第三章 死者の行軍
コヨミは二度目の目覚めを迎えた。
やはり、メレンゲのようにふかふかなベッドの上にいる。
すぐ隣にはボーイフレンドがいて、のんきなことにぐうぐういびきをかいて寝ている。昨晩と姿勢が変わっていない。こいつ、一度も目を覚ましてねえなと思うと、若干殺意が湧いた。
目だけで周囲を伺うと、カーテンの向こう側が薄っすらと明るくなっている。夜明けが近い。
慎重に体を起こすと、窓際にでっかいソファが二脚あって、FBI捜査官二人がめいめいに横になっているのが見えた。二人ともスーツのまま、自分の腕を枕にして寝ている。
さっすがスイートルーム(?)、人が寝られるくらいソファがでかいとは。コヨミは一人で感心しながら、皿にあけたプッチンプリンを揺らさずに運ぶがごとく、慎重にすり足してベッドを抜ける。勘のいい捜査官なら、スプリングを少しでもきしませればたちまち目を覚ますだろう。FBIは銃も持っているし、弱虫日本警察と違って躊躇なく撃つ。スイートルームがいくら豪華でもこんなところで死ぬのはゴメンだ。あと百年は人生を謳歌したい。
ベッドからの脱出に成功したコヨミは、床に膝つき、上半身を伸ばしてボーイフレンドの肩を揺らす。
「んがっ」
存外に大きな声で反応され、コヨミは思わずボーイフレンドを睨みつけてしまう。リスクを承知で、彼のごぼうのように長い鼻筋を右手でつまむ。
「ふがっ」
呼吸路を断たれたことで、ボーイフレンドの呼吸が止まる。コヨミはお構いなしに右手にこめる力を強くする。彼の鼻が千切れるまで――ぢゃない――目を覚ますまで、絶対に緩めない。
「ふぐん……んがぁ……」
ボーイフレンドがブルドッグのように顔を左右に振り始めた。目覚めが近い。
コヨミは園児を寝かしつける保育園のお姉さんのように、しーっというポーズをして待ち構えた。
「ふぐ……んん?」
目を開いたボーイフレンドは、さすがに空気を読んで押し黙った。よくやった百点をやろう。コヨミはそう目配せして、彼の鼻を解放し、FBIの方を指さす。
ボーイフレンドは四肢を折り曲げると、仰向けにされたダックスフンドのような恰好で寝返りをうった。見た目はすごくアホっぽかったが、音を鳴らさないように回転したのはさすがだ。
ソファで眠るFBI二人の姿を確認すると、ボーイフレンドはグッ!と親指を上げて頷いた。
「いいのかよ、勝手に抜け出して」
豪華な廊下のカーペットを踏みしだきながらボーイフレンドが言う。どうでもいいが、彼は壁紙や謎の装飾品をいちいち全部触って感触を確かめている。貧乏くさいからやめて欲しい。
「じゃあいいのかよ、女子高生さらって」
コヨミはぶっきらぼうに答えながら、振り返りもせずエレベーターを探す。
「俺は?」
「男だろ誰も気にしねーよ」
「うわぁい、男女差別だぁ」
ボーイフレンドはとても嬉しそうに棒読みした。
「でもFBIなんだろ?あいつら」
「FBIだから逃げんだろ」
ボーイフレンドが、エレベーターのボタンを上から下までいやらしい手つきのピアニストのように撫でまわすのをコヨミは見つめる。なんとこのホテル、33階までボタンがある 33階の下は32階、その下はいきなり飛んで22階だ。間の10階分はどこにいったのか。コヨミの頭の中で、だるま落としのように間の10階がすぽぽん、と飛んで行く愉快な想像が生まれたが、今ここでそれを口にするのはさすがにはばかられるというか、絶対にバカにされるとわかっていたので黙っていた。
「そういやあいつ、どこ行ったんだろうな、ストーカー」
ボーイフレンドは思い出したように頭上を見上げる。エレベーターの天井は鏡のようになっており、悩み逃げる十代男女を見下ろすように写している。
コヨミも同じように鏡を見上げた。蒼い髪の可愛い女の子が、気に入らねえと言わんばかりに頬を膨らまし、腕組みしていた。昨日、ゾンビに食われた鼻先には大きな絆創膏が貼ってあった。さながら、やんちゃな可愛い野球小僧のような見た目になっていた。
「知らん。どーでもいい。おらん方がいい」
「そりゃまぁ、そーだなぁ」
左の袖を引っぱってみると、包帯の端っこらしきものが顔をのぞかせた。FBIか傘の男によって、なんらかの処置を施されているのだろう。血だらけの制服や下着に手が付けられていないのは逆に高得点だ。緊急事態とは言え、コヨミも見知らぬおっさんどもに見られたくはない。
ただ、それはそれとして、できれば着替えたい。数字が減っていくエレベーターの電光掲示を見ながら、コヨミは生臭い匂いに顔をしかめる。
半日が経過し、血が固まってバリバリになっているのも最悪だ。歩くたびに血の塊がはらはらと落ちていくのが猛烈に嫌だ。
ぱんぽーん、とチャイムを鳴らし、エレベーターは一階に到着した。コヨミとボーイフレンドは忍び足で外に出た。屋外の光が差し込んでくる方に向かって、大理石調の床を歩いて行く。ロビーに出る。一部が吹き抜けになった、ハチャメチャに広い空間だ。巨大な四本の四角い柱と、中央にある円形の巨大な絨毯。くるくるとスパゲティを巻いたようなよくわからないデザインだが、この絨毯だけでコヨミたちの食費が二、三年分賄えそうだ。正面には来客用ロータリーに繋がる自動ドアがあって、ここが光の入り口にもなっている。その反対側にはタイタニックにありそうな階段がでん!と鎮座しており、左右に分かれて二階に続いている。いや、高さ的に三階かもしれない。天井を見上げると、巨大なシャンデリアというのだろうか、値段的にも、寝起きの目にも、少々眩しすぎる代物が幾何学的に配置されている。
コヨミの中に、ある考えがぽつんと生まれる。それはみるみるうちに大きくなっていって、頑固なカビのように頭の隅々にはびこる。思わず中央絨毯の上で立ち止まり、探偵みたいに顎に手を当てて考え込んでしまう。そうだ、ここまで豪華なホテル……コヨミたちの地元には数えるくらいしかない。
「あ?ここリーガじゃね?」
「あー、そうかも」
コヨミは頭を抱えてその場にしゃがみこむ。
これはいけない。いけないこれは。目下、重大な決断を下さなければならないタスクが発生した。乙女的に絶対に無視できない事象だ。ストーカーの存在よりも、ゾンビとトラック運転手の関係よりも、果てはFBIからの逃亡よりも、昨日までの出来事すべての何よりも重大な事項だ。
「どーしよ、朝食、バイキングかなぁ~食べてく?」
「逃げるんじゃなかったんかよ……」
「でもホテルのバイキングとか、一生食えなくね?」
「あのなぁ……」
だってリーガだ。天下のリーガだ。年に一回、八月六日を前に各国の代表が泊まりにくるリーガだ。朝からパンケーキにメープルシロップだってありえる。添え物はベリーか?生クリームか?この際クロワッサンでもいい。いや、せめてベーグルを嗜みたい。いずれにせよ、コヨミには今後一切、三蔵一行にだってそう簡単には叶えられないパラダイスだ。施設に戻れば、ぼそぼそのごはんと味の薄い漬物、具のない味噌汁しかない。週に一回のパンの日だって、ぱさぱさのロールパンに二つ折りのジャム&マーガリンがせいぜいだ。なあ、おい、リーガだぞ貴様!
