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歯車とクルミ  作者: 椎名
4/11

狂った歯車


 クルミの木に囲まれたこの庭で風を浴びるたびに、僕は二人のはじまりとこれからを考えてしまう。

僕たちの出会いはささやかなものだった。そして、それからの付き合いも。

レースのハンカチを返しに再びノワの元を訪れた僕を、彼女は笑顔で迎えてくれた。僕はそんな彼女の笑顔を見ていたくて、大好きだという菓子をプレゼントした。僕の自己満足から始まった、一方通行のそれは、いつの間にか二人をつなぐ糸になっていたらしい。糸が色づくに従って、僕たちの距離は当たり前のように近くなっていった。僕だけのノワ、ノワだけの僕。二人の小さな世界が確かにできていた。早くに両親を亡くし、この白い家にひとりきりで暮らしていたノワにとっては、この小さな世界が彼女の全てと言っていいほどに違いなかった。僕はそんな彼女が愛おしかった。そして、今も。


 ニットのカーディガンを羽織ったノワは空を見上げながら、ゆっくりと歩みを進める。ロボットになった僕の体は歩幅が以前より小さく、歩みは鈍い。彼女はほんの少しだけ僕の先を歩いている。

「今日はとても気持ちがいいですね」

「そうですね」

僕は生身の肌で感じるような優しい外の空気を忘れてしまったけれど、彼女が言ったことをそっと肯定した。彼女が気持ちいいと言うのなら、それはきっと確かなことだ。

 僕も空を見上げる。雲の流れは穏やかで、高いところで鳥が飛んでいた。昨日見た空とは少し違う空。確かに流れる時間の中で、僕たちは必死にもがいている。その流れに身を任せたままでいることはできない。悲しくないわけではないが、不器用なりに二人は生きているのだと思えば、不幸ではないと思う。

鼻歌を歌いながらクルミの葉を愛でる彼女にそっと視線を移し、目を細めた。実際には僕の表情はほとんど動くことはなく、目が細くなることもないのだけれど、僕は本当にそんな心情で彼女を見つめた。

「庭の掃除をしないといけませんね」

庭の状態も彼女が記憶障害に陥る前から変わってしまわないように、毎日僕が掃除をしているのだが、外に出るたびに彼女は毎回こう言うのだ。どうやら僕は掃除の腕だけは上がらないらしい。

「納屋に箒を取りに行ってきます」

そう言って立ち上がったノワの体はぐらりと傾いた。


 愚鈍な足を必死に動かし彼女の元へ走った。既に倒れてしまった彼女の体を慎重に抱き起こし意識があるかを確認する。

「ノワさん、ノワさん」

機械の声帯が平坦な音声を紡ぐ。しかし、僕は体中の部品が悲鳴を上げ、弾け飛んでしまうのではないかと思うほどの恐慌状態に陥っていた。

「ノワさん、どうしたっていうんだ、ノワ」

僕の呼びかけにノワは目の焦点をぐらつかせ、はっはっ、と浅い息を漏らした。

「すみません...急に吐き気が...。あたまが、重い...」

素人の僕には判断できないが、再びの脳出血を思わせる彼女の訴えに、いよいよ冷静さというものを喪失してしまった僕は「生活補助ロボット」という体裁をかなぐり捨てた。

「ノワ、ダメだ。目を閉じないで、お願いだから」

僕は祈るように彼女に呼びかけながら、エプロンのポケットから連絡用の携帯端末を取り出した。元々は僕の体が正常に機能しなくなった非常時の為にと渡されていた物を、彼女の為に使うことになるとは夢にも思わなかった。

いや、想像することさえ無意識のうちに避けていたのかもしれない。

一度脳出血を起こし、頭蓋には記憶障害が生じるほどの強い衝撃が加わっているのだ。何が起きてもおかしくはなかった。そもそも、思わぬ最悪の事態というのは、誰にも平等に降りかかる可能性がある。僕たちのように。

 すべてを当たり前だと思ってはいけないのだ。

そう思い、都合のいい事象と不変を信じているだけでは、未来に盲目になる。今立っている地点から、過去を振り返ることしかできなくなってしまった人間は悲しい生き物になってしまう。

僕は虚ろな彼女にひたすら声をかけ続けた。

二人の未来をここで終わらせることなど、許せるはずもなかった。


 搬送用の車が到着するとノワは安心したように目を閉じた。止まない不安の嵐が僕の中で吹き荒れている。

「ノワ」

声をかけ、そのまま寄り添おうとしたが、それは搬送員によって阻まれた。僕のこの体は狭い車内では邪魔にしかならないらしい。おそらく沢山のことをてきぱきと僕に伝えてくれているのだろうが、何を言われたのかほとんど頭に入っていない。ただ病院に向かわなければ、とその思考だけが広い庭の隅に取り残された僕を支配していた。




