第66話 「小さな回復、確かな兆し」
翌朝。
第四区の空気は、ほんの少しだけ軽くなっていた。
劇的な変化はない。
けれど、昨日まで張りつめていた“重さ”が、薄皮一枚分、剥がれたような感覚。
アメリアは外套を整えながら、静かに通りを歩く。
派手な魔法も、演説もいらない。
今日は“経過観察”の日だ。
「……あれ?」
通りの角で、聞き覚えのある声がした。
振り向くと、昨日の少年――リオが、母親の手を借りながら立っていた。
足取りはまだ覚束ないが、確かに“立っている”。
「無理しちゃだめよ」
アメリアが声をかけると、母親が驚いた顔で振り返った。
「あ……薬師さん」
「今朝、急に……少しだけ、動けるようになって」
リオはアメリアを見て、小さく笑った。
「……地面、きのうより、こわくない」
その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「それなら十分」
アメリアは屈んで目線を合わせた。
「今日はそこまででいいわ」
少年は、こくりと頷いた。
その後も、似たような報告が続いた。
「朝、手足の冷えが軽かった」
「倦怠感が抜けて、久しぶりに料理ができた」
「理由は分からないけど、気分が沈まない」
どれも、小さな声。
だが、確かな“回復の兆し”。
セイリウスは記録板を閉じ、静かに言った。
「数値にも、ようやく出始めている。
地脈の流れが、王都全体で“呼吸”を取り戻している」
ルシアンは壁にもたれ、腕を組んだ。
「派手さはないけど……こっちの方が、ずっといいな」
アメリアは頷いた。
「回復って、だいたいこういうものよ」
その日の夕方。
調整室に戻ると、研究官が待っていた。
「……報告は、聞いている」
彼は以前より、少しだけ肩の力が抜けていた。
「市民の不調が、確実に減っているそうだ」
「一時的な反動は?」
アメリアが尋ねる。
「今のところ、なし」
研究官は正直に答えた。
「むしろ……装置の負荷が下がっている」
セイリウスが口を挟む。
「無理をやめたからだ。
本来、地脈は“引く”ものじゃない。“巡る”ものだ」
研究官は黙り込み、やがて低く言った。
「……我々は、効かせることばかり考えていた」
アメリアは責めなかった。
ただ、穏やかに告げる。
「薬も、同じです。
効き目を急ぐほど、身体を壊す」
「……残り二日だな」
研究官が言う。
「ええ」
アメリアは頷いた。
「でも、焦らなくていい。
回復は、もう始まっている」
夜。
宿に戻ったアメリアは、窓辺に立った。
王都の灯りは、相変わらず明るい。
けれど今は、どこか柔らかく見える。
「……ちゃんと、前に進んでる」
独り言のように呟くと、胸の奥で小さな安堵が広がった。
全部は、まだ救えない。
問題も、終わっていない。
それでも――
昨日より今日、今日より明日。
その積み重ねが、人も、街も、治していく。
アメリアは深く息を吸い、明日の予定を思い描く。
次は第五区。
似た症状が、静かに広がっている場所。
薬師の仕事は、続く。
静かに、確実に。




