後編
ジルベールとクロエの奇妙な密会、あるいは逢瀬はそれからも続いた。
変わったのはジルベールが川へと赴く時刻が早まり、クロエの水浴びを最初から最後まで見守るようになったことくらいか。
相変わらずクロエはジルベールに頓着せずに裸足のまま船着場まで歩き、ぱさりと被り物を脱いではためらいなく川に浸かる。
騎士らしく、その間はジルベールはクロエに背を向ける形でいる。
クロエはしばらく思いのままに漂っては、満足すれば船着場に戻る。
ジルベールが差し出す手を取って、水から上がっては苦言を流して砦に戻った。
「っ頼むから、何かをまとってくれ」
ついにジルベールからお願いされてしまい、クロエは初めて自分の体に目をやった。
「裸で水に浸からないでくれ。あれほど慎みを持てと告げていたのに」
がしがしと乱暴にクロエの髪の毛を拭いたジルベールの耳は紅潮していた。どこまでも冷静に、クロエはジルベールの様子を観察する。被り物を肩にかけて、ふい、とジルベールから離れた。
翌日、ジルベールが船着場に着くと、クロエが被り物を置いたところだった。
女性へのたしなみとして背を向けていたが、目の端にひらひらしたものをとらえてジルベールが向き直ると、娘は袖なしの簡素な寝衣のようなものを身につけていた。
裾が風にゆれて、細い足首を際立たせる。髪の毛も揺れて――。ジルベールの鼓動が途端に早まる。
娘は着衣のまま水に浸かった。なにかの拍子に水中で裾がめくれて腿まであらわになり、ジルベールは慌てて目を逸らす羽目になった。
水から上がった後がまた拷問のようだった。水に濡れた服がぴったりと張り付き、体の線がなまめかしく浮き上がる。肌の色さえ透けて見える。
かえって目の毒だった。
ジルベールは内心血の涙を流すような心情で、濡れた服ごと娘を拭いた。
娘はジルベールのなすがままにじっとしている。
ただ服を身につけたほうが心臓に悪い、とは言えなかった。裸の娘は、それはもう心臓に悪いからだ。
この娘には慎みとか恥じらいはないらしい、と認めざるを得なかった。ならばできるのは、この娘の悪癖を他人には悟られぬように世話をすることだ、とジルベールは諦め混じりに考える。
「男が側に?」
砦の部屋では魔術師団長が手入れをしていた杖から、報告者へと鋭い視線を転じていた。
「はい、夜毎川で」
「何をしている」
「は……川で泳いでおります。男は――小隊長を務める騎士ですが、泳ぎ終わるのを待って水から引き上げて濡れた体を拭いております」
「それから?」
「それだけです。男を残して砦へと戻り、男も砦に入るのを見届けてから自分の寝床に戻ります」
どちらも巧妙に『誰が』とも『何が』とも言わない。あれは人であって人ではなく、物であって物ではない。
師団長は杖を手に考え込む。
今の報告だけでは特にどうと言うことはない。巡視の際に酔狂な『器』が危険でないように見ているだけ、と言えなくもない。
だが、最近は服を身につけてはいるがその前は被り物の下は裸だった。
ならばその騎士の前でも、あれは裸を晒していたに違いない。
師団長は己の中の魔力がねじれるように膨れ上がるのを感じる。感情のうねりに呼応するように、内包されている魔力も揺らいでいる。報告者には悟らせぬように魔力の発露をねじ伏せて、表面上は鷹揚に頷いた。
「分かった。これからも悟られぬように監視は続行せよ」
「承知いたしました」
報告者が消えた後で、ぎり、と杖を握り締める。
あれを、あの顔を、あの体を自分以外に見て、触れた――男がいる。
到底許せるものではなかった。
音を立てずにクロエの部屋の扉を開ける。寝台は小さく盛り上がり、緩やかに上下している。師団長はクロエの長い睫毛を、ほんの少し開いた唇を飽かず眺める。
これは自分の『器』、自分のもの。他の誰にも、決して渡さない。
「『器』を傷つけることはかなわぬゆえ、手を出すこともできないのが残念だ」
歪んだ執着を含んだ呪詛は低く、空気を震わせた。