といった事項を力強く述べようとしたコヨミではあったが、残念ながら朝っぱらから高級ホテルの玄関口で延々と高尚を垂れることは叶わなかった。無論、ある程度は予想していた。
自動ドアの方に向き直る。宿泊客が降り立つロータリーと、それに繋がる車道が見える。その、車道のさらに向こう側。反対車線側の歩道にやつはいた。
もう驚かなかった。
横断歩道のない車道を我が物顔で横切り、反対側の歩道までわざわざ出向いてやった。先手必勝だ。コヨミは、勝負事があれば必ず先攻をとる。だって先手必勝だから。
さて、ここの歩道はレンガ調の装飾が施されており、地下道へつながるスロープが設けられている。地下道はたしか、ここから北方に位置する再建されたお城、スポーツ大会で使われる大型ドーム、サッカースタジアムなどに繋がっているはずだ。この辺りは町の中心部に近く、横断歩道がない場所も多いため、こういった地下道が網の目状に広がっている。彼はその入り口を塞ぐように立ち、待っていた。珍しいことに、傘をさしていなかった。
「はっ」
寒いことをおくびにも出さず、コヨミははつらつと笑ってみせる。
「なに?お礼でも言った方がいーわけ?」
後ろで、あんま刺激すんなよ、とボーイフレンドがぼそついている。
「いえ」
傘をさしていない傘の男は、白い息を吐きながら手短に答えた。コヨミは腕組みして、男の頭の先からつま先までジロジロと睨みつけた。実際はサブくて震えていた。昨日の一件でタイツは破れかぶれだったので、ホテルのトイレに捨ててきた。素足やべえ、ドライアイスの塊に浸したみたいに寒い。つーか痛い。しかしそんな姿は見せられない。もうすぐで高速タッピングを始めそうな奥歯をグッと噛みしめ、コヨミは腕組みを続ける。
朝日はまだ昇っていないが、空はうっすらと明るさを湛えていた。男の姿がよく見える。昨日は顔色が悪いように思えたが、よくよく見ると少し色の薄い白人程度だ。日本人ではなさそうだ。顎のラインがやはりシャープだし、鼻が高い。背丈も、コヨミはおろかボーイフレンドでも届かないほど高い。一メーター九十はくだらないだろう。丈の長いコートの下には、同じく黒いスーツを着ていて、中のシャツやベスト、ネクタイまで暗い色をしている。男の根暗な性格を反映したのだと、コヨミは思うことにした。しかし、スーツやコートのボタンには銀があしらわれており、生地ツヤはよく、分厚い。決して安くないものを身に着けているのだと、素人目にもよくわかる。履いている靴はつま先の尖った革靴で、太陽が出ていないのによく光っていた。ストーカーにしてはいやに手入れが行き届いている。
男は傘の持ち手を両手で握りしめると、杖のように地面に突き立てた。何から何まで黒ずくめの中、一番漆黒に近い色をしているのはやはりこの傘だった。留め具の銀以外は、持ち手に至るまで真っ黒だ。新月の夜をそのまま切り取ったようだった。
男は物陰からささやくような声で話し始めた。
「昨日ご説明した通り、私はあなたの味方です。故に、礼は不要です」
「あっそ、じゃあ言わない。あと、私のあとつけるのやめてくんない?」
「昨日ご説明した通り、私はあなたの味方です。故に、やめません」
「喋り方ムカつくんだよジジイ!」
ジジイ!、ジジイ!、ジジイ!、ジジイ!……コヨミの怒号が早朝の空に吸い込まれていった。車は一台も通らず、人通りもない。朝早く起きると、この街はこんなにも寂しくて静かなのだと、別のところで驚いた。朝の天気予報で大阪の次は必ず飛んで福岡になっていたが、その理由が分かった気がする。
「……じじい?」
傘の男は、心なしか悲しそうな顔をしていた。完璧に手入れが行き届いた眉毛が、ハの字になっていたから。
「……歳いくつだよ」
「36です」
「ジジイじゃん!」
「論点そこなのかよ」
背後でボーイフレンドが静かに突っ込んでいた。
「クックックックッ……クッハッハッハッハッ!」
突然、コヨミのツッコミにも負けない大きな高笑いが響き渡った。傘の男の後方、地下道の奥底からやって来た。
悪の大王なんてものがいるのかコヨミは知らないが、もし存在しているのなら、間違いなくそう笑うであろう醜悪さだった。
コヨミも、ボーイフレンドも、傘の男も、全身を硬直させて聞き入った。
耳にへばりつく猫なで声だった。
こつ、こつ、と、石畳を叩くような音の合間に、引きつった笑い声が混じる。近づいてくる。
傘の男が、フィギュアスケート選手のように鋭く優雅にその場で回転する。腰を落とし、頭を下げ、左手で抱えた黒傘の持ち手を、右手で握りしめる。地下道の方へにらみを利かせ、全神経を集中させている。
一人でひっひいと笑いながら、そいつは地下道のスロープを昇ってきた。背はそんなに高くない。傘の男より頭一つは小さい。茶色いミノムシのような服で全身をぐるぐる巻きにされていて、体つきはよくわからない。口元には、包帯をこれまたぐるぐる巻きにしており、鼻先まですっぽり覆われている。髪はチリチリに縮み上がった灰色で、好き放題に伸びている。眉毛も同じようなものだ。目が、目だけが異様に目立っていた。コガネムシのような光沢のある緑色をしていて、死んでしまった人間のように瞳孔が開きっぱなしになっている。
「じじい……じじいかぁー!お前がぁー」
包帯男は愉快でゆかいでたまらないようだった。両手をタンバリンのように叩き合わせ、腹を抱えて笑った。一人だけ笑うポイントがズレた空気の読めないおっさんのように、コヨミたちの戸惑いを無視して笑っていた。
「ずいぶんと嫌われたもんだなぁー」
語尾を伸ばす独特の喋り方、猫なで声、琴線に触れる気持ち悪さだ。寒気がする。昨日は顔がよく見えなかったが、こんな声色の持ち主は世界にまたといない。コヨミは確信する。
「あいつ……昨日の!」
「お逃げください」
包帯の男を睨みつけたまま、傘の男が、突然飛び出してきたモグラのように唐突に告げる。
「はっ?」
「やつは〝支配〟――黙示録の騎士です」
「なに言っとんの……?」えっこわい――
「影の女王に仕える四人の大騎士の一人です。文字通り死者を〝支配〟する力を持っている」
「誰の女王……?」ホンマにこわい――
「出会えばまず、助かることはありません。お早く!」
コヨミは大混乱だ。ちんぷんかんぷんだ。みじんも興味のないボードゲームのルール説明を、二十秒に濃縮還元して強制的に耳から流し込まれた気分だ。すなわち、一ミリも理解できていなかった。なんなら、現時点では、一人で笑っている包帯男より、意味不明なことをよどみなくまくしたてる傘の男の方が怖い。
「おいおい悲しいなぁー……そんな邪見に扱わないでくれよぉー」
プロ野球選手よりもひどい演技力で、包帯男――傘の男が言うところの〝支配〟――は悲しそうなそぶりを見せた。その背後、地下道の奥深くから、生ぬるい風に乗ってひどい匂いが立ち上ってくる。耳をすませると、ォォォオオオオと唸り声のようなものも混じっている。コヨミの中に残っていた人類の本能が、警戒せよと叫んでいる。
〝支配〟が、そのトレードマークである包帯に手をかける。固唾を飲んで見守るコヨミの目の前で、ずるりと包帯が下ろされていく。
コヨミの背中に戦慄が走る。
