第六章 戦争の帰還
「……ほぉ!ただの傘じゃあないな!」
ザンドスニッカーに体重をかけながら、〝飢餓〟が嬉しそうに目を輝かせる。縦長に切れていた瞳孔が、一瞬だけまん丸に膨れ上がる。
その言葉通り、黒い傘はミシミシと音を立てるものの、一向に折れる気配がない。おそらく、先に限界が来るのはおばさんの方だ。両手の震えが全身に伝わって、蒼い髪まで震えている。散乱していたガラスを踏んでしまったのだろうか、床についた膝から、じわじわと血が広がっている。
「コヨミ!……はよう……逃げんさい!」
今にも挫けてしまいそうな声で、おばさんが叫ぶ。
「でっ!でも!」
「なに言うとるの!バカたれぇ!」
おばさんが叫ぶと同時に、FBI捜査官二人が部屋になだれ込んでくる。いや、〝飢餓〟に破壊されたことで、もはやここは部屋の体を為していない。階段を駆け上がったその瞬間、上半分が吹っ飛んでしまった壁越しに、二人は拳銃を発砲した。
「ぉおっと」
〝飢餓〟は後ろ向きに飛び上がり、ザンドスニッカーを目に見えないほど高速で回転させた。芝刈り機のようなブーンという重低音と、銃弾がはじかれる甲高い金属音が、夜空の向こうへ飛んでいく。
「どういうことだこれは――守られてるんじゃなかったのか!」
〝飢餓〟に向かって銃を構えたまま、コヨミとおばさんの前に出ながらマッケンジーが叫ぶ。
「おい、あの少年は人質にとられたのか!?そうなんだろ!?」
マッケンジーの隣に立ち、やはり銃を構えたまま、ジョーが矢継ぎ早に聞いてくる。
「わかんない!だって、いきなり――」
「神官がかけたのは古の魔法だ。悪魔から大切な人を守る、強力な魔法だ」
代わりに答えたのはボーイフレンドだった。
「破るためには、その場所を知る者に招き入れてもらうしかなかった」
その言葉が何を意味しているのか――〝飢餓〟を除いて――誰も理解できなかったのだと思う。コヨミも、マッケンジーもジョーも、おばさんも、バカみたいに口を開けて、ボーイフレンドを見つめることしかできなかった。
ボーイフレンドは全員の視線を無視して――夜空を――天井があった方を突然見上げる。
いつもひょうひょうとしていたその顔が、アリをいじめる小学生のように残忍な笑みに包まれる。
「――礼を言うよ、〝戦争〟ォ!」
そこにいたのは〝戦争〟だった。
満月の中から飛び出したように、突然姿を現した。全身から、コヨミと同じように黒い煙を立ち上らせていた。黒いコートをはためかせ、右手には、ダイヤマークの先端が伸びたような黒い刀剣を握っている。その切っ先をコヨミのボーイフレンドに向け、流星のごとく降ってくる。
ボーイフレンドは雄たけびを上げるゴジラのように両手を開き、〝戦争〟の一撃を正面から受けた。刀剣がその体をつらぬいたか、コヨミには見えなかった。二人はもんどりうって床を破り、階下に落ちて行く。二階を支えていた柱が巻き添えを食らい、コヨミの家は、今度こそ完全に崩壊を始める。
FBIの二人は、ここぞとばかりに拳銃を滅多撃ちし始める。残された〝飢餓〟が、再びザンドスニッカーを高速回転させる。おばさんが傘にすがる形で立ち上がる。腰を抜かしていたコヨミは、おばさんに手を引かれて部屋を出る。転げ落ちそうになりながら階段を駆け下りる。その間もずっと、激しい破壊音や切り結ぶ音が背中を叩く。靴を履き替える暇もなく、おばさんもコヨミも、裸足のまま夜道に駆け出す。
「ジョー!ジョー!しっかりしろ!ジョー!」
マッケンジーの声が、遠いとおいどこかでこだましている。
なんだったろう、たしか僕は、ザンドスニッカーの直撃を受けた。そのあとの記憶がない。
今は――意識がもうろうとしたまま――壁だったものに倒れ込んでいる。額からトマトをつぶしたように血が降って来て、視界も半分ほど失われた。
「ただの人間じゃあ、あたしには勝てない」
自慢するように高々と鼻を上げたのは〝飢餓〟だ。肩に担いだザンドスニッカーの先端から、ぼたぼたと血が垂れている。
「あきらめて道を開けな、そうすれば、命だけは助けてやろう」
銃を構えるマッケンジーの両手が、かたかたと子気味に震え始める。止まらない。大ベテランの捜査官であるマッケンジーでも、止められないのだ。
彼は吹っ切れたように笑みをこぼし、両手を上げた。僕は無礼にも、彼が諦めてしまったのかと思ってしまった。
しかし――「無理だな」――そうつぶやくと、マッケンジーは撃ち尽くしたマガジンを落とし、流れるような動作で新しいマガジンを装填した。スライドを引き、薬室に弾を装填すると、みじんの迷いもなく〝飢餓〟に銃口を向けた。
「俺はFBI捜査官である前に、合衆国政府に忠誠を誓ったアメリカ人――――いや、その前に一人の大人だ」
血の色に染まった視界でも、見えた。
星条旗を背負って立つ、誇り高き捜査官の背中が。
「肌の色がなんであっても、子供より先に死ねない」
マッケンジーの堂々たる宣誓を味わうように、〝飢餓〟はヘビのような舌を出し入れした。耳元まで裂ける笑みを浮かべた。独特な重低音と共に裁定の槌を振り回した。
「そうか、では死ね!」
膝を怪我しているはずなのに、たしかもう三十代なのに、小石や砂粒が足裏に刺さって痛いはずなのに、おばさんはコヨミの何倍も速く走る。そしてブルドーザーみたいに強い力で引っ張る。コヨミは転げそうになるのを何とかこらえて食らいついていく。足裏がすれて血がにじんでも、泣き言を言う暇がない。
痛みや恐怖を感じるとともに、それは不思議な体験だった。暗い夜道に、おばさんの蒼い髪が浮かんでいる。目と鼻の先でぽんぽんと跳ねている。
コヨミはおばさんのことが――死ぬほど嫌いではないにしろ――そんなに好きではなかった。だから、おばさんもきっと、コヨミのことを多少なりとも憎んでいるのではないかと思っていた。自分で生んだわけでもない、クソ生意気な小娘程度にしか考えていないと。
それが、こんなふうに必死に守ろうとしてくれるなんて、昨日からずっと衝撃の連続だ。空気を入れ過ぎた風船のように頭がパンクしてしまいそうだ。
色々考えすぎて、堂々巡りの袋小路に迷い込んでいたコヨミは、おばさんの急ブレーキに気付かなかった。そのまま、おばさんの後頭部に鼻からつんのめった。
ズキズキする鼻っ柱を押さえながら、おばさんの肩越しに目を凝らす。決して広くはない住宅街の道路だ。ずっと先まで続いているとわかるのは、昼間の景色を知っているからだ。月と星、さびれた街灯しかまともな灯りが無い現状では、十メートル先すら明瞭に見ることはできない。