そろそろ砦は守備を残して進軍の運びになるかとする夜、娘は川に浸かっていた。
ジルベールも船着場で待っている。
ちゃぷ、と水音を響かせて娘が船着場へと戻ってきた。ジルベールが両手を差し伸べて、娘の両脇に手を入れて抱きあげる。
ジルベールの腕は娘から伝う水で濡れるが、片手だけを握って引っ張り上げる方式から変わっていた。少しでも娘の近くに寄れるから。いじましい努力ではある。
いつものようにこのまま布で娘を拭こうとしたジルベールは、頬に触れられた指で動きを止める。つう、と上から下になぞる動きと、少しだけぴり、と引きつる痛み。
「ああ、これか。昼間の剣の稽古でかすったのだ」
動かないと体がなまる。反応が鈍くなる。いざ戦場でその鈍さは致命的になる。だからジルベールは部下にも声をかけて、率先して体を動かし、稽古と称した打ち合いなどもやらせている。
昼は新米の騎士に教えていたが、変に力が入っていたのか寸前で止めることができなかったのか、剣先が頬を掠めたのだった。
無論かすり傷で、どうということはない。治りかけが痒くなるくらいだ。
それよりも娘に触れられているほうが、体温を上げて鼓動を早めさせてしまう。
「別にどうということもない傷だ。放っておけば治る」
そう言って布で包もうとしたジルベールは硬直した。指が離れた後で、もっと熱くて柔らかいものが傷に触れたから。
「なに――をっ」
水に濡れたままの娘が身をすり寄せて頬の傷に唇を当てている。そして、舌で傷をなぞっていた。手はジルベールの胸と肩に置かれている。
頭が一瞬真っ白になり、ついで、ほとんど反射的にジルベールは娘を抱きしめていた。濡れるのを構わずに、ひんやりとした体を抱きしめる。冷たい肌の下から、娘の熱がじんわりと伝わってくる。
胸が締め付けられるような、泣きたくなるような。反対に踊りだしたくなるような、相反する衝動を抱えてジルベールは娘をきつく抱きしめた。間近の娘の瞳は黒く冴え冴えとしていて、何ともいえない表情の自分を映している。
濡れた髪を後ろにかき寄せて、娘の耳朶に口付けた。
「私は、あなたを愛しく思っている」
短く告げた内容に娘がほんの少しだけ目を見開いたのは、互いに頬を合わせていたためにジルベールは気付かなかった。
娘はジルベールを抱きしめ返すことも押やることもなくただ抱擁されるがままだったが、心持ちジルベールに頭をもたせて静かに瞼を伏せた。
しばらくして我に返ったジルベールが、慌てて娘と体を離して布で拭き始める。
娘の方は相変わらず無表情なのに比べて、ジルベールの方は耳も、鳶色の髪の毛の生え際までも赤くしていた。
照れ隠しかやや乱暴に拭ったジルベールは、砦の回廊まで娘の横を歩いた。
「お休み」
声をかけても、いらえはなかった。
ジルベールはその場に佇んで娘が完全に立ち去るのを見送った。
部屋に戻って初めてクロエは、水分を飛ばしていなかったことに気付く。幾分かのろのろと頭を振って、それでもきれいに乾いたのを見澄まして寝台に横たわる。
横向きに丸くなるかわりに、仰向けで天井を眺めた。
さっきのあれは――何? あの騎士からひどく暑苦しい熱が伝わってきた。自分を拘束したが、何の意味があったのだろう。
クロエには考えても分からないことだった。いつもなら、ここで思考するのを止める。
それなのに意味の分からない行為と言葉が、恐ろしく真剣な、それでいて切羽詰ったような騎士からだと思えば妙に気にかかる。
「どうした、『器』よ」
考えを中断したのは師団長だった。
ぎしり、と寝台のクロエが横たわっている側に腰を下ろす。その手がまっすぐにクロエの顔を包んだ。
「お楽しみだったようだな」
お楽しみ、の意味が理解できないクロエは反応をかえさない。
師団長はかがみこんで、クロエを間近で見下ろす。知識も感情も余計なものは与えずに育てた、いや作り上げた『器』を。
自身がどれほど美しいかも知らず、男の目にどう映るかなど考えたことすらないだろう。親子はおろか、仲間や恋人などの概念も知らずに、知らせずにここまできた。
