第26話 「海外からの使節――未知との協業」
辺境の朝は、いつもより早く目覚めたように感じられた。空気が鋭く澄み、遠くの丘を渡る風はどこか異国の香りを含んでいる。今日は特別な来訪者があると告げられていた――東方の海を越えた連邦からの使節団だ。
「使節団の名簿によると、医療担当の長は“マルカス・アル=ファーリド”。伝承薬学と海洋原料の研究で知られる人物のようです」
ルシアンが小声で耳打ちする。彼の手には、学術院から送られてきた詳細な書類がある。だが、書類だけでは伝わらない何かがこの日の空気にあった。
広場に設えられた迎賓テントには、それぞれの国旗がはためき、村人たちが列を作る。馬車が土を蹴り、異国風の装束に身を包んだ一行が降り立った。長身で濃紺の外套を纏った男が、静かに前へ出る。黒褐色の肌と緑がかった灰色の瞳。彼がマルカスだった。
「辺境のハーヴェスト薬草研究園に来られて光栄です。私はマルカス・アル=ファーリド。わが国では海藻類を用いた新たな治癒素材を研究しています」
彼の日本語は流暢ではないが、ひとつひとつに誠実さが滲む。アメリアは微笑みで応え、村を案内した。
「ここは小さな場所ですが、薬草と人の物語が詰まっています。ぜひ、見て行ってください」
アメリアの言葉にマルカスは深く頷き、同行者たちと共に畝を歩いた。蒼炎草の若苗に彼の瞳が留まる。側近らしき女性が資料を用意し、細かくメモを取る。
視察の合間、マルカスは低い声で言った。
「我々の地では、海藻由来のポリマーが魔力の伝達を穏やかにするという報告があります。癒光液の調整にも応用できるのではないかと考え、直接学びに来たのです」
その言葉に、セイリウスの眉がぴくりと上がる。海――異なる生態系から来る物質は、確かに未知の相互作用を引き起こす可能性がある。だが同時に、広がる可能性も大きい。アメリアは内心で期待と警戒を同時に抱えた。
代表団は薬草園での数日間の共同実験を望んだ。王都の学術院とも調整が済めば、技術交換と試験栽培、さらには人材の交換研修まで進められるという。村長や共同委員会も慎重ながら好意的で、最終的には「限定的な共同実験」という枠組みで合意が形成された。
初日の夕刻、研究小屋の中は活気に満ちていた。海藻由来のエキスを蒸留し、癒光液の新たな触媒として微量添加する。三人(アメリア、セイリウス、ルシアン)はマルカスとその技術者たちと向かい合い、緊張と高揚に満ちた時間を過ごす。
「まずは極微量から。海性成分は水分子との結合が強く、魔力伝導に独特の影響を与えます」
マルカスは慎重に指示を出し、セイリウスが魔力計で反応を追う。ルシアンはノートに波形と観察を記録する。アメリアは感覚で香りと温度を確かめ、調合を微妙に手直しする。
瓶の中で光が踊る。淡い緑から青へ、いつもとは違う軌跡を描いてゆっくりと変わる。誰もがその光の動きに息を呑む。
「興味深い……」
セイリウスの声が小さく漏れた。「反応が滑らかだ。だが、波形の遷移に僅かなゆらぎがある。これは新たな制御手法が必要になるかもしれない」
その夜、初回の試験は成功と呼べる段階に達した。患者役のぬいぐるみに投与した模擬試験では、魔力共鳴が安定し、温和な反応を示した。歓声が上がる——だが、喜びの裏には小さな不安が残る。
翌朝、問題は突如として姿を現した。共同ラボの乾燥棚に並べられていた、辺境産の乾燥ハーブの一群が、表面に淡い白い粉を吹いているのが見つかったのだ。最初はカビかと思われたが、顕微鏡で覗くとそれは通常の胞子とは異なる、微細な結晶状の粒子だった。分析すると、不自然な形で海性ポリマーとの相互結合を示していた。
「これは……混入か、あるいは化学反応の副生成物か」
ルシアンが眉を寄せる。だが、記録を見ると、問題のロットは昨夜の外部技術者が扱った際に棚に置かれたものだ。時系列は否応なく、不穏な連鎖を暗示する。
「外部の材料が影響しているのか。だが、混入が意図的とは限らない」
