第64話 「処方開始――王都に流れを返す」
調整室の水晶柱が、低く唸るような音を立てた。
光量が一段落ち、魔術陣の回転が緩やかになる。
それだけで、地下の空気は目に見えて変わった。
重さが抜け、呼吸がしやすくなる。
「……始まったな」
ルシアンが小さく言った。
研究官は制御盤の前で立ち尽くしていた。
三日という猶予。
それは同時に、王都の繁栄を賭けた期限でもある。
「段階一」
アメリアは淡々と告げる。
「中枢吸引率を二割落とす。
まずは“取りすぎている”状態をやめるだけ」
セイリウスが補足する。
「急激な逆流は危険だ。
流れは戻すものではなく、思い出させる」
研究官は歯を食いしばりながら、操作を進めた。
水晶柱の輝きがさらに弱まり、床下から微かな風が吹き抜ける。
その瞬間――
「……痛みが、引いた?」
調整室の隅で待機していた下級研究員が、驚いた声を上げた。
彼はこめかみを押さえ、目を瞬かせている。
「頭痛が……急に」
アメリアはその様子を見て、静かに頷いた。
「地面の冷えが緩んだ証拠よ。
症状が早い人ほど、環境由来の影響が強かった」
セイリウスは記録板に数値を書き込みながら言う。
「王都中央部、地脈温度、微増。
周辺部への流量、回復傾向」
「……本当に、治っていくのか」
研究官が掠れた声で呟く。
アメリアは彼を見据えた。
責めるでもなく、突き放すでもない。
「治すの」
ただ、それだけを言った。
その日の午後。
王都のあちこちで、小さな変化が起き始めていた。
市場では、朝まで不機嫌そうだった商人が、ふと肩を回す。
「おや……今日は、妙に身体が軽いな」
石畳の隙間から、見慣れない草の芽が顔を出す。
誰も水をやっていないのに。
施療所では、倦怠感を訴えていた患者の数が、目に見えて減っていた。
「薬を変えた覚えはないのに……」
治療師が首をかしげる。
その報告が、次々と調整室へ集まってくる。
「中央区、めまいの訴え減少」
「下町、冷え症状の改善」
「城壁付近、魔力循環の安定確認」
研究官の顔から、徐々に色が戻っていった。
「……ここまで、はっきりと」
ルシアンは腕を組み、軽く笑う。
「現場は嘘つかないからな」
だが、アメリアの表情は引き締まったままだった。
「油断しないで」
彼女は言う。
「これは“効き始め”。
副反応は、これから出る可能性がある」
セイリウスが即座に頷く。
「王都は、長期間にわたって無理をしてきた。
回復期に入れば、反動も来る」
その言葉が終わる前に――
調整室の外で、慌ただしい足音が響いた。
「報告です!」
駆け込んできたのは、別区画の監視員。
「第四区で、地脈の流れが一時的に乱れています!」
研究官の顔が強張る。
「暴走か!?」
アメリアは即座に答えた。
「違う。
――滞っていた場所が、動き出しただけ」
彼女は外套を翻し、出口へ向かう。
「行きましょう。
症状が出た場所ほど、調整が必要」
ルシアンは剣を取り、セイリウスは記録板を抱えた。
「……まだ、終わっていないんだな」
研究官が呟く。
アメリアは振り返らずに言った。
「治療は、経過観察が一番大事なの」
王都は、今まさに“回復期”に入った。
それは希望であり、同時に試練でもある。
薬師の仕事は、ここからが本番だった。




