第七章 母の愛
大きな総合病院の待合室にコヨミはいた。
百人以上収容できるであろう待合室だった。その一番端っこの椅子に、体育座りして身を小さくしていた。
カチ、コチ、と時を刻む時計の音だけが響く。ちょうど、長短二本の針がぴっちりと重なり、日付の変更を知らせるところだった。コヨミ以外、誰もここを通りやしない。
鼻先の絆創膏と左腕の包帯は、きちんと正しい処置を施された上、新品に交換してもらえた。ずるむけになった踵と、小石を踏んで傷だらけだった足裏は、泣くほど染みる消毒液に浸され、今は絆創膏で蓋をしている。血だらけの寝間着だけが、なんの処置も施されずにそのままだった。
キュルキュルと、ミニカーでも転がしているような音がした。
顔を上げるのがだるくて、自分の膝にほっぺたを預けたまま、音が近づいてくるのを待った。
視界の中にずい、と入ってきたのは、小さなタイヤが付いた点滴スタンドの足と、病院のサンダルを履いた人間の足だった。
「おばさんは」
その足の主は言った。
「怪我がひどいけん、病室におる」
コヨミは答えた。
「警察は?」
今度はコヨミが聞いた。
「僕が下がらせたよ。今の君には、障害でしかないと思ってね」
足の主は答えた。
「うちに何を求めとるん……」
コヨミは膝の中で卑屈に笑うと、顔を上げた。
点滴スタンドにもたれかかるように立っていたのは、FBI捜査官のジョーだった。
顔面は蒼白、頭の先からつま先まで傷だらけだったが、奇跡的に生きていた。今は病院の検査着を着て、輸血パックから血を貰って生き延びている。
彼はとても寂しそうな目をしていた。
なぜそんな眼差しでコヨミを見るのか、わかってはいたがやめてほしかった。
〝戦争〟に生かされたことが、マッケンジーに生かされたことが、抜けないささくれのように心に突き刺さって痛かった。
「うちは、タバコも吸うし、学校もサボる、お酒だって……この前、ちょっと飲んでみて……」
頼んでもいないのに、そりゃ、死にたくなんてなかったけど。
「みんな……なんで寄ってたかってうちを守るん……?」
自然と涙が込み上げてきた。ジョーに聞くわけでもなく、答えが欲しいわけでもなく、顔をくしゃくしゃにして、一人つぶやいた。
二人とも命をかけて、なんでなん。死んだらなんにも残らんのに、なんでなん。こんな、ゴミみたいなうちを、なんで、なんでなん、なんでうちなんかのために――そう思うとなおさらみじめで、惨めでみじめで、鼻の奥がつーんとした。生きていてごめんなさいと、二人に言いたかった。言わなければならない気がした。それ以上ジョーに見られたくなくて、膝に顔をうずめた。
「9.11って、知ってるか」
長い沈黙を破って、ジョーが口を開いた。
貧血で辛いだろうに、彼はそのまま、立ったまま話し続けた。コヨミは頭頂部に彼の視線を感じながら聞いていた。
「アメリカで起きた同時多発テロだ。多くのアメリカ人が……犠牲になった」
コヨミも一度だけ、テレビで見たことがある。
あまりに衝撃的すぎて、今でも覚えている。
どちらが先に天に届くか、競い合うようにそびえ立つ二つの塔。そこに旅客機が突っ込んでいって、塔は無情にも崩れていく。
その下敷きになって何千人もの人が死んだ。助けに向かった消防士も警官もたくさん死んだ。
「アメリカ政府は……テロを起こした奴らを見つけ出して、戦争を起こした。テロ組織を壊滅させるため、何十年も続いた」
コヨミがあとで詳しく聞いたところ、それはアメリカ史上最長の戦争だったそうだ。
アメリカ政府は先のテロを主導した人物の排除に成功したものの、長引く戦争に耐え兼ね、二十年後に撤退したと。
「やつらの潜伏先を突き止めたのが、当時CIAにいたマッケンジーだった彼の手腕だった。彼の手柄だった……。そして、テロを撲滅する戦いの中で――」
ジョーはそこで、なぜか一瞬口をつぐんだ。
しかし思い直したように、一気に吐き出した。
「――彼の娘さんは死んだ」
ビルの崩壊や戦争のイメージがぐるぐると渦巻いていたコヨミの脳みそは、その言葉で一気に覚醒した。
本物のビックリ箱みたいに頭を振り上げて、ジョーの顔をまじまじと見つめた。
彼が青い顔をしているのは、決して血が足りないことだけが理由ではない気がした。