〝支配〟の口には、唇と皮膚が無かった。皮下の筋肉が全てむき出しになっており、包帯の内側には黒く変色した血がべっとりとついていた。しかも、上あごと下あごの大きさが全く一致していない。まるで、大人の頭蓋骨に、子供の下あごを無理やりくっつけたようなアンバランスさだ。そして、〝支配〟自身から、一番の悪臭が漂ってくる。百匹の腐った魚を詰めたビニール袋に、頭を突っ込んでいるようだ。コヨミは顔面に全神経を集中させた。
そんな中にあって、傘の男は微動だにしない。何かに備え、傘を構え続けている。そしてその何かは、着実に近づきつつある。地獄から死者が昇ってくるように、怨霊たちの声が増え、大きくなってくる。
常人なら身震いするような音を聞き、〝支配〟の頬の筋肉がぴくっ、と収縮する。彼が震えているのは、コヨミたちが抱いているのとは別の感情に違いない。でなければ、そんな表情などできない。
迫りくる死者の行軍を前にして、笑みなど浮かべられない。
「同僚だったろぉー?俺たちぃー」
「なぁー――〝戦争〟――」
その名を聞いた時、傘の男の両肩が跳ねた。
コヨミは見逃さなかった。
どどぉ!と地鳴りを上げ、地下道から死者の大群が飛び出してきた。大地が揺れている。豪華客船の乗客全員をぶち殺して、ひっくり返して、ゲリラ豪雨の代わりに空からぶちまけたようだった。足首が折れた者、腕が片方ない者、目に大きなトゲのようなものが刺さったままの者、服まで腐って、ずる向けになった者、それら死者の軍勢が、仲間まで踏みつけにして、ぐっちゃぐちゃの一緒くたになって襲い掛かってくる。自らの支配者たる〝支配〟を避ける以外、進路上にあるものは全て飲み込む勢いだ。
「いぃ!?」
説明など必要ない。理解する必要もない。そんな暇がない。コヨミは回れ右して走り出す。ボーイフレンドも、すぐに同じようにする。
〝戦争〟と呼ばれた男はすばやく体を分散させた。砕かれたクルミのように爆発的だった。
走りながら振り返ると、昨日、ホテルの外にいたやつらと同じように、何百羽ものコウモリとなっていた。コウモリたちはサッカーゴールほど広く、バスケットゴールほど高く、真っ黒な壁となって立ちはだかり、死者の軍団を食い散らかしながら押しとどめていた。時々腐った腕が黒壁を貫通して飛び出したりしていたが、無数のキバがそこに食らいついて、あっという間に骨にした。
コヨミはボーイフレンドとともに、死者が出てきたのとは反対の地下道へ入る。二人して、どちらが速くゴールにたどり着くか競うように走る。それでよかったのだ。突き当りを左に曲がれば、お城の方へ抜けられるはずだったのだから。
「まったく……だからいつも爪が甘いと言っているんだ。あの男は……」
保育士どもが今より十年ほど若かりし頃、そうだったであろうOLのような声が、地下道に響いた。先を走っていたボーイフレンドが、曲がったすぐ先で立ち止まっていた。それを見てコヨミも止まった。二人とも肩で息をしながら、これから向かう先を見つめた。
地下道の途中に、女が一人、いや、女児と言った方がふさわしいかもしれない。背丈の小さな女の子がいる。どれだけ贔屓目に見積もっても、中学生くらいにしか見えない。
ショートカットの髪は針のように鋭い銀色で、雪のように白い肌がまぶしい。だって、胸と鼠径部しか隠していない水着のような服装なのだ。真冬だぞ!?今!
生地は黒いレザー調で、彼女が動くたび、地下道の明かりを反射しててらてらと光っている。むっちりとした太ももと、ヴァイオリンみたいに官能的なくびれを惜しげもなく見せびらかし、何かを踏みつけにしている。コヨミは視線を下げる。黒いハイヒールブーツで踏みつけているのは、黄金でできた巨大なトンカチのようなものだった。柄が幼女の背丈ほど長く、先端がコンパスの針のように尖っている。殴る――違う――叩く部分はコヨミの頭より大きく、どう見積もってもあんな幼女が振り回せる代物には見えない。
だが、幼女は巨大なトンカチをカツン、と蹴り上げると、片手でひょい、と持ち上げた。くるくると、ハイパーヨーヨーのように振り回すと、尖った柄の先端を勢いよく足元に突き刺した。
とたんに地が割れた。
板チョコを割るように、レンガ調の地下道がひび割れ、コヨミの足下までぱっくりと溝が入った。
「〝戦争〟が邪魔しにくることは分かっていたのだ。死者をもっと分散させて配置すればいいものを――おっと」
コヨミたちの存在に今気付いたと、わざとらしくおどけて見せ、幼女が振り向いた。
彼女の目は〝支配〟と同じような緑色で、瞳孔が蛇のように縦に細く長く切れていた。耳元まで裂けた口でにたりと笑みを作っていた。鼻は低く、二つの穴が空いているのがかろうじてわかる。左耳に男物の銀のピアスをしているのが、強烈な違和感として印象に残っている。
どう見ても自分たちより幼い女の子だ。体つきも、コヨミと比べたとしても貧相だ。なのに、指名手配犯にでも睨まれたかのような異様な空気を感じる。
「コヨミ様、よぅやくお会いできましたね」
幼女が、声帯ごと取り換えたかのように甲高い声で話しかけてきた。
「は?知り合い?」ボーイフレンドが目を白黒させる。
「いいや、あんなエロい幼女知らん――」コヨミは即座に否定する。
慌てるコヨミたちを見て、幼女はヘビのようにしゅっと舌を出し入れして笑みを浮かべた。
「私は〝飢餓〟。黙示録第三の騎士――あなた様をお迎えにあがりました」
黙示なんとかの騎士――傘の男が言った言葉をコヨミは思い出していた。
そのわずかな間に、巨大なトンカチを振り上げて幼女は動き出していた。
えっ早――
思考が状況に追いついた時、もう、トンカチはコヨミの頬の産毛に触れつつあった。
死を眼前にして、走馬燈が走り抜ける。
タバコの隠し場所――うるさい保育士ども――生徒指導の橘先生――ストーカーかと思った傘の男――満月の夜――下から見上げる街灯――そしてあれは、大きなおおきなあの顔は――赤い瞳と、赤い唇――なんで――――なんで、傘の男が――
「コヨミぃ!!」
ボーイフレンドの声にコヨミは突き飛ばされた。
「――ぃだっ!」
尻もちをついてコヨミは、尾てい骨と手首の痛さに顔を歪めた。そこにびしゃりと生暖かい血が降る。
「えっ――」
コヨミは頬についたベトベトするそれを拭いとる。どこから飛んできたのかと、顔を上げる。
ちょうど幼女が、巨大なトンカチを肩に背負いなおすところだった。
コヨミと目が合って、幼女はエサを貰った蛇のようににんまりと笑った。
違う。お前ぢゃ、ない。
コヨミは首を振った。愛する人を探した。コヨミの唯一の味方を。
彼は、地下道の壁にめり込んでつぶれていた。
コヨミはボーイフレンドの名を呼んで絶叫した。
裁定の槌だ。
〝飢餓〟だ。
第三の騎士がやってきたのだ!
コウモリの群れの中で、傘の男は尻に火が付いたように焦っていた。
百メートル以上先の出来事でも、男には目の前で起きたようにつぶさに聞こえる。あれは、振り回すたびにピンと張ったワイヤをはじいた時のような独特な音がするのだ間違いない。コヨミが絶望にまみれた声で叫んでいることも、当然わかっていた。
彼の武器は本来、天秤の支柱として作られたものだ。本来の目的を放棄して打撃武器として昇華させている。故についた名が裁定の槌だ。その一撃は竜の骨をも砕くと言われている。
傘の男は思案する。
どうする、このまま転身するか。しかしアンデッドの軍団を引き連れたまま〝飢餓〟に戦いを挑めば、ほぼ間違いなく敗北するのは自分だ。しかもあちらはまだ、黙示録最強の騎士が裏に控えている。いや――
――考えるな、考えている間に彼女は死んでしまう!
