第一章 二十四話 天環の囁き
灰色の霧がゆっくりと薄れていく。
耳の奥で、まだ戦いの残響がかすかに鳴っていた。
パラレイスの大穴は静まり、黒い光の柱は消え、
世界がひとつ呼吸を取り戻したように、空の青がにじんで見えた。
湊は肩で息をしながら、地面に膝をついた。
ここまで来るのに、力のほとんどを使い果たしてしまった。
だが——。
「湊っ!」
駆け寄ってきたリィナが倒れ込むように抱きついてきた。
衝撃で少し後ろへよろけながらも、湊は苦笑いを浮かべる。
「無事で……よかった。本当に……」
リィナの声は震えていた。
目元は涙で赤く腫れ、汗と血が混ざった顔はぐしゃぐしゃなのに、
その瞳だけは真っ直ぐで、懸命で、湊の胸を刺すほどまぶしかった。
「……大丈夫だよ。少し疲れただけだから」
そう言った瞬間、リィナは湊の胸に顔を押し付けた。
「怖かったの……もう戻ってこないんじゃないかって……」
その震えは小さく、けれど確かだった。
湊はそっと、リィナの頭に手を置く。
彼女がこんなに泣くのを見たのは初めてだった。
その後ろで、静かに歩いてくるユイナにも気づく。
彼女は表情こそ落ち着いていたが、胸の前で握った手が硬く震えていた。
「湊さん……生きて帰ってきてくれて……ありがとう」
その目には、言葉にできないほどの安堵がにじんでいた。
湊の胸の奥が、静かに、けれど強く熱を持つ。
——自分は、守れた。
その実感と同時に、
世界の奥底から、もうひとつの“声”が届いた。
(また……呼んでる?)
天環の奥。
あの無数の瞳がひそやかに見つめていた“何か”。
今、湊の心を軽く叩いている。
ただの残響じゃない。
今までよりずっと明確で、まるで湊の思考に触れようとしている。
「湊? どうしたの?」
リィナが顔を上げる。
ユイナも気づいて歩み寄る。
「……いや。なんでも……」
と言いかけた瞬間だった。
視界がゆらりと揺れ、青い空の端が黒く染まる。
次の瞬間、湊はひとり、見知らぬ白い空間に立っていた。
音がない。風もない。
ただ広がるのは、乳白色の世界と、ひとつの影。
少女だった。
年齢は十歳ほど。
純白の衣をまとい、瞳は星みたいに光っていた。
湊は息を呑む。
「……君は?」
少女はかすかに微笑んだ。
だがその微笑みは、どこか寂しさと諦めが混じっていた。
「ようやく……話せた」
声は風鈴のように澄んでいるのに、不思議と胸が締めつけられる。
少女は湊を見つめ、そっと言う。
「あなたは、“選ばれなかったはずの転生者”なのに……
どうしてここまで来られたの?」
「選ばれなかった……?」
少女は小さく首を振った。
「本来この世界に来るのは、あなたではなかった。
あなたは“すり替わった魂”なの。
でも……もう、そんなことは関係ない」
湊の背筋に寒気が走る。
すり替わった魂。
あの日、トラックに弾かれて死んだ瞬間の記憶がよみがえる。
誰かが自分の代わりに——?
少女は続けた。
「私の役目は、この世界を“終わらせる”こと。
そしてあなたの役目は……それを“止める”こと」
湊は喉がひきつるのを感じた。
「……ふざけるなよ。俺はそんな役目——」
「でも、あなたはもう知っているでしょ?」
少女は一歩近づいた。
その手が湊の胸に触れた瞬間、胸の奥にある“核”がかすかに脈打った。
あの黒い瞳の海。
あの光を吸い込む穴。
あれは、天環とこの世をつなぐ“出口”だった。
そして、少女の声が重なる。
「あなたはここに来るべき人じゃなかった。
だけど……“彼女”が選んだ。
あなたを、この世界に連れてきたのは——彼女」
「……誰だよ、その“彼女”って……」
少女は静かに言った。
「あなたが、一番大切に思っていた人」
湊の脳裏に、ひとりの姿が浮かんだ。
——あの横顔。
——あの笑顔。
——あの、言えなかった言葉。
しかし次の瞬間、世界が一気に色を取り戻し、
湊は現実に引き戻された。
「湊!!」
リィナが泣きそうな顔で湊の体を揺する。
ユイナが必死に回復術を施している。
「なに……があったんですか……?」
「急に倒れたんだよ! 返事がなくて……!」
湊は荒く息をしながら、さっきの少女の言葉を思い返していた。
すり替わった魂。
選ばれなかった転生者。
そして——
“彼女が選んだ”。
湊はゆっくり立ち上がり、ふたりに言った。
「……ごめん。大丈夫。
ただ、少し……“思い出した”だけだ」
リィナはその言葉の意味を測りかねて眉を寄せる。
ユイナは、何かに気づいたように胸元を押さえた。
そして静かに言った。
「湊さん……それは“誰”ですか?
あなたをこの世界に導いたという、その“彼女”は……」
湊は答えようとした。
だがその瞬間、また胸の奥で“脈”が打ち、
耳の奥に少女の声が囁く。
——まだ明かさないで。
——彼女はすぐ、あなたの前に現れるから。
湊は息をのむ。
これから何が起こるのか、もう誰にも止められない予感がしていた。
そしてその予感は、ほんの数分後、現実になる。
空が裂けた。
青空の中心に細い亀裂が入り、光がこぼれ出す。
次の瞬間、裂け目から“白い人影”がゆっくりと落ちてきた。
湊は見た瞬間、全身が固まった。
リィナは息を呑み、
ユイナはその場で崩れ落ちそうになりながらつぶやく。
「……どうして……?」
白い人影はゆっくりと地面に降り立つ。
風が止まり、世界が静止したように感じた。
その顔を見た瞬間、湊の胸が激しく脈打つ。
「嘘……だろ……」
リィナが震える声で言い、
ユイナは両手で口を覆った。
そこに立っていたのは——
湊が“元の世界で”最も大切だった人。
笑顔も、声も、手の温度も、
湊の心に焼き付いて離れなかった存在。
彼女は静かに、少し寂しそうに微笑んだ。
「久しぶりだね、湊くん……
やっと、会いにこれたよ」
世界が崩れ落ちる音がした気がした。