「遺体の返還はなかった」
「還ってきたのは……彼女のドックタグと、『彼女は英雄だった』というお褒めの言葉だけだ」
「それをきっかけに彼はCIAをやめた……ハハッ、やめたままでいればよかったんだ……でも、正義感の強い男だった」
ジョーは待合室の奥へ視線を走らせた。
ここではないどこかを見るように、遠い記憶を思い返すように、哀愁に満ちた表情をしていた。
「FBIに再就職して、僕の教育係になった。そして十年後……今度は自分が死んじまった……」
「それ、うちになんか関係ある?」
「関係ないさあぁ関係ないとも!」
ジョーはかんかんになって声を張り上げた。へし折れるのではないかと心配になるくらい、点滴スタンドを握りしめていた。
「関係ない話さ、そんな関係ない君のことを……彼は最後まで守り抜こうとしていた……!自分が守れなかった娘さんの代わりに……君にだけは生きていて欲しかったんだ、僕にはわかる……僕にはわかるんだ!」
誰もいない夜の病院で、大の大人が、点滴スタンドと鼻水を振り回しながら吠えていた。
滑稽だとは思わなかった。
理不尽だとも思わなかった。
わかっていた。
「うちだってわかっ…………わかっとる……!わかっとるし……!」
今にも消えてしまいそうな声で、コヨミは言い返した。
申し訳なさで胸がはちきれそうだった。どうにかなってしまいそうだった。涙が氾濫を起こして止められなかった。熱くなった両目を膝に押し当て、両足を千切れんばかりに抱きしめた。だってそうしなければ、口を押さえつけなければ、病院中に響き渡る声で泣き叫んでしまいそうだったから。
わかっていた。
ジョーが怒ることも。
マッケンジーが、コヨミを守るために全身全霊をかけてくれたことも。
ホテルで目を覚ました時、マッケンジーはコヨミを追求しなかった。影の女王の説得だって、彼は無理強いしなかった。死してなお、コヨミに傷一つ付けまいと抗っていた。
わかっていた。
マッケンジーは、コヨミが疲れていると思って、あえて眠らせてくれたのだ。コヨミが辛いだろうと思って、あえて強く言わなかったのだ。コヨミのために、死の運命すら飛び越えて、助けに来てくれたのだ。
事件の証拠ぢゃない。コヨミに生きていて欲しくて、そうしたのだ。全て、コヨミのためを思ってそうしてくれたのだ。
わかっているとも。痛いほどに。
「すまない……君のせいじゃない」
少し声を詰まらせながら、ジョーが謝罪の言葉を口にした。
コヨミは鼻水をずず、と吸って、顔を上げた。
真っ赤に泣きはらした目を、くしくしと拭った。
「うち、行くよ」その言葉は自然と出てきた。
「影の世界」そうするべきだと思った。
「おっさん、言っとったじゃん、女王様を説得しろって」それが、自分の使命だと。
ジョーは初めて、コヨミのことを心配するような、ためらうような目つきになった。
「マッケンジーはこの世界の未来を憂いていた。だが、君に無理強いするつもりはなかった。ただの少女に、世界の運命を背負わせるなんて重たすぎる。君が拒否すれば、別の方法を考えるつもりだった」
「ううん、違う。うちが行きたいんよ」
コヨミはジョーに伝わるように、はっきりと首を振った。
「お父さんを助けたい」
それも本心だった。
〝死〟と〝飢餓〟、そして逃げた〝支配〟。三人の黙示録の騎士を相手に、〝戦争〟がどうなってしまったのか、本当は考えるのもつらい。
だが、お父さんはきっと生きている。
だってコヨミがピンチになった時、お父さんはいつも助けてくれた。
だから生きている。
絶対に死んでない。
今度は、コヨミが助けに行くのだ。
「君が望むような結果には、ならないかもしれないぞ」
「うん、それでもええ」コヨミはしっかりと頷いた。
「うち、色んな人に助けられて生きとったんじゃなって、今日になってやっとわかった。少しでも、そういう人たちの恩返しになったら、それでええ」
そう答えると、ジョーは満足したように何度か頷いた。
彼なりに、コヨミのことを認めてくれたのだと思った。少しだけ、ほんの少しだけ希望が見えた。
「行き方、わかる?」
「調べておくよ、彼が残した捜査メモに、何かヒントが残されているかもしれない」
ジョーは、笑顔にこそならなかったが、頼もしい表情で親指を上げた。
