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影の戦争  作者: 影宮閃
5/13

第四章 日食の日

 天気が急転していく。

 晴れから曇り、曇りから雨へ。

 つん、と鼻の奥が湿るような匂い。コヨミは嫌いじゃない。

 ぽつぽつと降り始めた雨は、バケツをひっくり返したような豪雨へ。冬なのに通り雨とは、珍しいような、そうでもないような。天気はどうも、コヨミが生まれる前にぶっ壊れてしまったらしいからよくわからない。最近、夏は暑くて人が死ぬのが普通だし冬に雪は降らない。

 大きな怪我を負った傘の男と人通りの多いところへは行けず、コヨミたちはスタジアムのすぐそばを流れる一級河川を北上し、盛り上がった川土手に作られたトンネルに避難していた。

 傘の男はトンネルの壁に背を預け、地べたに座ったままだんまりを決めこんでいる。傘は手に取らず、壁に立てかけている。左腕が原形をとどめないほど損傷しているのに、泣き言一つ言わないのは大したものだが、少々殺気が出過ぎている。男にそのつもりはないのだろうが、タッパーの底に沈んだ麦茶パックのように、じわじわにじみ出ているのだ。

 手持ち無沙汰かつ気まずいコヨミは、雨とトンネルの境界に沿って意味もなく歩く。右に、左に、何度も。ざあざあ言って滝のように流れる雨は、外の世界を完全に遮ってしまって何も見えない。まるで映りの悪い鏡を見つめているみたいだ。コヨミは何かするわけでもなく、鏡の向こうに世界を探すように眺め続ける。

「ほい」

 雨のカーテンの向こうから、セブンイレブンのビニール袋を掲げたボーイフレンドが帰ってくる。

「ありがと」

 コヨミは歯が抜けたばかりの六歳児のようにもごもご言って、ボーイフレンドの頭にかかった雨粒をぱっぱと払ってやった。ついでに馬のたてがみみたいな茶色い髪の毛を指先で絡めて、傷口の塩梅を見た。〝飢餓〟に側頭部を殴られて気を失っていたにもかかわらず、彼が負った傷は浅かった。今は雨にさらされてまた血がにじんでいるが、奇跡的に軽傷程度で済みそうだ。

 ボーイフレンドはへっくしょーい!とジジ臭いくしゃみをしながら、ビニール袋をがさごそ漁った。

「言われたとーり買ってきたけど、どうすんのこれ、もう手持ちねーぞ」

「仕方ないじゃん。お腹すいたし」

 ボーイフレンドが取り出したのは紙パックのトマトジュースだ。コヨミは唇を尖らせながら受け取る。それを持ったまま、殺気じわじわ男の方にじりじり近づいて、ぶっきらぼうに突き出した。

「ありがとうございます」

 少々驚いたようだったが、傘の男は丁寧にお礼を言って、右手でトマトジュースを受け取った。怪我した動物を預かるように柔らかく、優しい手つきだった。顔に火傷の痕が残っているのが生々しくて、コヨミはぷい、と顔をそらした。

「なんでトマト?」

 ボーイフレンドのところへ戻ると、彼はビニール袋から顔を上げた。

「こいつ、ゾンビの血吸って復活しとったけん」

 コヨミは落下中に目撃した異常事態を思い浮かべながら答えた。

「トマトなら、いけるかなって」

 自信が無かったので、傘の男に聞こえないようにつぶやいたつもりだった。しかし――今さら驚きはしないが――どうやら彼は聴力も人智を超えているようだ。悲しみと戸惑いが半分ずつ入り混じったような、それでいて隠しきれない喜びもあるような、中途半端な困り顔で笑っていた。

「そう意味では、血でないと回復はしませんね」

「んなぁ!」

 恥ずかしさのあまり、トンネルの天井にぶつかるほど飛び上がった。片足立ちで、スペシウム光線を放つウルトラマンみたいに腕を交差させて、傘の男に対して戦闘態勢をとった。

「なーお」

 何も知らないのんきな野良猫が雨宿りしにやってきた。まだ幼い三毛猫だ。ぶるぶると雨粒を飛ばす猫を、三人は固唾をんで見つめた。

「……吸わんとってよ」

 片足立ちのウルトラマンのまま、コヨミはつぶやいた。

「残念ながら、動物の血では効率が落ちます。片腕一本となれば、人間のものが必要です」

 傘の男の視線が、ごくごく自然に猫から自分に移った。

 コヨミは若干引き気味になって、自分で自分の身体を抱きしめた。

「吸わんとってよ……!」

 傘の男は「はい」とにこやかに答えて、未開封のトマトジュースを足元にそっと置くと、空いた右手でコートの内ポケットをまさぐり始めた。

 コヨミは警戒の視線を送りつつ、そろりそろりと片足立ちをやめた。

 コートの内ポケットから出てきたのは、試験管のようなものだった。ガラス製のコルクで蓋をされていて、黄金のネックレスのような鎖がついていた。おそらく、首からぶら下げられるのだろう。

 試験管型のネックレスというだけでも十分趣味が悪いとコヨミは思うのだが、それ以上に信じられないのが、その中身だ。

「それ、まさか……」

「えぇ、本物の血です」

 傘の男は否定しなかった。

 彼は右手の試験管を傾けた。どろりとした赤黒い液体が、液体というにはあまりにもゆったりとした速度で揺れた。できたてのわらび餅くらいねっとりしていた気がする。半分腐りかけてるんじゃないかと、コヨミは思った。

「うえぇ……持ち歩いてんの」

 失礼かも、とは思ったが、さすがにこれは自分の直感が正しいだろう。キモい。

「これはお守り――道標みちしるべのようなものです。緊急用ではありません」

 貰いたての結婚指輪を見つめる新婦のように、傘の男は試験管とその中身をうっとりと見つめていた。彼にとってそれが、噓偽りなく何ものにも代えがたいものなのだと、コヨミは思った。

「なんでよ、飲めばいーじゃん。痛くないの?」

「これは大変貴重なものなのです。もしかすると、もう二度と手に入らないかもしれない」

 やはりというか、想像通りというか、男は試験管の中身をもう一度称賛して、コートの内ポケットにしまった。

「私の身体など、放っておけばいつか治ります」

 傘の男は足元のトマトジュースを拾い上げると、片手で器用にストローを通した。それ以上、試験管の血について語るそぶりは見せなかった。

 きっとあの血は、ドラゴンとか、フェニックスとか、そういう特別な生き物のものなのだろう。人間より価値ありそうだし。飲まないのも手に入らないのも納得。コヨミはそう思うことで決着をつけ、「ふうん」と鼻先で相槌を打っておいた。

 ボーイフレンドが、コヨミが頼んでいた物をビニール袋から取り出してくれた。ガムにしては大きく、文庫本にしては小さい。片手に収まるモスグリーンの直方体。商品名よりでかでかと書かれているのは命が削られますよという脅迫文。

 そうだ、クソッたれな一日の後に一息つくと言えば、一も二もなくタバコだ。

 鮮やかなバトンパスのように差し出されたそれを、コヨミは日本代表のリレー選手みたいにノールックで受け取る。ピリッと手慣れた手つきで口を開け、一本取り出すとダーツみたいにボーイフレンドに投げ飛ばす。彼がキャッチするのを見もずにもう一本取り出し、海賊船の船長みたいに口に咥える。さて、あとはパーカーのポケットに入れたライターで火をつけるだけなのだが――

「あれ?あれぇ……?」

 コヨミは、我が子の毛づくろいをする母ザルのように体中をまさぐった。パーカーだけでなくブレザーのポケットなんかもひっくり返した。

「どしたの」唇の先でタバコをぴくぴく上下させながら、ボーイフレンドが待っている。

 コヨミはポケットの縫い目までまじまじと見て、もう一度パーカーから捜索を再開した。

「ライーが……あ?落したかなうち……」

 その言葉で、傘の男が電撃的に立ち上がった。コヨミはそれを視界の端で感じていたが、トマトジュースがお気に召さなかったのかと思い、対して警戒しなかった。

 実際、傘の男はトマトジュースの紙パックを握りつぶして、中身をほとんどコートにぶちまけていた。しかし彼はそれだけにとどまらず、紙パックをトンネルの壁に投げつけると、つかつか怒ったような足音を立てて近づいてきて、コヨミが咥えていたタバコをトンビのようにシュッとかすめ取った。

「ぷっ!ちょっ!」

 コヨミは傘の男の右手に向かって思いっきりジャンプしたが、もともとある身長差に加え、男はテナガザルのように腕が長い。プロポーションお化けめ。コヨミがいくらぴょんこらぴょんこら跳ねたところで、自由の女神のように空高く掲げられたタバコはおろか、男の右ひじにすら届かない。

