今、ダメなことを言おうとしているんだろうなあ。僕の中のどこかで理性が働こうとしている。でもダメなんだ。
「先生。僕の寿命を、機械身体の稼働時間を、明日の朝で終わらせてください」
ノワ。
僕は君がいないと、どうしようもない弱虫なんだ。