クルミのある庭
二人の出会い。
あの日のことはよく覚えている。
静かな風が頬を撫で、上着を着ていなかった僕は少し肌寒さを感じた。周りをぐるりとクルミの大きな木々に囲われたこの庭はあまりに広く、レンガで作られた小路の先には、その庭の広さには少々似つかわしくない白の外壁の小さな家が建っていた。まるで絵本に出てくるような綺麗な光景に僕はしばらくぼーっと周りを眺めていた。
「あの...、どちら様でしょうか」
拾い集めたクルミが手のひらから一つことり、と落ちた。
声のした方へ視線を移すと蔦で編まれた小籠を抱えた女性が立っていた。肩のあたりでふんわりと揺れる髪に、戸惑ったような瞳がこちらに向けられている。
僕はここが誰かの家の敷地内だということをすっかり忘れていた。
「あの、何かご用ですか」
「あ、すみません!えっと...」
特に理由もなくふらりと迷い込んでしまった手前、僕が何と説明すればいいのか困っていると、彼女の視線が僕の手に抱えられたクルミへと移った。
「うちのクルミ...」
「すみません、立派なクルミが落ちていて、拾っていたらここに着いただけで...あの!」
あまりの羞恥に僕は、赤くなってしまった顔を見られないよう下を向きながら彼女に歩み寄って、勢いよく腕を伸ばし手の中のクルミを彼女の抱える小籠の中へ入れた。
「勝手に入ってごめんなさい!クルミお返ししますっ!!」
そう言って逃げるように立ち去ろうとすると、小さな笑い声が聞こえた。
はっとして顔を上げると、小籠を抱えた彼女は口元に手を寄せながらくすくすと笑っていた。
「え、あの、何か...?」
「だってクルミを追いかけてここまでいらしたなんて、何だか童話の子どもみたいで。ごめんなさい。男の方にこんな言い方失礼ですけど、なんだか可愛らしくて」
そう言ってまたくすくすと笑い出した彼女に、僕は今度こそ顔を真っ赤にして項垂れた。
彼女の言う通りクルミを追いかけて勝手に入り込み、家主に見つかってこんなことになっているだなんてまさに子どものようではないか。ここから、どう彼女に申し開きしようかと一人慌てていると「はい」と手に小さなぬくもりが触れた。
「クルミが欲しかったんですよね。うちはこの通りクルミの木に囲まれて、毎年たくさんのクルミが採れるんです。小さなお店なんかにもお出ししてるんですけど、とても処理しきれる量ではないので、ぜひ使ってください」
小さな手からことりことりと渡されるクルミに僕は戸惑った。
「そんな、申し訳ないです。勝手に入ってきてしまった上にこんな立派なクルミまでいただいてしまうなんて。それよりなんとお詫びすればいいか...」
すると彼女は笑顔のままで僕に語りかけた。
「お詫びなんて、とんでもありません。むしろ久しぶりのお客さんに嬉しいくらいですよ」
そう言いながら、彼女はどんどん僕の手の平にクルミを積み上げていく。
「だからお気になさらずに、このクルミはご自由に使ってください。納屋の中でじっとしているよりも使ってあげた方が幸せだと思いますから」
大粒の立派なクルミは僕の手の平の許容量を超える勢いで積み上げられていく。
「ね?」
彼女はとても愛らしい表情で僕を見上げた。最後に、といった風にこれまた立派なクルミが一つ僕の手の上に乗せられた。僕は若干ぷるぷるとする腕に気をつけながら、彼女と目線を合わせた。
「ありがとうございます。嬉しいのですが、あの...何か入れ物をいただいても...。」
あ、と彼女が言った瞬間に、僕の手の平いっぱいに積み上げられたクルミたちはバランスを崩して地面に散らばった。
「マッセさん、あのアントルメで職人をやってるんですか!」
玄関先でクルミを受け取るだけで帰るはずが、彼女の押しに負けて僕はいつの間にか小さな丸テーブルをはさんで彼女、ノワさんとお茶を一緒にしていた。
「いえ、職人といっても下っ端でして大したことはまだやらせてもらえないんです」
僕の勤めている洋菓子店「アントルメ」は小さな店ながらも、高い評価を得ている店だ。だが、その店で僕ができていることといえば、メレンゲを仕立てることくらいだ。菓子を作ることは、僕にとってなによりも楽しいことだったはずだ。だが、今はそれが本当の気持ちだったのかさえ分からなくなってしまっている。安い給料に、少ない仕事。他人と自分を比べる日々。僕はどこで間違ったのだろうか。身近で高い評価を得られる店に就職する。海外に修行にいく同級生たちを見送り、「近道」だと思っていた道を選択したのは紛れもなく自分自身だった。ただ「近道」だと思っていたものは実は「迷路」で、僕はその道の先に何を見ていたのかさえ思い出せないでいる。