自身の体力の限界を無視して、コウモリの数を一気に倍に増やす。異常気象で増えすぎたバッタのように真っ黒な塊になって、食肉処理を二倍に増やす。地下道の入り口には食い残された骨や歯、千切れた衣服がガラゴロと音を立てて積み重なっていく。だが〝支配〟のアンデッド軍団には終わりが見えない。いくら食い尽くしても、次から次に湧いてくる。
黒い羽ばたきの隙間から覗くと、〝支配〟が、ミノムシのような服に手を突っ込んで、ぼんやりと戦況を確認している。自らは戦わないのんきなものだ。当然やつは、〝飢餓〟と示し合わせたうえでこの戦いを仕掛けているはずだ。まさか、拮抗状態に持ち込むことが当初からの目的だったのだろうか。
結論から言うと、傘の男の予想は間違っていた。
〝支配〟は唇のない口で指をくわえると、筋肉との隙間だけで口笛を吹いた。その音を聞いて、さらに数えきれないほどの死者が地下道の奥から押し寄せた。あまりに突然増えすぎて、地下道の出入り口で引っかかっている者さえいた。
たとえ同じ数だったとしても、人体とコウモリでは質量が違う。腐肉を食らうことは後回しとなり、薄羽の羽ばたきでその場に押しとどめるのが精いっぱいになる。
「ほらほらぁー、頑張って!もっと頑張ってぇー……!」
〝支配〟がみょうちくりんな掛け声ではやし立てる。恐らく、死者ではなく自分に対してかけられている。煽っているのだ腹立たしい。傘の男は精彩を欠く。コウモリの壁にいくつか穴が開く。物量に押され、真っ黒な壁がぐらりと揺れる。何体かのアンデッドに突破を許す。
「くっ……」
傘の男はコウモリの瞳を通じてアンデッドの背中を見つめる。突破したのは二体だ。デタラメな走り方で、コヨミが逃げていった地下道に駆け込んでいった。追いかけたいが、今はダメだ。〝支配〟をこのまま放っておけない。しかし、〝飢餓〟が待ち受ける場所にあの二体がたどり着けば、彼女の命はもはや絶望的だ。どうする、どうすればいい――焦りばかりが募る。〝支配〟とアンデッド軍団を根絶やしにし、ザンドスニッカーを所持する〝飢餓〟を葬る。時間を巻き戻すに等しい無理難題を前に、傘の男は挫けそうになる。
閑散とした朝の空に、大音量でクラクションが鳴り響いた。
交通事故直前のようにずっと押しっぱなしだ。甲高い音でわめき散らしながら、一番近くの交差点からものすごい速度でこちらに突っ込んでくる。トラックだ。昨日〝支配〟が使役していたものと遜色ないほど巨大な大型トラックだ。
コウモリとアンデッドの壁で、〝支配〟からは見えないはずだ。傘の男はとっさにコウモリの壁を解き、空中に漂う彼らを、網を引き揚げる漁師のように一蓮托生に引っぱりあげた。拠り所を失ったアンデッド軍団は、ジェンガを崩したように一気に崩壊する。
トラックの右前輪が、車道と歩道の段差に激突する。衝撃に耐えきれず、ホイールが歪み、はじけ飛ぶ。小さなビルのような荷台が、運転席を支点としてひっくり返る。空中でねじれる。傘の男はすかさず、コウモリの羽ばたきで風を巻き起こし、浮かんだトラックを押し出す。
コウモリたちの役目は終わった。歩道上に集結し、こんもりと山を作ると、体中にかかった黒い紙吹雪を振り落とすように散開させる。その中から、傘を持ち、片膝をついた状態で再びこの世に顕現する。
傘の男は顔を上げる。トラックの巨体が倒れていく。折り重なるアンデッドたちを巻き込んで、それでも止まらず、破壊の雪だるまと化して転がっていく。
アンデッドたちはトラックの荷台に、運転席に押し流され、地下道の向こう側に追いやられた。同じように、〝支配〟の姿も見えなくなった。トラックが通った後には、おびただしい量の血の川が流れていた。その全部が腐っていた。トラックは地下道の入り口にぶち当たり、レンガ調のタイルや下地のコンクリートを砕いて、横転しになって止まった。荷台も運転席も、原形をとどめられないほどにボコボコになっていた。
ぷすぷすと煙を上げるトラックの、運転席ドアが上向きにはじけ飛んだ。中から這い出てきたのは、マッケンジーと名乗った捜査官だった。
「くそぅ……なんだってんだ!いったい!」
彼は額に血をにじませていたが、それ以外は平気そうだった。
銃声が聞こえ、傘の男は振り返る。
「う……うおぉぉぉおぉお!」
僕だ。ジョーだ。先ほど傘の男が取り逃した二体のアンデッドを根性で押し戻し、また押され、仕方がないから無我夢中で拳銃の弾を撃ち込んでいたのさ。
見かねたのか、傘の男は体をコウモリに分解し、瞬間移動かと見紛うほどの高速で回り込み、二体のアンデッドの首を次々にへし折った。アンデッドは〝支配〟の支配から外れ、歩道上に倒れてこと切れた。
「すでに死んでいます。銃は効きません」
「……そうみたいだな」
僕は撃ち尽くしたマガジンを落としながら、すまし顔で同意した。
マッケンジーは傘の男に何か言いたかったようだったが、大きな音がして振り返った。僕も音のした方を見たし、傘の男はその黒傘を強く握りしめ、日本刀を引き抜くように構えた。
地面の下から巨人が叩いているようだった。音はまたした。何度もした。その度に、トラックが大きく揺れた。マッケンジーが銃を構えた。僕も予備のマガジンを入れ、薬室に弾を装填した。
「おい!俺たちにできるのは時間稼ぎだけだぞ!」
マッケンジーが傘の男に向かって叫ぶ。
「礼は言いません」
マッケンジーにとって、それはきっと「必ず彼女を助けてみせる」と同義だったのだ。
彼は笑みを浮かべて傘の男を行かせた。
ボーイフレンドの無残な姿を見て、コヨミの身体は、頭は、痺れたように動かなくなってしまった。何かにすがりつくこともできない。その場にへたり込んで、わんわん泣きながら彼の名を何度も呼んでいる。そんな自分が可哀そうだなと、幽体離脱した自分が冷静に見降ろしている。
幼女は絶望に打ちひしがれるコヨミをこれっぽっちも気に留めず、巨大なトンカチを担いだままひょい、とボーイフレンドの眼前に屈みこんだ。大きく股を開いて、ひと昔前のスケバンのようだ。
「さぁて、なぁにをもらいましょうか――」
幼女はボーイフレンドの身体をぺたぺたと触り、制服をひっくり返し、何かを探している。コヨミは涙の壁の向こうに、その姿を見る。
しかし、ボーイフレンドの首筋に触れたころ、幼女ははて、と手を止めた。何か考え込むように首を傾げ、ボーイフレンドの顔を穴が開くように見つめ始める。頬に口づけでもするのか、匂いでも嗅ぐのか、顔を近づけてねぶるように見ている。
「ふっ」
一人で勝手に納得すると、幼女はそれ以上ボーイフレンドの体を漁るのをやめた。
「さてっ――と」
トンカチを担いだままするりと立ち上がる。左耳のピアスが鈍く光る。幼女が、自分を見下ろしている。
「大丈夫ですよコヨミ様。〝死〟はいつもあなたのすぐ側に」
幼女はコヨミの周りを練り歩く。トンカチの柄の先端で、ガリガリと地下道の床を削り、まん丸の円を描く。
「あー……いつでもすぐに会えるということです。ご心配なく」
自分がよほどひどい顔をしていたのだろう、幼女が慰めるように優しく笑った。コヨミは漏れなく漏らした。パンツがすでに血だらけだったから、たぶん誰にもバレてないけど。
