第五章 放浪の終焉
閑静な住宅街の一角で、コヨミは途方に暮れていた。
住宅街の中では割と古い方の家だと思う。時代遅れのくすんだクリーム色の壁と、雨にしおれた枯れ葉がいっぱい乗った瓦屋根が目印だ。門扉を入ると玄関まで続くポーチがあって、敷地面積は割と広いのだが、決して豪邸というわけではない。たしか、相続した中古住宅をリフォームしたとか、そんな話だった。
表札の名前は「日陰」、まごうことなき、コヨミの帰るべき場所だ。
しかし、表札の下にあるインターホンをコヨミは押す気になれなかった。施設で世話になっているはずの自分が、尻尾を撒いて逃げだして、ここに帰ってきたと思われるのが恥ずかしかったのだ。
そういったわけで、ここに来るまでコヨミは何度も回り道をしたり、必要のない面舵取舵を切りに切りまくったのだが、その度に〝戦争〟から違いますよ、と呼び止められた。こんなところでストーカースキルを発動されるとは思っていなかったため、コヨミはろくに対策を練ることもできず、自分の家に連れ戻される形となった。
「……これがお前んち?」
興奮したように目を輝かせ、ボーイフレンドが覗き込んでくる。
うつむいたままコヨミは頷く。
「なんでこいつが知っとる……あぁっ!」
止める間もなく、〝戦争〟が傘を持った右手で器用にインターホンを押した。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン……コヨミの抵抗むなしく、チャイムの音が空に溶けていく。
〔はい〕
インターホンのスリットから、機械に乗った音声が返ってくる。古い家なので、カメラはない。
自分でボタンを押したくせに、〝戦争〟は喋ろうとしない。見せつけるように瞬間移動して、一歩引いたところから無言で視線を送って来る。
コヨミは肉まんが丸呑みできるほど口を開き、自分で自分を指さした。
〝戦争〟は赤い目をぱちくりとしばたかせ、無言のまま頷いた。黒傘をへし折ってやろうかと本気で思った。
とは言え、ここでコヨミ以外の誰かが喋りだしても解決しないだろう。コヨミは諦めて、痰がからんだおっさんみたいに咳払いし、インターホンに向かって話しかけた。
「えっと……うち……帰って、来たんじゃけど……」
最後は尻切れトンボになり、ほとんどささやいているのと同じ音量になってしまった。
インターホンはしばらくの間無言だったが、突然、火がついたねずみ花火のようにやかましくなった。
〔……コヨミ?……コヨミなん?コヨミなんじゃね!?〕
声が大きすぎて、スピーカーが音割れしていた。
コヨミは両目をぎゅっとつぶって、両耳には指で栓をした。
家の中からドタバタがんがらガッシャンと音がした。恐らくだが、誰かが階段から落ちたか、もしくは窓ガラスなり鏡なりが割れた。最後にバン!と大きな音がして、玄関扉が勢いよく外向きにはじけ飛んだ。
出てきたのは三十代半ばの女性だった。マラソンを完走した後のように激しく息切れしつつも、片手でしっかりとドアを押さえている。
コヨミと同じ蒼い髪で、瞳も同じく青い。年齢の割に瞳が大きく、そこだけ見ればやや幼い印象を受けるが、長い髪を後ろで束ねたことにより露わになった首元は、年相応に筋張っていた。相当慌てていたのか、髪を押さえているのは大きなヘアピン一つだし、服装もその辺にあったものをとりあえず羽織ったようなちゃんちゃんこ風だ。それらを鑑みても、彼女を包む雰囲気を一言で表すのならば、麗しいという言葉がぴったりだろう。大人になったコヨミがそうなるであろう、美しい女性だった。
「コヨミ……!コヨミ!?」
女性はかなり声が細いようだった。叫ぶたびに、ケホケホと、咳が一緒に出ていた。
それでもコヨミは精神に多大なるダメージを負った。うつむいたまま、顔を上げることができない。というかうち、上履きのままじゃん。しかも血だらけの――学校から逃げ出した以上、仕方のないことなのだが――そういう些細なことでさえ、今のコヨミには爆発寸前の爆弾に等しい不安要素だ。冷たい氷を入れたコップのように、全身から汗が噴き出して止まらない。
コヨミの心配をよそに、ズダダダ、とポーチを駆ける音がした。とんでもない速度でこっちに向かってくる。映画でよく見る、金網を弾き飛ばす車のように、女性は自宅の手押し門を弾き飛ばした。コヨミはとっさに身を引いたが、なすすべなく抱擁された。昨日の夜からずっと血生臭かった自分の体臭が、古臭い香水の匂いでもみくちゃに上書きされる。
コヨミは両手で女性を押し返そうとしたが、女性の力は油圧式プレス機のように強かった。しかもおでこに口づけまでされて、吸盤のように吸い付いて離れない。
「どこに行っとったんあんた!施設にも戻っとらんって!心配したんじゃけん!」
「うー……ごめんなさいぃ……!」
コヨミはもうたじたじだ。真冬とは思えないくらい暑い。暑苦しい。
「強烈だな、お前の母ちゃん」
女性の腕の下から、ボーイフレンドがささやく。
コヨミは小声で叫び返す。
「違う、おばさん……お母さんのイモウト……!」
「お待ちしていたよ」
玄関の方から男性の声がした。それは昨晩、ホテルで聞いた声だった。