楽しげにあの商品が美味しい、新作のケーキが素晴らしい、と語る彼女に、自分の店のことでありながら一言も感謝の言葉を言えない僕には、もう菓子を作る資格はないのかもしれない。幼い頃、祖母が教えてくれたクルミとミューズリーのビスケット。あの頃のようにクルミに触れれば、僕はまた何かを見つけられるのではないか。そう思ってクルミを追いかけた。それでもダメだったようだ。
―――クルミを返して早く帰ろう。もう、菓子を作ることはやめてしまおう。
僕はティーカップを置いて、腰を少し浮かせノワさんに挨拶しようと口を開いた時、彼女がまた言葉を紡いだ。
「私、あそこのココアムースが大好きなんです。ココアとオレンジの香りも素晴らしいのですが、何よりあの口溶けが素晴らしくて、本当に美味しいです。生クリームではなくてメレンゲを使っているらしく日持ちはしないんですけれど、もう他のお店のムースが食べられなくなってしまいました。優しくて、食べると幸せな気持ちになるんです」
ココアムースに思いを馳せているノワさんは、うっとりとした表情でいかに「アントルメ」のムースが美味しいかを熱弁してくれた。
本当に久しぶりに「美味しい」という言葉を与えられた。
「...マッセさん?」
気がつくと僕は涙を流していた。
僕が無心に泡立てているメレンゲなんて、ムースを作る上でのほんの一工程に過ぎない。でも、忘れかけていた感覚が蘇ってくるのを確かに感じる。自分の作ったものを美味しいと言ってくれる人がいる。誰かに肯定されている。僕はそれだけのことで胸がいっぱいになった。
「...ありがとう、ございます。」
それだけ伝えるのが精一杯だった。それでも彼女は、こんな情けない僕を笑うこともせず僕のことを優しく見つめてくれた。渡されたレースのハンカチに鼻水がつかないよう注意しながら、僕は溢れ出す涙を何度も何度も拭った。
あの日と同じ、小さな丸いテーブルで今は彼女が涙を流している。
僕の心を救ってくれたノワが、誰にも助けられない状況の中でひとり泣いている。僕の手元には、レースのハンカチも、あたたかい五本の指もない。それでも、僕は彼女を愛おしく想うことをやめられないのだ。
彼女の座る椅子の横に、ガシャンと機械の音をさせながら跪く。涙に濡れる彼女の手を慎重に取って、ゆっくりと彼女と目線を合わせた。
「あなたにこんなにも想ってもらえて彼は幸せ者です。あなたが願うならきっと彼は大丈夫です。何があっても、どんなことがあろうともあなた方は再び会うことができるでしょう。だから、そんなに心配なさらなくても大丈夫です」
僕の想いを少しだけ届けたいと願う。けれど、機械の声帯から出る声は、元の僕の声には程遠い。
今日の彼女は、どんな顔をするのだろう。どんな言葉を僕にくれるのだろう。
ありがとう、そう小さく呟きながらノワは頬に残っていた涙を拭いた。
「マッセ、ロボットなのになんでかしら。あなたの手があたたかいと感じるの」
彼女は小さな手で僕の無骨な三本指を包み込んだ。
僕に涙腺が備わっていたのなら、間違いなく涙を流していただろう。横隔膜が備わっていたのなら、しゃくり上げていただろう。
いつだって救われるのは僕の方だ。
「ノワさん、少し庭を歩きませんか。日差しが気持ちようさそうです。彼の元にお見舞いに行かれるのでしょう?体を慣らして明日に備えましょう。」
それでもいつまでもこの感覚に浸っていることは毒だ。彼女に時間を感じさせてあげなければいけない。進むことはなくとも、明日という時間が待っていることを感じさせてあげなければ、本当に彼女は取り残されてしまうのだから。
「そうですね」
涙をすべて拭い去ったノワは立ち上がってティーカップを片付け始めた。
「片づけは私がしますから、あなたは先に上着を着ていらしてください」
そう言って彼女からティーカップを奪うと、彼女は少し不満そうに僕を見上げた。
「片付けくらいできます。準備はしていただいたのですから、片付けくらいさせてください」
「...そういうわけにはいきません。これが私の仕事ですから」
二人で言い合いながらキッチンに並ぶ。
そんな些細なことが幸せすぎると同時に、僕はこの小さな世界を呪いたい衝動にも駆られるんだ。