第53話 「種の旅路――最初の訪問団」
春が本格的に動き出す頃、薬草園の朝はいつもより賑やかだった。遠方からの使者を迎えるため、村の入口には手作りの横断幕がかかり、子どもたちが旗を振っている。北の拠点からの通信にあった「隣接地域の共同体からの保存技術要請」は、ただの依頼ではなかった。そこには自発的な学びの意志と、互恵の種が含まれていたのだ。
「来週の訪問団は十名ほどらしい。うち六名は実務者、四名は共同体の代表だって」ルシアンが朝食の皿を片付けながら知らせる。彼の声には期待と少しの緊張が混じっている。
「遠方からわざわざ来てくれるのね」アメリアは窓の外で苗を眺めつつ答えた。「来客には“教える”だけでなく、こちらも学ぶ用意をしないと。土地ごとの知恵は、時にこちらの盲点を照らしてくれる」
セイリウスは手元のメモに目を落とす。「スケジュールは、実地講習二日、保管技術のワークショップ一日、交流会一晩。あとは双方のフィードバックをまとめて規約草案に反映――こんな流れで良いか?」
「いいわ。それに、最終日に“種の交換式”を加えて。形式は簡素でいい。互いの尊重を示す行為が必要よ」アメリアは静かに提案した。種のやり取りは象徴だ。そこに付随する説明と約束が、後々の信頼を育てる。
訪問団が薬草園へ到着したのは、風がやわらかくなり始めた午前のことだった。馬車から降りてきたのは、年配の大柄な男――共同体の長らしい――と、彼に寄り添うような小柄な女性技術者、そして数名の若い実務者たち。挨拶が済むと、アメリアは案内役を買って出た。
「はじめまして。遠路はるばるようこそ。ここは私たちの小さな庭です。どうぞ、無理のないように回ってください」
長は深く頭を下げ、目の端に好奇の光を宿している。
最初の実地講習は畝の管理だ。アメリアが土壌の触り方、苗間隔の決め方、天候に合わせた灌水のコツを示すと、技術者の一人が眉をひそめて尋ねた。
「ここでは冬期に霜が出ますか? 我らの地は寒暖差が激しく、低温障害で苗を多く失いました」
アメリアは頷いて、土壌改良と苗の覆い方、小さな温室の作り方を見せる。彼らの目には真剣さが宿る。現地事情が互いに異なるほど、学びの深さは増していく。
午後、拠点の乾燥室でのワークショップ。ルシアンは測定器を並べ、乾燥曲線の読み方を示す。数値が何を意味するのか、なぜ一度のミスがロット全体に影響するのか――地味で骨の折れる話だが、若い実務者たちはメモを取り、道具に触れ、目の前で少しずつ理解を深めていく。
「なるほど。乾燥は単に水を飛ばすだけではないのですね。温度変化と流通の組合せで、薬効が変わるなんて」技術者の女性が目を輝かせる。彼女の声には、都会の研究所で得られる知識とは別の、現場の手触りの価値への驚きがある。
夕刻、村の広場で交流会が開かれた。屋台には薬草ティーと保存食、子どもたちの演奏が並ぶ。訪問団は自分たちの地域の保存食や織物を披露し、薬草園側は作業着のまま互いの皿を回す。笑い声があちこちで弾け、言葉は互いの地の訛りを越えて交わる。
長は盃を掲げると、穏やかな声で切り出した。
「我らの土地にも、長年受け継がれてきた“冬越しの草の包み方”がある。だが近年、若者が減り、その技術は途絶えかけていた。ここに来て、皆の手つきを見て分かった。技術は語らねば消える。あなた方がそれを伝えるなら、我らは我らの包み方を返しましょう」
その言葉に場は静かに温まる。交換は契約ではない。互いの尊重があるだけだ。
ところが、翌日の午前中、想定外の発見があった。拠点技術者の一人が、園の片隅で見慣れない小さな草を指差したのだ。葉の裏に銀色の斑があり、触れると甘い芳香がほんのり立つ。その形質は蒼炎草とは異なるが、近縁の可能性を感じさせる。
