第54話 「風が運ぶ兆し――静かな始まり、深い揺らぎ」
薬草園に朝露が落ちる頃、アメリアはいつもより早く歩き回っていた。昨日届いた北部からの報告書――その中に、見逃せない一行があったのだ。
『潮の忘れ草、二地点で同時発生。群生化の兆しあり』
わずかな表現だが、彼女の胸には淡い危機感が広がる。
この草は貴重だ。しかし、群生の広がり方によっては既存の薬草の生態を乱す可能性がある。希少種だからといって放っておくわけにはいかない。
「アメリア?」
後ろから声がして振り返ると、ルシアンが地図のパネルを持って近づいてきた。
「これ、北部拠点からの追加情報。現地の測量士が土壌の組成変化を測って送ってきた。……少し妙なんだ」
パネルには「塩分濃度のわずかな上昇」「降水量の偏り」などが記されていた。
アメリアは眉を寄せる。
「……自然発生だけじゃ説明がつかないわね。なにか、もっと大きな流れがある」
セイリウスもそこへ合流する。
「王都の気象観測班からも季節風の偏りが報告されている。潮風が内陸に届きやすくなっているようだ。特殊な種子が運ばれた可能性もある」
アメリアは胸の内で思考を巡らせる。
“種が旅をしている”?
本来なら届かない場所へ、風とともに。
それはロマンでもあり、警告でもあった。
その日の午前、アメリアは急ぎ臨時会議を招集した。
北部から戻った若手コーディネーター、村の代表、学術院研究班、そして遠方共同体の技術者たちが集まる。
「潮の忘れ草は有用性が高い。だけど、繁殖が早すぎるのが懸念点です。今の段階で、適正な管理範囲を決めて対処する必要があります」
アメリアの言葉に、一部の若者が不安そうに顔を見合わせた。
「封じ込める……んですか?」
「必要以上に増えるのは危険だわ」アメリアは落ち着いた声で返す。
だが、不安を払拭するようにセイリウスが言葉を重ねた。
「“封じる”んじゃない。守るための管理だ。君たちが育てる大切な苗を、他の草が飲み込まないようにするための。」
その説明に、皆の表情が少し落ち着く。
現地から参加していた女性技術者が前に出た。
「……私たちの地域でも、あの草は慎重に扱われています。種の扱い方、封の仕方、伝承として残る“間引きの歌”もあります。よければ、それを此方にも伝えたい」
静かな場がふっと温まった。
アメリアは微笑む。
「ぜひ教えて。知識は多いほど、未来を守れるわ」
午後、アメリアとルシアンは問題の二地点を調査するため、簡易馬車で移動していた。
北へ向かう道は穏やかだったが、空気の味がいつもと違う。ほんの微かに塩の匂いが混じっている。
「……本当だ。潮の気配がここまで来てるなんて」
ルシアンが風向き計を手に呟く。
「気象が変わっている。自然の変化はとめられないけれど……対話はできるはずよ」
アメリアはそう言って、前方を見つめた。
到着した斜面には、爽やかな青みを帯びた草が揺れていた。
個体はまだ小さいが、その分布は確かに広がりつつある。
アメリアは慎重に葉を観察し、根の張り具合を確認する。
「……うん、まだ管理できる段階ね。だけど早めに手を打たないと」
ルシアンが地面に杭を打ち込み、範囲を地図に記録する。
彼の横顔は真剣そのものだ。
「生き物の流れは止められない。けど、方向を調整することはできる」
彼の言葉に、アメリアも静かに頷いた。
夕暮れ、薬草園へ戻ると、村の子どもたちがなにやらざわざわしている。
「アメリア様! これ見て!」
駆け寄ってきた少年が差し出したのは、小さな種の殻だった。
殻は薄く、銀色の模様が浮かんでいる。
それは“潮の忘れ草”の種が風で割れた跡に似ている。
「どこに落ちていたの?」
「森の入り口! しかも……三つ!」
アメリアは息を吸う。
――風の流れはすでに村の周辺まで届いている。
たった一つの種がもたらす変化は小さい。
しかし、積み重なれば土地の薬草体系全体を動かしかねない。
静かだが深い揺らぎが、確かに始まっていた。
夜。
薬草園の灯の下で、アメリアは地図に印をつけながら呟いた。
「……守るために開いた扉は、いつか外からの風を招く。けど、それを拒む理由はない。共に学べばいいだけのこと」
彼女はそう言って、小さな木箱に種をそっとしまった。
風が運んできた兆しは、危機であり、可能性でもある。
その両方を抱えて歩くのが、薬草園の未来なのだから。




