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歯車とクルミ  作者: 椎名
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沈む歯車

 長すぎる沈黙は人に肯定を示す力を持っている。


  だから僕はすぐにでも否定しなければいけなかった。既に決めていた決意―僕がマッセであることは決してノワには告げない―に従うためにも僕は、少しもためらってはいけないのだ。分かっている。それでも、返事をするまでのほんの一瞬、僕は心の中で嵐のような葛藤をした。本当は泣きながら「僕だよ。僕はここだよ」と彼女を抱きしめたかった。ノワが至った結論は正解だ。でも、それはそこに至ってはいけない間違った正解である。

「違います」

 僕の言葉に彼女は泣くのをこらえて唇を噛み締めていた。

 そんな目をしてはいけない。きっと彼女には確信に近い何かがあるのだ。僕は今、それを粉々に砕いてしまわなければならない。

「名前が同じで、混乱させるようなことになってしまい申し訳ありません。...私は、今日あなたの家に派遣されたばかりの生活補助ロボットです。あなたの恋人のマッセではありません」

  ノワの手を取ってゆっくりと立ち上がらせる。僕はまた泣き始めてしまったノワの頬を傷つけないように、ちょんちょんとつついて涙を拭くように促した。

「それでも私はあなたが望む限り、あなたの側にいます。してほしい事、お手伝いしてほしい事、何でもしますよ。あなたが彼と再会できるその日まで。さあ、先生の所に行きましょう」

  ノワは返事も何も返してはくれなかった。それでも、もう僕がマッセなのではないかと言及することもしなかったので、これでいいのだと思う。先生のところに戻るまでの間、彼女は僕の三本指が壊れてしまうのではないかとというほど、力強く僕の左手を握りしめていた。


 飛び出してきてしまった診察室に戻ろうとした時、先ほどノワを見つけてくれた看護婦に声をかけられた。どうやら先生は、別の患者の診察を行っているらしい。僕が機械でできた不格好な胴を曲げて「ご迷惑をおかけしてすみませんでした」と言うと、看護婦は少し困ったように笑いながら「いいえ」とだけ答えて、ノワのベッドがある病室へと案内してくれた。


 病室に着くまでの間も、ノワは握り返すことのできない僕の無機質な指をずっと握り続けていた。涙はもう止まっていたが、赤く腫れた瞼が痛々しく、白く薄暗い廊下との対比が、何だかひどく悲しかった。僕はほんの少しだけ、彼女の小さな手の平を握り返してみる。ふらりと揺れる細い身体と、何も語りたくないとでもいうように強く引き締められた口元が、突然の病に襲われたノワの存在をより危なげなものに感じさせた。


「先生はすぐにいらっしゃると思いますが、何かあったらすぐに呼んで下さいね」

 そう言うと、看護師は静かにカーテンを閉めた。

 病室に通されたノワは、全く口を開くことなく、ただ白いだけの天井を見つめ続けた。

 広いとは言えない病室には、全部で四つのベッドが置かれていた。

 病室内は淡いベージュのカーテンで区切られ、それぞれのベッドに女性の患者が横になっているようだ。


 ノワに宛てがわれたのは、入口からすぐ近くの右手側にあるベッドだ。窓は遠く、まだ電気のつけられていない室内の中で、彼女のいるベッドは特に暗かった。僕たちは一言も口をきかずに、ただ、薄暗院内に響く小さな雑音たちに耳を傾けた。

 簡単に言葉を発してはいけない。

 そんな緊張感が僕たち二人の間に流れていた。

 一度、きりきりと限界まで張り詰められた糸が、少し撓んでいる。

 その糸はあと少しの衝撃で、ぷちり、と切れてしまうのではないか。

 病人と、そのお手伝いロボットという関係にしては、あまりに重くて奇妙すぎる緊張が、カーテンで仕切られた、この狭い空間いっぱいに満たされていた。


  病室内に灯りがついた頃、先生はやってきた。

 先生は椅子から立ち上がり、席を譲ろうとした僕を制して、天井に視線を向けたままのノワに語りかけた。

「ノワさん、体調はどうですか」

 ノワは何の感情も読み取れないような目で、先生を一瞥し「変わりありません」とだけ言うと、視線を再び天井に戻した。

 その後、彼女は淡々とした―僕が言うのも滑稽だが―機械のような受け答えだけを続けた。

「手術を受けられますか?」

 緊迫した先生の問いにも、彼女はただ、

「はい」と言うだけだった。

 僕は何も口も挟むことが出来ないまま、まるで本当の部外者のように、そこにいるだけだった。



  午後七時を過ぎるたあたりで、病室の戸が開かれて激しい息遣いが聞こえた。

 戸の一番近くに座っていた僕は、カーテンの隙間から、様子をちらりと覗き込んだ。

 戸のすぐ近くで、ぎっしりと詰まった重たそうな鞄を抱え込んだ青年が、息を切らせて膝に手をついていた。ほんの少しざわついた病室内に、また元の静けさが戻ってくる。ふう、と顔を上げた青年と目があった。

