第二章 三十五話 選ばれなかった可能性
白い空間に、音はなかった。
だが、湊の胸の内は、
激しい騒音に満ちていた。
遥の姿が消えてから、
まだ数分も経っていない。
それでも、
彼女の声だけが、
耳の奥に残り続けている。
「……迎えに来たよ」
思い出すたび、
胸の奥が、鈍く痛んだ。
「湊」
ユイナが、静かに声をかける。
「……大丈夫ですか」
湊は、ゆっくりと息を吐いた。
「正直……
大丈夫じゃない」
それを隠そうとはしなかった。
「でも……
戻りたいとも、思わなかった」
その言葉に、
ユイナは何も言わず、ただ頷いた。
リィナが腕を組む。
「それが答えよ」
「答え……?」
「後悔がないって意味じゃない」
リィナは真っ直ぐ湊を見る。
「それでも前に進むって、
決めたってこと」
その瞬間。
白い空間が、
再び軋み始めた。
《第二段階 試験開始》
観測者の声が、
今までより、わずかに近い。
《評価項目
選ばれなかった可能性の観測》
「……嫌な予感しかしないな」
リィナが小さく呟いた。
ユイナは、
周囲を警戒しながら言う。
「これは……
“もしも”の世界です」
「もしも?」
「はい。
あなたが選ばなかった道。
選ばなかった未来」
湊は、嫌な汗が背中を伝うのを感じた。
次の瞬間、
空間が裏返る。
視界が、
一気に色づいた。
⸻
そこは、
見慣れた村だった。
最初に訪れた、
祈祷塔のあった村。
だが――
様子が、おかしい。
家々は、
綺麗なままだ。
崩壊の跡も、
戦った痕跡もない。
人々は、
穏やかな表情で歩いている。
「……被害が、ない?」
リィナが眉をひそめる。
「いや……」
ユイナの声が、硬い。
「これは……
“介入された世界”です」
広場の中央。
かつて崩れていた祈祷塔が、
完全な形で立っていた。
淡い光を放ち、
村全体を包み込んでいる。
「……結界」
湊の胸が、ざわつく。
塔の前に、
一人の少女が立っていた。
白い装束。
祈りの姿勢。
「……ユイナ?」
湊は、思わず呼んだ。
だが、
その少女が振り返った瞬間、
違和感が走る。
目が、空っぽだった。
感情がない。
ただ、
“役割”だけが存在している。
「……あれは」
ユイナは、目を伏せた。
「私が……
“消えなかった場合”です」
《巫子が存続した世界》
観測者の声が、
淡々と響く。
《犠牲は継続
循環は安定
崩壊確率、低下》
村人たちが、
巫子ユイナに向かって、
深く頭を下げている。
感謝。
信仰。
依存。
その光景は、
あまりにも“平和”だった。
「……悪くない世界じゃない」
リィナが、苦々しく言う。
「誰も死んでない。
誰も、苦しんでない」
湊は、
巫子ユイナを見つめる。
彼女は、
祈り続けている。
休むことなく。
終わることなく。
「……でも」
湊の声は、低かった。
「彼女は……
生きてない」
その言葉に、
ユイナが、はっと顔を上げる。
巫子ユイナは、
人形のように、
同じ動作を繰り返している。
《世界は安定している》
観測者が告げる。
《感情の犠牲は
統計上、問題ではない》
リィナが、
剣を握りしめた。
「……あたし、無理」
「リィナ?」
「あの世界、
正しいかもしれないけど……
好きじゃない」
ユイナは、
静かに言った。
「これは……
“選ばれなかった未来”です」
「もし、私が……
消えなかったら」
「もし、湊が……
介入しなかったら」
湊は、
巫子ユイナの前に立った。
彼女は、
湊を見ない。
見えていない。
「……ごめん」
誰に向けた言葉か、
自分でも分からなかった。
その瞬間。
巫子ユイナの体に、
小さな亀裂が走る。
《干渉は想定外》
観測者の声が、
わずかに乱れる。
亀裂は、
光となって広がる。
祈祷塔が、
揺れ始める。
「……世界が」
ユイナが息を呑む。
「これは……
“安定しているように見えるだけ”」
「内部から、
限界を迎えている」
巫子ユイナが、
初めて口を開いた。
「……たすけて」
その声は、
かすれていた。
感情のないはずの声。
だが、
確かに、
苦しみがあった。
湊は、
拳を握りしめる。
「……やっぱり、
間違ってた」
《選択を修正せよ》
観測者が、
圧を強める。
《この世界を選べ》
「選ばない」
湊は、はっきりと言った。
「こんな世界、
正しくても……
救いじゃない」
リィナが、
隣に並ぶ。
「同感」
ユイナは、
強く頷いた。
「私は……
“生きる”世界を選びます」
次の瞬間。
世界が、
崩壊した。
祈祷塔が砕け、
光が霧散する。
村も、人も、
すべてが白へと還っていく。
《第二段階 結果
想定乖離、拡大》
観測者の声は、
初めて、
“苛立ち”を含んでいた。
《第三段階へ移行》
白い空間に、
再び戻される。
湊は、
大きく息を吐いた。
「……選ばなかった未来ってのは、
案外……残酷だな」
リィナが、
肩をすくめる。
「だからこそ、
選ぶ意味があるんでしょ」
ユイナは、
静かに微笑んだ。
「……ありがとうございます」
「何が?」
「私を……
“役割”に戻さなかったこと」
その言葉に、
湊は、少しだけ笑った。
だが、
空間の奥で、
さらに巨大な“扉”が開き始めている。
《第三段階
相互選択試験》
観測者の宣告。
それは――
三人の関係そのものを、
試す段階だった。