 そうこうしているうちに、着地の隙を突かれた。もっとも、傘の男はあの〝飢餓〟と渡り合った超人――悪く言えば――化け物だ。常人のコヨミに太刀打ちできるはずなどないのだ。タバコの箱本体もひったくられた。

「なにするんじゃ!」

 コヨミは捨て身で男に飛びついたが、バレエ選手のように華麗な体さばきでかわされた。諦めきれない――というかニコチン切れが相まってイライラが止まらない――コヨミは、何度もなんども男に特攻を仕掛ける。

「かーえーせって!ウチのタバコ!」

「いけません。お体に障ります」

「はっ!?触る!?」

 なんつー宣言を、恥も躊躇いも、なんなら脈絡すらなく堂々と言ってのけるのだこの男は。コヨミは男に向かって飛び上がるのをキャンセルし、また自分で自分の体を抱きしめた。そういえばもともと、こいつにはストーカーの疑惑があったのだと、数時間ぶりに思い出した。

 傘の男は少し呆れたようにため息をついた。失礼な奴だと、コヨミは思った。

「ここで言うサワルとは、『よくない影響がでます』という意味です」

「はぁ……?はぁ……」

 意味が分からん。セクハラじゃないって、そんな必死になってウソつくくらいなら、最初っから言わなきゃいいじゃん。コヨミの日本語に対する理解はこの程度だ。普段の語り口は僕が脚色している。

「おっさん、うちの味方ぢゃなかったんかよ」

「味方だからこそ、お止めするのです」

「はぁ……?」

 意味わからん、死ねっ、と呟き、コヨミはセブンのビニール袋に戻った。

 ボーイフレンドはコヨミと男のやり取りをヤンキー座りで観察していたようだが、一連の流れでタバコを吸うことは諦めたようだった。細長い目をさらに細くして、口先に咥えていたそれを見つめると、ぷっと吐き出して捨てた。「あぁもったいないか」すぐに思い直したらしく、拾ってズボンのポケットに突っ込んでいた。

 コヨミはイライラをビニール袋にぶつけ、必要以上にガサガサ音を立てながら残りの中身を漁った。傘の男に対する当てつけだった。おにぎりの昆布をとり、梅はボーイフレンドに投げつける。

「さんきゅ」

 ボーイフレンドは感情のない声で礼を言った。




「あー、なんか腫れとる……うち、ゾンビになるんかな」

 包帯の隙間から左腕を覗き込み、コヨミは見るんぢゃなかったと後悔した。死者に追い回され、〝飢餓〟に追い詰められ、制服は傷だらけ、うすいパーカーには穴が開き、せっかく巻いてくれていた左腕の包帯もぐしゃぐしゃだったのだ。ちなみに怪我の状況はと言うと、前腕部に大きなミミズ腫れができていた。

「〝支配〟が操るのはアンデッドです。ゾンビではありません」

「違いがわからん」

「あなたはゾンビにならないということです」

 傘の男は丁寧・・に説明をしてくれたが、コヨミは無言で返事した。タバコを盗られた怒りはあと二百年ほど収まりそうにない。パリッと海苔を鳴らして、おにぎりの先端をはんだ。ニコチンの補充ほどではないが、空っぽの胃袋に何かを入れるというのは実に痛快な体験だった。とたんに内臓がうねり始め、生きていると全身で実感できる。ご飯粒って、一粒も逃さず噛むと甘くなるんじゃねぇ、と一人で感動しつつ、昆布の発掘を目指して食べ続ける。

「ねぇ」

 リスのようにおにぎりをはみながら、コヨミは傘の男に声をかけた。

 男はタバコの箱を握りしめたまま、顔だけで振り返った。

「聞きたいことあるんじゃけど、教えてくれる?」

「私に答えられることであれば」

「……なんで?」

「私が存じ上げないことについては、お答えいたしかねます」

 男は、空はなぜ青いのかと子供にせがまれる父親のように眉をひそませていた。そりゃたしかにそうだ。コヨミだって、二等辺三角形の一番長い辺の長さを求めなさいと言われても答えられない。

「んー……まぁいいや、さっきのあれ、なんなん?」

「あれ……と申しますと?」

 気を取り直していざ聞いてみたが、しょっぱなでいきなりつまずいた。傘の男はピンと来ていないようだ。

 あれというのはもちろん、スタジアム前での出来事だ。コヨミの視界が黄金色に染まって、そして朝日とは別の方向から、朝日より強力なの光が降り注いだことだ。傘の男自身、その光に焼かれて苦しんでいたのだから、わからないはずがない。しかし男は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。そうまでされると、あの一瞬の奇跡はコヨミの気のせいだったのではないかと、自信がなくなってくる。

「いやなんか……えぇ?」

「……はい?」

 やめよう、もうなんか、やめようこの話題は。なんだか一人だけ自意識過剰になっている気がして、コヨミは得も言われぬ恥ずかしさに襲われた。少しは役に立ったかも、なんて思ってなどいない。決して。

「んー……やっぱいい。えっと、じゃあ、おっさん、うちのお父さんなん?」

 明日の天気どう?というテンションで聞くべきではなかったかもしれない。まあでも、こんな話、真面目くさってできないしね、とコヨミは思う。しかしともかく、傘の男はタバコをコートの内ポケットに差し込んだところでぴくりとも動かなくなり、ボーイフレンドは梅のおにぎりにかぶりつこうとしたところでゲッ、と固まった。トンネル内の空気感に耐えきれなくなったのか、野良猫は雨の中へ逃げ出した。

 傘の男は特に動揺が激しく、美形の横顔が明らかにこわばっていた。こめかみの血管が浮き上がっているのが、火傷の上からでもわかった。

「……いいえ」

「ウソじゃん。そのは絶対ウソじゃん」コヨミは間髪入れずに指摘した。

 傘の男はコートから右手を引き抜くと、孫を見守るおじいさんのように柔らかな笑みを浮かべた。

「そうであれば、どれほど光栄だったか」

 怪しい、と思いながらコヨミはおにぎりをはみ続ける。唇から飛び出た昆布を、手で押し込みながら咀嚼を続ける。

「じゃあ何者なん?」

「あなたの味方です」

「あいつらの仲間じゃなくて?」

「違います」

「戦争って!」

 コヨミが声を張り上げたことで、傘の男は口をつぐんだ。

「戦争って、あいつら、呼んどったじゃん」

 〝戦争〟という言葉の響きに、傘の男は少しだけ肩を震わせた。それはあの時、ホテルの前で〝支配〟に呼ばれた時と同じだ。

 だからやはり、彼は〝戦争〟なのだ。

 傘の男などと、とりあえず持ち物から取ってつけたような印象だけの呼称ではなく。

「うち、思い出したよ?モクシなんとかの騎士。七つの大罪でしょ?チェンソーマンでしょ?〝支配〟〝戦争〟〝飢餓〟――」

「――最後は〝死〟か」ボーイフレンドがそっと付け加える。

 男は観念したようだった。トンネルの壁に頭を預け、祈るように天井を見つめると、鼻からふすん、と息を漏らした。そして認めた。

「えぇそうです。私は黙示録の四騎士の一人、かつて〝戦争〟と呼ばれた男です」

「かつて?」ボーイフレンドが最後の言葉に引っかかる。

「――第一の騎士〝支配〟、第二の騎士〝戦争〟、第三の騎士〝飢餓〟、そして第四の騎士――〝死〟――黙示録の四騎士は、影の女王に仕える最強の盾であり、鉾だった」

 男の声は、奥に潜んだ何かを無理やりに隠していた。きっとと言いたくないのだろうと思うと同時に、その言葉が、嘘偽りなく、全て自分たちの身に降りかかった事実の前日譚なのだと、コヨミにはわかった。

「十六年前までは」




 あれは綺麗な日食の日でした。と、〝戦争〟は追想した。

 色に乏しい影の世界。

 モノクロのカメラで撮ったような情景がどこまでも続く。の世界と違い、影の世界は色そのものではなく、色の濃淡で見え方が変わる。匂いの無い空気、鳥のさえずりさえ聞こえない毎日。

 そんななか訪れた日食は、影の世界にとって、数年に一度の――あるいは数十年に一度の――絶景を拝めるチャンスだった。

 の世界での日食が、太陽の光を遮るのに対し、影の世界では逆に、普段ふさがれている太陽の光が燦然と輝くものとなっている。

 無論、太陽は影の世界の住人にとって天敵でもある。その光に触れることは、それすなわち死を意味する。

 当時、すでに黙示録の騎士であった〝戦争〟は、日食の光がさす場所へ巡回に向かっていた。影の女王の命だった。

 命知らずの若造や、仲間内の度胸試しであえて危険に顔を突っ込む者がいるのは、影の世界でもなんら変わることのない問題だったからだ。

 この日、日食の光が直接降り注ぐのは、海に突き出した半島の先だった。

 〝戦争〟は黒い雑草生い茂る高台を歩いていた。ここは波の浸食によって削られた高さ数十メートルの断崖が続く。そのおかげか、日食という一大イベントにも関わらず、辺りには人っ子一人いなかった。