だが、その底知れない闇の向こうに、何かがいる。
おばさんが、黒い傘をお守りのようにぎゅっと握りしめた。コヨミはごくりと唾を飲み込んだ。神経を研ぎ澄ませると、感覚が鋭敏になる。冷たいアスファルトの上であっても、足裏がズキン、ズキンと痛む。その痛みと同じ周期で、こつ、こつ、と足音がする。こちらに近づいてくる。
一番近くの街灯の足下に、それは現れる。ようやくその姿が見える。
そうだ、どうして今の今まで考えなかったのだ。
降ってきたのは〝飢餓〟だった。助けに来たのは〝戦争〟だ。ボーイフレンドは自らのことを〝死〟と言った。
黙示録の騎士は、もう一人いるではないか。
「あぁ……まだ馴染みが薄いぃ……」
口元に巻いた包帯の内側から、ぞっとするような猫なでそれは喋った。
〝支配〟だ。黙示録第一の騎士だ。
しかし、コヨミが知っている姿と少し違った。チリチリに縮み上がった灰色の髪も、コガネムシみたいな緑色の瞳もそのままなのだが、ミノムシのような服が、左肩から先だけ、色も材質も全く異なるものになっていた。ボロ雑巾でも当てたようにちぐはぐで、縫い目も不揃いだ。
〝支配〟はその左腕を――右手で――バッチいものでも持ち上げるようにつまみ上げた。
コヨミは血の気が引いた。たぶん、おばさんも。
「どおぉしてくれる……!俺の……左腕をぉ!」
街灯の光に照らされた左手は、今にも朽ち果てんとする腐ったものだった。指と指の間には、ハエとウジがわいていた。
死体から移植したとしか思えない。
〝支配〟は怒っていた。その怒りそのままに、やつらを呼び寄せた。
暗闇の奥底から、声が昇ってくる。昨日も聞いた音だ。地獄へ引きずり込もうとする、アンデッドの軍団の。
「コヨミ、今来た道を戻って、左に曲がるんよ!交番まで走って、助けてもらいんさい!」
「そんな……おばさんは!」
「私のことはええから!」
「なんで!」
コヨミは地団駄踏んで抗議した。無茶じゃ、おばさん、死んでしまう――その言葉が、喉まで出かかった。
「ええから行きんさい!この!バカ娘!」
おばさんが金切り声を上げた。
それを聞いて、〝支配〟が口元の包帯をずるりとおろす。大きさの違う顎を見せ、少し上ずった猫なで声で興奮したように叫ぶ。
「心配するなぁ……二人まとめて地獄送りだぁ!」
道路を埋め尽くす圧倒的物量で、やつらはやってきた。〝支配〟の背後から、我先に獲物にありつこうとするハイエナの大群ように走ってきた。
すべてを飲み込むアンデッド軍団が。
日陰邸の二階は全て消し飛び、一部の柱と、玄関扉の枠くらいしか残っていなかった。もはや星空だけが唯一の照明だ。廃屋と呼ぶことすらおっくうになったその場所で、僕は地面に倒れ伏していた。恐らく、リビングと廊下の境目あたりで。
二階の崩壊に巻き込まれ、相当な高さから落下した。全身打撲の上、血も流しすぎた。もう寝てしまいたかった。すぐ近くには焼け焦げたテーブルや椅子があり、それらに背をあずける形でマッケンジーが座り込んでいた。僕の視界では彼の容態がよく見えなかったが、マズい状態だというのはひしひしと伝わってきた。彼の呼吸音がおかしいのだ。ひゅうひゅうと、小瓶から空気を出し入れしているように小さくなっている。
そして、最後の砦たる〝戦争〟が敗れた。
僕のような普通の人間には、一瞬の出来事にしか見えなかった。
コヨミのボーイフレンドと思われる少年が、〝戦争〟の攻撃をかいくぐり、その腹に、ギラリと光る刃物を突き立てたのだ。獲物は鎌だ。日本人が畑仕事で使うくらいの小型なのだが、異様に禍々しい紫色をしていて、〝戦争〟の背中から飛び出している刃体にはギザギザのかえしがついていた。高い殺傷能力を有していることが嫌でもわかった。
〝戦争〟は体を九の字に折り曲げ、動かなくなった。自分より小さい少年に体を預ける形で、呼吸まで止まっているのではないかと思われた。
「まったく……」
粗相をした飼い犬の後始末をするように、少年は胡乱そうにつぶやいた。鎌を持っている手をひねり、より深く、〝戦争〟の身体にめり込ませた。
「なぜ歯向かう。お前は〝戦争〟……第二の騎士〝戦争〟だ……俺どころか〝飢餓〟にも勝てん。だからお前は〝戦争〟なのだ」
つまり、やつが黙示録の四騎士、最大にして最強の〝死〟なのだ。
〝飢餓〟と通じていること、赤子の手をひねるように〝戦争〟を圧倒すること、その全てに納得がいく。
なぜコヨミのボーイフレンドの姿をしているのかは不明だが、確かなことが一つ。
僕たちはここで終わる。
〝戦争〟が僅か動いた。薄暗い中、彼の赤い瞳が瞬いたのが見えた。
「影の、女王……最後の命をっ、守るため……我が命をとして、使命を、全うする……」
「はぁ……」
〝死〟は白目をむいて首をかしげた。どうしようもない新人のミスを聞かされた上司が、全てを諦めて天井を見上げた時のようだった。刺した時と同じくらい速く鎌を引き抜いた。ぼとぼとと、落ちる音だけで致命傷とわかる血が流れ出る。〝戦争〟は声にならない悲鳴を上げて、〝死〟の足下に崩れ落ちる。
「黙示録の騎士の欠落は、影の同盟にとっても痛手なのだ。俺にお前を殺させるな〝戦争〟」
イライラしたように〝死〟はつぶやいた。その言葉に愛はなく、ただひたすらに、自らの手を煩わされたという怒りだけが滲み出していた。
針のように尖った銀髪が、月光を反射してチカリと光った。
第三の騎士〝飢餓〟が、マッケンジーに覆いかぶさり、宝を探す盗賊のように彼の身体を漁っていた。スーツのポケットにいちいち手を突っ込んだり、鼻の穴や口の中まで確認する徹底ぶりだった。
「悪趣味だぞ」
肘で鎌を挟み、刃についた血を拭いながら〝死〟がたしなめる。
「我らが勝利した証です」
耳たぶにつけたシルバーのピアスを月光に光らせながら、〝飢餓〟はきゃっきゃとはしゃいで戦利品の捜索を続けた。
マッケンジーはすでに抵抗する力が残っていない。ネクタイを引きちぎられ、シャツのボタンをバチバチとはじかれても、ぐったりと、されるがままになっている。
露わになった首元に、チェーンでできたネックレスがぶら下がっている。〝飢餓〟はにんまりと笑みを浮かべると、右手でチェーンを掴み、引きちぎる。
月明かりに照らされることで、ネックレスの姿がよく見える。ぶっきらぼうな鉄のチェーンの先に、兵士が持っているドックタグがぶら下がっている。〝飢餓〟は舐めまわすようにドックタグを見つめる。
