第48話 「冬を越える種――保存と継承の夜」
霜が降り始める季節、薬草園の朝は冷たく澄んでいた。葉の縁に白い結晶が光り、蒼炎草の株は静かに身を縮めている。収穫の忙しさは去り、今は「種」を守るための季節だ。来年の芽をつなぐ保存と分配——それは単なる物理作業ではなく、共同の信頼と未来を定める選択でもあった。
アメリアは早朝から貯蔵庫の棚を一つずつ点検していた。乾燥状態、封の気密、温湿度ログの最新記録。ルシアンが机の上にまとめたデータを指で辿り、セイリウスは保存契約の条文を最終確認している。夜の寒さに手袋をはめたトゥールが、外の倉の鍵をしっかりと締め直す。
「今年は試験的に三か所に分散保管しておきます」ルシアンが言う。地震や火災といった物理的リスク、あるいは政治的圧力が一か所に集中しないようにする措置だ。三つの拠点は山、海、そして王都近郊の学術院分室だ。分散は安全を高めるが、運用が複雑になる。
「分散しても、誰がいつどう取り出すかの手順は明確に」セイリウスが付け加える。「我々の条件での利用許諾は、すべて公開の決議を経ること。緊急時以外は代表会議の承認が必要だ」
その言葉にアメリアは頷いた。管理の透明性を守ることが、現場の自律を担保する一番の防御だと彼女は確信している。
午前、代表会議が開かれ、拠点代表や村の長老、学術院の若手らが集まる。議題は保存計画の最終承認と「種の配分枠」についてだ。各地で必要となる種の量、緊急用と種苗の分離、さらには来年度の研修と配分スケジュール。資料は重く、議論は丁寧に進む。
「我々は種を“商品”にしてはならない」長老が言った。年季の入った声に皆が静まる。「種は明日の命の約束だ。それを金で買い取るようなことがあっては、我々のやってきたことは意味を失う」
発言は重い。市場での試験販売が示したように、利益と透明性は両立しうる。しかし、一線を越えれば共同体の根幹が揺らぐ。代表たちはその危うさを誰よりも理解している。
議論の末、保存ルールが成文化され、署名が交わされた。種は三分割で保管され、それぞれの引き出し条件が厳格に定められる。外部との商取引は、利益配分と作業者への還元が明記された契約を必須とする。緊急時の手続きは代理人制度を通じて二重チェックで行う、といった具合だ。
会議を終えた夕方、アメリアは貯蔵庫の前で一人、手袋を外して掌に種袋を載せる。小さな袋の中には来年の命が眠っている。包装の繊維に指先を押し当てると、畑で働く手の景色が次々と浮かんだ。種を守ることは、誰かの食卓、誰かの夜、誰かの子の未来を守ることだ——その責任を彼女は重く抱いた。
その夜、村に一人の使者が駆け込んできた。息を切らし、帽子を掴んだまま倒れ込むようにアメリアの前に現れたのは、近隣の小さな集落の代表、マルセルだった。顔は青ざめていて、声は震えている。
「アメリアさん、申し訳ないが相談したいことがあります。先日の市場で、ある外商が我が村に種の買い取りを迫ってきました。先払いで大金を提示して、ただし使用制限を付ける――という契約です。村は困窮している。だが、私たちは躊躇しています」
部屋は一瞬で静まり返る。外圧は時に静かに、だが確実に入り込んでくる。ルシアンは素早く資料を用意し、セイリウスは冷静に法的権利とリスクを説明した。
「大金は魅力的です。だがその代償は種の自由を失うことに繋がる可能性が高い。文言を吟味し、共同会議の規定に照らして判断しなければならない」セイリウスが言う。
マルセルの肩には疲れと恥と焦りがのしかかっている。飢えと火事、出稼ぎの不安が村を追い込んでいることは、アメリアも理解している。彼女は静かに立ち上がり、マルセルの肩に手を置いた。
「村の命は村のものです。だが資金が必要なら、我々の枠組みで支援を申し出ましょう。拠点の緊急基金を使い、一次的な支援と技術助言を出す。代わりに種の売却は共同会議の監査付きで行う。それなら、村は種を失わずに助かるはず」
マルセルの目に光が戻る。安堵と同時に、どこかの決意が顔に刻まれる。
数日後、拠点の緊急基金が手配され、マルセルの村には生活物資と種保存のための器具が届けられた。外商は一時的に手を引き、村は共同会議を通して正式な提案を再提出することになった。手続きは時間を要するが、村は独りで判断する重圧から解放された。
だが、安堵のすき間を別の影が横切る。夜半、貯蔵庫近くで人影が動いたという通報が入る。監視班が駆けつけると、鍵はゆるめられていた形跡があった。泥の足跡が一筋、倉の外へ伸びている。これは偶然の過ちか、意図的な下見か——判断は現場の証拠を整理してからだ。
翌朝、学術院の技術官が来訪し、貯蔵庫の封印と監査映像の確認に入る。映像には薄暗い夜の中、外套の影が倉の前に立ち、静かに鍵の周辺を探る様子が記録されていた。人物の顔は映らないが、動きは確信犯めいている。外部からの侵入による下見を否定できない映像だ。
代表会議は急遽開かれ、外部の安全対策を強化することが決まる。夜間の見回りを倍増し、倉周りに簡易の柵を立て、防犯灯を増設する。貯蔵物は中からさらに分割して別の小型金庫へ二重に保管する措置がとられた。セイリウスは法的手続きを進めるため、王都の治安当局へ報告を送る。
「ただし、過剰な警備は地域の生活を圧迫するだけだ」アメリアが制止する。「見守りは必要だが、われわれは閉ざすのではなく、開いて守る。信頼を損なわずに安全を確保する方法を探しましょう」
その言葉を受けて、代表たちは夜の見回りに村人のボランティアを募り、同時に近隣の教会や商人とも連携網を作ることにした。共同体全体で守る、という姿勢は抑止力にもなりうる。外からの侵入者は、見えない共同体の強さを前にしばしば退くものだ。
数週間が過ぎ、監視強化の効果は現れた。夜の不審者は再び姿を見せなくなり、倉の封は厳重に保たれる。マルセルの村では繁茂対策と生活改善の成果が小さく現れ、子供たちの顔色が少し明るくなった。アメリアは夜、蒼炎草の苗床を見渡しながら、一息つく。
「種を守るのは大変ね」ルシアンが小さく言う。彼の声には疲れが滲むが、どこか温かい。
「でも、その手間以上に守る価値がある」アメリアは答える。彼女は掌の種袋をそっと握りしめる。未来は不確かで、危険もある。だが種が守られ、人が育ち、知恵が伝わる限り、希望は消えないと信じている。
夜の風が丘を撫で、薬草園の灯りは静かに揺れた。種は倉の中で眠り、村の者たちもまた眠った。だが見張りの輪は途切れない。誰かの夜が安らぐために、今日もまた誰かが立ち続ける——その連鎖こそが、この庭の本当の力なのだと、アメリアは思うのだった。