 半島の先端には、の世界で言うところの灯台に近い建物が建っている。目的はほぼ同じ、円滑な海運の補助をするためだ。真っ白な円筒形をしていて、高さは二十メートルほどある。

 時間だ。

 ちょうど、灯台を包み込むように陽がさした。

 薄灰色の空、どす黒い海を黙らすように、黄金色の光の柱が降り注いだ。

 まるで光のシャワーの様だった。灯台は真っ白な壁をより白く輝かせ、空気中を舞うホコリでさえ、キラキラと星空のように瞬いていた。

 この世界において、景色が色づく様はそうそう見られるものではない。〝戦争〟の名を背負っていても、思わず見とれてしまう。あれに触れれば死ぬのだと、本能で分かっていても、見つめることをやめられない。

 美しい。

 ただひたすらに美しい。

 生きとし生けるもの全てが追い求める希望。それが光だ。

 神官によって先祖が閉じ込められたあの日から、影の世界に棲む住人全てが欲してやまないものだ。

 突然、灯台の壁面に黒いシミのようなものが表れ、〝戦争〟は顔をしかめる。

 本当に突然だ。画用紙に黒い絵の具を落としたようにくっきりと、そしてじわじわと大きくなっていく。

 いや、違う。シミではない・・・・・・

 〝戦争〟は日食の光源を見上げる。

 この世界に顔をのぞかせた太陽は、直視するだけで瞳を焼かれかねないほど強力な光を放っている。まぶたをギリギリまで閉じ、目を凝らす。

 いた。まさか、人だ。

 黄金の光の中を、人が一人、落ちてくる!

 〝戦争〟は左手に持っていた黒傘の留め金を飛ばし、開いた。コートを二分割し、巨大なコウモリの羽に変えると崖っぷちから飛び立った。

 傘を掲げたまま、光の中に入る。一歩間違えれば自分が焼け死んでしまう。傘の角度を何度か変え、落ちてくる人の位置を確認する。

 おそらく女性のようだった。体の線が細く、髪が長かったから。〝戦争〟はこの時、その色の名を知らなかったが、紫色のセーターのようなものと、薄い茶色のチノパンといういで立ちだった。気を失っているようで、体をくの字に折り曲げた状態で、激しい海流に流されるクラゲのようにどんどん落ちていった。

 翼を広げ過ぎて、右の方がの光に触れる。ジュッ!と芳ばしい音と匂いが広がり、危うく墜落しそうになる。〝戦争〟の力で翼に変えたこれは、身に着けた衣服ではなく体の一部となっているのだ。落ち着いて体制を立て直し、傘で作った影の中で一生懸命羽ばたいた。


 失われし天使とは、5000年前に先祖が捨てた外見は、この人のことだと思った。


 女性を抱きかかえた時、〝戦争〟はそう思った。

 首と肩で傘を固定し、右腕で彼女の背中を、左腕で膝の裏を支えた。無茶な姿勢のまま飛ぶことを強いられたが、そんな苦行が一切気にならないほど美しかった。むしろ、〝戦争〟にとって彼女の体重は綿菓子ほど軽いものだったから、この体勢を我慢すれば永遠に見続けてよいと言われれば、迷わずそうした。

 彼女は薄い、青みがかかった髪色で、少しウェーブがかかっていた。〝戦争〟に負けず劣らず白い肌をしていて、おもわずイタズラしてしまいたくなる可愛い鼻がちょこんとついていた。瞳は閉じられていたが、まぶたがゆで卵のように大きく、柔らかそうだった。薄い唇は少し半開きになっていたが、チラリと見える前歯まで、まるでその長さだけ見えれば美しいのだと神が決めたように、完璧な角度で顔をのぞかせていた。

 〝戦争〟が受け止めた衝撃で、髪が少し乱れ、首筋にかかっていたのだが、それすら美しかった。思わずそこに噛みついて、血を吸ってしまいたいと頭をよぎったのは、墓場まで持っていく秘密にした。

 傘の下に入り、光が遮られたことで、彼女は異変に気が付いた。まぶたの下で瞳がころころと動いているのがわかる。

 開かれていくそれを、〝戦争〟は食い入るように見つめてしまう。

「んん……え……」

 か細い声だった。〝戦争〟は可愛らしいものだと思って聞き入ってしまった。

 彼女の瞳は吸い込まれそうになる水色だった。

 それは後に、彼女の世界の大空と同じ色なのだと、だから果てしなく美しいのだと、〝戦争〟は知ることになる。

 水色の瞳はまず〝戦争〟を、そして自分が今、空中数十メートルに浮いていることを、黄金の光の外側には、色のない世界が続いていることを、順番に確認した。

 ほっそりとした彼女の指が、頬にかかる。見ず知らずの女に触れられているのに、〝戦争〟は少しの拒否感も嫌悪感も抱かない。その事実に驚く。

「あら……あらあら……あらぁ……?」

 彼女はもう片方の手で自分の口を押さえ、まるで歌でも歌うかのように驚くのだった。




「人が降ってきただと?」

 〝飢餓〟が不信感をぎちぎちに詰め込んだ声を上げる。

 そこは控え室のような場所だった。

 照明は控えめで薄暗く、女王が落ち着いて執務に臨めるよう――の世界で言うところの――水晶玉やタロットカードといった彼女の私物もいくつか持ち込まれていた。部屋の大きさは小さな馬小屋程度だが、壁紙は白黒の花柄で、窓枠も暖かみのある木製だった。部屋の中央にはふかふかの絨毯が敷かれていて、その上に大きな揺り椅子が置かれている。揺り椅子から一番近くの壁には化粧台があり、この世界では珍しい、ゆがみのない一枚鏡が使われている。

「古より、日食はの世界と影の世界を繋ぐ架け橋と言われてきました。なんら不思議ではない」

 〝戦争〟は同僚・・である〝飢餓〟に対し、答える。彼女は当時、まだそこまで肌を露出させた格好ではなかったし、裁定の槌ザンドスニッカーも持っていなかった。女王の方針だった。

「不思議かどうかはこの際、関係がないのではないか?」

 〝支配〟が猫なで声で会話に加わる。彼は――ミノムシのような恰好は変わらないが――まだ自前の顎を持っていた。相も変わらず包帯を首に巻いているのは彼の趣味だ。

「その通り」

 最後に現れたのは第四の騎士、〝死〟だ。大きな石の塊を飲み込んだように、空気が何倍にも重たくなった気がして、〝戦争〟を始めとする三騎士は一斉に口をつぐんだ。

 〝死〟は筋骨隆々、墨のように黒い短髪を、歯向かうように逆立てていた。腕の太さだけでも、空から降ってきた女性の胴ほどある。体躯はさらに、ゴーレムの生まれ変わりと言わんばかりにでかい。鎧など必要ないと一目見てわかる。精悍な顔立ちに僅かばかりの怒りを混ぜて、こちらをにらんでいる。

「影の世界との世界には不可侵の条約がある。彼女が本当にの世界の住人ならば、我らは殺さねばならぬ」

「慈悲を――」

「慈悲だと!?」

 〝死〟が猛獣のように吠え、〝戦争〟はものすごい力で壁に叩きつけられた。壁にかかっていた豪華な装飾品が、バラバラと床に散乱した。〝飢餓〟も〝支配〟も、助太刀をしてくれる雰囲気ではなかった。

「〝戦争〟、我らに慈悲はない」と〝飢餓〟が、

「そうとも」

 そして〝支配〟が、自分たちの立場を証明するため、一応口をはさんだ。

 〝戦争〟は身をよじり、〝死〟の巨大な手のわずかな隙間から声を絞り出す。

「意図的に不可侵を犯したという証拠はない。送り返すことができれば――」

「どこにそんな手立てがある?」

 〝死〟が、その手に力を込める。〝戦争〟の首は余計に閉まり、気道がストローよりも細くなる。空気が通り道を失い、視界に星が瞬き始める。

の世界との道は断たれた。5000年前、神官たちの手によって。それ以来我々は、影の世界に閉じ込められたままだ!」

 〝死〟の怒りが、5000年蓄積された恨みが、彼の手の平を通じてなだれ込んでくる。その思いの強さに、〝戦争〟は心が苦しくなる。それは息苦しさからくるものとは別格のものだ。影の世界に住む者全員が抱く、永遠に晴れることのない、絶望にも似た劣等感だ。