その様子を見て、〝死〟はあきれたようにため息をついた。
「いずれこの世界の住人全てを殺すのだ。とうてい持ちきれたものではない。それよりどうする、逃げられたぞ」
「心配には及びません。〝支配〟を待機させております」
〝飢餓〟は立ち上がり、ネックレスを自分の首にかけた。引きちぎった鎖を、首の後ろで――指の力だけで――圧着していた。
「ふむ、それならよかろう」
〝死〟が頷くと同時に、カチン、と甲高い音がした。
〝飢餓〟と〝死〟が振り返った。
音の正体は、マッケンジー引き抜いた安全ピンだった。彼の傍らに、他の残骸の中紛れるように落ちている。
「ふっふっふっ……準備しておいてよかったよ、嫌な予感が、してな……」
呼吸することさえつらいだろうに、マッケンジーは不敵に笑っている。
そう、彼が右手に握っているのは、リンゴのような手榴弾なのだ。
「最近俺たちの世界は、人智を超えた超常現象ばかりだ……俺の命くらいじゃ、張り合いにもならない……そう思ってた……」
マッケンジーは安全レバーから手を離した。爆破までの時間は五秒だ。
コヨミを守るために彼がそうしたのであれば、僕はその選択を尊重しよう。もうろうとした意識の中、覚悟を決めた。
「やめておけ、時間稼ぎにもならん」
知ってか知らずか、〝死〟の顔には一分の恐怖もなかった。
マッケンジーは否定するように首を振った。
「いいや、させてもらうさ、たとえ一秒でも」
マッケンジーは手首だけをひねった。それは投げるというより、落とすに近かっただろう。しかしこの手榴弾、半径五メートルの範囲にいる者に致命傷を与える。いくら黙示録の騎士であっても無傷では済まないだろう。
〝死〟がF1マシンのような異次元の速さを見せた。〝飢餓〟がまだ、ザンドスニッカーを握ろうと指の第一関節を曲げた段階での出来事だった。
コヨミのボーイフレンド、つまり人間の姿形だったのが瞬く間に崩壊した。全身が夜空より暗い、真っ黒な色になって、サーカス団のテントのように輪郭が広がった。マッケンジーが投げ捨てた手榴弾に覆いかぶさると、ぎゅるぎゅると音を立てて巻き付いた。
それはさながら、手の平に乗るほど小さなブラックホールのようだった。
暗闇に包まれた廃墟の中であっても、周囲の暗がりとは決して混じらない、異質な存在感だった。
散乱していた瓦礫が飛び上がり、埃を巻き上げた。閉じきった劇場の外から聞いたような爆発音と衝撃だった。手榴弾が爆発したのだ。中身の破片が命を奪うために飛散したはずだが、真っ黒なブラックホールは一瞬、針が長くなり過ぎたウニのように膨張しただけで、すぐに元のリンゴほどの大きさに戻った。
「あぁ――……」
ブラックホールが〝死〟の声でむにゃむにゃと溶け、定まった形をもたないスライムのようになった。ぶよぶよと膨らみ、巨大なヒグマほどの大きさまで成長すると、その先端に、お面のように人間の顔だけが現れた。
「余計なことをする……」
その顔は、コヨミのボーイフレンドのものではなかった。
もっと幼かった。
小ざっぱりした黒髪に、力強い筆筋で描かれたような黒い眉、大粒のエメラルドのように大きく、緑色に輝く瞳、どう見ても十歳かそこらの少年だ。それが〝死〟の汚い声で喋るものだから、不気味なことこの上なかった。
少年の顔はマッケンジーを一瞥すると、ずぷずぷと音を立て、底なし沼に落ちるように消えていった。真っ黒なスライムの表面が波たち、今度はまた、別の顔が表れた。
その顔を見て、マッケンジーが幽霊でも見たように驚愕している。
僕もぎりぎり残された力を振り絞って、瞬きして血を追い払う。
血走ったような赤い瞳が見える。口紅を塗ったかのように赤い唇も見える。
そこにあったのは〝戦争〟の顔だった。
黒いスライムが背を丸める。鋭い変化球のように〝戦争〟の顔が素早く動き、驚くマッケンジーの首にかぶりつく。
「ぅあっ……!あっ……!かはっ……ぁぁ!」
マッケンジーが苦しみだす。彼の手足が、誰かに操られたかのようにガクガクと震え出す。それとは別に、じゅるじゅると、何か液体をすする音がする。
真っ黒なスライムがどんどん痩せていき、その背中からぷつ、ぷつと尖ったものが顔をのぞかせる。それらは手榴弾の中身の破片たちだ。べっとりと、謎の黒い液体が付いた状態で、ケーキの生地をこしとるように次々と出てきては、〝死〟の足下に落ちていく。
破片が一つ出る度に、スライムの身体は小さくなっていく。徐々に細長い、人の形に近づいて行く。それが〝戦争〟と同じ背丈、〝戦争〟と同じコートになっていくことに、僕は気付いた。
完全に〝戦争〟と同じ姿になると、〝死〟だったものはマッケンジーから顔を上げた。
マッケンジーは虚ろな目で見上げていた。
彼はガリガリにやせ細って、ほとんど骨と皮だけになっていた。首元に新たに大きな傷ができて、そこからだくだくと血が流れ出ていた。
「そうだ、これが俺の能力だ」
〝戦争〟が、いや、〝死〟が、右腕を口のあたりに押し当て、ごしごしと左右に動かした。物陰からささやくような声まで、〝戦争〟そのものだった。そして本物が絶対にしないであろう、両手をコートのポケットに突っ込んで、大股を開いて腰をかがめた。鼻先を近づけ、干からびたミイラのようになったマッケンジーをしげしげと眺めた。
「しかしお前、心持ちだけなら黙示録の騎士に匹敵するのではないか?褒めてやろう」
〝死〟はどこか、感心したようでもあった。
「うぅぅぅう、ぅぅううん!」
至近距離で〝死〟から見つめられ、マッケンジーは熱に浮かされたように喚き出した。
彼が恐れているのは〝死〟ではない。僕にはわかる。その後に訪れる絶望を、彼は恐れている。
何もできない自分がたまらなく悔しい。顔の筋肉にすら力が入らず、歯ぎしりさえできない。それでまた、はらわたが煮えくり返るほどの怒りを僕は感じる。
「褒美に……そうだなぁ、お前も我らの一員にしてやろう」
天命を与える神のように、〝死〟は言う。やつの右手が、月を掴むように高く掲げられる。月には届かず、掴み損ねて、弧を描いて落ちていく。運命のように、マッケンジーの首にかかる。
安らかではない静寂が訪れる。
マッケンジーの両手両足がぴん、と張っている。激しく震え出す。
あんまりだ。
FBI捜査官になった時、平穏な死など決して望まないと覚悟はしていた。マッケンジーもそう話していた。それにしたってこれはあんまりだ。