おばさんが、乾燥させた海苔をはがすようにぺりぺりと離れて行く。玄関の方を見ると、金髪のFBI捜査官、マッケンジーが、戸口に我が物顔で立っている。
「う……なんで……」
コヨミはうげーっと、きちんと声に出して嫌がった。
マッケンジーはさすがの大人の対応、スーツのシワをビシッと伸ばすと、親指を立てて家の中を指さした。
「話の続きは中で聞こう、さあ」
おばさんにマッケンジー、そして背後に〝戦争〟。もはや逃げ道などどこにもない。コヨミは観念してポーチに足を踏み入れた。ボーイフレンドがそれに続き、〝戦争〟もそうした。
「待ちんさい……!」
突然、おばさんが声を沸騰させた。コヨミがどれだけ迷惑をかけても聞いたことがない、冷たくて恐ろしい、背筋が凍るような声だった。
「あんた……!あの時の!」
「え――」
振り返ると、おばさんが今にも刺し殺さんという形相で〝戦争〟を睨みつけていた。
〝戦争〟は意に介した素振りもなく、傘の陰の下で、静かにおばさんの視線を受け止めていた。
「あんただけは入れん!」
おばさんは普段大きな声も出さないし、どちらかと言うとおっとりした人だったが、この時は様子が違った。喉が張り裂けんばかりに声を振り絞り、〝戦争〟に詰め寄り、唾を浴びせていた。
「え?え?」
コヨミはかつて経験したことのない混乱に陥る。思わず助けを求めて、マッケンジーやボーイフレンドに視線を送った。しかし二人も、突然のことに驚くばかりのようだった。
「今さらどの面下げて来たんじゃ!入れん!あんただけはうちに入れん!」
「ちょ、ちょちょちょ、おばさん!?」
コヨミは反射的におばさんと〝戦争〟の間に割って入った。このまま放っておいたら、おばさんはきっと、〝戦争〟を殴り殺してしまうと思ったのだ。
実際、おばさんは最後、半狂乱になって叫び続けた。
「帰れ!帰れ帰れ!帰れーーーっ!」
〝戦争〟だけが、他人事のように静かだった。
僕とマッケンジーは日陰邸の一室を借りた。コヨミに対する事情聴取は思っていたより時間のかかる作業だった。話の長さというより、理解の及ばない内容を飲み込むのに時間を取られた。彼女の話はにわかに信じがたいものであったものの、アンデッドの大群と相対した僕らには妙に生々しく、最終的には頷くしかないのが実情でもあった。
全て終えた時、太陽は既に傾き、街は茜色に染まっていた。マッケンジーは外の空気を吸うため、日陰邸の玄関を出た。彼はまだそこにいた。コヨミが言うところの〝戦争〟だ。
門扉のすぐ外側、コヨミの叔母に侵入を拒否されたまさにその位置で、黒い傘をさしたまま、半歩も動いていないだろう。ピクリともしない様は、まるで神社仏閣の仁王像のようだ。
マッケンジーは〝戦争〟の隣に立ち、スーツパンツのポケットに両手を入れた。彼と一緒になって、日陰邸の二階のあたりを見上げた。バルコニーのあたりを。
「聞いたよ」
バルコニーを見つめたまま、マッケンジーは〝戦争〟に語り掛けた。
「あんたと、影の女王の関係」
「そうか」
ややかすれた声で〝戦争〟は答えた。ちょうどその時、夕日が地平線の向こうへ落ちた。
ネイビーの絵の具が水に溶けたように、空の色が少しずつ変わり始める。〝戦争〟は用済みになった傘を左脇に挟み、器用にたたんでいく。
「ずいぶんと嫌われたもんだな?」
「彼女と再会するのはあの子を預けた時以来、十六年ぶりだ」
〝戦争〟は極めて事務的に答えながら、傘の留め具をパチンと鳴らした。
「……なぜ彼女に?」
「この世界にいる唯一の肉親だったからだ。彼女の血を拠り所として、この家には守りの呪文が施されている。神官の祈りが」
「それは、影の世界を創った神官の……末裔か何かか?」
「少ないつてを頼った。そのおかげで、彼女がこの家を出るまで、黙示録の騎士は足あとすら見つけることができなかった」
〝戦争〟はコートの内ポケットに手を差し込み、試験管のようなものを取り出した。黒く濁った液体が入ったそれを、遠い記憶を呼び起こすようにじっと見つめた。落ち着きを取り戻すためのルーティーンか何かだと、マッケンジーは推測した。併せて、祈りについてそれ以上説明する気がなさそうだということを感じ取った。
だから質問を変えた。
「一つだけ教えてくれ」
「ここにいれば安全だ」
「どうすればやつらを止められる」
「この家にいる限り、黙示録の騎士に見つかることはない」
それはまるで、互いに捕る気のないキャッチボールを続けているようだった。
〝戦争〟は試験管に向かって話し続けるばかりで、要領を得ない。
「あの子はそれでいいかもしれない!だが我々はそうはいかない。アンデッドだ!死者の軍団だ!それが何を意味するかわからない俺じゃない!戦場で死人は無限に増え続けるんだ!それが!全部!敵に寝返るんだ!しかも、通常兵器がこれっぽっちも効きやしない……!世界最強のアメリカ軍でも、対抗しきれるかわからない」
「彼女を引き渡さぬことだ」
「それは……俺の質問の答えになっているのか?」
マッケンジーは両手を腰に当て、言い訳を繰り返す子供に説教する父親のように〝戦争〟に迫った。
〝戦争〟は頑固なマジックテープを引きはがすように、じりじりと試験管から視線を外した。そして赤い瞳をこちらに向けた。
歴戦の捜査官であるマッケンジーでさえも、その表情にたじろいだ。