「お待ちなさい」

 深い森の奥地で、木々が浄化した空気を吸ったように、その声を聴くと心が落ち着いた。

 揺り椅子に腰かけた影の女王だった。高級木材のように威厳を感じさせる声色だった。スラリと長い手足を隠すように、袖と丈が長い独特の衣装に身を包んでいた。長い銀髪と、黒いマニキュアを塗られた長い爪が印象的だ。

「〝戦争〟の言う通り、すぐに殺す必要はない」

 〝死〟は納得しなかった。〝戦争〟の首を押さえつけたまま、女王の方を見ようともしない。

 彼がの世界に対してどれほどの怒りを抱えているのか、影の女王は理解していた。だから、より明確に言葉にした。

「影の女王が命ずる」

 女王の言葉には力がある。

「〝死〟よ、黙示録の騎士よ、怒りを忘れ、汝の同胞たる〝戦争〟を解き放て」

 喉元に突き立っていた〝死〟の手から、引き波のように力が去っていく。

「彼女はこの世界に攻め入ったというわけではない。敵だという証拠もない。それに、我々・・世界・・きている・・・・。同胞という可能性も?捨て切れないのではないか?」

 〝死〟は壁の方を睨みつけていたが、汽笛のように鋭い鼻息を出して諦めた。女王の言葉を覆すほどの、決定的な何かが見つからなかったのだろう。

 〝戦争〟は解放され、腫れ上がった喉元をさすった。

「民への説明がつきません。不安も払しょくできない」〝死〟は悔し紛れの抵抗を続ける。

「黙示録の四騎士、誰か一人でもつければよかろう」女王は軽くあしらう。

「なるほど、それは名案で」

 〝死〟は皮肉たっぷりに言うと、女王の返事を聞きもせず、部屋を後にした。命ぜられる前に退散したのだ。少々不敬が過ぎる気もしたが、女王の手前、いさめることはかえって顔を潰すことになる。〝戦争〟も、〝飢餓〟も〝支配〟も、黙って次の言葉を待つ。

「〝戦争〟」

「わたくしっ……ですか?」

 まさか自分にその大役が回ってこようとは。考えなかったと言えば嘘になるが、決して望んでいたわけではない。

 どうにか伝われと苦心し、心外だという顔を作って見せたが、女王の意思は変わらなかった。

「お前が拾ってきた娘だ」




「それで?あなたが私のボディーガードなの?」

 城下町にある唯一の喫茶店、その軒先で、彼女はお上品にも・・・・・飲み物をスプーンで何度もかき交ぜた。

 〝戦争〟は椅子の背もたれにずるりと体重を預け、斜め下から彼女をねめつけた。

「ボディーガードではなく、監視役だ」

「ふうん、つまんないの」

 彼女はティーカップからスプーンを引き抜くと、ハチドリのように唇を尖らせ、通りに向かって「んべ」と言った。

「つまらない……?」

「ふふ、だって、ね、ボディーガードだったら、お姫様みたいじゃない、わたし」

 スプーンを置くと、彼女はコロコロと鈴を転がすように笑った。店員が運んできた真っ黒なパンケーキをさっさと切り分け、フォークで突き刺し、目の前へ持ち上げると、自由研究にいそしむ小学生のようにしげしげと眺めた。

「ふっしぎぃ~、ホント、なんでこれ、色がないのかしら」

 パンケーキもそうだが、彼女の髪は、日食がないところでは真っ白に見えた。大空の色だという瞳も、ここでは白灰色になっている。

 しかし不思議なのはそこではない。色が無いことなど、この世界ではごく当たり前のことなのだから。

 なぜこのような状況で楽しんでいられるのか、〝戦争〟は彼女の精神状態がこれっぽっちも理解できなかった。見ず知らずの世界で、知り合いなど一人もおらず、周囲には自分のことを快く思わないものばかりだ。現に自分以外の黙示録の騎士は抹殺を進言するし、道行く人々はカフェの前を足早に通り過ぎていく。店員にいたっては最後まで入店を拒否していたので――不本意だが――〝戦争〟の名前で押し切り、さらに店内ではなく店先のテラス席ということで手を打つしかなかった。

 唯一子供だけが、興味津々といった様子でこちらを振り返っていた。たいていは親に手を引かれて引きずられていくのだが、彼女はそういった子供たちに一人残らず手を振り返していた。

 とは言え、彼女の心もちなど単なる個人的興味に他ならない。〝戦争〟はあくまでも女王の命に従って質問する。

「俺も不思議だ。なぜ陰に飲まれない」

「かげ?」

「そう、陰だ」

 店員に普段の倍のチップを渡しながら、〝戦争〟は言う。

の世界の住人なら、この世界の陰に触れた時点で飲まれるはずなのだ。例えばそこ」

 〝戦争〟は彼女の左腕を指さした。テラス席にも陰はある。この世界は、真っ黒な太陽の周りからにじみ出た光、すなわちの世界の日食の状態が常時続いているようなものなのだが、これを、真っ黒な雲が一部遮っているのだ。現に彼女の左半身は、その雲が作り出した陰に浸っている。色のないこの世界では、肌が少々暗くなるくらいの変化ではあるが、フォークを握る右腕とは明確にその濃さが違う。

「わたしが知ってるわけないじゃない」

 彼女は肩をすくめるだけだった。〝戦争〟のことなど無視してパンケーキをほおばり、あ、おいひ、とつぶやいていた。

「とはいえ、不確定要素が無いわけではない。一応、陰には触れぬように――」

「うぇっへ!うぇっ!」

 パンケーキが喉に詰まったのか、彼女は突然喉元をどんどん叩き始めた。お行儀のよいことだと、〝戦争〟は感心して見ていたが、どうやら理由があるようだった。

「どうした」

 彼女は膝を折り曲げ、卓上に見えるほど抱え上げていた。逃げているようにも見える。仕方なく机の下を覗き込んでやると、なんてことはない、生きのいいムカデやヤスデやゲジゲジが数匹、テラスの板の隙間から顔をのぞかせているだけだ。

「ねぇ」

 机の上に戻ると、彼女が生ゴミの匂いでも嗅がされたように顔を歪めている。

「この世界って、なんでこんなにジメジメしてるの?ムカデとか、クモばっかり……まさかゴキブリなんていないでしょうね」

「貴重なタンパク源だ」

 即答したところ、彼女は走り回る全裸の男を目撃した時と同じ表情をした。驚愕と軽蔑が入り混じったというか、真に理解できないものを見た時、人はあそこまで顔面を崩すことができるのだと、〝戦争〟は一人感心した。

 ただし、ゴキブリの話をする(それを言う)ならば、空を飛んでいるのは先ほどからコウモリばかりなのだが、それはよいのだろうか。バタバタと懸命に飛び、軒先にぶら下がっている彼らが〝戦争〟は好きだが、の世界でも同じように愛玩動物となっているのだろうか。

「今はゴキブリを食べるか食べないかは問題ではない。問題なのはお前の処遇だ」

「不可侵の条約?ってやつ?」

「そうだ。我々の世界との世界――お前がいた世界には、不可侵の条約がある」

「でも仕方ないじゃない、日食を観察してたら、吸い込まれちゃったんだもの」

 彼女は開き直った。曰く、それはいつもの日食観察と同じだったそうだ。大学とやらの研究の一環で見ていたところ、体中から黒い泡のようなものが突然湧きあがり、栓を開けたビールのように泡だらけになって包まれたと。そして、太陽の方に吸い込まれるように体が浮いて行き、どんどん加速していき、最後は開けたてのシャンパンのような速度ですっ飛んで行き、太陽に激突すると思って目をつぶり、次に開いた時には〝戦争〟の腕の中にいたらしい。

 彼女自身、このような結果になってしまい、大変に驚いているとも言った。それにしてはパンケーキにバターをたっぷりとかけ、一切れずつきちんと味わって食べているのだからたくましいものだ。

「天文学者と、そう言ったな」

「そうよぉー?まだ卵だけど」

 彼女は黒いパンケーキをふた切れ一緒に串刺しにすると、手の中でフォークを一回転させ、口に運んだ。

 時を同じくして、机の端につやつやのゴキブリがよじ登ってきた。彼女の目に触れてはマズいと思い、戦闘時と同じ速さで手を動かした。ダァン!と右手を、机の脚がテラスの床板に沈み込むくらい叩きつけてしまい、彼女には漏れなくバレてしまった。

「食べんとってよね……」

 彼女はフォークとナイフを武器のように構え、重力が逆になってしまったように白い髪の毛を全部逆立てていた。

〝戦争〟は右手の檻をわずか緩め、ゴキブリに頭を出す許可を与えた。ひょっこりと覗いた触覚とその付け根を、親指でぐりぐりと愛でてやった。

「食べんとってよね……!」

 二度も念を押されたのが逆に腹立たしくて、〝戦争〟は酒のつまみでも食べるようにフランクにゴキブリを口に放り込んだ。しゃくしゃくと、咀嚼音と食感が心地よい。ゴキブリは基本的に生命力に満ち溢れているが、こいつは特に生きがよかった。頭と胴の付け根をかみちぎった後も、しばらく口の中で自己の存在を主張していた。