彼の身体が力を失い、抜け殻のようになるのを、僕は涙の壁の向こうに見ていた。
〝死〟の背中が、再び真っ黒に溶け始める。黒いスライムは、洗濯機に揉まれるように横方向にねじれ、ミノムシのような形の服に変わる。
「名誉なことだ。喜べ?」
ぞっとする猫なで声で、〝死〟は言った。
アンデッドの頭を、おばさんは傘で思いっきり叩く。
「ぐえぇぇーっ!」
黒傘の先端がクリティカルヒットし、アンデッドの頭が、新しい顔をもらったアンパンマンのようにぐるぐる回転し、倒れた。
「ひぃ!いぃ!」
自分でやったことに自分で驚き、おばさんは体を縮み上がらせて叫んだ。
しかし息をつく暇など〝支配〟は与えてくれない。倒れたアンデッドを踏みつぶして、次々と別のアンデッドが迫る。
おばさんはまた傘を振り回すが、たぶん、怖くて目をつむっている。てんで見当違いな場所を傘は薙ぎ、たまたまかすった一体だけがバランスを崩してこける。
「あぁっ!」
大きな男の死体に体当たりされて、おばさんは後ろ向きに倒れた。
「おばさん!」
アンデッドが群がってくるのも構わず、コヨミはおばさんに駆け寄った。
おばさんの両脇を抱えて、立ち上がる手助けをしたのだが、立ち上がった瞬間、おばさんは傘を握った手でコヨミを突き飛ばした。
「あだっ……!おば――」
「逃げんさい!バカた――」
髪を振り乱して怒っていたおばさんの姿が、アンデッド軍団に飲まれて消える。
「おばさぁん!」
コヨミの絶叫は、腐肉の壁に吸い込まれる。集団の先頭にいた細身のアンデッドが、くりゃりと顔を上げる。
アンデッドと目が合う。コヨミはしばし見つめてしまう。アンデッドの腐った左目が、生卵のようにぼとっと落ちる。
「ひっ――」
コヨミはついに諦めて、回れ右する。今来た道を走り出す。
もうダメだ。終わった。
〝戦争〟はあの一瞬以来、姿を見せない。おばさんも、もうどうなったのかわからない。FBIの二人だって、〝飢餓〟を相手に無事なわけがない。ボーイフレンドは――ボーイフレンドは――そこまで考えて、コヨミはぞっとする。
あいつ、名前、なんだっけ?
思い出せない。ずっと一緒にいたはずなのに思い出せない。いつ出会って、どうやって親密になったのかも思い出せない。まさかずっと、ずっと騙されていたのだろうか?
「逃がさないぞぅ」
猫なで声になぞられ、背中の産毛が全部逆立つ。振り返ると、アンデッドが人間ピラミッドのように折り重なり、その頂上に〝支配〟が鎮座している。その状態で地響きを立てながら追ってくる。
コヨミは涙を飲み込んで走る。おばさんに言われた通り、交番を目指して走る。おばさんのことをチラリと思い出すだけで、アンデッドに飲まれていく姿が蘇って、また涙が溢れそうになる。足裏が痛い、冷たい、もう走りたくない。一人ぼっちで、こんなところで死にたくない。
暗闇の向こうに人影が見えて、コヨミは立ち止まる。
数メートル先、街灯が落としている光だまりに、二人分の人影があるのだ。
「えっ――」
コヨミは目をしばたいた。腕を押し当て、痛くなるほどこすった。
見間違いかと思った。
そんなはずない。だってそれは、今コヨミを追って後ろから走ってきているのだから。
振り返ると、やはり〝支配〟が、動くアンデッドの山の上でふんぞり返っている。
進行方向に視線を戻す。
そこにも〝支配〟がいる。
コヨミは何度も振り返る。追いかけてくる〝支配〟、待ち構えている〝支配〟、その両方を見比べる。
どっちも〝支配〟だ。茶色い、ミノムシみたいな恰好で、口元を包帯でぐるぐるに巻いた〝支配〟だ。
「そうら、出番だ」
前の方で待ち構えている〝支配〟が、猫なで声で何かを命じた。
命じられたのは、二人分いた人影のもう片方だった。よたよたと、酔っ払いのような足取りで、街灯のたもとまでやってきた。
風船に穴が開いたように、コヨミは全身から力が抜けるのを感じた。
想像しなかったわけじゃない。
でも、そんなはずないと、そんなことが起きるはずがないと、どこかで楽観視していた。
ボロボロになったスーツ――なくなったネクタイ――顔や手は、干からびたミイラのようになっている。
操つられていたのは金髪のFBI捜査官、マッケンジーだった。
〝戦争〟は息を吹き返した。
どれほどの間気を失っていた?素早く周囲に目を凝らす。廃墟と化した日陰邸は、床にさらに多くの散乱物を残しているものの、大きな変化はない。月の位置もまだ変わっていない。しかし〝飢餓〟も、〝死〟も、さらには金髪のFBI捜査官までいなくなっている。
腹部の激痛に顔をしかめる。あの鎌――見誤った――イザナギで受けるべきだった。魔剣グラムファクタだ。破壊されたとはみじんも思っていなかったが、まさか鎌の形に打ち直されているとは。あるいは、〝死〟の持つ能力の一つか。しかも恐ろしいことに、自分が所持していた時よりも攻撃力が増している。時間が経つにつれ、傷口が徐々に広がっていく。体温が急激に下がっているのを感じる。血を流しすぎている。
残されたわずかな力で、コートの内ポケットをまさぐる。手の先に触れた固い感触を握りしめ、取り出す。月明かりの下に、試験管のネックレスをさらけ出す。
まぶたを閉じる。そうすることで、いつでも蘇る。
最後の命を守るために、〝戦争〟は生き永らえている。生き永らえてきた。
試験管をほとんど睨みつけるように見つめる。手が震える。これは〝戦争〟の道標だ。〝戦争〟と彼女をつなぐ最後の絆だ。易々と飲むことはできない。しかし今、再び立ち上がり、コヨミを救うためには、これに頼るほかないのも事実だ。
「くっ……」
割れんばかりに試験管を握りしめる。
できない。
自分にはできない。
踏ん切りのつかない自分に、どうしようもない怒りが湧く。
「――んそう……〝戦争〟……!」
自分を呼ぶ声がする。
〝戦争〟の脳裏に一瞬、彼女の姿が蘇る。
女王が裁定の準備に使う控え室――燃えている――その中に倒れている――自分の膝の上で――胸を突かれ、黒いドレスを血に染めて――真っ白な髪――砕け散った青い蝶々が――
「〝戦争〟!」
虚空を見つめ続ける〝戦争〟を、僕は怒鳴りつけた。
今、呆けている暇など一秒たりとも無いのだ。
〝戦争〟は泡がはじけたように瞬きし、廃墟と化した日陰邸に帰ってきた。すぐに僕の存在に気付き、びちゃびちゃと、自分が流した血を踏みしだきながら近寄ってきた。