「もちろんだ」彼は強い口調で言い切った。
「もちろんだとも」念を押すように繰り返した。
「影の世界とて一枚岩ではない。女王の言葉だけでは、全ての民を納得させることはできない。だが彼女を取り戻せば、影の同盟はより強固なものになる。黙示録の騎士が血眼になって探しているのは、ひとえにそれが目的だ」
「なぜ?」
長年の捜査によって培われたマッケンジーの勘が、強烈な警告を発していた。コヨミが語っていないこと、もしくはコヨミ自身もまだ知らない事実のいずれかが、裏に潜んでいる気がした。そしてそれは、影の世界が仕掛けているこの戦争において、最も重要な事実であるように思われた。
「彼女が――彼女こそが、影の女王の娘に他ならないからだ」
黙示録の騎士が彼女を追う理由、そして、この世界に未だ攻め込めない理由――マッケンジーはすべてを理解した。
〝戦争〟はもう一度日陰邸に視線を向けた。彼が握りしめたままの試験管の中で、真っ黒な液体が不安定に揺れていた。
二日ぶりのシャワーを浴びて、コヨミはようやくさっぱりとすることができた。左腕の包帯や鼻先の絆創膏も新品に取り換えることができ、血まみれのパンツその他衣服ともおさらばできた。代わりに着ているのは水色の寝間着だ。中学の頃に買ったキャラものなので、あまりこれで人前に出たくないのだが、普段着用しているものは施設に持って行っているのでやむを得ない。銭湯にいるおっさんみたいにタオルを肩に掛け、ゴウンゴウンと頑張る乾燥機を置き去りにして廊下に出た。
濡れた髪をタオルでわっしわっしとかきむしりながら歩いていると、玄関扉が静かに開いた。先ほど外の空気を吸ってくる、と言っていたマッケンジーが帰ってきた。
コヨミは廊下の途中で立ち止まり、タオルを動かしていた手も止めて、マッケンジーをじろりと睨みつける。
「どうするって?」
マッケンジーは顔をしかめた。脳みそという名の図書館で片っ端から本を開いて、この場にふさわしい言葉を探していたようだった。少し間を開けたあと、ようやく答えた。
「…………腕を治してくるそうだ」
「……ふうん」
肩をすくめたマッケンジーにコヨミは疑いの視線を向けた。しかし、ここで追及したところで大した答えは返ってこないだろう。コヨミは聞き流して、わっしわっしを再開しながらリビングに向かった。
コヨミの家はもともと四人家族が使っていたものだ。リビングダイニングは広々としていて、四人掛けのテーブルの他に、大きなソファやテレビも置いてある。台所、もといキッチンはカウンタータイプで、リビングが一望できる形だ。
「コヨミ、ちゃんと髪乾かしんさい」
テーブルを拭いていたおばさんが小言を飛ばしてくる。コヨミは、んべっと舌を出して冷蔵庫の方へ逃げた。
「つまらないものしか出せませんけど」
冷蔵庫の扉を開けた時、リビングの方からおばさんの声が聞こえた。振り返ると、テーブルにありったけの料理を並べていくおばさんの姿が見えた。
他人が来るとこれだ。たしか、コヨミが施設に入ると決まった日もこんな感じだった。普段は絶対に出さない質と量の料理が並んだり、オシャレなティーカップで紅茶が出たり、どうして大人という生き物は異常に見栄を気にするのか、理解に苦しむ。コヨミは牛乳パックを片手にうへぇ、とため息をつく。ジョーが「いやあ、マダム、申し訳ありません」と答えているのをしり目に、パックから直接牛乳を飲んだ。
久方ぶりのおばさんの手料理は、悔しいことになかなかおいしかった。なんてことはおくびにも出さないけれど、コヨミはしれっと腹がはちきれるほど食べた。まあなんだ、唐揚げやポテトに罪はないし、おばさんとコヨミの確執に麻婆豆腐を巻き込むのは可哀そうだ。
FBI捜査官二人は礼儀正しく料理を食べていたし――思いのほか箸の扱いがうまくてコヨミは驚いた――丁寧に謝辞も述べていた。
ちなみに、ボーイフレンドはこれうまいっすね、を連呼していたが、コヨミとの関係を警戒したおばさんにずっと睨まれていた。
テーブルの上が片付き、食器が全て流し台に回収されたころ、マッケンジーが藪から棒に申し出た。
「マダム、申し訳ないが、少し外してもらえますかな」
食器を洗っていたおばさんの手が止まる。コヨミは胃のあたりを握りしめられたような気分に陥る。おそらく流し台でつぶされかかっている食器用スポンジに親近感が湧く。
「私はこの子の母親です。そしてこの子はまだ未成年だわ、一人で話をさせるわけにはいきません」
FBI捜査官を相手に、おばさんは毅然とした態度でそう言った。
「はあ……」
コヨミは一人頭を抱える。マッケンジーが立ち上がる。
「落ち着いてくれ、マダム」
「あなたたちがどんな話をするか知りませんけど、勝手にこの子の――」
「おばさん!」
コヨミは思わず大きな声を出してしまった。そしてすぐに後悔した。
おばさんは花が萎れたようにしょげかえっていた。青い瞳が、零れ落ちそうになるほど震えていた。困惑したようにこちらを見ていた。
コヨミはおばさんのこの顔が大の苦手だった。だって、コヨミが悪いことをした気分になるからだ。
「いや……うち、大丈夫じゃけん」
「えぇ、でもあなたはまだ十六なの」
「もう大人じゃし」
「まだ子供だわ!」