幼女がトンカチを振り上げる。今度は自分の番だ。今度は自分の番だ。今度は自分の番なのだ!泣いても喚いてもその時はやってくる。トンカチが振り下ろされる。速い。その形が歪んで見えるほど速い。金色の線にしか見えない。コヨミは叫ぶこともできない。涙の一滴を流すこともできない。痛いという感情を、抱くことさえできないのかもしれない。自分の頭がカチ割られるのを、認識する前に死んでしまうのだ。
嫌じゃ、嫌じゃ死にたくない。
お母さん、助けてお母さん――コヨミは顔も名前も知らない母に懇願した。
「……おっざん!」
鼻水をすする音と一緒に呼んだ。
コヨミを救ったのは、母でもなければ父でもなかった。しかし、彼はきちんと自分の言ったことを証明してみせた。
傘の男だ。どうやって死者の軍団を突破したのかわからない。だが助けに来てくれたのだ。幼女が振り下ろした巨大なトンカチを、漆黒の傘で受け止めている。
「ほう……この私を止めるか!〝戦争〟!」
幼女が蛇のような目を見開き、十年ぶりに出会う旧友のように歓喜をもって迎え入れる。
男は傘の持ち手でトンカチをひっかけ、振り回した。幼女は地下道の天井で背中を削りながら、トンカチごと投げ飛ばされた。
コヨミたちが入ってきた道の方へ、三十mも飛ばされたのち、幼女はトンカチの柄を地面に突き刺して着地した。ガリガリと地面を削りながら、安いかき氷を作るときのような音を立てて止まった。
「お逃げください」
傘の男が再度撤退を促す。
「でも――」
「お早く!」
聞き分けのない娘を叱りつける父親のようだった。傘の男がそんな声を出したことにも驚いたが、彼が、頭からだくだくと血を流していることにコヨミはいっそう驚いた。助けに来てくれた直後にはなかった傷だ。さっきの一瞬のやり取りの間に殴られたのだろうか。コヨミはおろか、傘の男にも反応できなかったということか?いったいあの幼女は、どれほどの速度であのトンカチを振るったのだろうか!?
「フーム……なまったな、〝戦争〟」
お腹のあたりをさすりながら幼女が笑みを浮かべている。彼女は彼女で、すべすべとしたお腹に一本の真っ赤な線が入っている。
だがそれだけだ。腫れ上がってすらいない。
〝飢餓〟と言ったか、包帯男の〝支配〟とは比べ物にならない相手だ。コヨミは本能で理解した。傘の男の反応からしても、その判断は間違いないだろう。
ここは言うことを聞くが吉だ。コヨミはボーイフレンドの下に潜り込んで、壁にめり込んでいる彼を無理やり押し上げた。
彼は――傘の男よりはマシだが――頭から血を流していた。そして、まぶたを固く閉じたまま、コヨミがどれだけほっぺたを叩いても目を覚まさない。
ボーイフレンドの蘇生をいったんあきらめ、彼を肩に担ぎあげる。重たい。高校生とはいえ、もう立派な男だ。それを担いで走るには、コヨミの体力はあきらかに足りない。まるで、右半身だけ体重が三倍に増えたようだ。このままつぶれてしまいそうだ。一歩踏み出すだけで汗の球粒が額から吹き出し、太ももの筋肉が悲鳴を上げる。
「生きてんの?ねぇ!返事してよぉ!」
返事のないボーイフレンドにぶち切れる。彼のつま先を削りながら、お城へつながる光の点へ向かって、牛歩のごとき歩幅でなんとか歩き始める。
「ハッハッハッ!お優しいことで!」
〝飢餓〟がけたけたと笑っている。その声が、背中に当たってコヨミは焦る。
「あなたたちにはできない美徳だ。理解さえも!」
傘の男が自分のことのように怒っている。その声が、背中に当たってコヨミは急かされる。
レーザービームの発射音を低くひくくチューニングしたような音が、地下道のトンネルのあちこちで反響する。それは何度かばしん、ばしんと叩き落とされていたから、〝飢餓〟と傘の男が激しくつばぜり合いをしているのがわかった。
しかし、トンカチの音の方が明らかに多い。さらに増えていく。上、下、右、左、斜め上や斜め下――もっとよくわからないどこかまで――床に天井、壁に照明器具までが叩き割られる音、そしてその衝撃が、足裏や首筋を伝ってコヨミを襲う。
「ううぅうぅ、嘘でしょおおぉぉ!」
走らなきゃ死ぬけど、いーい?と死神に言われたかのように、コヨミの両足はフルスロットルで動き始めた。ボーイフレンドをほとんど絞め殺すような格好で右の脇に抱え、無我夢中で走った。
なにせ、自分の周囲や、自分がこれから通るであろう場所まで、次々に陥没――いいや、沈み込むだけならまだ生ぬるい――ひどいときは爆発しはじめたのだ。しかも、二人の動きが速すぎて、穴を作った張本人の姿が一切見えない。ひとりでに爆発していく地下道を、コヨミは半泣きになって走り続ける。
時々、傘の男が表れては、コヨミの制服の襟をつかんで引き戻す。その直後、トンカチがコヨミの前髪を二センチほど掻っ捌く。今度は突き飛ばされる。さっきまでコヨミが立っていた場所を薙ぐように、壁に大穴が開く。コヨミは顔面からつんのめり、鼻先の絆創膏がめくれ上がる。治りかけていた皮膚がまたズル向けになる。文句なんて言っていられない。そんなヒマはない。急いでボーイフレンドを抱えなおし、地下道の出口めがけて坂道を駆け上がる。
ようやく地上に出ることができた。観光バス用の駐車場と、水の張ったお堀、その向こうに再建されたお城が見える。コヨミはお堀に沿って進む。視線の先には、お城よりさらに巨大なサッカースタジアムがある。間違えて日本にやってきた巨大UFOのようだ。道路を挟んで鎮座している。スロープのついた歩道橋を渡れば、あそこにたどり着く。時間を稼ぐのだ。傘の男の話が正しければ、朝日さえ昇ればやつらは焼けて死ぬはずだ。
コヨミの左脇を風が駆け抜ける。ドライヤーだかサーキュレーターだかを後ろから当てられたように、蒼い髪がぶわっとなびく。見上げる。傘の男が、投石機にかけられた石のように、ものすごい速度で飛ばされている。
傘の男は空中で体勢を入れ替えた。それだって、本当はとんでもないことだ。まとっている黒いコートが、背中で真っ二つに裂ける。大きなコウモリの翼になって、ドラゴンが準備運動するがごとく力強く羽ばたく。空中で一瞬、静止する。
かっこよかった。神々しいとさえ思った。飛び出した鼻血をふき取っている姿さえそうだった。コヨミを助けに来たスーパーヒーローのようだと、年甲斐もなく思ってしまった。もっと見ていたかったが、傘の男は無数のコウモリになって分身し、左右に分かれて飛び立った。
コウモリたちはコヨミに向かって一直線になって急降下してくる。
ゾンビと同じように食われてしまうのかと思い、首をすぼめたが、コウモリたちは左右に分かれて通り過ぎ、コヨミのすぐ背後に集結した。何事かと思って振り返ると、ちょうど〝飢餓〟が巨大なトンカチを振り下ろすところだった。それに合わせるように、コウモリたちの中からびっくり箱のように男が飛び出して現れ、黒い傘の持ち手と先端を握りしめ、これを受け止めた。
地下道に無数の穴をあけたトンカチだったが、男の持つ傘をへし折ることができない。傘は弓のようにしなり、曲がっているのだが、ミシリとも音を立てないのだ。
「その傘……怪しいと思っていた!」
〝飢餓〟が蛇の瞳を輝かせている。
来る!
