第29話 「暴かれる帳簿――名を刻む者」
村は朝靄に包まれて、いつもより静かだった。遠くの丘々がぼんやりと輪郭を現し、薬草の香りだけが静かに漂う。だがその静けさの下では、嵐のような一日の準備が進んでいた。
学術院と王室の共同調査は、ここ数日で小さな網目のように張り巡らされていた。ミカエルが持ち込んだ古い伝票、ルシアンの精密解析、セイリウスの法的突合――その三者の働きで、やっと「線」が一本、太く浮かび上がってきた。だがそれは同時に、誰かの顔を晒すことを意味していた。
「今日、王室は公表するつもりです」レオンハルトの短い声が、研究小屋の空気を刺した。彼は学術院長とも連絡を取り、王の許可も得ている。顔には疲労が滲むが、目には揺るがぬ決意がある。
アメリアは深く息をつき、テーブルの上に並べられた写しの山を見渡した。欠けていたピースがつながり、帳簿の中で金の線が走っている。発注書、振替伝票、署名の写し――そして、問題の“保存処理”を指示したらしき書簡の断片。断片はまだ完全な文書ではないが、筆跡とインク成分、送り先の印があまりに具体的であった。
「相手は……」ルシアンが声を潜める。「この手の流れは、単なる貴族の利権ではありません。王都の貿易路と、行政のオフィスが絡んでいます。誰かが制度の縫い目を知っていて、それを利用したんです」
「まさか、あの名前がここに――」セイリウスの言葉が止まる。連なる名前は、かつてアメリアが“影”として感じた人物たちのものだ。学術院の中枢に近い者、王都の裏通りで顔の利く者、そして商工会を通じて利益を集める者。だが、決定的なのは「誰が最終的に署名をしていたか」だ。
正午、王室の使者が広場に集まった人々の前で、静かに告げた。公的調査の中間結果を発表するという。村の空気が張り詰める。アメリアはルシアンとセイリウスに視線を送る。二人は小さく頷いた。
「まず、我々はこの場で一つの事実を確認します」王室法務官の低い声が広場に響いた。「資材調達課で扱われた複数の伝票に、改竄の痕跡が認められ、改竄に用いられたインクの成分と、学術院外郭と繋がる口座への疑問のある振替が突き止められました。これを受け、当該課の課長は既に拘束されています」
ざわめきが広がる。しかし王室法務官は続けた。「さらに、我々は本日、新たな証拠を公表します。これにより、ある者の名を公にします。調査は継続中であり、法に従って聴取と手続きを行います。だが、国の安全と民の信頼のために、これ以上の曖昧さを許すわけにはいきません」
場内が静まる。誰もが次の言葉を待つ。王室の代理が一枚の封筒を開くと、そこに入っていたのは、明瞭な筆跡で付された一通の短い手紙。封の割れ目、インクの滲み方、押された印章――すべてが古い調達ルートを示唆していた。
「この文書の筆跡は、王都の有力貴族――アントワーヌ・ヴァレンティン侯の事務署にて過去に確認された筆跡と一致します」法務官の声は静かだが、言葉の重みは村の空を震わせた。
アントワーヌ・ヴァレンティン侯――その名を聞いたとき、村の一部には嘆息が漏れ、一部には怒気が走った。侯爵はかつて王都で慈善や学術を支援する顔を持ち、公の場では模範的な振る舞いを見せていた。だが影では、交易と利権で王都の影響力を拡大してきた存在だと噂されていた。
「なぜ侯爵が?」村長の声が震える。
レオンハルトは短く言う。「ここで重要なのは“なぜ”です。証拠が示すのは、『資金の流れの末端に侯爵の関与を示す記録がある』ということ。侯爵が直接手を下したかどうかは、法の手続きで明らかになる。だが、国はこれを看過しないと宣言します」
午後、学術院の代表と王室の調査官は侯爵の屋敷に向かう準備を進めた。だが、その前に一つの問題が浮上した──侯爵は王の側近とも深いつながりを持っている。事を進めるには慎重な対応が必要だ。王は、公正な手続きを経た上で責任を明らかにする意志を示していたが、政治的な駆け引きがすでに始まっている。
「外の圧力がかかるだろう」セイリウスが呟く。「だが、真実は闇に埋もれてはいけない。もしも侯爵が関与しているなら、被害者は辺境の人々だ。私たちはその人たちのために動かねばならない」
夕暮れ前、侯爵邸へ向かうと告げられた調査団の出発を見送るため、人々が集まった。アメリアは静かに、だが強い視線で馬車を見送る。彼女の中で、守るべきものの輪郭がさらに明瞭になる。薬草園の苗床、村の笑顔、王都で癒えた兵士の安堵。すべてが問い直されている。
――だが、物語はここで一筋縄では終わらない。
夕刻、研究小屋の窓から帰り道を見つめていたトゥールが走り込んできた。彼の顔は青ざめ、息を切らしている。
「アメリアさん! 学術院から連絡がありました。侯爵邸に戻る前に、侯爵側から“聴聞の停止”を求める正式な訴えが王に届けられたそうです。理由は“国家安全保障上の懸念”――だそうです」トゥールの声は震える。
「国家安全保障?」アメリアの心が一瞬固まる。その言葉は、これまでの手続きを政治の力で止めようとする意図を意味することが多い。誰かが、法の手続きを封じようとしているのか。
その夜、馬車列は侯爵邸へと辿り着いた。学術院の調査団と王室の使者が邸宅の門を通ると、侯爵邸は表向きには静寂を保っていた。しかし門の奥、重厚な扉の向こうでは、侯爵自身が高位の客を迎え入れている様子だという。貴族の社交――その場では何が語られ、何が取り決められるのかは外部には見えない。
翌朝、学術院からの電報は簡潔だった。王は侯爵邸での“必要な説明”を一度聞いた後、調査の一部停止を命じるという。王宮は「国家の安定」を理由に挙げ、これは一時的措置であるとした。だが王の声明が出ても、世間の反応は割れた。支持する声もあれば、「権力の忖度だ」という怒声もある。
アメリアは夜通し眠らなかった。窓の外の星が冷たく瞬く中で、彼女は手帳に一行だけ記した。
――法と正義は、強さだけで守ることはできない。信念と知恵が必要だ。
彼女は決意を固めた。城の手続きや王の意志だけに任せるわけにはいかない。己の足で、証拠を積み、声を集め、真実を示す必要がある。外的圧力がかかるほど、守るべきものは鮮明になる。だがその代償もまた大きい。
夜更け、ひとりの影が薬草園の入り口に立っていた。来訪者は静かに足を進め、小さな包みをアメリアに差し出した。包みを開くと、中には侯爵邸の内側から抜き取られた小さな紙片が入っていた。濡れたインクの一文字が、ほのかに光る。
「——これで、誰かが動いた理由の一端が見えるかもしれない」差し出したのは、かつて侯爵邸で使用人をしていた老女だった。彼女の目には恐怖と希望が同居している。
アメリアは紙片を胸に据え、静かに頷いた。嵐が権力の屋台骨を揺るがす今、真実を刻む者が名を挙げるか、あるいは名が消されるか。薬草園の小さな灯は揺れるが、決して消えることはないと、彼女は自分に誓うのだった。