「子供じゃったらなんなん!」
コヨミはたまらずテーブルを殴りつけた。
おばさんはビクッと肩を震わせ、FBI捜査官二人は鋭い目つきになった。ボーイフレンドは逃げるようにリビングを後にした。
お風呂のお湯に泥水をぶちまけたように空気が沈んだが、構うもんかと思った。大人たちが免罪符のように使う「子供だから」がコヨミはこの世で一番嫌いだった。
法律上子供だから、一体何なのだと言いたい。ただそれだけで、コヨミの選択が全て間違っているとでも言いたいのか?中卒で働いている人だっていっぱいいる。だから、自分で働くから、自分のことは自分で決めさせて欲しい。いつもいつもおばさんは出しゃばってくるし、施設の保育士どもも生徒指導の橘先生も口うるさくあれやこれやと言ってくる。タバコを吸ったから何なのだ、酒を飲んだから何なのだ、それでコヨミが、誰かに迷惑をかけたのか?もちろん違う。盗んだことなど一度もない。こちとら、お小遣いがもらえないから、もぐりで雇ってくれるところを探し出してまで金を稼いでいるのだ。
だったらなんだ、お前たちがコヨミを縛り付ける代わりに、それ相応の待遇を与えてくれるのか?そんなことなかったじゃないか。十六年――まともに記憶が残っているのはここ十年くらいだが――ここまで生きてきて、心の底から良かったと思える出来事なんてなかった。現実は映画やアニメと違う。悪い家庭環境の子供に、信頼のおける親友なんてできない。本当の親がいなくて、それが原因でいじめられて、小学校も中学校も、高校だって、コヨミはずっと一人ぼっちだった。まともに会話してくれたのは今のボーイフレンドくらいだ。そのうえで、タバコを吸う自由も、人生の選択肢も、挙句の果てには誰かと会話する自由さえ奪われたらたまったものではない。
しかしおばさんは、また悲しそうな目をするのだ。コヨミは申し訳ない気持ちになると同時に、それがたまらなく嫌になる。
いつもそうやって、ケンカした後コヨミが謝るしかなくなる。それが嫌でいやでたまらないから、コヨミはこの家を出たのだ。
「……大丈夫じゃけん、ちょっと待っとって」
結局コヨミは、泣いた子をあやすように、優しい声でおばさんにお願いするしかなかった。
真っ暗な部屋で、手元の明かりもつけず、息をひそめるようにじっとしていた。
待ちきれなかった。不安で胸が押しつぶれそうだった。今すぐ抱きしめてもらえなければ、熱せられた雪だるまのように身が崩壊していただろう。
虎のように勢いよく、しかし蛇のように静かに扉が開かれる。ドアノブを握っているのは〝戦争〟だ。こちらが立ち上がると、瞬き二回のうちに抱き着いてきた。
「あん……んふ……」
唇をふさがれる。
こんなに苦しくて、こんなにうれしいことはない。しかし、
「はぁ……ダメ、ダメよ……」
理性が勝る。か細い声で、抵抗の言葉をつぶやく。自分の声がなぜこんなにも弱々しいのか、いつも嫌になる。
「どうして?私はこうして、あなた様のもとへ戻ってまいりました」
〝戦争〟はフルスロットルで回転し続けるエンジンのようだ。体が熱く、吐息も熱を帯びている。そのようなものを首筋に吹きかけられれば、こちらも熱に浮かされてしまう。
「ダメよ、みんなが大変な時に……先代のことも……」
自分の口が、形ばかりの抵抗を試みているのがよくわかる。そう言いながら、また口づけしてしまう。
「――〝戦争〟」
リビングにはFBI捜査官二人とコヨミだけが残った。コヨミは椅子の上で片膝をついて、さらにその膝の上で頬杖までついて、お行儀よく座った。テーブルを挟んで反対側に、捜査官二人が腰かけた。
「なかなか、過保護なおばさんだね」
廊下へつながる扉をチラリと見ながら、ジョーが切り出した。
「昔からあんな感じ」
「それで、嫌になって家を抜け出した?」
「それ、今カンケーある?」
けんか腰に言ったところ、マッケンジーが素早く動いた。
「関係ない。君の家の話は」
ジョーがすごすごと引き下がっていったので、コヨミはふっ、と鼻息をお見舞いした。
「我々の目的は目下、影の同盟による侵略を止めることにある」
「それ、うちにカンケーあるわけ?」
マッケンジーはすぐに答えなかった。もしかすると、答えられなかったのかもしれない。風呂上がりの時と同じように、どこか言葉を選んでいる節が見受けられる。
「説得を頼みたい」
刑事ドラマみたいなセリフが出てきて、コヨミは面食らった。
「影の女王は存命だ。おそらく」
「ゾンメ……?」
聞きなれない言葉に首をかしげたところ、ジョーが信じられない、と言いたげに両手を上げた。
「生きてるってこと、クソッ、なんで俺たちの方が日本語詳しいんだよ」
「はいはい、すいませんねぇ!バカで!」
恥ずかしさを紛らわせるため、コヨミは大きな声を出した。
「影の同盟による侵攻はまだ起きていないが、事件は世界各地で起きている。主に狙われているのは富裕層だ」
「いーじゃん、金持ちなら、少しは痛い目見れば」
「殺されてる。例外なく」
ザマアのザを言いかけたところでコヨミは口をつぐんだ。頬杖をついていること、片膝を立てていること、尊大な態度をとっていること、その全てが急にとんでもなく失礼なことをしている気分になったので、こっそりやめた。
