第8話 「春風の客人――そして、恋の兆し」
春。
雪が溶け、辺境の丘に新しい草の芽が顔を出し始めた。
アメリアの薬草園にも、季節の息吹が戻ってきている。
風は柔らかく、ミントとセージの香りを運び、鳥たちは軽やかに鳴いていた。
「やっぱりこの季節が一番好きだわ……」
私は新しい畝を整えながら、額の汗をぬぐった。
マリアが籠いっぱいに摘んだ薬草を抱えてやってくる。
「アメリア様! 春の収穫、今年はとても良い出来ですよ!」
「ええ、王都の種がうまく根づいたみたいね。
寒冷地にも強いなんて、まるでこの土地に選ばれたみたい」
マリアは笑顔で頷く。
「まるで、アメリア様ご自身みたいです!」
「もう、うまいこと言うわね」
そう笑いながら、私は春の陽光を仰いだ。
心の奥までぽかぽかと温かくなる――これが私の“幸せ”なんだと思う。
その日の昼下がり。
薬草園の門の方から、見慣れない馬車の音が聞こえた。
「誰かしら?」
私は手を拭き、玄関へ向かう。
やがて馬車から降りてきたのは、一人の青年だった。
淡い栗色の髪を風に揺らし、穏やかな笑みを浮かべている。
旅装の上から、少しだけ擦れた革の外套を羽織っていた。
「初めまして。
私はルシアン・グレイスフィールドと申します。
王立薬学院からの紹介状を持ってまいりました」
「薬学院から……?」
受け取った封筒には、確かに学院の印章とレオンハルト殿下の署名がある。
『アメリア・フォン・ハーヴェスト辺境伯令嬢殿。
本学院より、研究助手としてルシアンを派遣する。
君の“薬草研究”の一助となるよう願っている。
――王立薬学院 学院長代行 レオンハルト・フォン・アークライト』
「まさか、殿下がこんな人材を……」
ルシアンは少し照れくさそうに笑った。
「殿下には“学ぶべき場所に行け”と言われました。
噂の薬草園で勉強できるなんて、夢のようです」
その素直な瞳に、私は少し心を和ませた。
「歓迎します、ルシアンさん。
ここは地味な場所だけど、薬草たちがとても素直なの」
「素直な薬草、ですか」
「ええ。
手を抜けばすぐにしおれて、でも心を込めて世話をすれば、
想いに応えるように花を咲かせる。
人間と似ているのよ」
ルシアンは頷き、柔らかく笑った。
「……アメリア様の言葉、すごく好きです。
心が穏やかになりますね」
その笑顔に、少しだけ胸がどきりとした。
けれど、すぐに咳払いして話を戻す。
「と、とにかく! 明日から一緒に作業をしましょう。
今期の課題は、“癒光液の改良版”です」
「はい! 全力でお手伝いします!」
夕暮れ。
丘の上で、セイリウスが一人、空を見上げていた。
彼の髪を春風が揺らし、光が金のように反射する。
「……新しい助手、か」
つぶやく声は小さいが、どこか複雑な響きを帯びている。
薬草園の方から、アメリアとルシアンの楽しげな声が聞こえた。
「ここの土、王都のものより温かいですね!」
「ふふ、でしょ? この土地は人にも優しいの」
セイリウスはわずかに微笑んだ。
その笑みは穏やかで、けれどほんの少しだけ切なさを含んでいた。
「……やれやれ。
春というのは、なぜこうも心をざわつかせるのだろうな」
風が静かに吹き抜け、薬草の香りを運んでいく。
彼の視線の先、夕陽の中で笑うアメリアの姿は、
まるで春そのもののように、明るく、美しかった。
夜。
研究小屋の灯がともる。
ルシアンが本を読みながらメモを取っている傍らで、私は新しい調合を試していた。
「アメリア様、その香り……ラベンダーとレモンバームですか?」
「そうよ。
今日の風が優しかったから、眠りを誘うブレンドにしてみたの」
湯気の向こうに浮かぶハーブティーの香りが、夜の静けさに溶けていく。
私はカップを差し出し、彼に微笑んだ。
「どうぞ、春の薬草園からの贈り物です」
ルシアンが一口飲み、ふっと笑みをこぼした。
「……あたたかい。まるで心まで癒されるようです」
その言葉に、私は頬が少しだけ熱くなるのを感じた。
――春風のような青年。
彼の到来は、薬草園に新しい風をもたらす予感がした。
そして、その風は、
アメリアの心にも静かに、確かに芽吹きを運び始めていた。




