錆びた歯車
鍋にキャラメルの材料を入れ、手際よく混ぜ合わせる。焦げないよう細心の注意を払いながら、あたたかい淡い茶色になるまで加熱したそれを、あらかじめ用意しておいた耐熱ガラスのボールへ入れる。
ここからが肝心だ。このゆるいキャラメルが冷めてしまう前に、薄力粉、ベーキングパウダー、ひとつまみの塩を合わせたものを数回に分けながら丁寧に混ぜ合わせる。ここでは空気を含ませてさっくりを混ぜるよりも、生地をすくい上げるようにし、時々ゴムべらを持ち上げながら生地がなめらかになるまでしっかりと混ぜ合わせる方がいい。ここに、細かめに砕いたクルミを加える。あとは大きめのビニル袋にこの生地を移し、5ミリ程度の厚さになるまで生地を伸ばしたら冷蔵庫に入れて冷ます。
椅子に座って本を読んだり、時折立ち上がって僕の作業を覗き込むノワを気にかけつつも僕は作業を続ける。
「お茶を入れ直しますか?」
そう問えば、彼女はふるふるを首を横に振って僕の隣に並びキッチンに手をついて、こちらを見上げた。
「何を作っているんですか?」
「クッキーですよ。」
「これがクッキーの生地なの?初めて見たわ。さっきまでキャラメルの香りもしてたようですし。」
興味深々といった様子で彼女は袋に入れられた生地を見つめている。
「キャラメルクッキーです。ビターな味わいに、独特の食感を楽しめますよ。」
三本指を使って洗い物をこなしながら、僕は早くも明日のお菓子のレシピを考え始めている。
僕は彼女に”以前の僕”が作っていた菓子は作らないようにしている。いや、作りたくないというのが本音だ。記憶は上書きされても、忘れられることはないというが、それは本当なのだろうか。僕はそれを信じることができないでいる。彼女と僕が何度「この日」を繰り返そうとも、時間は間違いなく過ぎていっているのだ。僕は何度も菓子を作り続けている。あの頃の僕より、今の僕の方が菓子の腕は上がっているだろう。ケーキの生地はよりきめ細かく繊細で、マカロンも素晴らしく美しい造形と口溶けのものを作ることだってできる。
僕は、僕の菓子を世界一美味しいと言ってくれた彼女が”僕”以外の誰かが作った菓子に感動して、その彼女の中という小さな世界の「世界一」が上書きされてしまうことが恐ろしいのだ。たとえ上書きをするのが自分自身であったとしても、彼女にとっての僕でなければ意味がないのだ。この機械の体になってしまった今のマッセが彼女を感動させたところで、僕は僕自身にすら嫉妬して心を焼き切られてしまう。
「美味しい!」
「ありがとうございます。」
小さな丸テーブルでノワは幸せそうに目を細めた。
「香ばしいのに、キャラメルの食感がほんの少しだけ残っているのね。歯にしつこく残るでもなく、さくさくとしていて、あっさりとした不思議な食感。」
ガラスのティーポッドで茶葉が踊る様を見ながらカップへ注ぐ頃合を伺っていると、彼女は菓子に伸ばしていた手をそっと膝の上に休め、静かに窓の外を見つめていた。その間に、カップへ香り立つ紅茶を注ぎ入れる。
――そろそろ、だ。僕とノワにとって最も大切で愛おしい時間がやってくる。
窓の外に向けられていた彼女の瞳から一つ涙がこぼれた。それは彼女のまろみのある頬をゆっくりと伝い落ちる。その一つをきっかけに彼女は大粒の涙をぼろぼろと溢れさせた。僕はただじっと、ロボットらしく彼女を見つめ静寂を受け止めた。
「恋人のマッセは今、病院にいるのです。」
「先ほどお聞きしました。」
「昨日の朝、彼は事故に遭いました。歩道に突っ込んできた車から小さな子どもを庇い、重体だと病院から連絡が来たのです。私は、今すぐにでも会いに行きたい。本当は今にも心が不安や恐怖で押しつぶされてしまいそうなの。ひと目でいいから彼に会いたい。」
「あなたが彼に会いにいけない理由があるのは、何故なのですか?」
「昨日、病院から連絡が来てすぐに彼に会いに行こうとしました。けれど途中で私は倒れてしまったのです。その時のことははっきりと覚えています。ひどい頭痛に襲われて、立っていることもできなくなりました。道に倒れ込んだ時には、沢山の人が私を心配している様子が見えました。...そこまでははっきりと覚えているのです。ですが、気がつくと私は病院ではなく自分のベッドに横になっていました。今朝はこの事に驚いていたのですが、枕元に病院の電話番号と、必ず連絡をよこすようにというメモが置かれていたのです。電話には私の主治医だという方が応答してくださいました。私が脳の病気で倒れて処置をしたということ、危険な状態ではないため自宅に送り届けたということ、私がその事を忘れてしまっているのは麻酔や薬品の副作用だということ。覚えていませんが、昨日の私はしっかりと自分の意思でこの部屋までたどり着いたそうです。そして最後に、薬品の副作用がなくなるまで今日一日はゆっくりと体を休めることを強く言われました。もちろん、彼に一刻も早く会いたかった私は抗議しました。ですが、先生は今日来ても彼に会わせられないの一点張り。...会えなくてもいい。まだ彼が一目見ることもできないような状態ならばせめて、その病室の側にいたいのに、私は今すぐに少しでも彼の側にいたい...。」
ノワがその小さな掌で顔を覆うと、その隙間からくぐもった嗚咽が聞こえてきた。頼りない肩が揺れて、カップに注がれた紅茶に小さい波がたつ。
これは僕と彼女が時間に取り残されながらも、変わらない想いを抱いていることを確認するためのさみしい儀式だ。
「明日になれば会いに行けます。ゆっくりと体を休めましょう。私はその為にこの家に来たのですから。」
僕はただこう言って彼女をなだめることしかできない。この無骨な三本指では、涙を掬うことさえできないのだから。
ノワが言った事が僕らに起きたすべての事実だ。けれども、彼女の言う「昨日」とは決して昨日の出来事ではない。脳内出血を起こした彼女は、倒れたことで脳にさらに損傷を受けた。これらの手術と回復で既に幾日も過ぎ去っている。そして脳を損傷した彼女には思い記憶障害が残った。彼女は新しい記憶を築くことができなくなってしまった。すぐに記憶が消えてしまうことはないが、深い眠りについた後には何も覚えていない。朝を迎えるたびに、彼女の世界は全てリセットされる。だから、僕は彼女が世界に取り残されたまま身動きできなくなってしまわないように枕元にメモを用意した。病院にも協力して欲しいと、連絡を通してある。彼女が主治医だと思っていたのはただの電話口の対応者に過ぎない。どうしようもないことをしている自覚はある。
それでも、これが僕らの最良なのだ。