「やつらは富裕層から金を巻き上げ、武器を買い漁っている。中東や北朝鮮――わかりやすく言うなら、我々アメリカ合衆国政府が関与できない国々で、だ。武器や金をどこに隠しているのかずっと謎だったが、君と〝戦争〟のおかげで行き先がわかった」
「影の世界ってこと?」
「そうだと踏んでいる。彼の言うことが真実なら」
マッケンジーはまた考え込むような顔に戻った。
事態はコヨミが思っていた百倍深刻そうだった。橘先生には悪いが、タバコがどうのこうのはもはや些細なことだ。三蔵一行の痴話ゲンカと、超有名A級バンドの解散を比べるようなものだ。ぶっちゃけ、関わりたくない気持ちでいっぱいだ。
「さっき君に聞いたな、影の女王の最後の命令は――」
「この世界に攻撃しろって」
「その通り。つまり今は準備段階なんだ。戦争を起こすための」
「じゃけん、それのどこがうちにカンケー――」
「娘なんだ」
そう言ったとたん、マッケンジーは顔をそらした。
「君が、影の女王の」
尖った氷柱が心臓に突き刺さったようだった。胸の奥底が冷えあがり、またたくまに全身に広がった。ドクン、ドクンと、心音が内側から鼓膜を叩いた。無意識のうちに呼吸が荒くなり、冷や汗がぶわっと噴き出した。
生まれてこの方、顔を見たこともなければ、声を聞いたこともない。どんな人だったのか教わったこともない。そんな母親についての情報が、よもやこんな場所で、こんなタイミグで出てくるとは思わなかった。
不意を突かれて動揺すると同時に、トンネルの中で〝戦争〟がした話が、三倍速で再生したYouTbueのように頭の中を駆け巡った。〝戦争〟は否定したが、彼は女王のことを愛していると言った。彼女を守るために、黙示録の騎士に戻ったとも。
「やっぱり……うちのお父さんじゃったんじゃ……」
放心した自分が、うわ言のようにつぶやくのを、コヨミはどこか他人事のように感じていた。
マッケンジーが心配したようにこちらを覗き込んでいたが、コヨミは瞬き一つすることができなかった。
〝戦争〟に――実の父親に――嘘をつかれた衝撃と、彼が話していた女王が自分の母親であり、この世界を、ひいてはコヨミを捨てる選択をした事実、自分がそのどちらに驚いているのか、あるいは両方に腹を立てているのか、様々な感情が入り乱れ、ぐちゃぐちゃに混ざりあり、コヨミの頭の中は混沌のるつぼと化していた。
「我々には君を保護する用意がある。その上で、影の女王、あるいは黙示録の騎士との交渉のテーブルについて欲しい」
「……こうしょう?」
熟睡中に肩を揺らされたように、コヨミはまどろんだ声で返した。正直、マッケンジーの話を半分も聞いていなかった。
「もはや一刻の猶予もない。準備は着々と進んでいる。影の同盟が侵攻に踏み切る前に、外交的に解決しなければ、我々に明日はない。だが我々は――この世界のどの国の政府も――あちらとのパイプを持たない。影の女王、そして黙示録の騎士の娘である君だけが頼りなんだ」
コヨミは石を飲んだようにお腹のあたりが重たくなるのを感じた。
自分の両肩に世界が乗った気がする。いや、今この瞬間、間違いなく乗った。望んでそうなったわけでは、もちろんない。拒否できるものならもちろんしたい。でも無理だ。親と子だ。切っても切れない血のつながりがある。
どこかで思っていた。そんなわけないと自嘲しつつも、どうしても捨て切れない希望をもって思っていた。
お母さんも、お父さんも、いつか自分を迎えに来てくれるんじゃないか。
たった今その希望が、クモの糸より頼りないコヨミの心の拠り所が、竜巻に巻き込まれたみたいに容赦なく切れた。コヨミに与えられるのは親の愛情ではなく、この世を滅ぼさんとする母親と、それを説得せよという無理難題なのだ。十六年、泥をすするように生きてきたご褒美がこれとは、神様は本当に洒落ている。
マッケンジーは余命を宣告する医師のように渋い顔をしていた。彼には彼の立場があるのだろうが、だからと言って二つ返事で受け入れられるものではない。
「お母さんを説得して欲しい。頼む、この通り――」
リビングの扉が歪んで見えるほどのスピードで、おばさんが飛び込んでくる。ずんずんと、怒れる足音を隠そうともせず。
「そこまでにして!」
「おばさん!?」
こっそり扉の向こうで話を聞いていたのだと知って、コヨミはまた、嫌悪感に似た感情がひたひたと降ってくるのを感じる。
マッケンジーが立ち上がり、おばさんの方へ歩み寄る。
「マダム――」
「もうそこまでにしてちょうだい!こんな時間だわ!夜も遅い!」
「わかっている」
「この子には休憩が必要だわ!睡眠も!」
「世界の命運がかかっている!」
「だったらなおのことよ!そんなことにこの子を巻き込まんとって!」
大きな体をできるだけ小さくかがめ、何とか平静を装って食い下がるマッケンジーに対し、おばさんはつま先立ちになって、か細い声をコンピューターで無理やり増幅させたようにかすれさせ、わめき散らした。必死に訴える様はヒステリックでもあった。身体が小さく、線も細いおばさんから、どうやってここまで激しい怒りが生み出されるのか、不思議で仕方がなかった。
「おばさん!」