 僕と同じくらいの年齢の青年だった。

 彼は申し訳なさそうに、はにかみながら頭を下げると、僕たちのいるベッドの正面のカーテンを開けた。

 青年がカーテンを開けたその間から、ベッドに座る女性が見えた。

 女性はとても痩せていた。枝のような腕がベッドから覗いて、点滴に繋がれている。対症療法を繰り返しているのか、肌にはいくつかのシミがあり、ニットから出ている頭髪の量は少なかった。

「病室では静かにしてって言ってるじゃない」

 いつの間にか閉められていたカーテンの向こう側で、女性の声が聞こえた。先ほどの虚弱そうな見た目の割に、とても感情豊かで、しかし穏やかな声だった。青年が謝る声と、椅子を引く音がする。僕は、全く知り合いでもない男女の会話に耳を澄ませていた。


「出来たんだ」

 青年の嬉々とした声がする。

 ドサドサと重みのあるものが、ベッドの上に広げられる音が聞こえた。

「出版は来月だ。見て」

 今度は、ぺらりと紙がめくられていく音がする。

 一枚一枚をめくる速さは遅く、そして早々にその本は閉じられた。

「俺の絵、そして、君の書いた文字」

 青年が持ってきたのは絵本のようだった。

 小さな感嘆の言葉と、笑い声が聞こえる。

 ―幸せそうだ。

 そう思った瞬間に、僕は自分が最低な人間に思えた。

 あの女性を見ただろう。病的にやせ細った体を。もう、対症療法しかない段階にいる。きっと女性は長くないのだ。面会時間ぎりぎりに息を切らしてやってきた青年。会えるのは、ほんの数十分だ。仕事終わりに、重たい荷物を抱えたままで、そこまでして会いに来たいのは、二人の時間が残り少ないからではないのか。そんなことは、想像を巡らせればすぐに分かる。それなのに。そう分かっているのに。


 僕は、カーテンの向こう側の男女に嫉妬し、胸の奥に秘めてきていた攻撃的な感情を向けていた。

 想像する。残された時間が少ない彼らに、僕とノワを重ね合わせる。

 ―最低だ。

 また、胸のあたりの歯車が、ギシと不快な音を立てた。


 このまま、この病室にいてはいけない。

 僕は自分の精神の限界を感じて立ち上がった。ノワの顔も見てはいけない気がする。見つめたら、もし、彼女が僕を見ていたら、僕は何もかも捨て去って、昔の、ただ弱く君を頼るだけだったマッセに戻ってしまう。

「少し、外を歩いてきます」

 トイレに行く必要も、喉が乾くこともない体の僕は、他に何と言いようもないまま、味気も意味も無い言葉を吐いて、ノワの顔を見ないように下を向いたまま、カーテンに手をかけた。

「待って」

 か細い声がする。布団とシーツが擦れる音と、ベッドが軋む音が、静かに聞こえる。僕は三本の指で上手く掴めないカーテンを必死に捉えようとした。背後の彼女が動く。早く、僕はここから出なければいけない。カーテンが指の間をすり抜ける。早く。


 彼女の指が僕をとらえた。

「お願いが、あります」

 嗚咽混じりの声が、震える指先が、僕の背中をとらえている。

 僕は、ようやく掴めたカーテンを開き、彼女を、その指がとらえているエプロンごと解いて、ベッドに戻した。

「分かりました。できるだけ、すぐに、戻ります」

 それだけ言って病室をでた。

 


 病室からしばらく歩いた廊下に、意味もなく座り込む。

 全身の関節部位が緩んで、オイルが染み出ている感覚がした。

 暗い廊下に、あからさまな機械音の、嗚咽のようなものが響く。

 廊下の冷たさだけは、感じることがなかった。 

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