 彼女は椅子の背もたれが折れる一歩手前まで体をのけぞらせ、へぇぇ、へぁあーあーあぁあ……と声にならない悲鳴を上げていた。

「言ったはずだ、問題なのはお前の処遇だと」

 唇の端から飛び出した足をちゅる、と吸い込み、〝戦争〟は話を元に戻す。

「お前、お前って言うのやめてくれん?」ゲロを吐き出すときの表情で、彼女は異を唱える。

「あっそうだ、あなたの名前は?わたしも名前で呼ぶから、それでおあいこにしようよ。ほら、名前教えて」

 彼女が無理やり話題をそらしたのがわかって、〝戦争〟は顔をしかめた。おそらく、一刻も早くゴキブリから離れたかったのだろうが、奇妙なことだ。おいしいのに。〝戦争〟には理解できない。

「…………〝戦争〟」

「変な名前ね」

「名前ではなく称号だ」

「称号じゃなくて、名前を聞いたんじゃけど」

「名前はない」

「えぇー!?どぉして?」

「〝戦争〟の称号を得た時、自らの名は捨てた。そういう契約なのだ」

「なんだか理不尽ねぇ」

 彼女は頬杖をつくと、白灰色の瞳でまじまじと見つめてきた。生まれて初めて子犬を見た子供のような、好奇心にあふれた視線だった。

「黙示録の騎士は影の女王に仕える精鋭中の精鋭だ。称号を得る代わりに、騎士たちは絶大な力を得る」

 一応説明してみたが、彼女はそこまで興味をそそられなかったようだ。線路の切り替えスイッチのように機敏に話題を入れ替える。

「あっ!ぢゃあ、わたしが名前を付けてあげる!」

「結構だ」

 容赦なく断ると、彼女は心外だと言わんばかりに声を荒げた。

「えぇぇー?いいじゃない。〝戦争〟なんて、呼びづらいだけだと思うよ?」

「結構だと言っている!」

「はいはーい、わっかり、まし、た!」

 重ねて断ると、彼女は突然興味を失ったようだった。食べかけのパンケーキも何もかもを放り投げて席を後にした。恐れることなく、通りを行きかう市民に自ら声をかけに行った。

 先ほど想起した通り、影の世界の住人は彼女を避ける。彼らはもちろん、の世界の住人など見たことがない。それは〝戦争〟とて例外ではない。5000年の歴史で彼女が初めてだ。そして、影の世界の住人の頭には、不可侵の条約が遺伝子レベルで刻み込まれている。みな、彼女を避け、逃げるようにその場を後にする。

 不思議なのは彼女の方だ。

 どれだけ無視されても、なんなら、一部の家族連れからは明確に近寄るなと態度で示されたのに、絶対にめげることなく、次のターゲットに声をかけに行くのだ。

「あーん、もう!待ってぇー!」

 小さな子供をぱたぱたと追いかける彼女の背中に、〝戦争〟は声をかけた。

「陰には触れるなよ!」

 たった一人、異国の地どころか世界のことわりそのものが違うこの場所において、それを行うことがどれだけ勇気のいることだったか。この時の〝戦争〟にはみじんもわかっていなかった。




「ぁう!」

 彼女の身体が、馬に蹴られたように跳ね、石造りの壁に後頭部から激突した時、〝戦争〟は脳みそがねじ切れるほどの怒りを感じた。

 彼女を殴りつけたのは〝死〟だ。路地裏に呼びつけたと思ったら、何の言葉も警告もなしに蛮行に及んだ。取り巻きでついてきた〝飢餓〟と〝支配〟は、〝死〟の言動をいさめることもせず、少し距離を置いてニヤニヤと眺めるだけだ。

 〝死〟が、その大きな手をサソリのようにワキワキと動かし、彼女の顔に近づけていく。彼女は――鼻血が出たのだ――鼻のあたりを押さえて、じりじりとすり足で下がっていく。

 〝戦争〟が毎日のように口を酸っぱくしていったため、彼女は陰を避けるようになっていた。この時も例外なくそうだった。路地裏という陰の多い場所において、屋根の形にできた陰の淵を、ギリギリのところで踏まないように下がっていった。

 しかし、〝死〟が粘着質な蛇のように追い回したせいで、彼女の右足が一瞬、陰を踏んでしまう。〝戦争〟と〝飢餓〟だけが、いや、おそらく〝死〟も気付いたはずだ。

 飲み込まれない――。

 こちらを見る〝飢餓〟の目に、困惑と動揺が入り混じっている。そこにはわずか、希望ともとれる複雑な輝きも宿っている。〝死〟も、一瞬攻めあぐねる。その隙を突いて、〝戦争〟は彼女と〝死〟の間に割って入る。

 〝死〟は巨大だ。〝戦争〟の視線は、〝死〟の顎の先ほどしかない。それでも、彼女を傷つけたことに怒り心頭だった〝戦争〟は、怖じ気づくことなく〝死〟を睨みあげた。

「何をしている……!」

「条約を守っているだけだ」

 〝死〟はつい今しがた自分が目撃した奇跡を――まるでそんな事実はなかったとでも言いたげに――無視して話す。〝支配〟がクックッ、と笑みをこぼす。

「女王が命じたのは友和だ!この女――ひいてはの世界との!」

「そうだ、そのためにこの世界のやり方を教えてやっている。嫌がる影の住人に、無理やり話しかけるとどうなるか」

「詭弁を……!」

 無茶苦茶な理論だ。影の世界の法体系が、王を中心に据え、整備されたものであることを鑑みても横暴だ。黙示録の四騎士には――その業務の特性上――ある程度の裁量が設けられているのも事実だが、その中に条約違反者を無条件に殴ってもよいとは書かれていない。

 〝戦争〟は所持していた黒傘を左腰にピタリと当て、右手を地面と平行に持ち上げた。自分の怒りが黒傘に伝わり、周囲の空気を巻き込み始めた。足元から気球を上げるほどの上昇気流が起こり、自分の前髪が大空へ飛び立とうとして暴れ出した。地面を這っていたムカデやゲジゲジは無数の足をしっちゃかめっちゃかに動かして逃げ出し、軒下にぶら下がっていたコウモリはどこかへ飛んでいった。

 制御ができていない。するつもりもない。

「詭弁だと?俺に対して、言うに事欠いてそれか!〝戦争〟!」

 〝死〟は大きく頷きながら笑った。

 この時すでに〝死〟の術中にはまっていたのだが、まだ未熟だった〝戦争〟はそれに気づけないでいた。残像が残るほど素早く右手を動かし、傘の持ち手を握りしめた。

「アレス!」

 後頭部に、彼女のか細い声が釘のように深く、鋭く突き刺さる。

 〝戦争〟は傘にかけていた右手を離し、やはり思いとどまり、もう一度握る。

「しかし……」

「いいの、いいのよ、アレス……」

 彼女は熱にうなされた時のうわ言のように繰り返した。

 怒り冷めやらぬ状態ではあったが、〝戦争〟は彼女の意志を尊重し、引き下がった。固く握りこんでいた右手の指を、のりをはがすように一本いっぽん引きはがし、傘を左腰に当てるのもやめた。

 それを見て、〝死〟が茶化すように追い打ちをかける。

「いいのよ、アレス――いい名前だな、つけてもらったのか?〝戦争〟……いや、アレス・・・

 彼女に呼ばれた時は多少なりとも喜ばしいのに、〝死〟が口にするだけで腹の底から吐き気がこみ上げてくるから不思議よ。〝戦争〟は眉間にしわを寄せ、大きく顎を上げた状態で〝死〟を睨み続けた。

 〝支配〟が相も変わらずケラケラ笑っていたが、〝飢餓〟はもう笑わなくなっていた。

 じゃり、と地面を踏みしめる音がして、〝戦争〟は左半身を引いた。彼女のために道を開けた。

 彼女の横顔を見た時、今にも泣きだしてしまうのではないか、そう思った。

 手で鼻を押さえていたが、鼻血は止まらず、水晶玉のように美しい白灰の瞳は、今すぐにでも壊れてしまいそうなほど震えていた。

 それでも彼女は、弓矢で遠くの敵を狙いすますように唇を引き絞って、〝死〟の視線を真正面から受け止めてみせた。

「ごめんなさい」

 その言葉を聞いた途端、〝死〟は面食らったようだった。〝戦争〟と相対した時とは違い、明らかに動揺を隠せないでいた。

「あなたがわたしのことを嫌っているのは知っていました」

 彼女は口元まで垂れてきた鼻血を拭う。手の平で一度、手の甲でもう一度。痛いだろうに、つらいだろうに、その心情を察するだけで、〝戦争〟は胸が締め付けられるような感覚を覚える。