コヨミは二人の間に割って入ろうとした。しかしマッケンジーが――おばさんと火花を散らしたまま――右手をさっと振った。コヨミは不承不承、引き下がった。
マッケンジーは額にびっしょりと汗をかいていて、左手で何度も拭っていたから、彼がなんとかこの場を収めようとしているのだと、そう感じたのだ。
ところが、まだ未熟な捜査官、ジョーが余計な一言をこぼしてしまう。
「失礼だがマダム、これは我々のものさしで測れる問題ではない!」
横やりを刺されたおばさんはたちまち豹変する。ジョーの元へ烈火のごとく詰め寄り、人差し指を鞭のように振るうと、ジョーの胸板を、穴が開くのではないかと心配になるほどつつきだした。
「あぁそう!そうですか!それはご苦労なことです!でも承知しませんからね!FBIでもCIAでも!警察でも!軍隊が来たって許すもんですか!この子はうちの子です!夜は寝て、朝起きて!学校に行く権利があるんだわ!さあ!話はここまで!ここまでよ!帰って!帰って!」
可哀そうに、マッケンジーが一人、天井を見上げていた。
「どっはあぁぁ」
階段の途中で、コヨミは日本海溝より深いため息をつく。手すりに全体重を預けてつかの間の休息を取る。
足が重たい。気が重い。妙な責任がのしかかってきたせいで両肩は今にもつぶれそうだ。
どす、どす、どす、段差を昇る度、お前ゾウかよウケる、と言いたくなるくらい重たい足音がする。家の二階まで、じりじりと上がっていく。
二階には部屋が三つとトイレがあって、一つはコヨミの部屋、もう一つはおばさんの部屋、三つ目は物置兼来客用の部屋になっている。コヨミはそのうち、来客用の物置に入った。バルコニーに面した部屋の一つで、大きな窓がついている。住宅街なので、大したものは見えないのだが。
部屋の中にはボーイフレンドがいた。おばさんから借りただぼだぼのTシャツを着ていた。彼は古い、湿った臭いのする応接セットのソファを勝手に窓際まで動かして、そこに座ってぼんやりと外を眺めていた。もう一脚のソファはと言うと、テーブルと一緒に部屋の奥に押し込められていて、テーブルの上には、テトリスのように大量の段ボール箱が積み上げられていた。
「おー、お疲れ?」
ボーイフレンドは切れ長の目をつぶすように笑みを浮かべ、ひらひらと手を振った。おばさんが見れば、軽薄そのものだと文句を言いそうな態度だった。
もちろんコヨミはそんなこと気にしない。二日ぶりに本音を出せる絶好の機会だ。るんるんでソファに飛び乗り、ボーイフレンドの隣で胡坐をかいた。ソファの背もたれに肘と肩と頭を全部預け、天井のシミを数えた。
「昨日今日で一番疲れた」
「なんでよ、いいおばさんじゃん」
「……気持ちはわかるんじゃけど、あぁも言われるとうっとーしーって言うか」
「ぜーたくな悩みだねぇ」
ソファの背もたれが僅か、ボーイフレンドの側に沈み込んだ。
「お前には帰るところがある。それだけで十分じゃんか」
チラリと横目で見たところ、ボーイフレンドがコヨミと同じように背もたれに体重を預けていた。彼はいつものようにひょうひょうとしていた。
どうしようか少し悩んだが、コヨミはボーイフレンドの肩にもたれかかった。
彼も一度シャワーを浴びていたから、コヨミと同じボディソープの香りがした。コヨミはその匂いをお腹いっぱい吸った。
「……ごめん」
「ん、気にしてないよぉ。つーか、ははっ、今さら俺が気にすると思ってんの?」
ボーイフレンドはケラケラと笑っていた。コヨミはなんだか恥ずかしくて、おちょぼ口で言い訳した。
「いや、そーゆーんぢゃなくて……」
ボーイフレンドがそっと、肩を抱いてくれる。コヨミは両手両足を全部折り畳んで、目をつむって、彼に体重を預けた。
真っ暗な世界。
その日、影の世界の月は分厚い雲に覆われ、文字通り一筋の光もない暗闇だった。
丈の長い植物に足元をすくわれる。思うように動けない。数歩先すら見通せない湿地帯に〝戦争〟は苦戦する。つい今しがた切り倒した相手の腕に噛みついて、新鮮な血を求めた。
ボン!と大きな音がする。爆発だ。モノクロの世界が一瞬、真っ白な色に包まれる。
口元から真っ黒な血が滴り落ちる。爆炎が見える。真っ白な煙の塊が、速すぎる気球のように闇夜を駆け上っていく。〝戦争〟が目指している場所と、同じ方向から上がっているように見える。
「はぁ……んん……!」
折れていた右腕に激痛が走る。骨を、肉を、血管を、修復しようと細胞が駆けずり回っている。痛みが引いた後にはかきむしりたいほどの痒みも出る。ぐちぐちぐちぐち、と生々しい音がして、全てあるべきところへ戻る。コートの袖だけが破れたまま、〝戦争〟は五体満足になる。肘に引っかけていた黒傘を、今一度右手で握りしめる。
急がねばならない。コートをコウモリの翼にして、打ちあげ花火のように垂直に飛びあがる。
爆炎の発生源へたどりついた時、〝戦争〟は言葉を失った。
湿地帯の中心には、小さな協会が建てられていたのだ。
それが今、ごうごうと真っ白な炎を上げて燃えている。
〝戦争〟は上空で羽ばたきながら、炎上する教会を見下ろす。
窓ガラスが全て割れ、地獄に手招きするように炎を吐きだしている。塔の一番高いところに据え付けられている鐘は、炎に照らされてギラギラ光っている。
