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歯車とクルミ  作者: 椎名
7/11

転がるクルミ

「ノワ」

診察室を飛び出した彼女に、僕の声が届かなかった。


「302号室のノワさん。うん、そう。取り乱してるから、見つけたら落ち着かせて、取り敢えず病室に。うん、はい。お願いします」

先生が院内で使用されている携帯端末に向かって指示を出している間も、僕はその場から動けなかった。「マッセ」として、どうすればいいのか分からなくなってしまった。

「君も傷ついただろう...。いや、辛かったろう」

先生は追え、とも追いかけなくていいのか、と問いただすこともなかった。ただ、何故だか先生まで心底傷ついたような、苦しみを耐えるような表情を浮かべていた。心の苦しみは伝播するのだろうか。

 もう心臓なんかないのに、僕の胸は張り裂けそうだった。塞き止めようとしても、耐えようとしてもごぽごぽと溢れてくる泥濘のような感情に、僕は人間のものではなくなった手で自分の頭何度も殴り、出ない涙の代わりに「あ゛、あ゛」と機械音声で嗚咽のようなものを漏らした。硬質な物どうしがぶつかり合う耳障りな音と汚い音声が部屋を満たす。

「どうして僕たちは、いつも抗えないのかな。選択肢なんか、あってないようなものじゃないか」

ガチン、と一際大きな音が鳴った。こんな体壊れてしまえばいい。どこかに穴が空いて、そこから僕の恐怖とか不安とか、もっと深くにしまいこんでいた寂しさや悲しみとか、全部全部流れ出てしまえ。椅子から崩れ落ちるようにして、床に膝をついた僕の体を先生が支えた。病院内に流れていた懐かしい曲のオルゴールアレンジが漸く僕の耳に聞こえてきたけれど、余計にさみしさが溢れてくるだけだった。

「僕は、幸せなんてものは贅沢だということを知りました。だからほんの些細な出来事でも、ちょっとしたアクシデントでも、全てを大切にできたんです。僕たちが望んでいたのは、ただ二人でいることだけなのに、それがどんなに悲しい形でも構わないと思ってこうして二人で生きてきたのに、どうして僕たちは、それすら許されないのでしょうか」

吐き出すかのように止まらない僕の情けない言葉の後には、ただ穏やかなオルゴールの音色だけが室内に残っていた。背中に回っていたはずの先生の手は、僕のつるりとしたなで肩を握り締めて震えていた。

「すまない...」

先生が悪いわけではないのに、先生は頭を下げたまま何度も何度も「すまない」を繰り返した。

「先生のせいではないです」

そう声をかけた時、デスク上の院内連絡用端末が鳴った。

「研究を続けてきて、何が人の幸せであるか理解させられるのは、いつも人の悲しみに触れてからだ。倫理が科学に追いつくのは、科学が行使されてからなんだ。それでは、あまりに悲しいよ」

先生はゆっくりと立ち上がって、連絡用端末に手をかけた。その表情はどこまでも悲しかった。



 3階の少し開けた空間は、談話用の為か、いくつものソファが並べられていた。そこは他の階と同様に、窓はなく壁一面がガラス張りとなっていて、少し傾き始めた陽の光が差し込んでいた。病院でよく見かける長い革張りのソファだけでなく、子供用の小さな動物の絵が描かれたソファやゆったりとした背もたれのついたソファが置かれたその空間の、陽の当たらない廊下側に向けられた隅の一人用のソファに、ノワは小さく膝を抱えて座り込んでいた。


「彼女の同伴者です。先生に言われてきました。見つけていただきありがとうございます」

ノワの側に寄り添っていた看護婦にそう告げると、彼女は心配そうにしながらも、失礼しますと言って軽く頭を下げて忙しそうに小走りで廊下の向こうに去っていった。

 僕は大きな音を立てないように、静かに床に膝をつけてノワの顔を覗き込んだ。

「大丈夫ですか?」

彼女は僕と目線を合わせないまま、じっと長く奥まで続く廊下を眺めていた。

「マッセがいないの。どこにも」

泣きすぎたせいか、真っ赤になってしまった目元を何度もぐしぐしと摩りながら、彼女は呟く。僕は大きく呼吸するように肩を動かして、彼女の手を取った。

「マッセは生きてますよ」

そう告げると彼女はびくっと体を揺らして、漸く僕に視線を向けてくれた。もう一度、心の中で大きく息を吸って僕は決心する。

「彼は事故に遭って身体のほとんどが動かせないほど損傷しました。損傷は神経まで及び、四肢だけでなく首を動かすことも、機械がなければ呼吸さえも厳しい重篤な状態にまで追い込まれました。しかし、彼は機械人体の臨床被験者になっていたのです。彼は一命を取り留め、今は違う病院で大きな大きな手術を受けています。心配はいりません。彼の手術は必ず成功する手術です」

 自分のことを、自分ではないように話す僕はひどく滑稽だ。それでも僕は決めた。

「どんな風に姿が変わっても、体がロボットのようにがたがただったとしても、彼は絶対にあなたに会いに来ます。あなたにこんなにも愛してもらえているのです、彼はたとえどんな姿になろうと、必ず何度でもあなたに会いに来ます」

一度は止まった涙が、また一つ二つと彼女の虚ろな瞳からこぼれ落ちる。小さな、あたたかい、人の体温をした雫が僕の手を濡らした。

「絶対です。だから手術を受けてください。あなたは生きなければならない。彼が会いに来てくれるためには生きなければならないのですよ」

幼い子どもに言い聞かせるように、握った手を揺すりながら彼女に僕の思いを説いた。機械になってしまうと聞いてもノワは「マッセ」に失望しないでいてくれるだろうか。

 これは僕の中で大きな賭けだった。ここで彼女が「マッセ」と元の姿では会えないことに失望してしまったら、僕も彼女も、もう立ち直れないかもしれない。それでも、もし彼女が僕のこの話を生きるために希望にしてくれたら。どんな姿でも「マッセ」を受け入れてくれるなら、それを理由に手術を諦めないでほしいと思った。そして僕は、僕の中にあるほんの少しの自惚れを当てにしてノワを信じてみようと賭けた。

どうかただのロボットのマッセの言葉を信じて。

まだ僕のことを愛していて。


 ノワの小さな手が僕の無機質な頬に触れた。これまで一言も発しなかった彼女の唇が微かに震えている。虚ろだったその瞳には、僕が映っていた。

「あなた、マッセ?」


一瞬、しかしそれ以上に長く感じられる静寂が、僕たちの間に流れた。




 

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