だから羞恥もあるはずもない。
夜の水浴びなどという気まぐれを、黙認していたことに師団長は苛立った。
『器』を害することはできないからと安心していればなんのことはない、見事に引っかかった男が現れた。この最上の『器』を、ただの娘として惹かれた男が。
自分ですら手を出せないものを、他の男にもって行かせるわけもない。
さて、どうすれば効果的に追い払えるだろうか。
師団長は仄暗い笑みを浮かべて、クロエの胸元へと顔を寄せた。
翌日は自分でも落ち着きのないのを重々承知しながら、ジルベールは船着き場へと向かった。あの娘は何か反応を返してくれるだろうか。今日こそ名前を教えてくれるだろうか。
そわそわと静止できないジルベールの前に、いつもの足取りで娘が現れた。ぱさりと被り物を脱ぎおいて、川へと身を沈める。
見事にいつも通りだ。
内心うなだれそうになりながら、それでもジルベールは水と戯れる娘を好ましく見守る。気が済んだのか、娘が戻ってきた。
抱き上げようと手を伸ばし、ジルベールの動きが止まった。
濡れて張り付いた服で隠れない胸元で、白い肌に紅く刻まれたものが目を射る。更によくよく注視すれば、細い指には昨日までなかった指輪もあった。
夜目にも精緻な細工は、娘への送り主の愛情と気遣いを感じさせる。
ジルベールは瞑目した。それでも娘を抱き上げて、そっと布で包む。
壊れ物を扱うように丁寧に拭いていく。娘の被り物を肩にかけて、手を離した。
「あなたには約束を交わした相手がいたのだな。私の戯言は聞き流してくれ。……そして、他の男の前で慎みのない態度を取るな。
あなたの想い人が気の毒だ。――私がここに来るのも今宵限りにしよう」
行きなさい、とジルベールは娘を促した。
立ち上がった娘がジルベールを見つめても、ジルベールはこわばった顔を川面に向けたままだった。
翌日クロエが川に赴いても、ジルベールは来なかった。
それきりジルベールはクロエの前から消えた。
水に身を委ねながらクロエはじっと星を眺める。ひとしきり浸かった後で船着き場に戻る。以前と同じように、自力で船着き場の板の上に上がる。
ひどく、体が重いように感じられた。砦へと戻る足取りも。
砦には守備を残して進軍の運びになった。師団長の側でクロエは馬に揺られる。深くかぶった被り物の頭をめぐらせて、どこかにいるはずのジルベールを探した。前の方にでもいるのか、そもそも甲冑と鎧で身を包んでしまえば誰が誰やら区別もつかない。
視線はむなしく軍勢の上をさまよい、また伏せられる。
クロエは生まれて初めて、心を波立たせた。
敵方も砦を失い、ここで食い止めなければ都までは障害物がない。最後の戦いと定めて全力でぶつかるだろうと思われた。広い平原に両軍が対峙する。前衛には隙なく弓兵、槍兵に加えて騎馬が一団をなしている。
こちらの士気は高い。魔力弾を搭載した投石器が、数多く引き据えられていた。砦で作られここまで引かれてきている。
ここを破れば勝利は目前なのだ。戦闘前の高揚が平原の空気を歪めていく。
両軍の魔術師の攻撃と防御が中空で激突する。ひときわ大きく鋭い攻撃が、師団長から放たれた。その澱をクロエは身に蓄える。
師団長の思念の残滓も澱には混じりこんでいた。
――ひときわ大きな魔術思念。高位の魔術師の位置はあちらか。
――防御、左翼が弱い。
――あいつ、は、どこだ。
ジルベールは愛馬の手綱を左手に、右手に剣を手に今しも突撃しようとする隊を後ろからまとめていた。双方の魔術師の魔力の応酬があり、びりびりと空気が震える。それが途絶えれば武器と馬と己の足で戦う自分たちの番だ。
つい、派手に攻撃をしている後方の魔術師団を振り返り、そこに小さな姿を探そうとしてしまう。
己の未練がましさに自嘲がもれる。あれだけあからさまに、娘には相手がいると知らされたのに。身を引いたはずなのに。
馬のいななきに我に返って、なだめるように愛馬の首をたたく。
今しも騎馬が敵陣になだれこもうとしている。ジルベールも剣をもう一度強く握り、後に続こうとした。