「この書類に目を通しておいてくれ。そしてできるのなら、いち研究者として同意してほしいと思っている」

 製菓学校に通うことを決めた僕に対し、父は以前以上に声をかけることは少なくなっていった。もう期待することも止め、それどころか失望すらしていたのだろうと思う。

そんな時、久しぶりに家に帰ってきた父はネクタイも緩めないまま僕のもとに紙の束を差し出した。

表紙には「機械人体の臨床実験への身体の提供」といったことが書かれていたと記憶している。

内容はその概要、倫理規則、実験参加した場合の対応、報酬まで詳細すぎるほどに書かれていた。

『機械人体の使用は、身体提供者が何らかの外的損傷によって、身体の9割以上を動かすことができない状態に陥った場合のみ許可される。―――機械人体の外見は、我が国の最高医療機関の倫理規定に違反しない範囲で人体に近づけるように作成されなければならない。―――機械人体の活動時間を永久的なものに設定することはいかなる事情があっても認められない。活動時間は身体提供者のこれまでの健康状態、生活習慣、及び性別の平均年齢を含め計算されたものを設定する。身体提供者が活動時間の限界の開示を求める場合は、それを認め、医療者は情報を開示しなければならない。また、一度設定された活動時間を引き伸ばす行為はいかなる場合でも許されない。...』

 書類に目を通し終えるまで、父は僕の目の前に座っていた。

「僕に身体提供者になってほしいの? 」

顔を上げ父の目を見て問うた。父は顔の表情を一切変えずに返答した。

「自分の意志で決めてほしい。研究者として、この臨床実験が進められていくことには期待している。既に何人かの身体提供者が機械人体を使用しているが今の時点では問題なく事は進んでいる。このままでいけば、身体障害者や脳の運動関連部位を損傷した人達に広く応用されることは間違いないだろう。ただ、これにはお前の体そのものが関わってくる。臓器の一つや二つといった一昔前の話ではない。だから読んだ上でよく考えて、自分の意志で決めてもらいたい」

父がこんなにも饒舌に僕に語りかけたのはいつ以来だろうか。全く思い出せなかった。

 父は大学で医療分野に携わる研究者だ。具体的に何をしていたのか、どの分野を専攻していたのかといったことは僕は知らなかった。父が家にいること自体少なく、興味もなかったからだ。

僕は幼い頃から父に本を与えられることが多かった。それは年齢を重ねるごとに学術的、それも医療に関するものが増えていき、そんな父に僕は強く反発した。父は、祖母が亡くなってからも菓子を作り続ける僕を否定し続けた。両者が分かり合えないのだと理解したころには、父は僕に関心など持たなくなっていた。

そんな父が今更僕に何を求めるのかと思えば、臨床実験への身体提供だ。

「いいよ。サインするよ」

僕の返答に父はほんの少し、一瞬だけ驚いたような悲しいような表情をした。

「よく考えろと言ったのが聞こえなかったのか」

「聞いてたさ。聞いて、そしてこの書類を読んだ上で判断したんだよ」

あくまで静かに、口元の笑みを絶やさぬようにしながら答えた。

 心の中では歪みきったな笑みを浮かべていた。

僕と父の関係がどうかを除外して考えても、自分の体が動かせなくなった時にその障害をなくしてくれるのならそれは嬉しい申し出だろうし、それによって一般に実用性が認められるのであれば一人の人間として協力しようじゃないか。さらさらと各項目にチェックを入れ、ペンを走らせる自分自身を嘲笑っているのは、僕のこの同意が完全なる善意からではないからだ。

自分から父に反発し、示された道を歩もうとしなかったくせに、僕は常に強い罪悪感や認められない寂しさというものを感じていた。それどころか滑稽なことに、そんな自分自身が哀れだとすら思っていたのだ。

これは医療に貢献するためでもなく、自分の身にいざということが起きたときの保険でもなく、父に協力することで認められたような気になり、自分を慰めていたのだ。

そんな自分の行動原理に気づいていながら、僕は判断を改めようという気にすらならなかった。

全てにサインを終え、書類の束を渡すと父は一言ありがとう、とだけ言って部屋を出て行った。

最低だと自分を蔑んだ。自嘲的な笑いが止まらなかった。そしてその時の僕は、自分が実際に身体提供者になるなどという事態すら想定などしていなかったのだ。



 今思えば、僕はすべてにおいて愚かだ。だからこんな体になってしまったのかもしれない。

病院行きのバスに揺られながら、思い出していただいぶ昔の出来事は、バスが強く揺られ僕の体が窓にぶつかったことで消えた。ガチン、と硬いもの同士がぶつかった音が車内に響く。何人かがこちらに視線を向けたがそれは一瞬のことで皆視線を窓の外や、手元の小説に戻した。

病院までの残り30分。僕は思考をどこに向かわせればいいのか分からないまま、窓から遠くの空を眺めた。

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