「それなのに、あなたの気に入らないことをしてしまって、ごめんなさい」

 気丈にふるまう彼女を、〝支配〟はニヤニヤと、〝飢餓〟は思慮深く、そして〝死〟は、親の仇を見るように、それぞれ見つめていた。

「同じ世界に住んでいるんですもの、絶対に視界に入らないって約束はできないけど、なるべくそうならないよう努力するわ」

 凛とした表情で彼女は言い切った。

 黙示録の騎士最強と謳われる〝死〟が、手も足も出なかった。出せなかった。

 鼻血を流し、ぶたれた頬が腫れ上がっている彼女には、黙示録の騎士はおろか、影の同盟一兵卒ほどの力すら無いというのに。わかっているのに。

 かつていた神々は言葉に尽くせぬ力を持ち、その姿直視するならば、差す後光により目がくらむと伝わる。

 この時の彼女は、その姿に最も近かったのではないかと、〝戦争〟はそう思う。美しさの中に決して譲らぬ自己の強さを持ち、その信念を、たとえ自らの命を賭してでも貫き通す覚悟がある。

 対する〝死〟には恨みと憎しみしかない。それも、この世界に閉じ込めた神官当人ではなく、ましてやその末裔ですらなく、事情も知らず、事故と偶然によってこの世界に迷い込んだ一介の少女にぶつけるお門違いな恨みだ。

 結局〝死〟にできたのは、悪態をつき、踵を返し、路地裏から退散することだけだった。

 その背中について行く前、〝飢餓〟はこちらを振り返った。〝死〟と〝支配〟が通りの向こうに姿を消しても、しばらくそのままだった。

 真意を測りかねた〝戦争〟は、〝飢餓〟の視線に割って入り、彼女の姿を隠すように立ちはだかった。

 〝飢餓〟は薄皮一枚ほど首を傾げ、路地裏を後にした。最後に見せた表情は、感心していたようにも見えた。

 すすり泣くような声が背中をなぞった。全身の細胞が彼女を助けよと叫んだ。〝戦争〟は他のこと全てに優先して振り返った。

 地べたにへたりこんで、祈るように握り合わせた両手を唇に押し当て、彼女はさめざめと泣いていた。両肩が、誰かに揺さぶられたかのように震えていた。

 先ほどまで涙の一滴すら見せなかった。その素振りさえも。

 しかし今、〝戦争〟の目に映っているのは、神にも世界にも見放され、生まれた家に帰ることもできず、誰一人愛の言葉をかけてくれぬ絶望に涙する一人の少女だった。

 こんなに小さな体で、ちっぽけな存在で、自分の何倍も大きな相手に、何十倍も強大な相手に立ち向かったというのか。

 〝戦争〟は信じられなかった。

 黙示録の騎士に任じられたとき、自分はこの世界で最も強き者になったのだと、そう自負していた。それがてんで見当違いの思い上がりだったのだと、今まざまざと見せつけられたのだ。

「なぜ」

 〝戦争〟は自分を恥じた。

「なぜ止めた」

 彼女を慰めることもできず、自身の理解できないことを問うことしかできない、無知で無力な自分を恥じた。

 彼女は鼻血と鼻水の両方をたらしながら、下唇を千切れんばかりに噛みしめて顔を上げた。

「いいえ、暴力に暴力で返していれば、何も解決しないのよ」

 か細い声を恐怖に震わして、しかし体の内側で石炭を燃やしているかのような熱量で、彼女は言った。

「暴力を振るわない勇気こそが、より気高い勝利を呼ぶのよ……!」

 白灰色の瞳には、〝戦争〟が未だ見たことのない色が確かに宿っていた。

 〝戦争〟はそれ以上、何も言うことができなかった。




 月日は流れ、彼女が影の世界にやって来てから一年が経過しようとしていた。

 その日、〝戦争〟は彼女と連れ立って出かけ、約束通り女王と面会した。

 面会場所は街の中心にある飲食店だ。街の象徴でもある巨大な噴水と広場が一望できる店で、彼女のお気に入りなのだ。

 選ばれたのは一番窓際の席で、女王は黙示録の騎士のうち、〝飢餓〟を随伴に選んでいた。〝飢餓〟はあの日以来、彼女に対する敵意を見せていない。それが心の底から態度を改めたものなのか、それとも本心を隠しているだけなのかわからないが、女王が、彼女に気を使って〝飢餓〟を随伴者にしたのだと〝戦争〟は思った。

 両騎士は会食の邪魔にならぬよう、〝飢餓〟が女王の斜め後ろに、〝戦争〟が彼女の斜め後ろに、それぞれ武器不携帯の上、直立し控えていた。

 女王はまず、彼女とともに料理と葡萄酒に舌鼓を打ち、近況について尋ねた。彼女は屈託のない笑顔でそれに応じ、デザートを食べ終えるまで和やかな雰囲気が流れた。

 食後、彼女は女王に断った上で席を立ち、見物に訪れていた付近の子供たちと戯れた。仮にもこの世界の女王との世界から来た女性だ。注目を浴びない方が無理な相談だった。一応、〝飢餓〟が、彼女の後を追って店を出て、少し離れたところから監視していた。

 〝戦争〟は女王に呼び止められ、店の中に残った。座りなさい、と促され、机を挟んで女王と反対側の椅子に腰かけた。

「不思議なものです」

 子供たちと追いかけっこを始めた彼女を見つめながら、〝戦争〟は正直に告白した。

「まさか打ち解けてしまうとは」

 彼女は住人に受け入れられ、この世界に順応しつつあった。

 何度無視されても、何度拒絶されても、根気強く話しかけられるうち、何人かが折れて彼女と交流を始めたのがきっかけだった。

 そこからはあっという間だった。まるで幼子の笑い声が伝播していくように、彼女を快く迎える者が増えていった。

 彼女と初めて訪れた喫茶店の店主は、次店に来るのはいつか、と顔を見る度に聞いて来るし、彼女が借りている屋敷の大家は、困り事はないか、ちゃんと毎日食べているか、と実の母親のように世話を焼いている。

「彼女ならいつかできると思っていた」

 食後のお茶を嗜んだ後、女王は裾の長い衣装を鷹のようにバサン、とはためかせた。

「不可侵の条約は5000年前に交わされたものだ。当時とは人も情勢も違う」

 増えつつある目じりのシワをじわりと深くして、女王は噴水の方を見つめた。

 子供たちはきゃあきゃあ言いながら彼女と遊んでいる。噴水の水に手を浸し、彼女に向かってかける子もいる。彼女はお返しとして、やんちゃなその子を捕まえて、わしわしと頭をもみくちゃにしている。

「結局彼女は、陰に飲まれませんでした」

 〝戦争〟は報告する。

「これは吉兆でしょうか?それとも凶兆でしょうか。世界は、我らは、変わるべきなのでしょうか?」

「おぉ、〝戦争〟よ、それは疑いようもなく」

 女王は威厳をたっぷりと含んだ言葉で返した。

「人が変わっていくように、法律も、もまつりごとも、時の流れにあわせて変えていくべきなのだ」

 全てが白黒のこの世界にあって、〝戦争〟はこの時初めて、色の付いた夕焼けを目にしたという。

 もちろんそれはただの幻想であり、影の世界にそのような事象が生じたという記録は公式非公式を問わず残っていない。

 だがこの時、〝戦争〟の目には確かに映っていたのだ。




 女王との面会から数か月後、定期報告のために〝戦争〟は王宮を訪れていた。

 帰路につくため、果てが無いと感じるほど長い廊下を歩いていた際、〝飢餓〟に呼び止められた。

「惚れたのか?」

 高いたかい廊下の天井に、〝飢餓〟の声が反響した。

 主語はなかったが、それが誰に対しての言葉だったのか、〝戦争〟は瞬時に理解した。

「いえ、不可侵の条約はやぶっていません」

 それは特段気にするものでも、警戒すべき質問でもなかった。〝戦争〟にとってはありきたりな、いつもの任務の一つだった。だからありのままに答えた。そのつもりだった。

 ところが〝飢餓〟は、これ以上の傑作はないと言わんばかりに笑い始めた。

「クックックッ、その言葉、〝死〟の前で使うなよ」

 〝戦争〟は不快に思って首をかしげた。〝飢餓〟はより一層大きな声で笑った。

「貴様が話したのは条約の話だ。心についてではない」

 雷に打たれたかと思った。胸を突き破るほど大きく心臓が跳ねた。一日中全速力で走ったように脈打った。全身を嫌な汗がどっと流れ、〝戦争〟は左胸をかきむしった。ケタケタ笑いながら去っていく〝飢餓〟の背中を、呆然と見つめた。