〝戦争〟は意を決して翼を折りたたむ。一筋の真っ黒な閃光となって炎の中に飛び込む。
内部は地獄絵図となっていた。参列者が座るための椅子は炎に包まれ、壁にも、天井にも炎が走っている。一番奥にある十字架にも、火の手が迫りつつある。
〝戦争〟は素早く視線を走らせる。講壇の前、最前列の椅子との間に、その人は倒れていた。
特徴的な長い裾の服、傍らに落ちている角笛のような帽子――先代影の女王だ。
「女王様!」
女王の頭を膝に乗せ、〝戦争〟は叫んだ。
しわくちゃの顔から小さな瞳を覗かせ、女王は息を吹き返した。
「あぁ……〝戦争〟……」
威厳たっぷりだった声色が、今にも消えそうなロウソクのように弱々しくなっている。
〝戦争〟は女王の胸に手を当てる。最も傷が深く、湧き水のように血がとめどなくあふれ出る場所を。
「なんと……誰が、いったい誰がこのようなことを……」
女王の胸に当てた手が、すぶすぶと底なし沼のように沈んだ。一か所のみならず、何度もなんども刺したのだ。今度こそ命を奪ってやるという、強い殺意を感じた。
傷はおそらく、肺にまで達していた。女王が呼吸するたび、血が吸い込まれ、〝戦争〟の顔に散った。
血だらけの手が、〝戦争〟の顔に伸ばされる。それも途中で力尽き、コートの襟もとを掴む。滑る。〝戦争〟は女王の手をとる。
女王は口の中にたまった血を飲み込み、吐き出した。しわだらけの唇が形作る言葉を、〝戦争〟は息を飲んで見つめた。
「我々は……騙された……!」
ボーイフレンドの右手が、額の上に乗っていて心地よい。彼の中指が、前髪の生え際をちゃりちゃりと撫ぜてくれて心地よい。彼が喋る度、その声の振動が肩を伝わって来て心地よい。
コヨミはゆりかごの中の赤ん坊のように緩み切った表情で、ボーイフレンドの右隣という特等席を味わう。
「大人はいつだって勝手だよな。勝手に生んどいて、要らなくなってらポイ、ポイしなくてもあれをやれ、これをやれ、お前のためだからって」
「ん」
「結局俺らはさ、その場限りの言葉で生かされて、最後は自分でぇ、自分のことなんとかしてくしかないわけじゃん?」
ボーイフレンドの肩に頬をこすりつける。それが答えだった。返事だった。コヨミと彼の仲なら、それで伝わるから、言葉なんていらないから、大丈夫だと思っていた。
「だいじょーぶ、俺がいるよ」
「うん……」
コヨミはボーイフレンドに全てを預け切って、うっとりと目を閉じた。
「私のことなどいい……今すぐ戻れ……」
先代女王が、コートの襟を引きずるように握りしめる。このまま女王を置いて行けぬ〝戦争〟は、戸惑いを隠せない。
「しかし、女王よ――」
「陽の世界との友和など、夢物語だったのだ!」
血の塊と共に吐き出された言葉に、〝戦争〟はうろたえる。
炎を映してちろちろ光る女王の瞳は、本気でそう思っているのだと訴えかけていた。
まさか、影の世界の誰よりもそれを願っていた女王の口から、そんな言葉が出ようとは。
「私が甘かった……一度目の襲撃で気づくべきだった……!やつは、影の同盟を……ごほっ……再び集結させている……」
ブーン、と耳元であぶが飛ぶような、低音の振動でコヨミは目を覚ます。
それは一定の感覚で、波打ち際のように繰り返しやってくる。
振動の出所はコヨミではない。ボーイフレンドだ。ボーイフレンドの肩を通じて、コヨミの頬に届いていたのだ。
ボーイフレンドはコヨミの頭を撫でるのをやめ、左腕をごそごそやって、何かを取り出した。見間違いでなければ、それは黒いスマートフォンのようだった。煌々と光る画面には、着信を知らせる表示がされていた。
「はいはいー、俺だけどー」
スマホなんか持ってるはずがない。
コヨミの脳裏に真っ先によぎったのは、その違和感だった。
だってコヨミたちは、施設に預けられた身だ。親類のいるコヨミはまだしも、身寄りのないボーイフレンドが、スマートフォンの購入はおろか、通信契約を結べるはずがない。仮に天地がひっくり返ってそれが実現できたとしても、施設にいる間は没収され、保育士どもに保管されるのがおちだ。また、彼がその事実をコヨミに隠しているということも不自然だ。タバコや酒と同じ、二人で共有するイケナイ秘密にするはずだ。
それなのに、ボーイフレンドはさも当然であるかのよう着信に応じた。朝起きたら顔を洗って寝癖を直すように。お風呂に入ったら布団に入って眠るように。
コヨミは不思議に、いや不審に思って顔をあげる。
「あぁそうそう、言ったとおり、うん、間違いない。あぁ、めっちゃ似てた」
空いた手で膝を叩きながら、ボーイフレンドはけたけた笑う。
コヨミは体を起こし、少しずつ、定規を当てないとわからないほど少しずつ彼から離れ、ソファから立ち上がった。何かの冗談であって欲しいと、なんなら、ドッキリか何かであって欲しいと、祈るように両手を握り合わせ、その横顔を見つめる。
「いや、そのいっこ手前ぇー、どう?見えるようになったろ?」
ボーイフレンドはたてがみみたいな髪をバリバリとかきながら、電話の相手に何かを説明している。いつもの疲れ切った声でなく、妙にはつらつとしているのがとんでもなく不気味だ。まるで、ボーイフレンドの皮をかぶった別の誰かが、中に潜んでいるようだ。
「おー、それそれ。おん、じゃあ待ってるよー、よろしくぅ」