マルカスが静かに言う。彼の表情には誤解を解きたいという焦りがあるようにも見えた。セイリウスは冷静に、だが確実に問いかける。
「管理記録を出してください。誰がどの段階で触れたか、器具の使用履歴、手順をすべて」
調査は即座に始まった。監視の魔法記録、入出庫ログ、技術者の着衣検査、使用した溶媒のサンプル。だが、どれだけ洗っても、あの結晶の発生源は霧の中のように掴めない。しかも奇妙なことに、問題が見つかったのは外部の来訪者と接触した一部のロットのみであり、他は無事だった。
「誰かが意図的に混ぜたと疑うのは簡単だが、証拠がない」
アメリアは声を震わせないように努めながら言った。「私たちはまず、被害を食い止める。被害の拡大を防いで、原因を突き止めることが先です」
しかし、その夜、学術院の連絡網に緊急の電報が届く。王都からの――「国内の一部病院で、癒光液使用後に異常反応が確認された」という報告だ。症状は一様ではないが、いくつかのケースで使用後に一時的な魔力暴走が確認された。使用バッチは辺境の共同生産ラインの一部と一致するという。
情報が広がる速さは、嵐のように薬草園を襲った。急遽、学術院と王室からの指示で、辺境の出荷は即座に差し止められ、共同委員会は緊急会合を招集された。村は不安に包まれ、子どもたちが家の中へ駆け戻る。
「我々のやり方が、誰かの悪意に利用されているのかもしれない」
ルシアンの声が震えた。セイリウスの目は鋭く、だが揺らいでいない。
「可能性はある。だが今は“誰が”よりも“何が”を先に突き止める。原因を明らかにしない限り、誰も助けられない」
セイリウスのその決断は、皆の胸を落ち着けた一方で、冷たい現実を突き付ける。
その夜、アメリアは薬草園の丘に登り、満天の星を見上げた。風が冷たい。遠くの学術院からは灯りが漏れ、王都の方向には、嵐の前の静けさのような気配がある。
「どうして、こうなるの……」
彼女は小さく呟き、自らの手の中にあった蒼炎草の葉を握りしめる。葉の感触が震えるのを感じた。
突然、村の門口で物音がした。誰かが息を切らして走ってくる。アメリアは走って降りると、駆け寄ってきたのはトゥールだった。顔は青ざめ、手には小さな紙切れを握りしめている。
「アメリアさん! 王都からの電報だよ! ――『辺境由来のロットに関して、王室は即時調査のため軍の介入を検討中。国外の使節の一部は帰国を要求されている』って書いてある! でも、その電報の差出人の署名が……」
トゥールが紙を震える手で差し出す。そこには王都の公式印と共に、見慣れた名が赤で印されていた――だがその名を見た瞬間、アメリアの胸を冷たい衝撃が貫いた。署名の下に手書きで添えられた文字が、過去の陰謀の残滓に酷似していたのだ。
「――これは、偽造か……いや、違う。署名は本物だ」
アメリアは震える声で言う。だが、次の瞬間、彼女の目の奥に炎が灯った。
「ならば――我々で真実を明らかにするしかない。王都が動く前に、私たちが原因を突き止め、無実を証明するんだ。外部の使節も巻き込まれているなら、彼らを守る義務もある」
その言葉は、辺境の夜に凛と響いた。丘の影が長く伸び、薬草の香りがいつもより強く香る。未知と危機が同時にやってきた今、アメリアたちは動くしかなかった。だが、誰が敵で、誰が味方か――その線引きは、もう簡単にはできそうにない。
――果たして、この嵐は“偶然”なのか、“仕組まれた罠”なのか。次の瞬間、薬草園の扉を小さな影がノックした。扉の向こうに立つ人物の姿が見えたとき、アメリアは瞬間的に全身に戦慄を感じた。
そこにいたのは――見覚えのある古い羽織を着た、ただ一人の人物だった。彼の顔は影で読めない。しかし、その立ち姿だけで、過去の記憶と現在の危機が、冷たい糸で結ばれたように感じられた。
「来るな――とは言えないわね」
アメリアは声を潜め、もう一度深呼吸した。扉はゆっくりと開かれる。村の夜が、音を立てて変わり始めていた。




