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救済の糸を握るのは  作者: 翠川琉亜
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雨降る夜

雨降る夜

 雨の匂いが、街のアスファルトからゆっくりと立ちのぼり、胸の奥に重く沈んだ膜のようにまとわりついていた。昇降口を出た瞬間、細い雨粒が頬に触れ、それだけで今日という一日が、背中に積み重なっていた重さを一斉に落としてきたように感じた。湿った風が衣服に絡み、遠くの電車の音は、雨粒に濁されて輪郭を失っている。 

こういう日は、世界がぼくを置いて先に行ってしまうように思える。

 雑踏も車列も、ぼくだけが知らない言語でざわつき、勝手にどこかへ流れ去っていく。

 傘を差す気にもならず、駅までの道を歩いた。雨が強まる前に帰りつきたかった。マンションに帰れば、きっと遥が待っている。その事実は、ぼくの足を自然と速めるくせに、胸の奥では逆向きの感情がぎしりときしんでいた。

(今日は、帰りたくない)

 胸に走った痛みをごまかすように、歩幅をひとつ分だけ大きくする。

 雨脚は弱いのに、心の中だけがざらついていた。

 駅前の屋根付きの通路で立ち止まり、髪先から落ちる雫を指で払う。

「この調子じゃ、もっと酷くなりそう」

「えぇ……。雷だけはやめて欲しいよ……」

「ほんと、雷苦手よね」

 そんな会話を交わしながら、女子大生らしい二人が目の前を通り過ぎていく。

 ――雷。

 その一語が、胸の内側を重く沈ませた。遥の顔が浮かび、嫌な予感が肌の裏側をゆっくり撫でた。


 家に着くと、玄関灯だけが点いていて、奥の部屋に気配はなかった。靴を脱ぎ、リビングに入ると、窓際に小さく身を縮める人影が見えた。

「……律? そこにいるの?」

 遥だった。制服のまま、窓に落ちる雨粒を追いかけるように視線を彷徨わせている。肩が細く震え、ガラスを叩く雨音のひとつひとつに怯えているようにすら見えた。

「ごめん。遅くなって」

 声をかけると、遥はゆっくりとぼくの方へ顔を向けた。ぼくと同じ形をしているのに、幼い頃よりもずっと深く沈んだ光を宿した目だった。

 ソファの背にかけてあったガウンを手に取り、そっと肩に掛ける。

「……糸の音がした」

「また言ってるのか」

「ほんとうなんだよ。張って、きしんで……切れそうな音。ぼくのじゃない。律のでもない。二人を繋いでる糸の音。雨の日は、とくに大きく聞こえる」

 ぼくは、否定の言葉を飲み込んだ。

 祖母が昔語った“魂を結ぶ細い糸”の話。そんな話を気にかけ続けているのは遥だけのはずなのに、今のその怯えきった表情を見ると、胸の奥にざわめきが走った。

「そんな糸、簡単に切れたりしないよ」

「……ちがう。わかるんだ。律が、遠くへ行きたがってる音。ぼくを置いて」

 雷が近くで落ち、窓ガラスが小さく震えた。

 その瞬間、遥の細い指がぼくの袖を強く掴む。沈んでいく何かにしがみつくみたいに。

「ねえ、離れないで。……どこにも行かないでほしい」

 その声は、頼りない祈りのように震えていた。

 ぼくは睫毛を伏せ、言葉を探した。けれど何を言っても傷つける気がして、声が喉の奥で固まり、うまく形にならなかった。

 外では雨脚がさらに強くなり、街のざわめきだけが遠ざかっていく。

 この部屋だけが世界から切り離されたような静けさが、逆に息苦しい。

 ぼくはそっと遥の手を握り返した。

 どちらの手が震えていたのか──そのときはもう分からなかった。

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