そして、背後から衝撃を感じた。
自分の甲冑の胸に小さな穴が穿たれている。矢は――刺さっていない。
どくん、と一つ大きな鼓動の後、急激に呼吸が苦しくなる。
口の中に鉄臭さが広がった。
クロエは今しがた身に受けた師団長の澱と思念に立ちすくんだ。
黒い淀みをまといつかせ、師団長は歪んだ満足感を有していた。師団長が目を凝らしている方向にぼんやりと視線を転じたクロエは、見つけた。
その身を師団長の魔力に貫かれ、馬上で体勢を崩し今にも落ちそうな騎士を。
――身の程知らずが。
――誰にも渡さぬ。未来永劫私のものだ。
――邪魔者は……。あとは戦場の死体の山に紛れ込ませれば。
師団長は後ろからの低い声に高揚した気分に冷水を浴びせられた。
「なに、を、した。後ろから――後ろから」
無理に言葉をのせたような、たどたどしい、ひび割れたような語調は、ただしく『器』から発せられていた。
周囲の空気が歪む。膨れ上がり、爆発する魔力に込められた憤怒は師団長を圧倒した。澱を蓄積し続けても影響を受けない魔力容量。意図的に魔術を教えずにいたのに、魔術師の側にいたせいか内部で紡がれている魔術式は正確無比だった。それを無詠唱で発動させている。
師団長は白熱する気に囲まれ、己の魔力が蒸散するのをなすすべなく見ているしかなかった。
最後に映ったのは、誰より近くに置いていたのに最も遠い『器』の姿。
まっすぐに糾弾する瞳も美しいと思い、伸ばした手は灼熱に包まれた。
ジルベールは土の上に落ちた。甲冑を着込んでいれば通常でもすぐに立ち上がるのは一苦労だ。それが致命的な一撃を負った身ではなおさらだ。馬は怯えて走り去り、ジルベールは少しでも周囲の状況を確認しようと必死に頭を上げる。
功名にはやる敵にこの首は取られてしまうだろう。身元を示す紋章は剥ぎ取られてしまうだろう。
妻子がいないのが幸いか。戦功を上げずに命が潰えるのだけは惜しかった。
いや。あの娘に会えないまま、あの夜を最後に別れてしまうのが惜しかった。
「名を、聞いておくべきだったな」
もはや言葉にならないのを、唇だけどうにか動かしてジルベールは力の入らない四肢を投げ出した。
瞼が勝手に閉じようとする。娘の面影を鮮明にしようとあがくジルベールは、誰かの声を聞いたような気がした。
「――ベール、ジルベール」
声のする方向へ顔を向けようとしても、鎧が邪魔をする。誰かが自分を抱き起こそうとして、うまくいかないようだ。
鎧だけが上げられて、ジルベールはあれほど会いたかった面影を見出す。
いつもの無表情とはうってかわって、泣きそうな顔で手を伸ばしてくる。
泣くな。笑顔でいてくれ。口を開こうとして、ごぼり、と血がせりあがってきた。
いよいよか。だが、最後に惚れた女に見送られるのなら悪くはないかもしれない。
「ジルベール」
こんな声をしていたのか。こんな表情もできるのか。
目がかすみそうなジルベールは、娘が胸の穴に顔を寄せたのまでは記憶にあったが、全身がふわりとした熱に包まれそれきり何も分からなくなった。
次に気付けばジルベールは王宮にいた。秘密裏に移送されたのだと聞かされて、訳が分からないまま最高の待遇を受ける。
心臓の位置とその背中側に小さな穴の痕が残されていた。通常なら生きていられるはずはない。寝台に上体を起こしたジルベールに、一人の魔術師が密かに面会したのは、深夜のことだった。
しばらく眠っていたらしくやや足取りはふらつくが、筋力はそこまで落ちていない。魔術師の案内で王宮の魔術師団の建物の地下へと導かれる。
飛び込んできたのは異様な光景だった。
何人もの魔術師が、汗をかきながら必死で術を紡いでいる。その中心からひゅ、と空気が渦巻きながら風を起こそうとしていた。
中心には座り込んで宙を見つめる――。ジルベールは目を見張った。
「あれは、彼女は一体?」
「あれは魔術の澱を身に受ける『器』です。先日の戦の最中に魔術師団長の魔力を消し去り、今も周囲へ魔力を放出し続けています」