コヨミは直感に突き動かされて走り出す。歩道橋のスロープを一気に駆け上がる。さっきから、人一人担いでいるのに全く重さを感じない。アドレナリンと火事場のバカ力が混じりあって、今なら100メートル走の世界記録を出せる気がする。
一方の〝飢餓〟は想像以上の猛攻を見せた。ハイになっているのか、コヨミの知らない言葉でわめき散らしながらトンカチを振り回している。スター・ウォーズのバトルドロイドが撃ちそうなレーザー音が絶え間なく鳴り響き、それに遅れて傘を振るう音が聞こえる。レーザー音は一つ前のレーザー音に重なり始め、遂にはかき消し始める。傘の音は間に合わない。どんどん近づいてくる。コヨミの背中に戦慄が走る。このままでは朝日まで持たない!
歩道橋のスロープを登り切ったところで、我慢していた汗の粒が全部大噴火を起こし、膝がガクガクと震え出した。さすがに息が切れる。コヨミは右ひじに重くのしかかるボーイフレンドを引きずって、歩道橋の欄干に二人分の体重を預けた。そのまま首だけで振り向いてみると、傘の男が〝飢餓〟のトンカチに殴られている瞬間を目撃した。
男は黒傘でトンカチを受け止めてはいたが、スロープの足下まで飛ばされた。
ここまでの間、彼がどれほど常軌を逸した動きで〝飢餓〟と渡り合っていたのか、すぐに分かった。彼が通った後にだけ、三歳児がふざけて書きなぐった書初めのようにな痕が残っていた。そして今も、歩道橋の足下で大きなシミを作っている。書初めと違って、その液体はつぶしたトマトのように赤く、どろどろとしている。
素人のコヨミにもわかった。明らかに血を流しすぎている。立っているのが不思議なくらいだ。事実、男が肩を激しく上下させているのに対し、〝飢餓〟はてんで疲れた様子を見せない。トンカチを肩に担ぐと、こりをほぐすように首を左右に振った。いたぶっているのだろうか。
傘の男は〝飢餓〟の怠慢を逃さなかった。黒い傘を天高く掲げると、投げ縄をするカウボーイのように頭上で振り回した。
なぜそんなことを――コヨミの疑問に対する答えは、すぐにやってきた。
風だ。
風がやってきた。
四方八方から、台風でも誕生したのかと勘違いするほど強力な風が集まった。コヨミはもうすぐで足元をすくわれ、ひっくり返ってしまうところだった。
風たちは傘の男の元に集まり、黒いコートをはちゃめちゃに揉み洗いしていた。傘の男は黒傘を振り回し続け、それら風を、綿菓子でも作るかのように巻き取った。徐々に徐々に、風たちはまとまり、同じ方向に回転し始めた。
そんなバカな――コヨミは口をあんぐりと開けっ放しにして、超常現象を凝視する。まるで魔法だ――巻き取った風で男が作り上げたのは、巨大な竜巻に他ならなかった。縦寸は信号機より高く、横幅も軽自動車くらいある。お城の堀の砂利や、酔っ払いがポイ捨てしたゴミを全て巻き込み、街路樹の葉っぱを根こそぎちぎって飲み込んだ。
竜巻の回転につられて、コヨミの周囲にも風が吹きすさぶ。
コヨミはとっさにスカートを押さえた。前髪が左目に攻撃をしかけてきたため、右目だけで眼下の戦いを見た。
男は傘を投げ飛ばすように振るった。
竜巻が〝飢餓〟に向かって一直線に進んでいった。進路上にあるものを全てのみ込んで、風と一緒に回転させながら突き進んだ。このまま〝飢餓〟をも巻き込んで、どこか遠いところへ飛ばしてくれるだろう。少なくともコヨミはそう思っていた。
しかし、〝飢餓〟は恐れなかった。逃げる素振りも見せなかった。むしろ、この状況を楽しんですらいた。
「イザナギ……!やはり貴様が持っていたな!」
〝飢餓〟は、黙示録第三の騎士は、迫りくる竜巻を前に笑った。
一方のFBI捜査官、マッケンジーと僕は、横転したトラックとのにらみ合いを続けていた。
地獄の向こうからノックされているような状態は未だ継続中だ。死者たちがトラックを動かそうと叩いている。最初は数秒間隔だったのが、今やドラムの高速ビートほど早く、巨大な和太鼓を叩くように力強くなっている。そうしてできたわずかな隙間から、死者の腐った腕が、イソギンチャクの触手のようにうじゃうじゃとのぞいている。突破されるのは時間の問題だろう。
僕はある作戦を思いついた。幸いトラックは横倒しだ。実現可能なように思える。いや、この状況においてはなかなかの好判断ではなかろうか。
早速、むき出しになっているガソリンタンクに狙いを定め、何度か引き金を引いた。弾丸は見事タンクに命中し、黄色っぽい液体がぴゅうぴゅうと飛び出してきた。
「よし!……あれ?」
待てど暮らせど、なにも起きないという結果に僕は困惑する。なぜだか引火しない。ガソリンを垂れ流しにした以外、トラックに変化はない。
「バカ!そんなもんは映画の話だ!」
マッケンジーに怒鳴られる。僕は数多くのハリウッド映画に騙されていたと知り、一人落胆する。
そうこうしているうちに、地下道の入り口とトラックとの隙間はどんどん広がっていく。手や腕のみならず、上半身をのぞかせ、身をよじって出てこようとするやつまで現れた。たいていは腰のあたりで胴体が泣き別れになり、腰から上だけがその場に落ちて再度死ぬだけだが、この調子だとあと少しで完全に開ききってしまう。
マッケンジーが腰を落とし、何かないかと地面を探し始めた。そして、数メートル先の血だまりに、使い捨てライターが落ちているのを発見した。彼は拳銃を素早くしまい、駆け足でそれに近づいて行った。
僕は彼がやろうとしていることをすぐに察知し、トラックの方へ駆け寄った。
「ぎゅああああ!あああああおぎゃ!」
トラックの隙間から顔をのぞかせたアンデッドと目が合った。
髪はよれよれでほとんどハゲかかっており、ほほ肉の一部は腐って、中の歯が丸見えになっていた。僕にかぶりつこうと、何度も顎を鳴らしていた。
僕はアンデッドの方をなるべく見ないようにして、ポケットからハンカチを引きずり出した――あぁ、これは就職が決まった日にママから貰ったメモリアルなハンカチなんだが――それを拳銃の銃口にかぶせ、巻きつけ、ガソリンでできた水たまりに浸した。
「よし!いくぞ!ジョーッ!」
マッケンジーの右手には、火の付いたライターが握られている。
僕はひたひたのフレンチトーストみたいなったハンカチを地面に押し付けたまま、彼の待つ方へ戻る。歩道上に、ガソリンの道が出来上がっていく。地鳴りのような音がして振り返ると、ついにトラックが人一人分移動し、二、三体のアンデッドが――お互いの身体をめちゃくちゃにひっかきまわしながら――飛び出してくるところだった。迷わず僕の後を追ってくる。
マッケンジーの足下にたどり着いた僕は、拳銃をハンカチから抜き取り、トラックとは反対方向へ大きくジャンプする。横目で、マッケンジーがライターの火をハンカチへ近づけているのが見える。彼は空いた方の手で耳を覆い、感謝祭で七面鳥にかぶりつくときのように口をガッと開いている。僕も両手で耳を覆い、これ以上開けられなくなるまで口を開く。