プン、と音が鳴り、通話が終わった。
短パンのポケットにいそいそとスマホをしまうボーイフレンドに、コヨミは言いようのない恐怖を感じる。
「ん、どした」
ぐずる子供をあやす父親のように優しい顔で、ボーイフレンドが振り返る。
彼に見つめられたとたん、コヨミの身体は痺れたように動かなくなる。口の中がからっからになる。縛られたように動かなくなった舌を、一生懸命動かす。
「いや……スマホ……持っとったんじゃ、って……?」
「あ?あぁ、持ってたよ?」
「どこから……どうやって――」
「どうって……俺にはさ、強力な協力者がいんの。あー、ダジャレじゃぁ……ないよ?」
「――協力者?」
足りなくなった絵の具を無理やり広げたように、自分の声がかすれている。
ボーイフレンドは、心配するような眼差しを見せている。
そして、コヨミが一番落ち着く声色で、優しく教えてくれるのだった。
「おん、影の同盟」
火の手はもう、〝戦争〟の周りまで迫っていた。
肌が焼けるような熱をコート越しに感じながらも、〝戦争〟は先代女王から目を離すことができない。耳を傾けずにいられない。
女王が、最後の力を振り絞って何かを伝えようとしている。全身全霊をもって、その一挙手一投足に集中する。
「やつはいつでも傍にいる……やつだ!〝戦争〟!」
コヨミは部屋の入口まで一気にさがる。後頭部が、お尻がドアにぶつかり、それ以上逃げられなくなる。
どういうこと?どういうこと?どういうこと――?言葉にならない思考が次からつぎに生まれ、そして消えていく。シャボン玉のように繰り返す。脳みそはすでに、処理が追い付かなくてオーバーヒートしている。
「おいおい、そんな顔すんなよ……」
新品の筆を墨汁に浸したように、ボーイフレンドの声がじわりと、そして永遠に変わった。
それは低い雷鳴のように重々しく、しかし吐しゃ物を集めたモップを絞った時のような気持ち悪さをはらんでいた。
「俺はいつだってお前の傍にいる」
先代女王の口が、
ボーイフレンドの口が、
その名を模る。
〝戦争〟は、
コヨミは、
その様子を、まるで望遠鏡の向こうの別世界のように見ている。
「「――――〝死〟だ、黙示録の騎士だ」」
天井が爆発する。木片とガラス片が襲いかかってくる。夜空を背に、大きな槌を振り下ろした〝飢餓〟が降ってくる。コヨミは頭を抱えてその場にしゃがみこむ。腕が、足が、木片にぶたれて腫れ上がる。鋭い破片は、勢いそのままにソファや段ボール箱に突き刺さる。
〝飢餓〟はソファの上に着地すると、ヘビのように腰をくねらせ、残骸散らばる床の上に躍り出た。両肩にザンドスニッカーを渡して背負い、耳元まで裂けた口でニンマリ笑った。月と夜空が、まるでオペラ劇場の照明のようにその様子を照らしている。
「お迎えに上がりました、コヨミ様」
「おいおい、あんま派手にやりすぎんな?」
ボーイフレンドは、まるで再開した旧友のように〝飢餓〟に話しかける。
「紋は?」
「俺がやっておいた」
〝飢餓〟の問いにボーイフレンドが手をひらひらと振る。夜空に交じってよく見えないが、彼の指先から、黒い湯気のようなものが薄っすら立ち上がっている。ふと自分の体を確認すると、肩やつま先から、同じように黒い煙が立ち上っている。さっきまでこんなものはなかった。ボーイフレンドに触れられたとき、何かされたのだろうか。なんにせよ、絶対によくないことだ。言いようのない恐怖に襲われ、コヨミの身体が、自分の意志とは関係なく勝手に震え出す。
「大丈夫ですよコヨミ様」心配の先回りをするように、〝飢餓〟が言う。
「〝死〟はいつでもあなたの傍に」ザンドスニッカーを振り上げ、近づいてくる。
コヨミはしゃがみこんだまま、下半分だけ残った壁に沿ってお尻で後ずさる。しかし、もともと広くない部屋に大量の荷物が置かれているのだ。すぐに追い詰められてしまう。
ザンドスニッカーが月と重なる。わずかな頼りだった月光が遮られ、コヨミの視界は一段と暗くなる。
もう終わりだと思った。
だって〝戦争〟は、お父さんはここにはいない。
黙示録の騎士からコヨミを守れる人はいない。
心の支えだったボーイフレンドは、何がどうなっているのかわからない。
死を受け入れる準備は言わずもがな、今のこの状況すら飲み込めていない。
そんな状態で死ぬのだ。理解する暇など与えられず自分の人生は終わるのだ。
勝利を確信してか、〝飢餓〟がヘビのように舌なめずりする。ザンドスニッカーの向こうから、満ち欠けの速度を三百倍に加速したように月が顔を出す。弓のような形――三日月――そして、まん丸の満月へ――黄金の軌跡の後に現れる――それに遅れてもう一つ、真っ黒な何かが現れる。ひどく遅く視界を横切る。ザンドスニッカーがウサギだとしたら、黒い影は亀のようだ。
〝戦争〟が戻ってきたのだと、コヨミは一瞬そう思う。だってその人は、真っ黒な傘を、天井にかける梁のように掲げ、ザンドスニッカーの衝撃を受け止めたから。
しかし、コヨミと〝飢餓〟の間に割って入ったのは、黒いコートの背中ではなかった。
片膝を立て、両手をぶるぶるふるわせてなお、コヨミの前からどこうとしないのは、コヨミが大嫌いなその人だった。
「――おばさん!」