僕は――貧血で平衡感覚がない――ぐわぐわと揺れる視界の中、どうにか上半身だけでも起こし、〝戦争〟のコートにしがみついた。
「マッケンジーが……僕の上司が……やつらの操り人形にされてしまった……!」
震える唇から声を絞り出す。〝戦争〟が目を見開く。
コヨミから聞いている。僕は逆転に必要な唯一の方法を示す。
「僕の血を吸え」
「しかし――」
「吸うんだ!」
僕は体中の全細胞を奮い立たせて叫ぶ。〝戦争〟が、いたわるようにそっと、僕の腕をつかみ返す。
「今のあなたでは、死んでしまうかもしれない」
脅しでも気遣いでもなかった。彼が、ささやくのではなく、はっきりと強い口調で言ったその言葉は、それが避けようのない事実であると告げていた。
それでも僕は即答した。
FBI捜査官になった時、平穏な死など決して望まないと覚悟していた。
「かまうもんか!マッケンジーは僕の恩人だ……!頼む!彼を人殺しにさせないでくれ!」
「かきゅぅうぅうううううう!」
夜空に咆哮すると、干からびたマッケンジーが、両手両足をめちゃくちゃな順番で動かしながら走ってくる。
「うぁ!」
コヨミは弾き飛ばされ、アスファルトに頭から激突する。夜空とは関係ないところで星が見える。
「うぅ……あっ!」
頭を抱え、呻いたのもつかの間、今度は何か大きなものが自分の体の上にのしかかってくる。コヨミは腰のあたりを押さえつけられ、逃れられない。
マッケンジーだった。
まぶたを開いた時、目と鼻の先に銃口があって、すぐに分かった。
「きゅがーぁあっ!あーがああ!」
奇声を発している以外は、まるで生きているようにマッケンジーは動いていた。両肩を激しく上下させ、酸素を補給しているように見えた。
しかし、骨と皮だけになった見た目や、白目からとめどなくあふれ出している血涙が、もう彼はこの世ならざる者になったのだと、コヨミに突きつけた。
銃口の中の、らせん状の模様が見える。
コヨミを追いかけて来た方――一人目の――〝支配〟を担ぎ上げているアンデッドたちの足音が止まる。
もう追いかける必要がないのだ。
その時が来るのだ。
胸の奥からぎゅうぅと冷たい感情が染み出してくる。
どれくらい痛いのだろう、どれほど苦しいのだろう。
せめて一瞬で――嫌だ――死にたくない――死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない!コヨミの意志とは関係なく涙があふれだし、幼稚園児みたいにみっともない泣き声がわんわん飛び出した。
マッケンジーの人差し指が、引き金に差し込まれる。
コヨミは眼がつぶれそうになるほどまぶたを閉じ、奥歯がひび割れるほど食いしばり、顔を背ける。
鼓膜が焼き切れるほどの銃声が、闇夜をつらぬいた。
「――――――――――――――え」
コヨミは銃声を聞くことができた。
その音のあまりの大きさに、顔をしかめることもできた。
目の前の地面、アスファルトが、不自然に盛り上がっていた。うっすらと、本当に極限まで目を凝らさないと見えないくらいうっすらと、煙が上がっていた。
コヨミは銃口の方に顔を向けた。
銃口がそれている。自分に向けられていない。
「あがっ……あがが……あがががががが!」
顎をガクガクと震わせ、マッケンジーがもがいている。その左手が、銃を持つ右手にかけられ、右手と左手が、互いに押し合いへし合い、主導権を握ろうと争っていた。
死してなお、市民を守ろうと抗う姿にコヨミは嗚咽を漏らした。
「おっさん……!」
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい――自分がタバコなんか吸ってなければ――そんなこと気にして、あの時逃げ出さなかったら――きちんと話を聞いていたら――捜査に協力して、自衛隊とか、アメリカの軍隊に助けてもらっておけば――先に立たない後悔がどっとあふれ出し、コヨミは涙が止まらなくなる。
「ちっ……」
前方から来た二人目の〝支配〟が舌打ちしている。気だるそうに右手を上げ、マッケンジーの方へ手の平を向ける。
「あがっ!」
マッケンジーの身体が一瞬、石にされたように固まる。
「うぅぅぅぅっ、がああああ!」
拳銃を握る右手がトカゲの尻尾のように痙攣し、左手をかいくぐった。再びコヨミの眉間に銃口が突きつけられる。引き金が引かれる。
「ぅぐぁああああああ!」
マッケンジーが吠え、左手で拳銃を殴りつけた。銃弾はまたコヨミを逸れ、眩い閃光を残してアスファルトの上で跳ねた。
右手はなおもコヨミを殺そうとする。マッケンジーは左手で右手首を掴みあげると、自らの顎に銃口を突きつけ、滅多撃ちにし始めた。
「ぅぐ!ぅが!ぐうううう!」
血の雨が降る。マッケンジーの顔が、穴だらけになっていく。原形をとどめないほどボロボロになっていく。
耐えられない。見ていられない。こんなこと、許されていいはずがない。
「やめて……もうやめて……!」コヨミは二人目の〝支配〟に懇願する。
「面倒だな……」しかし〝支配〟は、首をひねってマッケンジーのことを斜め上から見下ろすだけだ。
「お願いやめてーっ!やめさせてえぇぇぇ!」
コヨミは絶叫した。ただ煌めくだけの星空に、何もしてくれないお月さまに、先の見えぬ闇をはらむ夜道に助けを求めた。
誰でもいいから助けてほしかった。自分ではなく、マッケンジーを助けてほしかった。
しかしこれだけの事態が起きているにも関わらず、住宅街はだんまりを決め込んでいた。扉を閉ざし、カーテンを閉め切り、映画の背景のように動かなかった。
コヨミの願いを聞き入れてくれたのは、翼の羽ばたきだった。
それは渡り鳥のように優雅なものでも、獲物を狙う鷹のように鋭いものでもなかった。
ただ、力強かった。
夜空に紛れる二対の翼は、決して美しい形とは言えない。骨の周りにテントのような薄い膜が張られていて、ところどころ筋張ってもいる。空気を無理やり捉えて、力技で体を浮かせている。
それでもコヨミは、その姿に胸震えた。
竜巻のような突風が通る。巻き起こしたのはその、コウモリのような翼だ。上半身にのしかかっていたマッケンジーの重みが、風にさらわれて消える。
二人目の〝支配〟が、大きなため息をつく。
コヨミは下唇を千切れんばかりに噛みしめ、コートの背中を見つめた。
〝戦争〟は還ってきた。
道路の片隅にマッケンジーをそっと降ろし、ねじ切った首を元に戻し、ボロボロになった彼のまぶたに、そっと手をかけていた。