ライターの火がハンカチを一瞬で飲み込み、炎となる。僕が作ったガソリンの道を、炎は目にも止まらぬ速さで駆け抜ける。地を這うサラマンダーのように。そしてトラックのガソリンタンクまで一瞬で登りきると、一気に引火して大爆発を起こした。
爆風で僕は吹っ飛び――おそらく、マッケンジーも――僕を追いかけていたアンデッドは、僕を飛び越して反対側の地下道まで吹き飛び、体のパーツがバラバラになって着地した。
僕自身、神様がこねるのに飽きてしまったパン生地のように、容赦なく地面に叩きつけられた。
「うぅ……」
平衡感覚が戻ってこない。キィィィン――と、甲高い耳鳴りに襲われる。まるで、耳元で、ギリギリ聞こえるモスキート音を大音量で鳴らされているようだ。
トラックはガソリンタンクを起点として真っ二つに裂けていた。その付近にいたアンデッドは跡形もなく消し飛び、後方に控えていたやつらは炎に包まれていた。
「「「ぎゅぉああああ!」」」
「「「きぃぃいぃぃぃ!」」」
アンデッドたちの口から苦悶の叫び声が上がる。僕は体を起こし、火だるまになって倒れていく哀れな姿を見つめる。思わず神に祈る。すでにこの世を去った者たちに、どうか今度こそ、安らかな眠りが訪れんことを。
マッケンジーは少し離れたところで自分の腕をさすっていた。
僕は擦り傷と打撲が少々、骨が折れなかったのは奇跡だ。あとは、スーツパンツに開いた穴を経費で落としてくれると嬉しい限りだ。
体の痛みを感情の隅に追いやり、無理やり立ち上がる。マッケンジーもそうした。第二波に備え、素早く拳銃を構えるためだった――しかし、次の瞬間、僕もマッケンジーも、とっさに両耳をふさいだ。
「ぎゃああああああああああああああ!」
アンデッドとは全く声質の違う叫び声だった。聞いているだけで痛い、苦しい。ものすごい声だ。錆びついた釘を脳みそに直接打ち付けられているように痛い。
「ぐっ……うぅ!」
耳を押さえたまま、僕は渾身の力を振り絞って顔を上げた。目をほとんど潰しそうになりながら、一セント硬貨の厚みほど薄っすらまぶたを開き、声の主を探して地下道をさらう。メラメラと燃える死体たちが右往左往している向こうに、男が一人立っている。茶色い服の男だ。首周りには包帯を、マフラーのように巻いている。やつは炎を直視できないのか、それとも熱波にやられてしまったのか、両手で顔を覆い、めちゃくちゃに叫びあげている。
「ぐああああああ!ぎゃいああああああああ!」
異様な光景だった。
やつはアンデッドと違い、焼かれたわけでも、トラックの破片で傷を負ったわけでもなかった。それなのに叫び続けている。そしてなぜか、炎に包まれた死体がそばを通る度に、男の絶叫は激しくなる。
「ぐぁう!」
最後に吐き捨てるような声を残し、男は反転した。地下道の奥へ、鷹に追われたウサギのように尻尾を巻いて逃げだした。
男の叫び声がなくなったとたん、僕の脳みそは落ち着きを取り戻した。全身を駆けずり回っていた痛みからも解放され、動けるようになった。急いで拳銃を構えたが、やつの姿は地下道の向こうに消えた後だった。
竜巻が晴れた。
〝飢餓〟が、その手に持ったトンカチで全てを振り払ったのだ。
夕立の訪れを逆再生でもしているかのように、風が、空気が、短い稲光を伴いながら逃げていく。傘の男は、はじき返された風圧に耐えようと、地面に傘を突き刺しその場で踏ん張っている。
黒い竜巻がなくなった後には、相変わらず五体満足の〝飢餓〟がいる。文字通り、傷一つ負っていない。彼女はまず、傘の男に笑いかけ、コヨミにも笑みを向けた。
コヨミは〝飢餓〟を無視して、ボーイフレンドを右肩で支えなおした。サッカースタジアムを目指して、歩道橋の反対側を目指した。
そしてついに、下りのスロープに差し掛かる。そこで気付く。
スタジアム前の広場に、歩道橋の陰が落ちている。
振り返ると、遠くJRの駅がある方向に朝日が迫っている。地平線の向こうから、オレンジの光が何本か差し込み、徐々に明るさを増している。
やった、あと少しだ。コヨミは希望を感じ始めていた。最後の力を振り絞って、下りのスロープに踏み出し、そして歩道橋を渡り終えた。巨大な、平和の名がついたサッカースタジアムまでたどり着いた。
「はーぁっ……はーあっ……はぁぁあっ……」
もう限界だ。寒さなどみじんも感じない。体が燃えるように熱い。汗が止まらない。呼吸できない。ボーイフレンドと自分、二人分の体重を支え続けた両足が、これ以上動かせないとストライキを起こしている。わなわなと震えて今にも倒れてしまいそうだ。
でも大丈夫だ。大丈夫だとも。コヨミは自分に言い聞かせる。なにせ、サッカースタジアムの一番上にはもう、オレンジの光がかかりつつあったから。
オォオォォォォ――地鳴りのような音が、声が、ホテルの方から聞こえてくる。
マジかよ。
自分の中に湧きつつあった希望が、あと少しのところで踏ん張っていた気力が、全く同じタイミングでプツン、と切れる音がした。ボーイフレンドもろとも、その場にがっくりと膝をついた。
もう歩けんて、歩けんようち……。
音のした方に振り向く。
そこには、コヨミたちが通ってきたのとは別ルートの地下道がある。
べちゃべちゃ、べちゃべちゃべちゃ、腐った足音がどんどん増える。近付いてくる。
「ウソじゃろ……?」
死者の大群が地下道から飛び出してくる。
その先頭にいるのは、顔に大きな火傷を負った〝支配〟だった。
「ぎゃあぁあぁーっ!」
コヨミの悲鳴だ。
傘の男は、歩道橋の上で〝飢餓〟と激しく切り結んでいることを刹那忘れ、スタジアム前の広場に気を取られてしまう。
いつの間にか、広場がアンデッドで埋め尽くされている。FBI捜査官は〝支配〟を止めることができなかったのだ。
「どうした?焦ってるのか?〝戦争〟!」
ザンドスニッカーの一撃がくる。いなせない、間に合わない。傘を両手で持ち、体の前に掲げて真正面から受ける。吹き飛ばされる。歩道橋の手すりに激突し――それでも止まらない――手すりは根元から千切れ、一緒くたになって車道に落ちる。
「貴様が選んだ道だ。誰も恨めまい?」
歩道橋の上から、勝ち誇ったように〝飢餓〟が見下ろしている。
「くっ……!」
傘の男は立ち上がり、巻き付いた釣り糸のようにまとわりつく歩道橋の手すりを弾き飛ばす。
「いやぁああ!いやーっ!」
街路樹の隙間から、死者の軍団に手を引かれるコヨミが見える。ボーイフレンドと引きはがされている。〝支配〟の待つ地下道へ、ベルトコンベアに乗った荷物のように送られていく。
その様子を見て、〝飢餓〟が高らかに宣言する。
「安心しろ!女王様のところへは、私たちが連れて行く」
その言葉に、傘の男は脳が沸騰するほどの怒りを覚える。今すぐ〝飢餓〟を八つ裂きにして、〝支配〟を木っ端みじんに粉砕してやりたい思いに駆られる。
全身を一瞬でコウモリに分解し、歩道橋まで飛び上がる。〝飢餓〟の周囲を埋め尽くし、視界を奪う。
「あぁ」
