第一部 一話 消えた約束の朝
はじめまして。
皆様に楽しんで頂けますよう
執筆させて頂きます
六月の朝だった。
雨上がりのアスファルトが薄く光り、街路樹の葉から落ちる雫が、通りを静かに濡らしていた。
篠原湊は、傘を差しながら歩いていた。
大学三年。二十二歳。どこにでもいる平凡な青年——に見えるが、彼の心の奥には、誰にも言えない「恐れ」があった。
それは夢だった。
同じ夢を、もう何度も見ている。
——知らない空。
——知らない大地。
——そして、名も知らぬ少女の涙。
彼女はいつも、湊の名前を呼ぶ。
けれどその声は、いつも途中で途切れて消える。
その夢を見た朝は、決まって胸の奥が冷たくなる。
今日は、結衣と会う約束の日だった。
彼女とは高校時代からの付き合いで、気づけばもう七年になる。
卒業、進学、就職活動。すれ違いもあったけれど、彼女の笑顔を思えば、どんなことでも乗り越えられた。
——少なくとも、昨日まではそう信じていた。
「湊ー! こっち!」
駅前のカフェ。
傘を閉じると、そこに結衣が立っていた。
白いワンピースに、薄いピンクのカーディガン。雨上がりの光を受けて、彼女の髪がきらきらと光る。
その姿を見ただけで、湊の胸の奥がふっと軽くなった。
「おはよう。寝坊しなかった?」
「珍しく早起きしたよ。ほら、今日、行きたい場所あるって言ってただろ?」
「うん。ちょっと遠いけど、行きたい場所があるの」
そう言って、彼女は少し遠くを見た。
その瞳の奥には、言葉にできない何か——懐かしさのような、切なさのような光が宿っていた。
⸻
電車に揺られ、二人は郊外の湖へ向かった。
車窓に流れる景色を眺めながら、結衣は手帳を開いて何かを書いている。
湊が覗き込むと、そこには綺麗な文字で「やりたいことリスト」と書かれていた。
「ねぇ、これ見て」
「バンジージャンプとか、スカイダイビングとか……結衣、命知らずすぎない?」
「ふふ、人生って短いでしょ? 怖いことほど、やってみたいんだ」
「そういうの、湊が隣にいないとできないんだけどね」
結衣はそう言って、笑った。
湊は少しだけ顔を赤らめる。
けれど、その笑顔が、ほんの少しだけ無理しているように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
⸻
湖に着いた頃には、太陽が顔を出していた。
静かな水面に、青空と白い雲が映り込んでいる。
風がそよぐたび、波紋が広がり、空と地がゆらゆらと混ざり合う。
「ここ、子どもの頃によく来てたの。もう一度、ちゃんと見ておきたかったんだ」
結衣は湖畔にしゃがみ、指先で水をすくった。
その仕草が、妙に儚く見えた。
湊の胸に、あの夢の映像がよぎる。
——知らない大地。泣いている少女。伸ばした手が、届かない。
気づけば、湊は結衣の手を握っていた。
「結衣、なんかあった? 今日の君、ちょっと変だよ」
彼女は驚いたように目を見開いたが、すぐに笑った。
「ううん、大丈夫。ただ……変な夢を見たの。知らない場所で、知らない人が私の名前を呼ぶの。なのに、どうしてかすごく懐かしくて……」
——夢の中の少女が、今の結衣の言葉と重なった。
偶然? それとも——。
帰り道、空は赤く染まり始めていた。
駅までの道を歩く途中、結衣がふと足を止めた。
湖のほとりに立つ古い祠。
苔むした石の鳥居には、かすれた文字でこう刻まれていた。
「魂ヲ結ブ者、二度ト離レズ」
「……なんか、ロマンチックだね」
「うん、でもちょっと怖い言葉。離れられないって、どんな意味だろう」
湊は冗談めかして言った。
「まぁ、俺たちも離れられないけどな」
結衣は微笑んだ。けれど、その笑顔の奥に、一瞬、深い影が差した。
まるで——未来のどこかを知っているかのように。
その夜。
湊は眠れなかった。
夢を見た。
暗い森。赤く裂けた空。
そして、光の中に立つ“結衣”の姿。
彼女は白い衣をまとい、瞳の色も声も違う。
けれど、確かに結衣だった。
彼女は湊に向かって、何かを言おうとしている。
しかし、音が聞こえない。
代わりに耳に響いたのは——
「——世界が、終わる」
目を覚ますと、夜明け前だった。
窓の外で雷鳴が鳴り、風が唸っている。
携帯の画面に“結衣”からのメッセージが一件。
【湊、ごめん。ありがとう。】
嫌な予感が、全身を貫いた。
湊は傘も持たずに外へ飛び出した。
⸻
雨の中、道路が光った。
赤信号。
クラクション。
結衣の姿が、横断歩道の向こうに見えた。
「——結衣!!」
叫び声が、雷鳴にかき消された。
世界が一瞬、白く光る。
そして次の瞬間、音も風も、すべてが止まった。
降りしきる雨の中で、結衣が倒れていた。
湊の手は、彼女に届かなかった。
彼の視界は滲み、足元の世界が崩れていく。
「君を、失いたくない——」
その言葉を最後に、彼の意識は暗闇へと沈んでいった。
⸻
静寂の中。
どこか遠くから声が聞こえた。
「……勇者の魂、確認」
「転生対象、適合」
「次元座標——ノルディアに転送開始」
光が、彼を包んだ。
見たことのない紋章が宙に浮かび、彼の身体がゆっくりと崩れていく。
最後に見えたのは、白い羽のような光の粒。
その中に——もう一度、あの少女の涙が見えた。
「湊……また、会えるよね」
世界が反転し、すべての色が消えた。
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