「言ったはずだぞ」
二人目の〝支配〟が、猫なで声ではない声で喋る。
「俺にお前を殺させるなと」
それが、自宅の二階で聞いた、重々しくて気持ちの悪いものであることにコヨミは気付いた。
どろりと、炎天下に置いていたチョコレートアイスのように、二人目の〝支配〟の身体が溶ける。その黒いどろどろの中から、羽化するセミのようにボーイフレンドが現れる。
「私も言ったはずだ」
マッケンジーに祈りをささげ、〝戦争〟は立ち上がる。
「我が命をとして、使命を全うすると」
右手に黒い刀剣を握り、その切っ先を左手に乗せ、ボーイフレンドの姿をした〝死〟に狙いを定める。
「刮目せよ!」
そう叫んだ瞬間、〝戦争〟の姿が爆弾のようにはじけた。破片の代わりに飛び散ったのは無数のコウモリだ。
コウモリたちは三方向に分かれて飛び立ち、その先々全てで〝戦争〟の姿をかたどった。
一人目は、死体の山の上でふんぞり返っている〝支配〟の下へ――アンデッドの大群に切り込み、ピラミッドのような山を大きく傾ける――二人目は、どこからともなく紫の鎌を取り出した〝死〟の下へ――イザナギで、紫の鎌とつばぜり合いを繰り広げている――三人目は、なんとコヨミの目の前で――イザナギをゴルフのスイングのように振り上げる。同時に、後頭部に風を薙ぐ音が当たる。コヨミが身を縮めた瞬間、頭上でイザナギとザンドスニッカーが、鐘を割ったような音を立ててぶつかり合う。
「ちぃっ!」
武器の衝突で生じた火花に照らされたのは、〝飢餓〟の顔だった。いつの間にかコヨミの背後に接近していた。
〝戦争〟は分身したまま、多数のコウモリを引き連れ、三人の黙示録の騎士を相手に大立ち回りを演じる。ザンドスニッカーに体中の骨を折られながらも、イザナギで激しく攻め立て、〝飢餓〟を後退させる。紫の鎌に切り刻まれながらも、〝死〟をその場に押しとどめる。そしてどれだけ致命傷を負っても、〝支配〟の足下にいる死者の血を吸って無理やり復活する。
「〝支配〟を下がらせろ」
〝飢餓〟が自身の位置まで後退したところで、〝死〟が吐き捨てるように命じる。
「足手まといだ。餌にされる」
〝飢餓〟は頷くと、ザンドスニッカーを首と肩で挟んだ。そうして自由になった両手で、〝支配〟に向かってなにかジェスチャーをした。
おそらく撤退の合図だったのだろう、すでに崩壊しかかっていたアンデッドたちが、列をそろえたテトリスのようにざっと崩れた。そのまま道いっぱいにぎゅうぎゅう詰めになって、増水した川のようにけたたましい勢いで引いて行く。下敷きになっていたおばさんも姿を現し――よかった――ゲホゲホとせき込んでいるが、どうやら生きているようだ。
「おばさん!」
コヨミはおばさんに駆け寄り、肩を揺さぶった。
「コッ――コヨ――えほっ――」
おばさんはより一層激しくせき込んだ。だらんと投げ出された右腕は逆方向に曲がっており、黒い傘は近くに転がっていた。
「このっ……!俺は帰るって……言ってんだろうがよぉ!」
きりきりと締め上げられた猫なで声で〝支配〟が叫んでいる。
顔を上げると、アンデッドの濁流の上で、血だらけの〝支配〟を〝戦争〟が追いかけている。足元がぐずぐずの死体でもお構いなしだ。四つん這いになって爬虫類のように走り回り、手当たり次第にアンデッドを食い散らかし、〝支配〟がせっかくくっつけていた左腕を切り刻み、背中にも大きな切り傷を与えている。
「ふむ……あくまでも〝支配〟の無力化を優先するか」
後ろの方で〝死〟がつぶやいている。その声にコヨミは振り返る。
〝飢餓〟と〝死〟が、並んでこちらを見つめている――と思ったのもつかの間、
「ならば!」〝死〟が不敵な笑みをこぼす。地面を踏みぬくように体を倒す。
瞬きの間に〝死〟の姿が消える。次にまぶたを開いた時には、コヨミたちの目の前に迫っている。
かつてのボーイフレンドの姿を前に、コヨミの身体は痺れたように動かなくなる。彼は禍々しい鎌のようなものを右手に持ち、獲物を仕留めるカマキリのように振りかぶっている。
おばさんの目がギラリと光った。
右腕が折れ、呼吸もまだ整っていないのに、怒れる獅子のように勇ましい顔をしていた。転がっていた傘を左手で拾い上げ、〝死〟とコヨミの間に割って入った。
自宅でザンドスニッカーを受け止めた時と同じように、黒い傘は、紫の鎌による一撃を防いだ。〝死〟の鎌はギザギザのかえしが付いた殺意の高いものだったが、傘は折れることはおろか、ささくれ一つできなかった。
〝死〟が刹那目を見開き、笑みを浮かべ後ずさる。入れ替わるように〝飢餓〟が走ってきたが、彼女はコヨミたちを飛び越え、〝戦争〟に殺されかかっている〝支配〟の助太刀に入った。
「この女――いや傘の方か……ただものではない。まさか、もう一振りの方か……おっとぉ!」
ぶつぶつつぶやく〝死〟に対し、再び現れた〝戦争〟の分身が、今一度勝負を挑んだ。
イザナギと紫の鎌がぶつかり合い、二人の顔が照らされる。
〝死〟は、コヨミのボーイフレンドだったころと同じようにひょうひょうと笑みを浮かべ、〝戦争〟の分身は額にびっしょりと汗をかいている。
「おいおい、頑張るな、頑張るな」
〝死〟は目にも止まらぬ速さで鎌を振るう。〝戦争〟は次第に切り込めなくなり、防戦一方になる。
〝支配〟を追いかけている方も劣勢だ。逃げ続ける〝支配〟の前に立ちはだかった〝飢餓〟が、扇風機の羽のようにザンドスニッカーを振り回している。〝戦争〟は左肩をつぶされ、イザナギを片手で振るっている。アンデッドたちの撤退が完了したことで、もはや吸血して怪我を治癒することもできない。
〝死〟と戦っている〝戦争〟、〝飢餓〟と戦っている〝戦争〟、両者の間を無数のコウモリが何度もなんども往き来する。コヨミは首を左右に振って、前後で激しく戦う〝戦争〟を交互に見つめる。キキキキ、とけたたましく鳴くコウモリが、時おり墜落しそうになったり、空中で不自然に身をよじりだす。頭上に降ってくる彼らを見て、おばさんがコヨミの頭にのしかかってくる。
おばさんの腕の隙間から見上げると、〝死〟の右手が、速すぎて紫の光の筋のようになっている。
〝戦争〟はイザナギではじいたが、紫の鎌は脇腹に突き刺さった。
「「……っぐぅ!」」
二人の〝戦争〟が同時に叫んだ。血反吐を吐いたのは、〝死〟の目の前にいた〝戦争〟だけだった。
〝飢餓〟の方にいた〝戦争〟は霧が晴れるように消え、数羽のコウモリが逃げるように羽ばたいていった。
