第65話 「薬師は、手の届く人から救う」
第四区は、静かだった。
騒ぎも悲鳴もない。
ただ、どこか“元気が抜けた”ような空気が漂っている。
「……ここ?」
ルシアンが周囲を見回す。
「ええ」
アメリアは小さく頷いた。
「数字だけ見れば軽症。でも、こういう場所が一番つらい」
通りの端に、小さな家があった。
施療所の監視員が案内した先だ。
「この家の子どもが、今朝から動けなくなって……」
「熱もない、怪我もない。ただ、起き上がれないんです」
アメリアは扉をノックし、静かに中へ入った。
寝台に横たわっていたのは、痩せた少年だった。
十歳前後。
目は開いているが、焦点が合っていない。
「……こんにちは」
アメリアは、いつもの調子で声をかけた。
「お名前、聞いてもいい?」
少年は、少し間を置いて答えた。
「……リオ」
その声は弱く、風に消えそうだった。
母親が不安そうに言う。
「薬も飲ませました。祈りも……でも、良くならなくて」
アメリアは首を振った。
「悪い病気じゃないわ。
ただ……疲れ切っているだけ」
彼女は少年の手を取った。
冷たい。でも、異常な冷えではない。
「リオ、最近、外で遊んだ?」
少年は、首を横に振った。
「……地面が、冷たくて。
足が、重くなる」
その言葉に、アメリアは胸が詰まった。
(……これが、“数字に出ない症状”)
彼女は小さな布袋を取り出した。
中には、辺境の森で採れた穏やかな薬草。
「これはね、元気になる薬じゃないの」
アメリアは微笑んだ。
「“戻る”ための薬」
薬草を温かい湯に落とし、香りを立たせる。
「地面が冷たくなりすぎると、人は前に進めなくなる。
だから今日は、休んでいい」
少年は、ゆっくりと瞬きをした。
「……ほんとに?」
「ほんと」
アメリアは、はっきり言った。
「元気になるのを、急がなくていい」
家を出たとき、ルシアンがぽつりと呟いた。
「……ああいうのを見るとさ」
「王都だの地脈だのより、腹が立つな」
セイリウスも、珍しく言葉を選んでいた。
「大きな構造の歪みは、いつも弱いところに出る」
アメリアは空を見上げる。
雲の切れ間から、柔らかな光。
「だから私は、薬師なの」
「全部を一気に救えなくてもいい」
彼女は歩き出す。
次の家へ。
次の“名前のある誰か”のもとへ。
「一人ずつでいい。
ちゃんと、手の届く距離から治していく」
王都の治療は、まだ続く。
でも今は――
静かな部屋で、温かい薬を飲む少年の呼吸が、少し深くなった。
それだけで、十分だった。




