第一章 二十六話 交差する心、裂ける世界
地面に広がる光の残滓が揺れ、
白い衣をまとう遥の姿だけが、世界から浮き上がって見えた。
湊は息を整えようとするが、
胸の奥がひどく痛んで、呼吸が浅くなる。
遥が手を伸ばしたまま、静かに微笑む。
「さあ、湊くん……帰ろう?」
その柔らかい声は、
かつて何度も聞いてきた“日常”の響きと同じだった。
放課後の廊下で。
夕焼けの帰り道で。
誕生日に渡した、小さなハンドタオルを握りしめながら笑ってくれた時も。
——そのすべてが蘇る。
しかし、世界は今も崩れかけている。
リィナは震える拳を握りしめ、
ユイナは胸の中心を押さえ、必死に動揺を隠そうとしていた。
誰もが、ひとつの答えを恐れていた。
湊が“元の世界に帰る”という選択。
遥はそれを当然のように願い、
湊の目の前に差し出している。
その残酷さに、誰も声が出せなかった。
⸻
最初に沈黙を破ったのは……リィナだった。
「……帰る? 本気で言ってるの?」
遥の方へにじり寄り、睨みつける。
「湊は、この世界で……どれだけ戦ってきたと思ってる?
どれだけ傷ついて、迷って……あんたのこと思い出したのも、きっと辛かったはずなのに……」
その声は怒りで掠れていたが、
どこか泣きそうでもあった。
「湊は……“今”、ここに生きてるんだよ。
この世界で、私たちと」
遥は静かにリィナを見つめる。
敵意を返さず、ただ淡々と。
「わかってるよ。
リィナさん。
あなたが湊くんを大切に思ってくれていることも」
「なら……!」
「でも、私は湊くんの“過去そのもの”なんだよ」
リィナの表情が強ばる。
遥は湊の方へ向き直った。
「湊くん。
あなたはこの世界でどれだけ頑張っても、結局“異物”。
天環はあなたを排除しようとしている。
だから私は迎えに来たの。
あなたを守るため」
湊の胸が痛む。
確かに、天環は自分を異物として捉えている節がある。
あの黒い瞳の渦に引き寄せられ続けていることが、その証拠だ。
だが——。
「湊さん……」
今度はユイナが、か細い声で湊の袖を掴んだ。
その瞳は涙で揺れていた。
「私……あなたに来てほしいなんて言わなかったのに……
それなのに……最初から私の“役目”を奪ってしまって……
でも……でもね……」
ユイナは言葉を詰まらせ、
胸の前で握る手に力を込めた。
「湊さんが来てくれて……嬉しかったんです」
目の端から涙がこぼれ落ちる。
「あなたが来て……私……初めて、誰かの隣に立てた気がした。
巫子なんて知らされなくても……
役目がどうでも……
ただ、一緒にいたかった」
湊は思わずユイナの手を握った。
その温もりはかすかに震えていた。
リィナは横で涙を流しながら叫ぶ。
「湊! あんたがいなくなったら……私……どうすれば……
私……っ……!」
その言葉は最後まで続かず、声が詰まり、肩が震えた。
二人の少女と——遥。
胸の奥で、三つの感情が激しく交錯する。
遥は静かに続けた。
「湊くん。
あなたは、二つの世界に“選ばれた”んじゃない。
二つの世界に“引き裂かれた”の」
その言葉に、覚悟のようなものが宿る。
「私と帰るなら、
この世界のすべてを忘れる。
リィナさんのことも、ユイナさんのことも。
あなたがここで流した血も涙も」
「……!」
リィナが息を呑んだ。
ユイナの顔が青ざめた。
遥は続ける。
「でも、“痛み”から解放される。
私が全部、抱きしめてあげる」
優しく、凪のような表情だった。
だがその優しさは、
どこか“罠”のように思えて仕方がない。
湊は口を開いた。
「遥……君は……生き返るのか?
俺が帰ったら……元の世界に戻って、君と……」
遥はゆっくり首を振る。
「私はもう生き返らないよ。
ただの“魂の残響”だから。
でも……それでもいいの。
湊くんが孤独じゃなければ」
湊は凍りついた。
死んだ人間と帰る。
魂だけの存在と、虚無の世界へ戻る。
そんな未来が——“救い”だと、遥は言う。
しかしその時だった。
空が震えた。
遥の足元に黒い亀裂が走り、
天環から流れ込む黒い霧が彼女の体を掴み始める。
「……っ」
遥は苦しそうに喉を押さえた。
湊は叫ぶ。
「遥!!」
遥は微笑んだまま湊を見つめた。
「ほらね……天環は私も排除しようとしてる。
“魂だけの存在”は、この世界に長くいられないんだよ」
黒い霧が遥の腕を絡め取り、引きずろうとする。
湊は駆け寄る。
掴もうとした瞬間——
遥は苦しいはずなのに、笑った。
「湊くん。
選んで。
この世界で、誰と生きるのか。
それとも——“私”の元へ帰るのか」
黒い霧に飲まれながら、遥は手を伸ばしてくる。
リィナが反対側から叫ぶ。
「湊!! 来なさい!! 置いてったら許さないから!!」
ユイナも必死に手を伸ばす。
「湊さん……行かないで……お願い……!!」
湊の胸が、裂けるように痛む。
遥の手。
リィナとユイナの手。
どちらへ伸ばす?
どちらを選ぶ?
世界は沈黙し、
ただ湊の心臓だけが、滅びの音を打ち鳴らしていた。
——その瞬間。
遠くの空。
黒い天環の中心で、“何か”が目覚めた。
眩い光が世界を貫き、
まるで世界そのものが急かすように、
湊に問いかけてくる。
選べ。
誰と生きるか。
湊は震える手で——
伸ばした。
世界が、その選択に応じて裂けた。
光が弾け、三人の叫び声と、遥の涙が重なり——
湊の指先が、誰かの手を掴んだ。
世界が白く爆ぜる。
その結末は——次の話で明かされる。