「この草は……見たことがない」若者の声が震える。アメリアはそっとその草を摘み、匂いを嗅いでみる。確かに蒼炎草の家系に属するかもしれないが、どこか別種の風味がある。
ルシアンがサンプルを取り、簡易抽出を行う。液を一滴垂らすと、色は蒼炎草のそれより少し青みが強く、香りには海藻にも似た塩味のニュアンスが混ざる。
「まさか、隣接地域の種がここへ流入したのか? それとも古来の変種か」ルシアンは眼鏡越しに言う。データが示す可能性は多い。地の人々の往来、鳥の移動、古い交易路の存在――どれもが種の分布を変える。
長は目を細め、その草を手に取ると、ゆっくりと頷いた。
「我らの祖父母は、このような草を『潮の忘れ草』と呼んでいた。海と山が交わる場所にだけ現れるという。昔は薬として使われていたが、性質が敏感で誤用を恐れて封じられたとも聞く」
その言葉に、場が静まる。未知は危険でもあり宝でもある。アメリアは即座に方針を決めた。
「まずは採取記録を厳密に取り、少量での成分分析を行いましょう。実験は慎重に。伝承の話も含め、許可を得て使うか検討します」
長は深く頷き、「我々は協力する」と言った。その言葉に、訪問団と薬草園の間に新たな協働の糸が結ばれる。
数日後、学術院の支援を受けた分析の結果が出た。新種(または変種)は、蒼炎草と同じように鎮静成分を含むが、微量ながら血行促進の別成分も含むことが判明した。両者のブレンドは、従来の配合よりも短時間で鎮痛と組織回復の両方を促す可能性を示したが、副作用の可能性もゼロではない。伝承が示した「敏感さ」は科学的にも説明がついたのだ。
アメリアは会議で結果を共有し、双方で慎重な段取りを決めた。まずは小規模な臨床試験を共同で行い、実地での安全性と有効性を確かめる。品種保存と同時に、知識の共有を文書化して伝承を守る。長はその案に静かに頷き、双方の若者を中心に実験チームを組むことを約束した。
「この草の扱いは、我らの祖先が残した“戒め”の意味を含む。だが、人は学び続ける。安全を第一にして、だが可能性を閉ざすことはしない」長の言葉は、場の緊張を優しくほどいた。
訪問団が去る日、薬草園の広場で小さな式が開かれた。種の交換はシンプルで、互いの共同体の姓と由来を記したカードが一緒に渡される。アメリアは長に蒼炎草の若苗を手渡し、長は代わりに“潮の忘れ草”の乾燥小袋を差し出した。互いの掌が触れ、温度が行き交う。
「また来ます。互いに学び合いましょう」アメリアが言うと、長はにっこりと笑った。
「来てくれたことが何よりの学びだ。次は我らが貴園へ種を返しに来る。その時は新しい使い方を持ってくるとしよう」
馬車が見えなくなるまで、村の人々は手を振った。訪問団の去った後、畝には小さな空白と新しい可能性が残った。アメリアは苗床の脇で深く息を吸う。隣接地域から持ち込まれた知恵と種は、薬草園の世界をほんの少し変えた――しかし変化は恐れるものではなく、守るべきものを広げるための道でもある。
夜、ルシアンとセイリウスと三人で、乾燥室の前に座った。
「今日の出会いは――予想以上に大きかったね」ルシアンがぽつりと言う。
「うん。学びは一方通行じゃない。相手の伝承を守る約束をしたことが、僕は嬉しい」セイリウスが続ける。
アメリアは夜空を見上げ、小さな紙片を取り出した。そこには長が書いた古い詩の一節が鉛筆で記されている。
「海を知らぬ山が、海の言葉を学ぶとき、風は新しい歌を歌う」
その言葉を胸に、アメリアはそっと目を閉じた。種は旅をし、知恵は回る。薬草園の灯はまた一つ、遠くへと伸びていく――その先には、未だ見ぬ療法と、守るべき新たな約束があるのだと、彼女は確信していた。