どこかへ歩きだそうかという前に、思い出したように踏みとどまった。
「君はその前に、お別れの挨拶をしておくんだ」
コヨミは病室につながる引き戸を引っ掴んだまま、それを開けられないでいる。
十六年溜まりにたまった色んな感情を整理するには、一日はあまりにも短い時間だった。それらはまだ、ないまぜになってコヨミの心に重く深く沈んでいる。
しかし、きちんと伝えなければならない。お礼も言わなければならないだろう。
深くふかく深呼吸した。
引き戸を開けるのは未だためらわれたが、思い切ってスライドさせた。
心臓がバックンバックンと鼓動している。速くはないが、収縮の強さが急に二倍くらいになった。
病室は個室だった。おばさんは決して裕福ではない。きっとジョーあたりが、気を利かせてそうしてくれたのだろうとコヨミは思った。
中に足を踏み入れると、電動ベッドの背中を斜めに上げ、真っ暗な窓ガラスの方を見つめるおばさんがいた。
コヨミの足音に気付いて、おばさんはゆっくりと振り返った。
コヨミは思わず立ち止まった。
おばさんの状態はひどいものだった。
右目には眼帯を、折れた右腕は包帯でぐるぐる巻きにされ、首から吊っている。体中に管が繋がれ、点滴のようなものがたくさんぶら下げられている。
「あぁよかった、コヨミ、あんた、無事だったんじゃね」
おばさんは左目でしっかりとコヨミの姿を捉えると、か細い声を安堵に濡らしてそう言った。
やっぱりおばさんは、自分のことより先に、コヨミのことを心配するのだ。
口の中がカラカラに乾く。粘っこい何かを飲み込んで、コヨミは答える。
「うん、おばさんのおかげで」
おばさんはフフッ、と笑って、「あの男のおかげじゃろ」と自虐的に呟いた。
コヨミは近くにあった丸椅子を引っ張って来て、おばさんの隣に座った。ベッドの向こう側、入院患者の私物を置く棚のところに、黒い傘が立てかけられていることに気付いたが、おばさんがもぞもぞ動き出したのでそれどころではなくなった。
コヨミはいいの、いいの、と両手を出したが、おばさんは無言でそれを振り払った。痛いだろうに、顔をしかめながら体を起こし、ベッドから這い出て、コヨミと向き合うように端に腰かけた。
なんだかこれからお説教が始まる気がした。でもコヨミも、もう決めたことだ。
喉の奥が痺れるように緊張していたが、小さく空気を吸い込んで、一気に吐き出した。
「おばさん。うち――」
「ダメよ」
全部言う前に、おばさんは即答した。
「影の世界には行かせん。絶対に」
おばさんの口から「影の世界」という言葉が出てきて、コヨミは確信する。
「やっぱり――あの人が、うちのお父さんなんじゃろ?」
おばさんは胸を撃ち抜かれたように顔をしかめ、あぁ、とため息を漏らす。
「違う――あの男は――」
「そうなんじゃろ?」
止められなかった。一秒でも早くおばさんに「そうだ」と言ってほしかった。コヨミは、コヨミを形作るものの確証が欲しかった。
コヨミが持っていないもの。みんなにあって、コヨミにはないもの。一番簡単なのに、一番難しいこと。
お父さん。
ただ、それだけ。そう呼ぶだけ。コヨミにとってはそれが、宇宙の法則を解明するより重要で重大な事項なのだ。
おばさんは証拠を突きつけられた犯人のように観念して、押し黙った。目をつむって、しばらくの間、頭を斜めに傾けていた。
コヨミは待ちきれなくて、おばさんが怪我しているのも忘れ、両肩を揺らした。
「おばさんは、全部知っとったんじゃろ?お父さんのことも、お母さんのことも、影の世界のことも――」
「十六年前……」
おばさんの口から言葉が転がり出た。
コヨミはメデューサに睨まれたように固まり、待った。
おばさんが全てを告白するのを。
自分がどこからやってきて、お父さんが、お母さんがどうなったのか、その全てを話すのを。
おばさんは左手を額に当て、年季の入った車のように大きくため息をついた。絶対に抜けないとあきらめていたトゲを今一度抜こうとするように、一言ひとこと、慎重に言葉を選び取って話した。
「十六年前じゃった。忘れもせん、満月の夜――あの男が、突然家を訪ねてきた」
