第10話 「心の距離――春の嵐」
春の嵐は、前触れもなくやってくる。
その日の辺境の空も、朝から不穏な風が吹いていた。
薬草園のミントの葉がざわめき、青い空の端で雲が渦を巻く。
「今日は風が強いですね……実験は延期した方がいいかもしれません」
ルシアンが不安げに空を見上げる。
「ええ。でも、“蒼炎草”の調合は今日しかできないの」
アメリアは真剣な表情で小瓶を見つめた。
「魔力周期が合うのは、今日の夕刻だけ。逃したら次は一月後になるわ」
ルシアンはためらい、そして頷いた。
「わかりました。じゃあ僕がサポートします」
アメリアは微笑んだ。
「ありがとう。あなたがいてくれると心強いわ」
午後、研究小屋の中には緊張が満ちていた。
蒼炎草を中心に、十数種類の薬草と魔力結晶が並んでいる。
アメリアが指先で魔力を流すと、瓶の中の液体が淡い光を帯びた。
「順調です。温度も安定しています」
ルシアンが計器を確認する。
「よし、このまま一滴ずつ魔力導管を――」
そのときだった。
外の風が突風となり、窓を激しく打ちつけた。
瓶が一つ、倒れそうになる。
「アメリアさん、危ない!」
ルシアンが思わず手を伸ばし、アメリアの肩を引き寄せた。
次の瞬間、瓶が爆ぜるように光を放ち、
二人の身体が近くで重なった。
アメリアの心臓が一瞬止まったように感じた。
ルシアンの腕の中、熱と鼓動が伝わる。
「……怪我はありませんか?」
「だ、大丈夫……ありがとう、ルシアン」
顔を上げたアメリアの頬に、風で乱れた彼の前髪が触れる。
息が触れそうな距離。
ふいに、胸の奥がざわめいた。
だが、扉の向こうから聞こえた声が、その空気を裂いた。
「アメリア」
振り向くと、そこにはセイリウスが立っていた。
嵐の中でもその瞳は静かだが、確かに怒りを湛えていた。
「無断で実験を進めたのか?」
「違うの、セイリウス。予定通りに――」
「嵐が近いと知っていてか? 危険すぎる」
低い声が小屋を震わせた。
アメリアは言葉を失う。
ルシアンが一歩前に出た。
「僕が強行を提案しました。責任は僕にあります」
「お前に責任を取れるのか?」
セイリウスの言葉には、普段見せぬ鋭さが宿っていた。
「アメリアに何かあったら――お前はどうするつもりだった?」
「……僕は、守るつもりでした」
「守る?」
セイリウスが冷たく笑う。
「力も経験も足りない者が、守ると?」
「セイリウス!」
アメリアの声が鋭く響いた。
「もうやめて。彼を責めないで」
その声に、一瞬の沈黙が落ちた。
「……わかった」
セイリウスは静かに息をつき、背を向けた。
「好きにしろ。ただし――二度と命を賭けるような真似はするな」
そう言い残し、彼は嵐の中へと去っていった。
嵐の夜。
雨音の中、アメリアは灯りもつけずに書斎に座っていた。
机の上には、冷めたハーブティーと、ひとつの封筒。
セイリウスからの手紙。
『王都から召喚状が届いた。二日後、戻らねばならない。』
その文字を見つめるうち、胸の奥がずきりと痛んだ。
ルシアンがノックもせずに入ってきた。
「アメリアさん……大丈夫ですか?」
「ええ。少し考え事をしていただけ」
「セイリウス様……怒っていましたね」
「怒っていたというより、心配してくれたのよ」
アメリアはかすかに微笑んだ。
「あなたたちは似ているわ。
真面目で、不器用で……人を想っても、うまく伝えられないところが」
ルシアンは驚いたように目を見開いた。
「僕が……セイリウス様に?」
「ええ。だけど、あなたはあなたのままでいいの」
静かに立ち上がったアメリアは、窓の外の嵐を見つめた。
「私ね、どんな結果になっても後悔はしないつもり。
誰かのために動けるのは、幸せなことだから」
ルシアンは何も言えなかった。
ただ、その背中が痛いほど眩しく見えた。
夜が明ける頃、嵐は嘘のように静まり返った。
雲の切れ間から光が差し込み、濡れた薬草園が輝く。
セイリウスは荷をまとめ、馬車の前に立っていた。
アメリアが駆け寄る。
「行ってしまうの?」
「ああ。だが――戻ってくる。
お前が無事で、笑っていられる限りは」
彼はそう言って、ほんの一瞬だけ彼女の頬に触れた。
指先に、温もりが残る。
アメリアは何も言えず、ただ頷いた。
その後ろで、ルシアンが静かに拳を握っていた。
胸の奥に、小さな決意が芽生える。
――次こそ、自分の力でアメリアを守る。
その日、薬草園には新しい芽がいくつも顔を出していた。
嵐が過ぎ去り、風がやさしく葉を撫でる。
アメリアはその小さな芽を見つめ、そっと微笑んだ。
「嵐のあとには、きっと光が差す」
その言葉は、まるで自分自身に向けられた祈りのようだった。




