留めたままで
五月も終わりに近づくと、朝の空気はもう春のものではなくなる。カーテンの隙間から差しこむ光が、六時半だというのにやけに白くて強い。
「……暑っ」
タオルケットを蹴りのけて、七海は天井に向かってつぶやいた。スマホの天気予報を開くと、今日の最高気温は28度。「夏日」の三文字に、思わず顔をしかめる。
顔を洗い、髪をとかし、前髪の形を指先で確かめる。ここまではいい。毎朝ここまでは、けっこう楽しい。問題はこの先だ。
部屋に戻ると、クローゼットの扉にかけたハンガーが目に入った。白いカッターシャツ、灰色のチェックのスカート、黒いブレザー、そして紺の棒タイ。
今日もこれを着なきゃいけないのか。そう思っただけで、七海の口から小さなため息がこぼれた。
*
カッターシャツに袖を通す。ハンガーから外したばかりの綿の生地はひんやりしていて、それだけは少し気持ちいい。けれど、その気持ちよさが長くは続かないことを、七海はよく知っている。
ボタンは下から留めていく。一つ、二つ、三つ。四つ、五つ。指が鎖骨のあたりまで上がってきたところで、手が自然とゆっくりになる。
残りは一つ。いちばん上の、第一ボタン。
鏡の前に立つ。開いた襟の隙間から首筋がのぞいていて、これならまだ普通の白シャツだ。ここで止めておけば、ちょっと大人っぽく見えなくもない。
──このままじゃ、だめかなあ。
だめに決まっている。校則にははっきり書いてある。「カッターシャツの第一ボタンは季節を問わず必ず留めること」。しかもうちの学校は、襟のサイズまで首にぴったり合わせることになっている。入学前の採寸で首回りを測られ、隙間が空いていれば交換。少し大きめのサイズをこっそり買った先輩が、生活指導の先生に襟をつままれて「買い直しなさい」と言われたという話は、一年生のあいだでちょっとした伝説になっていた。
つまり、ごまかしようがない。
七海は両手で左右の襟を引き寄せた。襟の端と端が、喉の真ん中で出会う。ボタンホールにボタンを押しこもうとするけれど、布がぎりぎりで、なかなか入らない。顎を少し上げ、喉をのばして、指先に力をこめる。
ぷつ、と小さな音。
その瞬間、首のまわりを白い輪っかでぐるりと締めつけられたような感覚が走った。喉のあたりに硬い布が当たり、唾を飲みこむたびに、そこがかすかに押し返してくる。息ができないわけじゃない。でも、首が「ここから先は動くな」と言われているみたいで、なんとも落ち着かない。
「くるしー……」
声に出すと、その声まで少しこもって聞こえた。
鏡を見る。そこには、首までぴっちりと白い布に覆われた自分がいた。襟は、いかにも「学生服です」という形の、硬くて四角い折り襟。ぱりっと立っているぶん、首がよけいに短く、詰まって見える。かわいいブラウスの襟とは全然ちがう。お父さんが会社に着ていくワイシャツを、そのまま小さくしたみたいだ。
「なんでこれなの……ほんとダサい」
思わず本音がこぼれる。せめて第一ボタンを開けられたら、と思う。首元がほんの少し開いているだけで、シャツは見違えるほど軽やかになるのに。雑誌のモデルだって、街を歩く大学生だって、白シャツのいちばん上まで留めている人なんてほとんどいない。
次は袖口だ。手首のボタンも留めなくてはならない。これも校則。腕まくりは禁止。暑い日に袖をくしゅっとまくって手首を見せるのが、七海はいちばんかっこいいと思っているのに、それすら許されない。左の袖、右の袖。小さなボタンを留め終えると、手首まできっちりと布に包まれた。
体の出口という出口に、ぜんぶ栓をされた気分だった。
*
続いてスカート。灰色のチェックは、正直、柄そのものは嫌いじゃない。問題は履き方だ。