「あまりやり過ぎると、死んでしまうぞ?」
壊れないおもちゃをいたぶるように、〝死〟が笑う。紫の鎌が引き抜かれる。〝戦争〟の血と肉片が後を追う。
糸が切れた操り人形のように、〝戦争〟が両膝から崩れ落ちる。
コヨミは最大にして最後の守護者を失う――
そうだ。
コヨミの頭の中で、声が反響する。
そうだ、この道だ――
倒れていく〝戦争〟を見た時、強烈な目まいと共に、あの記憶がまた蘇る。
お星さまが一つもなくて、まん丸のお月さまだけが輝いていたあの日、街灯なんかよりも何倍も明るく輝いていたあの日、そんな道を、この道を、〝戦争〟は走っていた。走る〝戦争〟を、コヨミは彼に抱きかかえられ、見上げていた。
汗をびっしょりとかいた〝戦争〟が、コヨミのおでこをつぅ、と撫でてくれる。大きくて冷たい指先が気持ちいい。
赤い唇は半開きで、激しく息している。赤い瞳は今よりもっと血走っている。しかし、春のように暖かくて優しい眼差しでこちらを覗き込んでいる。
それだけでもう、何も心配しなくていいのだと、ふかふかのベッドの上にいるような安心感に包まれる。
コヨミはずっと、ずっと、この上なく幸せな気持ちで見上げている。
「――――――お父さん!」
喉の奥を誰かに突かれたように、コヨミの意志を無視して言葉が飛び出した。
頭の上に乗っていたおばさんの左腕が、驚いたように跳ねる。
〝戦争〟と〝死〟が、まるで神に呼び止められたように振り返る。
〝死〟の顔になぜか、今生の歓びのような笑みが浮かんでいる。
「そうだコヨミ――己を解放しろ――」
そのつぶやきを聞いたとたん、〝戦争〟の顔が――鎌に刺された時の何倍も――こわばった。
「――――――コヨミ!!」
イザナギをかなぐり捨て、〝戦争〟が叫んだ。
彼が何を伝えたかったのか、コヨミにはわからなかった。
初めて名前を呼ばれた驚きも、衝撃も、ほとんど感じなかった。
それよりも――視界がまた、黄金色に染まったのだ。
「うゔゔぅ!」
目の奥が焼けるように熱い。
闇夜を貫くように、太陽の光が降ってきた。
月も、星も見えなくなった。
スポットライトに照らされるように、〝戦争〟と〝死〟が、光に包まれる。
まぶしい朝日を避けるように、〝死〟が右腕で顔を覆う。
〝戦争〟の身体が、ジュッという音を立てて煙を上げる。
二人とも、痛みに耐えるようにその場にうずくまる。
〝支配〟を逃がし終えた〝飢餓〟が、大跳躍を見せ、コヨミたちの方へ帰って来る。頭上でザンドスニッカーを振り上げる。
「うゔ!」
おばさんの腕を押しのけ、頭を振り上げる。ヘビのように長く切れた瞳孔と目が合う。
コヨミの狙いは当たる。まるで天使の降臨を祝福するように、〝飢餓〟の背後から黄金の光が降り注ぐ。
「ぐぁっ!」
〝飢餓〟は光に背を焼かれ、大きくバランスを崩した。そのままはじき飛ばされ、地面を転がり、〝戦争〟と〝死〟がいるのとは反対方向へ吹っ飛んでいった。コヨミが念じることで、スポットライトが演者を追いかけるように陽の光が動き、〝飢餓〟を捕え続けた。
光に焼かれた〝飢餓〟は、そのままアスファルトの上でうずくまった。
「はあ!はあっ!はっ!」
熱い。
「コヨミっ!」
おばさんが寝間着の裾を引っ張っているのがわかる。
でも、反応する余裕が、コヨミにはない。
〝死〟を押しとどめ、〝戦争〟まで巻き込んでいる陽の光、〝飢餓〟を跳ね返し、動けなくしている陽の光、二つの光を呼び寄せたことで、コヨミの身体にかかる負荷はサッカースタジアムの時の比ではなくなっていた。
「あっ、あぁぁっ!」
目の奥だけでなく、眼球の表面まで全部痛い。干からびるように熱い。両頬を鷲掴みにして、コヨミはその場で膝をつく。
指の間から、〝死〟が、〝飢餓〟が、〝戦争〟が、身を固くして耐えているのが見える。〝死〟は顔を覆ったまま立ち尽くし、露出した〝飢餓〟の身体と、〝戦争〟の青白い顔から、シュウシュウと煙が上がっている。
「ゔ!ゔ!ゔゔううぅぅぅぅぅ!」
なんとかしたくて目に力を込めた。すると、降り注ぐ光の直径が広がり、光度が増した。黙示録の騎士たちはより一層苦しみだし、これは失敗だとすぐに分かった。
(おばさん!おばさん!お父さんだけ助けて!お願い!)
コヨミは心の中で必死に叫ぶ。しかし、おばさんには届かない。
〝戦争〟の体がぐらりと傾き、コヨミは焦る。しかし、止める術も知らない。止めれば、〝死〟や〝飢餓〟が襲ってくるのも分かる。パニックに陥りながら、光の中を見つめ続ける。
(嫌だ、いやだ、イヤだ!お父さん、お父さん――)
「お父さぁん!」
叫んだことを、コヨミは後悔した。
コヨミの声に応えたのは、〝戦争〟ではなく〝死〟だった。
眩しさになれた人間がそうするように、顔を覆っていた腕を下ろし、逆光の中、ひやりとする笑みを浮かべた。
どうして気付かなかったのだろう。
内臓を直接撫でられたように、コヨミは腹の底から震えあがる。
〝戦争〟や〝飢餓〟と違い、〝死〟は――光に苦しむこともなく、焼かれることもなく、悠然と立っている。
陽の光を、克服している。
顔を焼かれながら〝戦争〟が、目を見開いている。
反対側で〝飢餓〟が、片目だけうっすらと開けて、救世主を見るような、羨望の眼差しで見上げている。
「〝飢餓〟、お前はもう少しだな。〝戦争〟――」
百年かかってようやく完成した武器を見定めるように、〝死〟は自らの左手を見つめる。
「これが俺たちの切り札だ」
左手を何度もひっくり返し、様々な角度から見つめる。感触を確かめるように、ぐっぱぐっぱと握りしめる。
「もたらしたのは――お前の女王様だ」
〝死〟は〝戦争〟に見せつけるように軽やかな足取りで歩き出す。〝飢餓〟が、脂汗をかきながら笑みを浮かべ、〝死〟の行く先を目で追いかける。
痛いのか、苦しいのか、あるいはその両方か、〝戦争〟は顔をしわくちゃにしながら右腕を上げる。二十倍の重力をかけられたかのように鈍い速度で、〝死〟の足をなんとか捕まえようと伸ばす。
そんな〝戦争〟を一蹴し、〝死〟がコヨミの方に歩いてくる。光の中を堂々と、我が物顔で歩いてくる。彼の背後に、大きな鎌を持った死神の姿が見える。もう、優しかったボーイフレンドの面影はない。
コヨミは自らを奮い立たせる。まぶたを絞り、歯を食いしばり、お腹の底にぎゅっと力を込める。陽の光がさらに強力になり、魚の鱗に反射したような、小さな光の筋があちこちに入る。範囲も拡大され、コヨミとおばさんまの足下まで光に包まれる。住宅街のこの一角だけ、真っ昼間になったかのように明るくなる。