 自分の頭をよぎった感情が信じられなかった、忘れられなかった。焼け焦げたバターのように、いくら拭い去ろうとしても消えない。それを無意識に隠そうとしていたことにも、激しい恐怖と憤りを覚えた。

 その日、〝戦争〟は彼女の顔をまともに見ることができなかった。




「ふうん、それで、惚れたの?おっさん」

 足元の石を蹴っ飛ばしながら、コヨミは聞いた。

「はい」

「ゔぇ!」

 〝戦争〟が恥じらいとは無縁の返答をぶちかましたため、コヨミは思いっきりむせた。米粒がいくつか鼻の奥に入った気がする。痛い。

「お慕いしておりました」

「照れるなら聞くなよお前……」

「だって!こんなおっさんが……!」

 ボーイフレンドに注意され、コヨミは熱くなったほっぺたをぺちぺち叩いた。同級生の浮いた話ならまだしも、本件はいい歳こいたおっさんの昔話だ。色んな意味で火傷する。

「その後彼女は、影の世界と陽の世界を繋ぐ架け橋になると期待され、5000年の歴史で初めて、世襲によらず、影の女王となります」

 それがどれほどの快挙であったのか、実のところコヨミにはよくわからなかった。

 しかし、それを語る〝戦争〟の声色がどこか誇らしげであり、最も美しい記憶をたどる冒険者のように微笑みをたたえていたから、クリスマスとお正月と誕生日がまとめてやって来たくらいの、特別に素晴らしいことなのだと思った。

「ふうん、すごい人なんだ」

「……いえ」

 〝戦争〟はとたんにふさぎ込んだような顔になった。周囲の気温が一気に下がった気がした。トンネルを包んでいる雨音が、心なしか激しさを増していた。

 彼にそんな顔をさせた何かが、きっと、黙示録の騎士で唯一、〝戦争〟のみがコヨミの味方をすることになった理由なのだ。




 もう我慢の限界だった。

 許しを得たわけでもなければ、事前に示し合わせたわけでもない。もしかすると、彼女にひっぱたかれ、罵詈雑言を浴びせられる恐れすらあった。

 それでも〝戦争〟は彼女に口づけした。

 甘い記憶だった。

 それが初めてだったにもかかわらず、まるで昨日のことのように知っていた。

 世の中に漂う幸福の感情をすべて詰め込んで、両の耳から溢れんばかりに注ぎ込まれたように、〝戦争〟は爪の先まで幸せに浸った。

「ふふ……」

 唇を離した時、彼女は緩んだ笑みを浮かべていた。

 せがむように唇を尖らせたから、〝戦争〟はもう一度口づけした。

 彼女の腕が両肩にかかる。〝戦争〟にぶら下がるような恰好で、彼女は右に左に揺れる。愛おしい、愛おしくてたまらない。そう言いたげな目でこちらを見上げている。彼女が何を言いたいか、〝戦争〟は不思議とわかる。自分が何を言いたいのか、彼女はきっと理解してくれている。〝戦争〟にはわかる。

「あなたの唇、こんな味がするのね」

 採れたての木苺のように、甘酸っぱい声で彼女はささやく。初めてなのに、慣れた手つきで〝戦争〟の唇に触れる。

「まさか、ゴキブリ食べてないでしょうね」

 彼女は茶目っ気たっぷりの笑顔でそう言った。ずっと昔に思いついていた極上の冗談を、ようやく披露できることが嬉しくてたまらないのだ。

「もうやめたよ、食べるのは」

 〝戦争〟は首を左右に振る。

 彼女の手を取り、静かな、二人っきりの舞踏会を楽しむ。

「人も法律も、時の流れにあわせて変わらなければならない」

「うーん、ありがと……?」

 これであっているかしら?と彼女はまつ毛をぱちぱちさせた。〝戦争〟はきちんと頷いた。

「私はあなたを信じる。あなたなら、不可侵の条約をくつがえし、の世界と再び交流することができると」

 彼女のおでこに、自らの額を優しく乗せる。お互いの前髪が挟まって、じゃりじゃりと、川底をさらっているような感覚がする。まぶたを閉じて堪能する。この一瞬一時が限りなく心地よく感じる。決意をもって〝戦争〟は、宣言する。

「だから私は、黙示録の騎士に戻るよ」

「戻っちゃうの……?」

 美しかった彗星を、そらの彼方へ見送るように、嬉しげで、寂しげな眼差しだった。そんな目で、彼女は〝戦争〟を見つめた。

 〝戦争〟も同じ目で見つめ返した。彼女の手を取り、自分の頬に当てた。自分の口の動きを、それが紡ぐ言葉を、彼女に体の芯まで知って欲しくてそうした。

「そうだ。の世界と手を取り合う、その時まで」

 これは誓いだ。

「あなたを支えると誓う」




 それは、5000年の歴史で最も豪華で、最も意義のある冠帯式だったという。

 代々世襲であった影の女王の座が、血筋によらず、ましてや影の世界の住人でもない女性によって引き継がれた。それを一滴の血も流さずに成し遂げたというのは、の世界でも例を見ないことだ。

 街の全住民が王宮に招かれ、全ての部屋に食べきれぬほどの馳走が準備された。影の同盟は新女王の行く先々で隊列を組み、ラッパを鳴らし続けた。女王になる前から親交があった者も、そうでない者も、みな一様に祝福し、白と黒の紙吹雪を手が動かなくなるまで撒き続けた。

 王宮の中で、最も格式の高い玉の間で儀式は執り行われた。

 の世界で、ここに匹敵する建造物は数えるほどしかないだろう。数百人を収容できる大きさで、天井はモノクロのステンドグラスで彩られ、床には最高級の絨毯が敷き詰められ、豪華な燭台に乗った真っ白なロウソクたちが、薄灰色の灯火で部屋を照らしている。

 玉の間の中央、一番奥は階段状になっており、ここには王と、黙示録の騎士しか上ることを許されていない。そして階段の最も上にある玉座は、王以外、触れることすら許されない。

 〝戦争〟は玉座につながる階段を上がった。

 彼女はそこに座ることを最後まで拒否していたが、結局は腰掛けざるを得なかった。今は、袖が大きく垂れた黒いレースのドレスをはためかせ、平民が一生かかっても触れることができないひじ掛けに、できるだけ触れないようにしている。

 〝戦争〟は彼女の足下に跪く。見上げると、この世の何よりも美しい彼女の姿が見てとれる。彼女は混じりけのない白髪を、ドライフラワーでできた花束のような髪留めでまとめ上げ、左耳の上には、青い蝶々のブリーチを休ませて着飾っていた。目上から見下ろしているにもかかわらず、灰白色の瞳は、慈悲と優しさ、思いやりに満ちていた。薄い唇には申し訳程度の化粧しか施さず、チークも、病人のように青白い肌を隠すためだけの最低限のものだった。白い手袋をしてはいるが、それはあくまでも細い体を隠すための苦肉の策で、民と交わる時、彼女は必ず外して握手した。この時もそうだった。

 玉座の両脇に、剣先が突き刺さった状態で、黒い刀剣が二振り在る。玉座を守る門扉のような面構えだ。そのうち、左側の一振りに彼女は手をかけ、台座から引き抜いた。

 刀剣を持ち上げる女王を、〝支配〟、〝飢餓〟、〝死〟の三騎士が見守っている。玉座の後方で、両手を腰の後ろで組んで堂々と立っている。彼らはすでに宣誓を済ませているのだ。〝戦争〟も、間もなく同じ位置に行く。

 彼女は刀剣をおっかなびっくり持ち上げると、切っ先をこちらに向け、そろりそろりと振り下ろした。

 神に反旗を翻し者が振るったとされるつるぎ――この世界における聖剣であり、の世界における魔剣――常人が扱うには、重量も責任も少々重たすぎる代物だ。

 契約の言葉を紡ぐ際、新女王はこれを片手で持っていなければならないのだが、案の定、ほっそりとした腕がぷるぷると震え始めたので、〝戦争〟は少しばかり愉快になって、微笑んだ。

 彼女は怒ったような顔で笑っていた。両方の感情を器用に混ぜ合わせて、一番よい塩梅で顔に出すので、〝戦争〟はまた見惚れた。もう何度目かわからぬほどだ。

「影の女王が命ずる」

 影の世界の空気を全て吸い込むかのように大きく深呼吸したのち、玉の間の隅々まで行き渡るよう、彼女は声を張り上げた。参列者が一様に息を飲むのが、〝戦争〟にはわかった。

「〝戦争〟よ、黙示録の騎士よ、その命をかけて、私を守りなさい」

 玉の間にいた者は皆笑顔だったに違いない。後方にいる民の顔を直接見たわけではないが、〝戦争〟には確信があった。なぜなら、冠を引き継いだ先代女王も、〝支配〟も、〝飢餓〟も、果ては〝死〟でさえも、顔をほころばせていたから。