「あの男――自分は、姉さんの部下じゃあ、名前は〝戦争〟じゃあ言うてね。最初は信用できんかった。姉さんは変わった人で、星や天体のことしか頭にないような人じゃった。天文学の研究中に突然行方不明になって、母さん――あんたのおばあちゃんもみんな――あきらめとった」
「それでもあの男、影の世界じゃあ、黙示録の騎士じゃあ、ようわからんことをつらつら語って――何度も家にきて、何度も同じ話をして、そのうち、信じるしかなくなった。証拠も見せられた」
「そのうち、姉さんと二人で、こっちに戻ってくるもんじゃと、そう思っとった――」
「十六年前よ」
「あの男が来るようになってから、何回目かの満月の夜――あの日あの男は全身傷だらけで家に来た。まだ赤ん坊のあんたを抱えて」
「それで急に『この子は姉さんの子じゃ』『自分と姉さんは育てられんくなったけん、代わりに面倒を見て欲しい』って言うもんじゃけん、それも血だらけの顔で。断れんくてね、引き取ることにしたんよ」
「あの男は、『いつか必ず迎えに来る』って言っとったけど、うちは信用しとらんかった。あんたを引き取ったあの時、あんたを、女手一つで育ててやるんじゃって……そう思うた」
「姉さんが今も生きとるんか、死んどるんか、私にはわからん。結局、あの男とおんなじ。十六年間、一度も顔を見せにこん。こっちの世界におるんか、影の世界におるんか、それもわからん。じゃけん私は、姉さんのことも、あの男のことも、影の世界のことも、全部隠すことにしたんよ」
「だってそうじゃが?あんたがそれを知ったら、行きたいって言いだすに決まっとるが。自分を捨てたとしても、親の顔を見たい、知りたいって、言いだすに決まっとるが。わけのわからん世界に行って、命の保証だってありゃせんのに……。いやよ、いやじゃ!誰が行かせるもんか!誰があんたのおしめを変えたと思っとるん!私よ!毎晩あんたの歯を磨いて!寝間着を着せて!寝かしつけて!幼稚園まで送ったのも私!お弁当を作ったのも私……!どの色のランドセルがいいか一緒に見に行ったのも私!私よ!たった一人で、なけなしのお金を全部あんたのためにはたいて育ててきたんじゃ!母親は私!あんたの母親は私よ!なにがあっても、どんなことがあってもあんただけ守る!そう決めたのに……!もぅ、どうすればええん!?授業参観のたびにあんたは悲しそうな顔をする!自分だけ本当の親じゃないって、いっつもふさぎ込んどる!高校に上がってからはまともに口もきいてくれん!うちはもう、どうしていいかわからん!あんたを守りたいのに!あんたを失いとうないのに!こんなんで父親のことなんか知ったら!絶対に後を追いかけるに決まっとる!いやじゃ!あんたの母親は私じゃ!行かせるもんか!絶対に行かせん!あんたの母親は私じゃ……!あんたの母親は……!」
すべてを語り終えた時、おばさんは左手で顔を覆い、さめざめと泣いていた。
コヨミは、自分の右頬に、同じように一筋の球粒が流れていることに、少したってからようやく気付いた。
背中を丸めて泣くおばさんが、とても小さく見えた。ウサギやモルモットみたいに、放っておいたら一日で死んでしまいそうな小動物ほど小さく見えた。
こんなに小さな体で、ずっと、ずぅっと、世界が破裂するような秘密を抱えて、コヨミを守ってくれていたのかと思うと、涙が止まらなかった。
「ごめん、おばさん……ごめん……ごめんね……」
コヨミはおばさんの左手を取り、励ますように握りしめた。
「おばさんがどんな気持ちでうちを育ててくれたんか、うち、考えたこともなかった……」
折れてしまったおばさんの右腕を、包帯の上から優しくさすった。
「うちのお母さんはおばさんよ。間違いない……うちのお母さんは、おばさんしかおらん……」
自らの生きる意味を再確認するように、おばさんはコヨミの言葉、そのワンフレーズごとに頷いた。下唇をぎゅっと噛みしめ、涙と一緒に頷いた。
コヨミはそっと瞳を閉じて、おばさんの額におでこを擦りつけた。
「でも、うちのお父さんなんよ……お父さんが、うちを守るために行ってしもうた……」
おばさんの大きなため息が、コヨミの鼻先に当たる。
こっそり目を開けると、おばさんが、自分を納得させるようにゆっくり、大きく頷いている。
「ここで行かんかったら、お父さんを助けに行かんかったら、きっとうち、一生後悔する」
コヨミはおばさんの左目をしっかりと見据える。自分と同じ、透き通る大空のような、青い瞳を。
