第67話 「風向きが変わる音」
第五区は、王都の中でも古い家並みが残る場所だった。
石壁は低く、道は細い。人の暮らしが地面に近いぶん、変化もまた早く表に出る。
「……ここ、空気が違うな」
ルシアンが足を止める。
「ええ」
アメリアも頷いた。
「重さは抜けてる。でも、流れがまだ定まってない」
第五区では“倒れる人”はいなかった。
その代わり、眠れない、落ち着かない、理由もなく不安になる――そんな訴えが多い。
最初に訪ねた家で、年配の女性が苦笑した。
「身体は楽になったのにね。夜になると、胸がざわついて……」
アメリアは女性の手を包み、静かに言った。
「回復の途中です。
ずっと力を入れていた筋肉が、急に緩むと、逆に違和感が出ることがある」
「……それは、治る?」
「ええ。ちゃんと」
アメリアは強く断言した。
その言葉だけで、女性の肩が少し下がる。
路地を進むと、子どもたちが集まっていた。
だが、走り回ってはいない。
何かを待つように、ただ立っている。
「どうしたの?」
アメリアが声をかけると、少女が答えた。
「……風が、こないの」
確かに。
旗も、洗濯物も、ほとんど揺れていない。
セイリウスが地面に触れ、眉をひそめる。
「流れが“止まりかけている”。
回復期特有の偏りだな」
アメリアは外套の内ポケットから、小さな布包みを取り出した。
潮の忘れ草を薄く調合した、簡易の香包だ。
「これを、道の端に置いてみましょう」
石畳の隙間。
彼女が香包をそっと置くと、ほのかな香りが広がった。
――ふわり。
ほんの一瞬、風が通った。
「……来た!」
子どもたちが声を上げる。
旗が揺れ、髪がなびく。
ほんの短い風。
それでも、確かに“動いた”。
ルシアンが思わず笑う。
「分かりやすいな」
アメリアも微笑んだ。
「身体も、街も同じ。
“動いた”って実感できるのが、一番効く」
夕方、調整室からの報告が届いた。
「第五区、地脈流量、安定域へ移行」
「市民の不安訴え、減少傾向」
研究官は報告書を置き、静かに言った。
「……正直に言おう。
ここまで、街が“自分で治ろうとする”とは思っていなかった」
アメリアは答える。
「人も同じです。
きっかけさえあれば、あとは身体がやる」
研究官は深く息を吐いた。
「我々は……やりすぎていたな」
その言葉に、責める者はいなかった。
夜。
宿の屋上で、アメリアは一人、風を感じていた。
王都の上を、ゆるやかな風が流れていく。
強くはない。
けれど、止まってもいない。
「……いい風向き」
背後で足音。
ルシアンだった。
「無理してないか?」
彼はそう言って、隣に立つ。
「少しはね」
アメリアは正直に答えた。
「でも……やっと、王都が呼吸してる感じがする」
ルシアンは空を見上げ、ぽつりと呟く。
「辺境の森も、きっとな」
その言葉に、胸がきゅっとなる。
「……戻ったら、やることが山ほどあるわ」
「薬草園の整備、地脈の再確認、村の人たちへの説明」
「忙しいな」
「ええ。でも――」
アメリアは、風の中で微笑んだ。
「ちゃんと、生きてる忙しさよ」
王都の灯りが、少しずつ揺れる。
流れは戻りつつある。
完全ではないが、確かに。
風向きは、変わっていた。