〝戦争〟は右手を上げていられなくなり、〝飢餓〟は苦しみながら笑いだす。
しかし〝死〟はビクともしない。堂々たる足取りにはみじんの揺らぎも見られず、ふらつくこともない。コヨミの方へ真っ直ぐ歩いてくる。
おばさんに、無事な方の手で抱き寄せられる。コヨミもおばさんを抱きしめる。〝死〟の左手が、二人を分かつように伸びてくる。
「そうら、帰るぞ、コヨミ」
聞き分けのない子供を連れて帰るように〝死〟は言った。肩にかかった〝死〟の手が氷のように冷たくて、コヨミは震えあがる。
「い……いやっ!」
コヨミは身をよじる。おばさんも傘を持った左腕を大きく払うように動かす。
しかし、〝死〟の左手は鳥の足のように肩に食い込んで離れない。ブラックホールに吸い寄せられるような強い力で引っぱられ、おばさんから引きはがされる。そのまま右手首を掴まれ、引きずられる。〝飢餓〟のいる方に連れていかれる。
「コヨミぃ……!コヨミーッ!」
おばさんの声が追いかけてくる。
振り返るとおばさんが、動かない足を引きずり、左腕一本で自衛隊のようにほふく前進を試みている。そのさらに後ろでは、光に焼かれる〝戦争〟が、行き倒れのように右手だけをこちらに伸ばしている。
二人とどんどん離されることが、コヨミの恐怖心を増大させた。このまま一人ぼっちで、わけの分からないところへ連れていかれるのだと思うと死ぬほど怖かった。
「いやああぁぁぁ!」
コヨミは裸足のまま踵を地面に突き立てた。踵はずるむけになり、二本の血のラインが、線路のようにアスファルトの上に敷かれていく。自分を掴んでいる〝死〟の左手を、必死になってひっぱたく。
しかし〝死〟は全く意に介さず、畑を耕す牛のようにずしずしと歩き続けた。左手は、手錠のようにビクともしなかった。
降り注ぐ光の中、オーブンに入れられた肉のように全身を日焼けさせ、〝飢餓〟が舌なめずりして待ち受けている。
彼女の下にたどり着いた時が、自分の人生が終わる時なのだ。
コヨミは髪を振り乱し、半狂乱になって叫びあげる。
「放して放して!はぁあなぁしぃてぇええええ!」
コヨミの願いを聞き入れてくれたのは、翼の羽ばたきだった。
いつだってそうだ。
それは渡り鳥のように優雅なものでも、獲物を狙う鷹のように鋭いものでもなかった。
ただ、力強かった。
コヨミは下唇を千切れんばかりに噛みしめ、コートの背中を見つめた。
〝戦争〟は還ってきた。
目にも止まらぬ速度でイザナギを振るった。一瞬、切断面を境に世界が斜めにズレて見えた。
コヨミは自由になる。自分の右手首に、〝死〟の左手が、左手だけが巻き付いている。
「――なんと」
さすがの〝死〟も驚きを隠せないようだった。手首から先がごっそりとなくなった左腕を空に掲げ、細長い目をまん丸にして、放心状態で見つめていた。
「うっ……!ぉおおおおおおおおおお!」
〝戦争〟は雄たけびを上げながら〝死〟にイザナギをつき立てた。
その全身からは、今もじゅうじゅうと煙が上がっている。肌があらわになっている箇所は、じりじりと焼け続けている。つぶれた左肩からも、刺された脇腹からも、血が流れ出て止まらない。立っているだけでも不思議なくらいなのに、黙示録最強の騎士である〝死〟を相手に、一歩も引かない。
「どぉして――」今にも朽ちてしまいそうな背中に、コヨミは問う。
「言ったはず……です……。私はあなたの味方だと」息も絶え絶えに〝戦争〟は答える。
「やるじゃないか」
唇の端から一筋の血を流し、〝死〟が笑った。それでも抜け目なく右手を振り下ろした。月から落ちてきたように、紫の鎌が〝戦争〟の背中に突き刺さった。
さらに、〝死〟の向こう側から、ザンドスニッカーを構えた〝飢餓〟が猛スピードでやってくる。顔の皮膚が全てめくれあがり、べろべろになってなびいていたが、無我夢中で走っている。
「ぐっ!ぐおおぉぉぉ!」
彼女の足音を聞いた途端、〝戦争〟が悲鳴にも近い声で叫んだ。自身の血でできた血だまりを蹴り砕き、〝死〟の身体を押し出し、怒れるサイのように突進した。驚き、急停止する〝飢餓〟にもイザナギを突き立て、滅茶苦茶な歩幅で陽だまりの外へ向かって突き進んでいく。
遠ざかっていく〝戦争〟の背中に――焼けている時とは違う――黒い煙が立ち上っていることに、コヨミは気付く。
それと同じものが、〝死〟と、〝飢餓〟からもぽつぽつと出始める。
コヨミは思わず目をこする。
痛いからではない。見間違いかと、そう思ったのだ。
〝戦争〟の進行方向に、太陽の黒点のように、小さな黒い点が突然現れる。
最初は野球ボールほど小さかったそれは、回転するピザ生地のように渦巻きながら膨らみ、パラシュートほど巨大になった。
まるで、空中に浮かび上がった落とし穴のようだった。真っ暗な穴の先は底の見えない闇が広がっており、そこに入り込んだら最後、二度とこの世には帰ってこられない気がした。
強靭な脚力で〝死〟が、ザンドスニッカーを突きたてて〝飢餓〟が抵抗していたが、〝戦争〟を止められない。
アスファルトの破片をまき散らしながら、黙示録の騎士たちは一緒くたになって黒い穴へとなだれ込んでいく。
「コヨミ――」
穴の中へ姿を消す直前、〝死〟が、旧友のように語り掛けてくる。
「父親に会いたくば、来い――」
その言葉は、神の啓示のように、コヨミの脳裏に鮮明に刻み込まれる。
現れた時と同じくらい突然に、黒い穴が回転を始める。黙示録の三騎士は、排水溝に吸い込まれる水のように飲みこまれる。穴の奥でバラバラの方向に吹き飛んでいくのが見える。それを最後に、黒い穴は収束して消える。
薄くかかっていたもやが晴れるように、視界にかかっていた黄金の色がじわじわ薄まっていく。
住宅街をさんさんと照らしていた陽の光が、電池の切れた懐中電灯のようにプツンと消える。
焼き切れるほどだった目の奥の熱さ、痛みが、炭酸のようにしゅわしゅわと溶けて消える。
激しい戦闘に巻き込まれ、古びていた街灯は全て割れたか、へし折れていた。
星々と月だけが照らす夜道に、コヨミはおばさんと二人、取り残された。
それ以外には人っ子一人通らない、寂しくて冷たい住宅街だ。
コヨミはへなへなとその場に座り込んだ。
「――影の世界だ、待っているぞ」
〝死〟の残した言葉が、いつまでも頭の中で響いていた。