第36話 「遠征の序章――風を味方にする者たち」
朝靄が丘を撫でる時間帯、薬草園はいつもより静かだった。だが、その静けさは準備の音で満ちている。馬車に積み込まれるのは、ただの荷ではない──苗箱、蒸留器の簡易キット、トレーサビリティ台帳の写し、教育用の小冊子、そして何より「人」。拠点拡張のための第一陣が、今まさに旅立とうとしていた。
「緊張しますか?」アメリアは、馬車の手綱を握る若者にそう声をかける。
若者は短く笑みを返した。「ええ、でも楽しみです。現地で何が起こるかわからない。その分、学べることも多いはずですから」
今回の遠征団は三つの顔ぶれが混ざっている。
・現場運営に慣れた村人たち(実務担当)
・学術院の若手研究者(品質管理・技術支援)
・研修を終えたばかりの若者たち(教育と拡散役)──彼らが「拠点ラボ」第一号を北に設置するために向かうのだ。
ここで、既存読者には少し深掘り、新規読者にはわかりやすく:拠点ラボとは何か? 簡単に言えば「地域ごとの薬草生産と品質管理のミニ学術院」。中央(王都)からだけでなく、地方の声を反映できる小さな実験場であり教育現場だ。アメリアが作りたかった“現場が主役のネットワーク”の核である。
馬車が丘道を下り始めると、村の子どもたちが駆け寄ってきて手作りの護符や乾燥ハーブを差し出す。手を振るアメリアの目には、誇らしさと切なさが同居する――出発は嬉しいが、大事なものを預ける不安もあるからだ。
ルシアンは書類の最終チェックをしている。彼は数字に強いが、人の顔を見るのがうまい。セイリウスは王都側との連絡役を担い、万が一の法的トラブルに備えて遠征団の権限と保険を整えた。三人のチームワークは、ここ数年でより堅くなっている。
旅路の途中、遠征団は港町を通る。そこで新たな人物が現れた。漆黒の外套に包まれた中年の女性──カプラ。物腰は柔らかいが、目が鋭い。彼女は交易船の船長であり、沿岸地域の文化や薬材に詳しいことで知られている。港での偶然の出会いが、今回の遠征に思わぬ色を添える。
「拠点を海沿いに設けるつもりはないのか?」カプラは乗り込んできた若者に問いかける。
トゥールが答える。「今回は内陸の侯領からの依頼でした。ただ、沿岸からの海藻や潮性薬材の取り込みは将来的に検討しています」
カプラはにやりと笑った。「ならば、私が協力しましょう。海路での輸送と、海性素材の採取法。現地の人脈も使えますよ」
既存読者にとっての魅力は、ここでの技術的ディテールと人脈の広がりだ。新規読者には、カプラの登場が物語に海の風を持ち込み、単なる内陸の農業ドラマではないことを示す。交易と文化の交差点、そこが新たな舞台になる可能性を感じさせるのだ。
遠征団は一週間かけて山裾の小侯領へ辿り着く。侯領の担当は、穏やかだが慎重な領主代理ロデリック。彼は地元の伝統を守りながらも、住民の暮らしを改善する手段は受け入れる人物だ。歓迎の夕餉でアメリアは次のように話す。
「私たちは薬を『売るため』ではなく、『人々に届く』ように作ります。ここで重要なのは、現場の声を尊重すること。栽培法は共に作っていきましょう」
その言葉が響く。ロデリックは静かに頷き、地域の代表たちも表情を柔らかくした。彼らが恐れているのは“押し付け”である。アメリアのやり方は必ず現地参加を求める。だからこそ、受け入れられる。
翌朝から実地が始まる。土壌診断、苗の選定、乾燥室の仮設設営。研修生たちは手を動かし、学術院の研究者は簡易機器で成分の予備検査を行う。作業は汗臭く、地味だが充実している。トラブルも起きる。現地の気候は想像より湿度が高く、乾燥工程の見直しを余儀なくされる。そこでエラズが提案した「二段階通風ラック」が効果を発揮する。若者たちの知恵と現地の工夫が融合し、期待以上の成果を生む瞬間だ。
物語の筆致を変えた今回の章では、描写に“テンポの良さ”と“親しみやすい解説”を意識した。既存読者はこれまでの積み重ねを思い出しつつ、より広がる世界観にワクワクする。新規読者は、「何が起きているか」をつかみやすく、登場人物に感情移入しやすいはずだ。
夕暮れ、作業を終えた一行は丘の上に集まり、地元の人々と初めての共同宴を持つ。火の周りで語られるのは、方法よりも信頼の話だ。ロデリックの母が静かに言った。
「私たちの土地は、昔から薬草を知っている。だが、新しいやり方も受け入れてみたい。あなた方と一緒なら、道は開けるかもしれない」
アメリアはその言葉に微笑を返す。胸の中には、まだ見ぬ遠い未来の景色がある――各地に小さな拠点が点在し、互いに支え合いながら薬が必要な人のもとへ届く世界。だが、彼女は分かっている。この道は一朝一夕ではできない。文化と習慣、経済と政治を少しずつ紡いでいくしかない。
夜、三人は小屋の外で明日の計画を確認する。カプラは甲板仕事のコツや港での人脈を話し、意外な協力の芽を見せた。ルシアンはデータの共有方式を調整し、セイリウスは法的な枠組みの確認をする。アメリアは蒼炎草の苗を見つめ、小さな指で土を撫でる。
「種は蒔かれた。あとは育てるだけ」彼女は呟いた。声には確かな温度がある。
だが遠征は序章に過ぎない。夜空に浮かぶ星の一つが、遠く海の方向へと流れていくのを三人は見た。




