第40話 「青潮の海へ――潮風に乗る決断」
朝の港は静かだった。
波が岸を撫でる音だけが、薄く聞こえる。
昨日の桃色のサンプルは冷蔵庫で眠り、研究室の机の上には乾いたメモと新たな疑問が残っている。
「赤潮苔が活性化を示した。」
アメリアは淡々と告げる。だがその声には熱量がある。
「次は青潮苔だ。相性を確かめなければ、安全に運用できない。」
セイリウスが地図を広げる。ルシアンはデータをまとめ、トゥールが簡易器具の点検をしている。カプラは甲板の上で船の準備を進めた。今回の遠征は、ただの採取ではない。学術的な根拠と安全の担保を持ち帰ることが目的だ。
私たちは出航する。短い文が海を切る。新規の読者へ──海に臨むときは、準備が命になる。経験者はそれを知っている。
港を出てから二刻ほど。海は穏やかだが、潮は速い。カプラの小舟は機敏に波をかい、沿岸の岩礁へと近づく。そこに露出した細い藻の帯が見えた。青い光を帯びるように見える――それが、地元で噂される「青潮苔」だ。
「慎重に行こう」アメリアが声を低くする。
この海域は、潮の流れと漁期の兼ね合いで漁民の生活に直結している。乱暴な採取は許されない。だから、まずは地元の漁師と合意を取る必要がある。
カプラが港町で会ってきたのは、若いリーダー——ミロだった。彼は漁網に深い皺のある手を持つが、目は誠実だ。ミロは言った。
「この海は、祖父から引き継いだものだ。採るなら分け前を、でも一番大事なのは海を壊さないことだ」
アメリアはうなずいた。
「私たちの提案は共有だ。試験採取は最小限にし、採取方法は共同で決める。成功すれば拠点へ分配し、皆の手に知識を渡す」
合意の印は握手だ。手のひらが固く合わさる。港の空気が少し和らいだ。
採取は手作業で始まった。青潮苔は岩にしっかり張り付き、刃先で切り離すときに波しぶきが腕に跳ねる。匂いは海そのもの。塩とわずかな甘みが混じる。
「収量は限られている。だからこそ慎重に」ミロの声は冷静だ。
アメリアは一つずつ葉を選び、傷んでいるものは残す。彼女の指先は薬剤師の手つきそのものだ。薬になるものは、扱いで命を変える。
小舟に積まれた藻袋は、ラベルとトレーサビリティのタグで厳重に管理される。手順は現地の漁師と研究者が一緒に作ったものだ。記録は後で全てデジタルに登録され、だれが何をしたかが分かるようにしておく。透明性、それが今回の前提だ。
昼下がり、陸に戻り試験室へ運ぶ。ガラスの器に粉末状にした青潮苔を投入し、赤潮苔と混合して小さな反応を見守る。静かな時間。三人とも息を呑む。
「温度は±0.2度で保て」ルシアンの声は機械的だが確かだ。
セイリウスは記録を取り、カプラは懐から取り出した港の風土に関するメモを広げる。トゥールが小さなポットをそっと注ぐ。
色は最初、薄い藍色から徐々に深みを増した。粘性は滑らかで、香りには海の深さが混じる。液面に微かな螺旋が立ち、光がその中に踊った。
「反応は……安定の兆しがある」アメリアの声が震える。だがすぐに落ち着く。
「ただし、微量の副生成物が検出された。定量は低いが、これを完全に消す必要がある」
ルシアンが分析装置の結果を示す。ピークが一つだけ頭を出す。それは赤潮苔単体でも青潮苔単体でも出ない、混合特有の「新しいピーク」だ。科学の盲点はいつも興奮と警戒を同時に生む。
「このピークが薬効に寄与するか、あるいはアレルゲン性や毒性を持つか。そこを見極める」セイリウスが冷静にいう。
試験は続く。サンプルは増やさず、段階を踏んで処方が精緻化されていく。だが、夜になって思わぬ事態が起きた。
夜半、保存タンクの一つで微かな発熱が検出された。温度センサーが警報を鳴らす。誰もが駆けつける。
「このタンクは今日の分のバックアップだ……なぜ発熱?」トゥールが息を切らして機械を点検する。だが外見では異常は見えない。液体の色は変わっていないが、揮発性のガスが微かに上がっていることがわかった。
セイリウスは即座に隔離手順を指示する。窓を締め、換気を止め、封鎖。地元の安全基準を上回るレベルの警戒が敷かれる。アメリアは冷静に、だが速やかに方針を決めた。
「まずは冷却。次にガスの成分を特定する。外部の空気循環に影響を与える前に処理する必要がある」
解析は夜通しで続く。結果は朝になって出た。発熱の原因は、混合過程で微量に生成された揮発性の有機化合物だった。それ自体は高い毒性ではないが、密閉環境で濃度が上がれば有害となる可能性がある。最悪の事態は免れたが、「安全の余地」が小さいことが露わになった。
「我々はこの現象を想定しなかったわけではないが、発生頻度と濃度の問題だ」ルシアンはデータを示す。
「処方に微調整が必要。運用基準も厳格化しよう」
アメリアは深呼吸をしてから言った。
「今回、怪我人が出なかったのは協力者の迅速な対応と、トレーサビリティの徹底が機能したからです。だがこれを“想定外”で済ませてはいけない。試験は続ける。ただし基準を引き上げ、採取量も更に制限する」
ミロは静かに頷いた。港の男たちの顔には安堵と責任感が入り混じる。彼らの海は守られねばならない。アメリアたちの責務は、薬を生むだけでなく、リスクを最小にすることでもある。
数日後、処方は再調整を経て再び安定へ向かった。副生成物は低減され、揮発性は検出限界を下回るようになった。だが今回の一件は、遠征の意味を改めて示した。新しい素材には、期待だけでなく慎重さが求められる。現地の文化と生態系を尊重し、科学的に安全を担保すること——それが最優先だ。
夜、港町の小さな居酒屋で、アメリアはミロたちと杯を交わした。笑いもある。議論もある。だがどの表情にも、揺るがぬ誠実さがある。
「私たちはまだ始まったばかりだ」アメリアは言う。
「だが、今回の件で得た知見は大きい。安全基準を引き上げ、拠点へ戻って教育資料を作り直しましょう。次に同じことが起きたら、もっと早く抑えられるはず」
ミロがにやりと笑った。
「お前さん達が来てくれて良かった。海と陸の知恵が混ざると、たまに火花が散るな」
ルシアンが杯を掲げる。セイリウスも、カプラも続く。トゥールはまだ眠そうだが、それでも誇らしげに膝を打った。
新規読者へ――物語は発見と試行錯誤の連続です。リスクを恐れず、それでも安全を第一にする姿勢が、物語の芯です。既存読者の皆さんには、これまでの積み重ねが次の広がりへつながる瞬間を楽しんでほしい。
翌朝、アメリアは港の桟橋で一冊の手帳を開いた。そこにはこう書かれている。
――新しい材料は、新しい問いを連れてくる。問いに向き合う勇気があれば、道はできる。
青潮苔の試作は成功の兆しを見せつつある。次は規模をどう広げるか、環境と文化をどう守るかの課題だ。だが三人は知っている。種を蒔き、育てるのは一人ではない。港の人、山の人、学術の人、それぞれの手が繋がってこそ、薬は誰のものでもなく「みんなのもの」になるのだ。
波の音が、今日も港町に響く。次にどんな潮が来るのか、誰にもまだ分からない。だが確かなのは、彼女たちがその潮に立ち向かい、道を切り開いていくことだ。