「じゃけん、教えて……?お父さんのこと、影の世界のこと……」
おばさんは涙と鼻水を全部飲み込んで、最後にもう一度頷いた。
「あんたのお父さんが、あんたに残したものの中に、姉さんの研究ノートがあった。私も一度だけ、読んだことがある」
おばさんは記憶の本棚を探るように、まぶたの下で目を走らせる。
「日食が起きる時、この世界と、影の世界をつなぐ道ができる。それが、影の世界へ行く唯一の方法」
「日食……」
コヨミはお父さんがトンネルの中でしてくれた話を思い出す。たしかお母さんは、日食の中から現れたと、そう言っていた。
しかしおばさんの話は、それを覆す。
「でも姉さんは、別の方法を編み出したって、ノートに書いとった。たぶんそれを使って、あいつらはこっちの世界に出入りしとる」
「だから奴らは、この世界に宣戦布告したんだろうな」
突然ジョーの声が聞こえて、コヨミは振り返った。
輸血を終え、スーツ姿に戻ったジョーが、開け放った引き戸にもたれかかり、片足立ちでキザに笑っていた。片方の手に、小さな革表紙のメモ帳をつまみ、リズミカルに振っている。
さっきの今で、よくもここまで調子に乗れるものだとコヨミは感心した。 待合室で見せた殊勝な態度は、血が足りなくて元気がなかっただけではなかろうかとも思った。
「ビンゴだ。マッケンジーの遺した捜査メモにも、同じ〝道〟についての記述があった。日食と――それが無理なら――彼らが編み出した方法を使えと」
ジョーはマッケンジーの捜査メモをチラチラ見せびらかしながら、病室の中に――不要な――華麗な足どりで入ってきた。
「おばさん、お母さんのノートは?」コヨミはジョーを無視して聞いた。
「わからん、家に置いとったんじゃけど――」おばさんは素早く答えた。
「たぶん、燃えてるな」ジョーが空気を読まず無慈悲にこぼした。
コヨミとおばさんはそろってうなだれた。
それを見て、ジョーが慌てたようにマッケンジーのメモをめくり始めた。指に唾をつけて、そろばんのようにぱちぱちと、素早くめくった。
「いやでも、まだ方法がないわけじゃない。マッケンジーのメモには続きがある。どうしようもなくなったら、あー、神官を頼れと。影の世界を作った者たちだ――当然――行き方を知ってるはずだと。そして神官なら――任せてくれ、ある程度目星はついてる」
安心したように微笑むジョーを無視して、コヨミはおばさんと見つめ合い、そして頷き合う。
おばさんは真剣な顔で言う。
「影の世界では、こっちの世界の人間は陰に飲まれる。姉さんの血を引いとっても、気を付けんさい。無理じゃと思ったら、すぐに帰ってくるんよ」
「うん、わかった」
コヨミは、今度は、おばさんの言葉を素直に受け入れた。
ジョーに続いて病室を後にしようとした時、おばさんに「コヨミ」と呼び止められた。
おばさんはベッド脇に置いていた黒い傘を持ち上げ、コヨミの方へ差し出した。
「姉さんのノートと一緒に、あの男が置いて行ったんよ。きっと、あんたの役に立つ」
おばさんの黒傘をまじまじと見るのはこれが初めてだった。お父さんが持っているものによく似ていた。ただ、留め具の色が銀色ではなく金色だった。こういう表現が適切かわからないが、全体的に柔らかいような、包み込むような、どこか女性的な雰囲気があった。
「ありがと、おばさん」
コヨミは表彰状を受け取るように、両手でしっかりと黒傘を受け取った。すぐに片手に持ち替え、おばさんにハグした。十六年分のありがとうをこめて、今さらこんなことで埋められるなんてうぬぼれてはいないが、少しでもおばさんに届きますようにと願って、ぎゅっと抱きしめた。たくさんの湿布の匂いに交じって、懐かしいおばさんの匂いがした。
「コヨミ!」
ジョーに続いて病室を後にしようとした時、コヨミはもう一度呼び止められた。
コヨミは何度だって振り向いた。
「気を付けて、行ってらっしゃい」
おばさんは不安を感じさせない、はつらつとした笑みを浮かべていた。
本当は反対したかったこと、心配でしんぱいでたまらないこと、コヨミは全部わかっていた。
それでもコヨミを信じ、送り出してくれるおばさんに感謝した。
コヨミは目いっぱいの笑顔で応えた。
「行ってきます!」