 皆、彼女なら、5000年続いたの世界との不可侵条約を覆し、影の世界の悲願を達成できると信じていた。

「喜んで」

 迷いも、ためらいもなく、不安や恐怖もなかった。ただひたすらに幸福であり、この先になお輝かしい未来があると確信していた。

 だから〝戦争〟は、つるぎを受け取った。




 その日、影の世界に激震が走った。

 影の女王が何者かに襲われ、瀕死の重傷を負ったのだ。




 裁定の儀が執り行われる裁場さいじょうの裏手、女王が裁定の準備に使う控え室が燃えていた。このまま放置すれば、裁場さいじょうそのものにも燃え移るであろう、雲まで届く炎があがっていた。

 〝戦争〟は血だらけのコートを翼にして、はちきれんばかりに羽ばたいた。窓ガラスを枠ごと粉砕して控え室になだれこんだ。

「〝戦争〟――〝戦争〟――」

 彼女にか細い声で呼ばれ、〝戦争〟はようやく我に返った。目をしばたくと、自分の膝の上で、彼女が今にも止まってしまいそうな弱々しい呼吸を繰り返していた。

 胸を一突きにされていた。真っ白な髪は返り血で黒く染まり、白灰色の瞳は血走っていた。左耳の上で羽を休ませていた青い蝶々のブローチは砕け散り、彼女が倒れていたところに残骸が転がっていた。

「――の子は、いずれ、なるわ――」

 ごぼごぼごと、血を吐き出しながら彼女は言った。介抱しようとする〝戦争〟の手を払いのけると、試験管のようなガラス細工を自分の胸元に押し当て、だくだくと流れ続ける真っ黒い液体を封じ込めた。まるで形見にしろとでも言わんばかりに、〝戦争〟の手に押し当てた。

 〝戦争〟が試験管を握りしめると、彼女は一度まぶたを閉じ、短く息を吸った。

「影の女王が命ずる――」

 血だらけの唇で、

「〝戦争〟よ」

一言ひとこと、しっかりとした口調で、

「黙示録の騎士よ」

〝戦争〟のことを一心に見つめて、

「その命にかけて、守りなさい――」

彼女は言う。

「――――――――コヨミを」

 女王の言葉には力がある。




 一夜明けた翌朝、影の女王の暗殺未遂という一大事件は、影の世界の隅々に至るまで知れ渡っていた。

 この件に関して、女王の対処は迅速だった。速やかに影の同盟に招集をかけ、特命を与えるべく、黙示録の騎士を王宮へ呼び集めた。

 玉の間に入った瞬間、〝戦争〟は強烈な違和感に襲われた。自分だけが違う世界、違う時空にいるような、とても精巧に作られた全く別の世界に一人取り残された気分だった。

 違和感の出所は女王だった。ちょうど、影の同盟に指示を出している最中だった。

 影の世界の住人を篭絡した聖母のような笑みは鳴りを潜め、青い蝶々のブローチに代わり、大きな黒いリボンをしていた。そのたった二つの変化だけで、王宮全体が重々しい空気に包まれていた。

「昨日の騒動は、の世界の者が起こしたものです」

 影の同盟が玉の間から出て行ったのち、開口一番女王は言った。

「まさか……!」

 猫なで声をすっかり忘れて、〝支配〟がうろたえている。

「なんとか一命をとりとめましたが、わたしは致命傷を負わされました。命を狙っていたのは明らかです」

 女王は自らの胸に手を当てる。高貴な黒のドレスの下に、おびただしい量の薬が塗られ、包帯が巻き付けられていることを、〝戦争〟は知っている。

「わたしが解明した方法で、敵は侵入したのです。こればかりは、謝罪してもしきれません」

「何をおっしゃいます、女王よ。悪いのはこの事件を引き起こしたの世界の人間です」

 〝飢餓〟が、女王を励ますように言った。

 女王は頭を垂れ、片手をあげて〝飢餓〟に謝意を表明した。この時、彼女のこめかみのあたりに一筋の汗が流れているのを、〝戦争〟は目撃してしまう。

「わたしはあなたたちと共にあることを選びました」

 再び顔を上げた時、女王の表情は凛としていた。それは幾度となく目にしてきた、信念を貫くときの彼女の表情であった。

 しかし〝戦争〟はやはり、その姿に違和感を思える。

 姿形はどう見ても影の女王その人だ。真っ白な髪も、白灰色の瞳も、〝戦争〟が愛した人に他ならない。だが、その姿を見れば見るほど、言いようのない不安を感じるのだ。シャツのボタンを一つ掛け違えたような、些末だけれども大きな違和感が。

 〝飢餓〟は?〝支配〟は?同じような感触を抱いていないのか?それとも自分の杞憂なのだろうか?何度も自問し、何度も自答した。どれだけ自分に言い聞かせても、彼女の言葉に納得がいかなかった。

「すでに〝死〟には偵察を命じました」

 〝支配〟と〝飢餓〟が、驚いて目を皿のようにしている。

 〝戦争〟はいよいよ違和感を無視できなくなり――無礼だとは思いつつも――女王に一言申し出た。

「女王よ、〝死〟とは――」

「わたしと〝死〟の確執のことは、もはや些細なことです。の世界に対する彼の評価は正しかった。今は過去を水に流し、団結しなければなりません」

 女王は堂々たる面持ちで答えた。〝戦争〟はそれ以上の追及を諦めた。〝支配〟と〝飢餓〟は、指示を待つ牧羊犬のような、使命感に駆られた表情に変わった。

 白灰の瞳が自分に向けられる。そこに昨晩のような悲壮感はもうなく、すでに覚悟を決めた女王の姿があった。

「影の女王が命ずる」

 いつものか細い声ではなく、力強い口調だった。

「〝支配〟よ、〝飢餓〟よ、〝戦争〟よ。黙示録の騎士よ」

 〝戦争〟は身構えつつも、残り二人と同じように黙って次の言葉を待つ。

の世界へ侵攻し、全てを滅ぼすのです」

 女王の言葉には、力がある――――――




「彼女が両世界の架け橋となることはありませんでした」

 長い、壮大な物語を語り終えたように、〝戦争〟はため息をついた。

 コヨミはおにぎりを食べ終わり、雨はいつの間にかやんでいた。

 静寂が、見えない重しのようになって、トンネルの中を埋め尽くしていた。

「影の女王は心変わりされた」

 本当は口に出したくないのだ。〝戦争〟は。

 認めたくないのだ。その事実を。

「残された最後の命令は二つ。あなたをお守りすること。の世界に侵攻し、全てを滅ぼすこと。黙示録の騎士たちは、そのうちの一つを果たすため、死に物狂いでこの世界に侵略をしかけています」

 コヨミは身震いした。

 それは、黙示録の騎士の目的を知って恐怖したからではない。〝戦争〟が語った過去が、彼のみに降りかかったことが、あまりにも辛く、悲しいものだったからだ。

「私は――もう一つを信じて、今も生き永らえている」

「どぉして――」

「愛していたからです。両世界の友和を信じていたころの彼女を」

 違う――コヨミは思う――愛していた・・・・・のではない。愛している・・・・・のだ、今も。そしてこれからも、永遠に。

 そうでなければ、たったそれだけで、それだけの理由で、十六年もの間、一人で戦い続けることなんてできない。

 〝戦争〟はトンネルの壁に立てかけていた黒傘を右手で握りしめ、立ち上がった。多くの怪我を負っているにも関わらず、その所作はバレエダンサーのように優雅で、機敏だった。

「移動しましょう。一か所にとどまっていれば、黙示録の騎士に見つかります」

 本当はもっと聞きたいことがあった。なぜ自分が狙われているのか、とか、どうすれば無関係でいられるのか、とか、なぜ〝戦争〟が自分に対して敬語なのか、とかだ。

 しかし〝戦争〟は勝手にトンネルの出口の方へ歩き出し、外の光に向かって黒傘を突き出した。話を聞いている内に、通り雨はやんでいた。

「行くったって……どこに」

 〝戦争〟は傘を差したところで立ち止まり、陰の中で振り返った。

「あなたが本来、いるべき場所に」

 〝戦争〟が言っている場所がどこなのか、コヨミは秒でわかってしまった。

 最悪だ。算数ドリルの一章がようやく終わったと思ったら、めくった先にもう半ページ控えていた時の気分だ。昨日のゾンビ騒ぎに始まり、コヨミはあといったい、どれだけの伏兵に備えなければならないのだろう。ただ毎日、タバコを数本吸っていられればいいだけなのに。

 猛烈な吐き気を感じながらコヨミは、胃液の代わりに舌を出して抗議した。

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