ジルベールをここに連れてきた魔術師が、苦渋に満ちた声で説明する。
戦自体は自軍の勝利で終わったが、師団長の魔力容量は空になり本人は抜け殻のようになっている。傍らの『器』は一時その場から消えたと思えば、騎士の上に重なるように倒れていた。
連れ帰り意識を取り戻したはずの『器』が暴走を続けている。これを抑えるのに王都魔術団の魔術師が複数かかってやっとだと。
「しかも我々は長くは持ちません。制御しきれなければここから崩壊が始まるでしょう。そうなれば王宮は……」
「待ってください。なぜ、そのような話を私にするのですか」
「あれが、『ジルベール』を呼び続けているからです」
ジルベールは絶句し、魔術師は頷いた。
「あれがかばい、死から引きずりよせた、ジルベール。貴殿のことでしょう。なればこの場を収められるのは貴殿以外にはありえない」
放っておけば魔術師団ごと王宮が潰えるか、『器』の体が駄目になる。
そうなる前にとジルベールが呼び寄せられたのだと。
ジルベールはふらつく足を叱咤して、前へと踏み出た。圧縮された空気が服をたなびかせる。このまま進めば、肌が切り裂かれそうな気さえする。それでも視線はひたすらに娘に注がれ、一歩ごとに娘を求めた。
側によっても娘の注意は向けられなかった。うつろな表情で、ただ小さく自分の名を呼んでいる。
ジルベールはかがみこんで、そっと娘を両腕で包み込んだ。
「私は、ここだ。生きている」
耳元で囁いて、抱きしめた。
地下の空気の流れが止まる。後ろで、魔術師ががくりと膝を折った気配を感じた。
ジルベールはそろり、と自分の背中に震える手が当てられたのを知る。
「ジル、ベール?」
「そうだ、あなたにどうやら命を救われたらしい」
「ジルベール」
「うん。ジルベールだ。あなたの名を知りたい。教えてはくれぬか?」
「ジルベール」
娘はひたすらにジルベールの名前を繰り返し、消えてしまうのを恐れるように全力ですがりついた。
ジルベールは娘を抱きしめ続けて、つむじに唇を落とした。
数日後、一頭の馬に二人の人影があった。
「私の新しい領地へ。噂では美しいところらしい。きっと気に入るはずだ」
「ジルベール」
「一緒にだ」
声を聞いて会話ができるだけでよかったのに。ジルベールは娘を手に入れた。
身を貫いたものが師団長の魔力と断定され、その事実を公表されないために。ジルベールから離れようとしない『器』の世話のために。
『器』はもう澱を受け入れず、急速に自我を芽生えさせていた。制御ができずに魔術師団は、『器』の保持と管理を諦めた。
騎士もろともの口封じを狙った師団に属する魔術師は、その瞬間に身から魔力を抜き去られてしまう。
――師団長のように。稀代の魔術師にも戦場の英雄にもなれずに、師団長の身柄は師団の地下に朽ち果てるまで留め置かれる。
ジルベールは自身と娘の身を守るために取引を持ちかけた。
結果、辺境に領地を賜り格別の配慮をもって決められた日数の兵役を免除され、代わりに他言無用を約束して二人は王都を旅立つ。
「ジルベール」
「領地に落ち着いたら沢山話をしよう。あなたの知っていることも教えて欲しい」
クロエはジルベールの懐で、顔を上向けてややぎこちないながらも笑みを見せた。
ジルベールは大切に外套で娘を包み込むと、馬の腹に合図を送る。
しばらく後、辺境の騎士が妻を娶る。
笑顔と豊かな表情を持つその妻は、とりわけ優れた治癒の魔術で辺境の魔術師として高名を馳せた。
どんなに請われても王都には足を向けず、辺境で生涯を終えたという。
「――クロエ」
夫の声に振り向き微笑むクロエの指には、騎士から贈られた指輪が慎ましやかにはまっている。
クロエは最上の贈り物として、指輪と夫と夫のもたらしてくれた家族を慈しんだ。
家族への愛情でいっぱいで、もう魔力の澱を受け入れるような余地はないのだと、どれほど強力な魔術を行使しようとも澱を生じなかった稀代の魔術師の逸話は、今も伝説として語り継がれている。