第一部 二話 灰の空の下で
水の音がする。
遠くで誰かが、名前を呼んでいる気がした。
けれど、その声は風にかき消され、すぐに静寂が戻った。
ここは、どこだ?
篠原湊は、ゆっくりと目を開けた。
まぶしい光が、目の奥を刺す。
視界いっぱいに広がるのは、灰色の空と、見知らぬ廃墟の ような街並みだった。
瓦礫に覆われた地面。ひび割れた塔。焦げた草原。
風が乾いた砂を巻き上げ、顔にあたる。
息を吸うと、鉄と煙の匂いが鼻をついた。
湊は身を起こし、自分の手を見た。
手の甲に光る紋章のようなものが浮かんでいる。
肌の下で光が脈打つように、青白く淡い輝きを放ってい た。
「目覚めたか、勇者の魂よ」
低く、響く声。
湊が顔を上げると、そこには銀の鎧をまとった青年が立っ ていた。
肩には獅子の紋章。背には黒いマント。
その瞳は、まるで氷のように冷たい。
「俺はレオルド・アスフェン。この地、ノルディア王国の騎 士長だ。お前は召喚に応じた異界の者だな」
「召喚……?」
湊は言葉を失った。
夢ではない。肌の感覚も、風の匂いも、すべてが現実だ。
ただ一つ確かなのは、ここが日本ではないということだっ た。
⸻
近くの泉で自分の姿を確かめる。
黒髪に黒い瞳。体格も変わらない。
けれど、背中には薄く光る紋様が刻まれていた。
円環の中に交差する二つの翼。見覚えのある形だったが、 思い出せない。
「ここはノルディア……」
「そうだ。お前は“灰の時代”に召喚された。五百年前、勇者が消えたこの地に、再び“魂の後継者”が現れたのだ」
「勇者?」
「かつて天を裂いた“光の巫女”を止めた男だ。だが、彼は彼 女と共に姿を消した」
その言葉を聞いた瞬間、湊の胸がわずかに痛んだ。
光の巫女。どこかで聞いたことのある響きだった。
夢の中で、誰かがそう呼ばれていた気がする。
風が吹き、空の裂け目のような場所から光の粒が降ってき た。
まるで、灰の空から星が落ちてくるようだった。
「……なんだ、これ?」
「“灰の雨”だ。天環から漏れ出した魔力の残滓。触れると命を吸われるぞ。避けろ!」
レオルドの叫びに、湊は反射的に身を引いた。
だが、一粒の光が頬に触れた瞬間、視界が反転した。
⸻
白い空。
神殿のような光の大地。
少女が祈っている。
彼女の背中から、金の羽が揺れた。
その横顔を見た瞬間、湊の息が止まった。
「結衣……?」
声に出したが、届かない。
少女は微笑み、天を仰ぐ。
そして、誰かの名を呼んだ。
「ミナト……?」
次の瞬間、光が弾け、世界が崩れた。
⸻
「おい! しっかりしろ!」
気づけば、レオルドが湊の肩を掴んでいた。
息が荒く、心臓が早鐘を打つ。
さっきの光景が頭から離れない。
今のは夢じゃない。彼女だ。結衣だ。
だが、結衣はあの日、死んだ。
自分の目の前で。
なのに、なぜこの世界で彼女の姿が――。
「……大丈夫だ。ただの魔力酔いだ。転生者にはよくある。すぐに慣れる」
レオルドはそう言い、湊を立たせた。
「お前の到着を、王が待っている。来い。運命の再起はもう始まっている」
⸻
城へ向かう途中、湊は街の様子を見た。
人々は貧しく、街は崩れかけ、空には黒い裂け目が走って いる。
誰もが怯えた目で空を見上げていた。
「この世界は……壊れかけているのか?」
「ああ。“天環”との境界が薄れてきている。神々の世界と、 この地の世界が混ざれば、両方が滅ぶ」
「天環……?」
「かつて神々が住まうとされた光の国。そこに巫女がいて、 世界を導いている。だが……」
レオルドは一瞬、言葉を止めた。
「その巫女こそ、かつて勇者が愛した“光の娘”の転生だと言 われている」
その言葉が湊の胸に突き刺さった。
頭の中で、何かがつながりそうで、つながらない。
けれど、“光の娘”という響きに、なぜか涙がこみ上げた。
⸻
玉座の間は静まり返っていた。
王は痩せた老齢の男で、目だけが異様に鋭い。
彼は湊を見るなり、かすれた声で言った。
「やっと来たか。“二つの魂”の片割れよ」
「え?」
「お前が目覚めたということは、もう一方もまた覚醒したの だろう。天環の巫女――“ユイナ・エラルシア”が」
その名を聞いた瞬間、湊の心臓が大きく跳ねた。
ユイナ。
聞き覚えのない名前なのに、なぜか懐かしい。
頭の奥で、結衣の笑顔と重なっていく。
「お前たちの再会が、この世界の終わりの始まりとなる。
それが、“灰の予言”だ」
⸻
その夜、湊は客間で一人、眠れずにいた。
窓の外では、灰の雨が静かに降っている。
テーブルの上のランプの灯が揺れ、部屋の隅に影が伸びた。
ふと、風が吹き込み、机の上にあった紙がめくれた。
そこに描かれていたのは、翼を持つ二人の人間が手を取り合う絵。
その下に古代文字で書かれた言葉があった。
「魂ヲ結ブ者、二度ト離レズ」
湊は息を呑んだ。
それは、結衣と訪れた湖の祠に刻まれていた言葉とまったく同じだった。
背筋を冷たいものが這い上がる。
偶然ではない。
あの祠も、あの言葉も、この世界とつながっている。
その瞬間、耳元で声がした。
「湊……」
女の声だった。
振り返っても、誰もいない。
ただ、窓の外の灰の雨の中に、一つの光が揺れている。
それは、人の形をしていた。
白いドレスをまとい、薄く微笑んでいる。
けれど、その瞳には涙があった。
「結衣……?」
その名を呼んだ瞬間、光が弾け、部屋中に白が広がった。
⸻
同じ時刻、遥か遠い天環エラルシア。
白い神殿の中で、一人の少女が目を覚ました。
金の髪。
青い瞳。
その名は、ユイナ・エラルシア。
彼女は胸の奥に手を当て、小さく呟いた。
「……誰かが、泣いてる気がする」
神官たちは彼女に跪き、声を揃えた。
「聖女ユイナ、光の巫女よ。あなたの再臨を歓迎いたします」
だが、ユイナは空を見上げたまま、静かに涙をこぼした。
「ねぇ……“湊”って、誰?」




