第二章 三十二話 神なき世界の試練
夜は、思ったより早く訪れた。
太陽が山の向こうへ沈むと同時に、
村の空気が一気に冷え込む。
焚き火の数は少ない。
祈祷塔があった頃は、夜になると自動的に淡い光が村を包んでいたが、
今はその代わりになるものがない。
闇は、等しく降りてくる。
「……静かすぎる」
リィナが小さく呟いた。
彼女は村の外れ、見張り台の代わりに組んだ仮設の高台に立っている。
剣は腰、視線は森へ。
「嵐の前、って感じね」
湊も同じ方向を見ていた。
風が止まり、虫の声も消えている。
自然が息を潜めている時特有の、不気味な静寂。
「魔獣は……夜に動きやすい」
ユイナが焚き火のそばで言った。
彼女は地面に簡単な配置図を書き、
村人たちに最終確認をしている。
「森側から来る可能性が高いです。
音がしたら、必ず二人以上で確認してください。
一人で動かないこと」
村人たちは頷いているが、
表情には不安が色濃く残っていた。
「……本当に、俺たちだけで守れるのか」
誰かが呟いたその言葉は、
多くの人の本音だった。
ユイナはそれを否定しなかった。
「怖いのは、当然です。
でも……祈りがあった頃も、
恐怖が消えていたわけではありません」
彼女は一人ひとりを見回す。
「違いは……
“誰かが何とかしてくれる”と、
思い込めていたかどうかです」
沈黙。
ユイナは続ける。
「今は、その思い込みがありません。
だから……選べます」
「選ぶ……?」
「逃げるか、立ち向かうか。
助け合うか、見捨てるか」
その言葉は、残酷なほど正直だった。
⸻
最初の異変は、
焚き火が一斉に揺れたことで気づいた。
「……来る!」
湊が叫ぶ。
森の奥から、
低く濁った唸り声が重なって聞こえてくる。
数は一つじゃない。
「複数……!」
リィナが剣を抜く。
月明かりの下、
黒い影が木々の間を縫うように動いていた。
「……魔獣だ」
狼に似ているが、
体格は倍以上。
目は赤く、理性の光がない。
「くっ……結界がないと、
ここまで近づくのが早い……!」
ユイナが歯を食いしばる。
「前線、準備!」
リィナの声が飛ぶ。
村人たちは、震える手で槍や弓を構えた。
訓練はほんの数時間。
実戦には、あまりにも心許ない。
最初の一体が、
咆哮と共に飛び出してきた。
「来たぞ!!」
湊は迷わず前に出る。
剣を振るい、
魔獣の牙を受け止める。
衝撃が腕に走る。
「……重い!」
リィナが横から斬り込み、
魔獣を押し返す。
「湊、後ろ!」
二体目が跳躍する。
湊は地面を蹴り、
体勢を低くしてかわす。
その瞬間――
村人の一人が、恐怖で足をすくませた。
「う、動け……!」
魔獣が、その隙を逃さない。
一直線に、村人へ。
「危ない!!」
湊が叫ぶが、距離がある。
その時――
一本の矢が、魔獣の肩に突き刺さった。
「……っ!」
魔獣がよろめく。
矢を放ったのは、
さきほどまで震えていた若い男だった。
「……逃げるな!!
来るなら……来い!!」
声は震えている。
だが、目は逸らしていない。
その一瞬の“選択”が、
流れを変えた。
「今です!」
ユイナが叫ぶ。
「囲んでください!
一体ずつ、確実に!」
村人たちが動く。
恐怖は消えていない。
だが、誰も一人では動いていなかった。
湊は剣を振るいながら、
その光景を目に焼き付ける。
(これが……祈りのない戦い)
誰も守られていない。
だからこそ、互いに守ろうとしている。
最後の魔獣が倒れた時、
夜は、深く静まり返っていた。
⸻
焚き火の前。
負傷者はいるが、
命を落とした者はいなかった。
「……生きてる」
誰かが、ぽつりと呟いた。
その言葉に、
じわじわと実感が広がっていく。
「俺たち……守れたのか」
リィナは剣を収め、
大きく息を吐いた。
「上出来よ。
初戦にしてはね」
ユイナは、座り込んだ村人に水を渡しながら言った。
「誰も……犠牲になりませんでした」
その言葉は、
この世界にとって、あまりにも新しかった。
湊は夜空を見上げる。
雲の奥。
確かに、あの“視線”を感じる。
「……見てただろ」
答えはない。
だが、
何かが“記録された”感覚があった。
ユイナが隣に立つ。
「観測者は……
今の出来事を“想定外”として認識したはずです」
「つまり?」
「試練は……
これから、もっと苛烈になります」
リィナが苦笑する。
「歓迎されてないわけね」
湊は拳を握りしめた。
「それでも……進むしかない」
ユイナは、はっきりと頷いた。
「はい。
神なき世界は……
人を試します」
夜明けは、まだ遠い。
だが確かに、
この村で――
“新しい世界”は、最初の一歩を踏み出した。
空の奥で、
観測者が次の手を選び始めたことを、
三人は、まだ知らない。