スカートを腰のあたりまで引き上げたところで、七海はいったん手を止めた。ここで止めて、ウエストを一、二回折れば、丈はちょうど膝上になる。脚もすっきり見える。きっとそのほうがずっとかわいい。
でも、うちの学校ではそれもだめ。スカートはウエストの位置まできちんと上げて、シャツの裾をその中に入れること。
七海はしぶしぶスカートをさらに引き上げ、ウエストの位置でホックを留めた。シャツの裾を、前、横、後ろと順番に押しこんでいく。お腹のあたりで布がもたついて、なんだかもこもこする。鏡に映すと、スカートの裾は膝をすっかり隠し、腰の位置が妙に高く見えた。
「……小学生の発表会みたい」
自分で言って、自分で少し笑ってしまった。笑うしかない。
*
最後に、棒タイ。
紺色の細い布を手に取り、襟の下にくぐらせる。すでにきつい襟の下に、さらにもう一本、布を通さなければならない。襟を指で少し持ち上げ、そのわずかな隙間にタイを押しこむ。首の後ろで、布と布がこすれる感触がした。
前で交差させ、結び目を作って、きゅっと上へ引き上げる。
その瞬間、さっきまでの苦しさに、もう一段階が重なった。結び目がちょうど第一ボタンの真上に乗って、喉をやわらかく、けれど確実に押さえつける。首を少し横に向けるだけで、襟の端が首筋に食いこむ。
「う……」
思わず結び目に指をかけて、少しだけ緩めたくなった。けれど、緩めればタイが下がって、第一ボタンがのぞいてしまう。そうなれば、校門で先生に呼び止められるのは目に見えている。
七海は指を離し、結び目の形だけを整えた。左右がまっすぐになるように、何度か小さく引っぱる。そのたびに、首がほんの少しずつ締まった。
白いハイソックスを履いて、もう一度鏡の前に立つ。
首まで留めたボタン。硬い襟。その上にきっちり乗った紺の棒タイ。手首まで閉じた袖。ウエストの高い、長いスカート。
「……うん。ダサい」
はっきりと言った。嫌なものは嫌だ。それをごまかすつもりはない。
でも、と七海は思う。ダサいことと、守らないことは別の話だ。決まりは決まり。文句を言いたいなら、ちゃんと守ったうえで言えばいい。
ブレザーを手に取りかけて、やめた。今日は28度だ。ブレザーを着ないことは校則でも認められている。それくらいは、ありがたく使わせてもらおう。
*
家を出ると、朝の日差しがもう肌にじりじりと熱かった。歩きはじめて五分もしないうちに、首のまわりがじっとりと湿ってくる。襟の内側に汗がたまって、硬い布がさらに肌に貼りつく。
交差点で信号を待っていると、同じ学校の男子が二人、学ランの前を全部開けたまま歩いてきた。中は黒いTシャツ。足もとは白いくるぶしソックス。ひとりは学ランを脱いで肩に引っかけ、もうひとりは首元をぱたぱたとあおいでいる。
──いいなあ。
心の底からそう思った。男子は第一ボタンを開けてもいい。学ランの中は何を着てもいい。靴下だってくるぶし丈でいい。同じ学校の、同じ朝なのに、首のまわりの自由がこんなにもちがう。
でも、それはあの二人のせいじゃない。七海は男子たちに向けかけた視線を、すっと前に戻した。
「七海、おはよー!」
後ろから、友達の結衣が駆けてきた。結衣もやっぱり、首元までボタンを留めて、きっちり棒タイを締めている。
「おはよ。暑いね」
「ほんと暑い。もう首が死んでる」
「わかる。私も今、ずっと苦しい」
二人で顔を見合わせて、同時に笑った。
校門の前では、生活指導の先生が今日も立っていた。七海は背すじをのばし、襟と棒タイの位置を指先で最後にもう一度確かめる。先生の視線が一瞬だけ首元に止まり、何も言わずに通りすぎていった。
門をくぐってから、七海はそっと襟の内側に人差し指を差しこんだ。少しだけ風が入って、ほんの一瞬、首が自由になる。
それから指を抜いて、何事もなかったように歩きだした。
第一ボタンは、留めたままで。




