第38話 「潮流の正体――組合長の決断」
港町フィウナの朝は、鋭い潮の匂いで始まった。桟橋に立つと、潮風が顔を洗い、木の甲板が軋む音が耳に入る。町の人々はもう働き始めていて、網を運ぶ者、干し藻を束ねる者、呼び声を上げる商人たち。遠くでカモメが一羽、波間に向かって旋回している。
アメリアは背筋を伸ばし、深く息を吸った。今日の相手は港の商業組合長——フィウナで最も影響力のある人物だ。彼の一言が、この地域の交易の流れを決める。ここで失敗すれば、せっかく築きかけた信頼は水泡に帰す。
「静かだね」ルシアンが隣で小声で呟く。彼の掌には、昨晩まとめた交渉用の資料が握られている。セイリウスは法的な枠組みを再確認し、王都と地域との合意文書の下書きを繰り返し読み直していた。三人は各々の武器を持っている——知識、法、そして現場の経験だ。
門口に導かれて、石造りの会所へ通される。中は客人を迎える重厚なつくりで、壁には過去の交易の様子を描いた絵がかかっている。中央の長い机の向こう側に座っていたのは、想像以上に落ち着いた風貌の男だった。彼は組合長——マルコ・セベリウス。白髪交じりの髭を整え、目は鋭いがどこか人間味がある。
「アメリア・フォン・ハーヴェストか。船長から話は聞いている」
マルコは手元の石杯を軽く指で叩き、こちらを見た。その声は港の風のように低く、漁師たちに慣れた確かな響きがあった。
アメリアは深々と頭を下げる。「本日はお時間をいただき、ありがとうございます。私たちはこの地の海藻を、医療や保存に役立てられないかと考えてまいりました」
「医療か」マルコの眉がわずかに上がる。「我々の扱う海藻は長年、家計の足しになってきた。新しい用途が見つかれば確かに好い。しかし、ただ利益が増えれば良いという話とも違うだろう?」
アメリアは頷く。「その通りです。ここで採れる素材は、ここで暮らす人々の生活と直結しています。私たちは共同で管理し、利益配分も透明にしたい。何より、持続可能な採取法を守ることを第一に考えています」
机の上でマルコは指を組み、ゆっくりと言葉を紡いだ。彼の言葉の節々には、長年港を見てきた者の実感がにじむ。
「我々が恐れているのは“外”だ。大金を持ってくる商人が現れて、大量採取・安値買いを押し付けること。そうなれば、海は枯れ、漁民の暮らしも壊れる。だが……お前さんの顔を見ていると、単なる利益だけを追いに来た人には見えん」
会話は穏やかだが、芯は堅い。アメリアは用意してきた提案書を一枚ずつ丁寧に差し出した。そこには共同管理の仕組み、利益配分のモデル、品質と採取基準、試験生産のスケジュール──すべて現場を尊重する文体で書かれている。ルシアンの数値は、保守的に見えるが信頼性が高い。
マルコは一枚ずつ目を通す。隣でセイリウスが、法的な保護の枠組みと王都の支援の有無、国庫からの補助金の手続きについて簡潔に説明した。そこには、組合が独自に選別できる保護条項や、国が介入しても地元への優先的配分を保障する案が含まれていた。
「だがな」マルコは指を一本立てる。「条件が一つある。お前たちが持ってくる“仕様”は、この港町の土着文化を壊さないこと。海藻の採取には、昔からの氏族ごとの暗黙のルールがある。そいつを守れ」
その言葉に、場の空気が温かくなる。アメリアは笑って頷いた。「それは私たちも望むところです。現地の知恵あっての素材です。必ず尊重します」
交渉は順調に進んだかに見えた。だが、仕上げ段階で、別室から男が乱入してきた。背広に着飾った若い商人──外商の代理人だ。彼は威勢よく机を叩き、荒々しい声で言った。
「組合長、そんな悠長な話をしている暇はない! 我が社は大量の需要ルートを持っている。海藻を割安で買い取り、迅速に輸出すれば双方に利益が出る。お前たちは機会を逃すな!」
部屋の温度が一瞬下がる。外商は笑顔を作りながら、書類の束をテーブルに押し付ける——高額の先払い、即金の提示、広域流通の約束。都会の論理はいつだって端的だ。だが、その裏には、港の人々の生活を均衡させるための配慮が欠けている。
マルコの顔が硬くなる。彼は静かに椅子から立ち上がり、外商の書類を一瞥してからゆっくりと言った。
「お前の提示は派手だ。だがこの港のルールを無視している。お前らが来て誰かを“買い叩き”たとして、その場では金は回るかもしれん。だが明日の海は無くなる。お前らは“海のこと”を知らん」
外商は赤くなり、言葉を荒げるが、マルコはそれを遮った。
「だがな、若い娘よ。お前の提案には誠意がある。俺はそれを評価する。ただ、俺の役目はこの町を守ることだ。よって、条件付きで話を進めよう。三ヶ月の試験期間、採取量と方法は組合と共同で決める。それで品質と環境影響が問題なければ、次の段階に進める」
部屋には一拍の沈黙が落ちる。外商は顔をしかめるが、算段を取り直すように唇を噛む。結局、彼は指をさして言った。
「三ヶ月なら受けてやる。ただし先払いは半額で――」
交渉は長く続いたが、アメリアたちの「透明性」と「地域尊重」の姿勢が、港側の信頼を少しずつ勝ち取っていった。セイリウスの法的文書は、外商の暴走を抑える保護条項を含める。ルシアンの品質基準は、港の工程を妨げない現実的な数値に調整される。マルコは最後に、組合員を代表して一枚の紙に印を押した。
「よろしい。まずは試験。だが、お前らも覚えとけ。海は一人のものではない」
会所を出ると、夕陽が港を金色に染めていた。アメリアは胸の奥に小さな安堵を感じると同時に、まだ残る緊張も覚えた。権益は一つの合意で完全には消えるものではない。だが今日の一歩は確かな前進だ。
帰り道、カプラが舵の手を止め、アメリアに寄り添う。
「女はな、話し方で世界を変える力がある。お前はうまくやった。だが忘れんな、海は湾口で誰かが利益を取ると、一番下の漁師にしわ寄せが来ることを」
アメリアは海に目をやる。そこに映るのは、群青と銀の揺らぎ――美しく、しかし脆い。
「分かっています。私たちの仕事は、そうした“脆さ”を守るための仕組みを作ること。薬が必要な人に届くように、誰も不当な犠牲を払わないように」
ルシアンが肩越しに小さな紙を手渡す。そこには、試験計画のスケジュールと、港側との責任分担が簡潔にまとめられている。三人で目を合わせ、短く笑う。
夜、港の灯りが一つまた一つと灯り、海風が塩の匂いを強める。遠征はまだ序章に過ぎない。だが今日、アメリアたちは学んだ。土地の人々の暮らし、交易の論理、外から来る資本の圧力——すべてを俯瞰し、相互に尊重するルールを作らねば持続はしない。
港の波は静かに砂に打ち寄せる。次は、試験の結果と新たな素材の実用化——海と陸を繋ぐ本当の作業が待っているのだから。