〝飢餓〟は気だるそうにザンドスニッカーを一振りした。竜巻さえ破壊する鎚だ。コウモリ程度など言うまでもなく。
しかし、足止めこそが傘の男の目的だった。コウモリの行き先はあらかじめ二手に分けている。一方は〝飢餓〟に、もう一方はサッカースタジアムの前、つまりコヨミに。
「――チッ!」
後頭部に、追いかけてくる〝飢餓〟の舌打ちが当たる。もう手遅れだ。傘の男は元の姿に戻ると、コートを二分割し、巨大なコウモリの羽に変えた。
歩道橋のスロープを、ムササビのように滑空して下る。軍隊アリのように密集しているアンデッドたちの上空に差し掛かってからは、力強く羽ばたいて進む。コヨミはあと少しで地下道へ配達完了となるところだ。〝支配〟が手招きして待っている。
アンデッドたちが――というより、操っている〝支配〟が――こちらの接近に気付き、無数の腐った手が伸びてくる。中には味方を踏み台にして飛びかかってくる者もいる。傘の男は一心不乱にコートの羽を動かし、薄皮一枚のところでかわす。最短距離でコヨミの元へ向かう。そして、彼女を支えているアンデッドを傘で叩き潰す。
風呂の栓を抜いたように、周囲のアンデッドが一斉になだれ込んでくる。それらより速く動く。コヨミの腰を掴み、引きずり出す。そのまま、サッカースタジアムの上空へぐんぐん上昇する。
「えっ――うわあああああああ!」
コヨミを大変に驚かせてしまったが、説明は後回しだ。サッカースタジアムの座席が豆粒に見える高さまで羽ばたく。眼下では、死者が集結している。肩車だ。人間ピラミッドだ。アンデッドがアンデッドに飛び乗り、その上にさらにアンデッドが飛び乗り、死者の塔を作っていく。ほころびが出ようとも、何体か振り落とされようともお構いなしだ。安全基準を無視して納期を優先させる工事現場のように、いくつもの犠牲を払いながら、どんどん高さを上げていく。
「逃がすものかよ!〝戦争〟ぉ!」地下道の入り口で、〝支配〟が叫んでいる。
「後ろ!後ろぉ!」小脇に抱えていたコヨミがジタバタと暴れる。
背中に、氷が伝ったように悪寒が走る。とっさにコートの翼で回転し、遠心力を加えてコヨミを上空へ投げ飛ばす。
〝飢餓〟め!
コヨミと入れ替わるように降ってきたのは、ザンドスニッカーを振り上げた第三の騎士だった。目にも止まらぬ速さでアンデッドの塔を駆け上ってきたのだ。
傘の男は、投擲姿勢のまま、もはや受け身を取る暇さえ残されていない。
ゾウが降ってきたような衝撃だった。ザンドスニッカーは腹部に直撃した。
くの字に折れ曲がり、隕石のように落ちていった傘の男を、遥か上空でコヨミは見ていた。地面には巨大なクレーターが出来上がり、その衝撃でゾンビの塔はぐらりと傾いた。
次は自分の番だ。落下直前の気味悪い浮遊感の中、コヨミは絶望的にそう思う。
男を叩き落とした〝飢餓〟が、不安定になった塔のてっぺんに着地する。彼女の頭がグリン!とひっくり返り、満面の笑みでこちらを見上げる。
「いっ――」
蒼い前髪が、体に遅れて上に跳ね上がる。上昇する力が終わりを迎える。じわり、じわりと、前髪を置き去りにして、体が沈み始める。コヨミは両手両足を無我夢中で振り回す。
でもダメだ。人は空を飛ぶようにできていない。
「――いやぁぁぁああああぁぁ!」
自分の口から飛び出した断末魔を追い越して、コヨミは落下していく。蒼い前髪がすっとんで、目が秒で干からびる。〝飢餓〟がヘビのように舌なめずりして待っている。
クレーターの中心から爆発が上がる。〝飢餓〟が、はじかれた電磁石のように素早く眼下に目を向ける。地面がめくれ上がっている。ゾンビの塔は土台となっていた者たちが全部吹き飛んでしまい、制御不能となる。崩壊していく。
爆発の主は傘の男だ。バラバラ、ボタボタと落ちていくゾンビの雨の中、立ち上がり、こちらを見上げている。すでに頭は血だらけで、赤い瞳がどこにあるのか見当もつかない。ふらふらと、立っているだけで精いっぱいのようだった。おそらく左肩と左足を骨折している。まともに直立できていないし、傘を持ち上げられないでいる。
「終わりにしよう!〝戦争〟!」
〝飢餓〟は嬉々として叫び、崩れゆく塔の先端でゾンビを蹴飛ばし、地面に向かって跳躍した。コヨミはその背中を見つめることしかできない。彼女は両手でトンカチを振り上げ、傘の男に向かって、一筋の流星となって落ちていく。
無事だったゾンビ、塔の材料になっていなかったゾンビたちが、訓練された軍隊のように一斉に方向転換する。全員が傘の男に向かって、我先にと突撃を開始する。
〝支配〟と〝飢餓〟、己の負傷、圧倒的な数的不利の中、傘の男は不気味なほど静かだった。何百体といるゾンビは、透明で見えていないのか、まるでそこに存在していないかのようにふるまっていた。
音も、空気も、時間さえも、固唾を飲んで見守っていた。
満身創痍の中、傘の男は、トンカチと共に迫りくる〝飢餓〟、落ちていくコヨミ、そしてゾンビを操っている〝支配〟を順番に見つめると、そのうちの〝支配〟に狙いを定めた。無事な方の右足を下げ、腰を落とした。左手は添えるだけ、傘を日本刀のように構え、抜刀の姿勢をとった。ゾンビたちの包囲網から、何百という腐った手に囲まれても見向きもせず、頬を風船のように膨らませ、深くふかく深呼吸していた。
傘の男の姿が、真っ黒な塊に押しつぶされていく。
その中心から、一筋の光が放たれる。
それは、真っ黒な雷光だった。
「ぐぅぅううわああああああああ!」
突然〝支配〟が、苦悶の叫び声をあげた。脳を直接削られるような痛みに、コヨミは両手で耳をふさぐ。
瞬きしただけで見逃した。
傘の男を中心として、ゾンビ軍団がバックリと二つに割れていた。
舗装された広場も、地下道へ続くスロープも、スタジアムの敷地を超え、反対側の車道や街路樹に至るまで真っ二つだ。埋没していた水道管も切り裂かれたのか、遠くの方で、温泉を掘り当てたように水が噴き出していた。
ものすごい破壊力だ。傘の男の目の前にいた死者たちは、黒いチリのようになって蒸発までしていた。
コヨミは、男が右手に握っているのが、傘ではなくなっていることに気付く。
色が黒いのは変わらない。だが、あれはどう見ても刀剣だ。パラシュートなしで上空数十メートルを落下中の身としては、詳細なディティールを観察している心理的余裕がないのだが、持ち手は傘と違って曲がっておらず、傘よりも細く、鋭い刀身が見えた。
「あぁ!あああああ!」
〝支配〟の声は、耳をふさいでもなお鼓膜に届く。先ほどからやつが叫んでいる理由は自身の左腕だ。傘の男の一閃によって、左肩から先がすっぱり切れている。新品のCDのように綺麗な切断面から、ケチャップを握りつぶしたように血が噴き出している。
傘の男はすでに〝支配〟など眼中にない。かといって、もう数メートルの距離まで詰めている〝飢餓〟に立ち向かうわけでもない。背後から襲い掛かってきた死者を一体、左手で捕まえると、抵抗できないよう右手の刀でダルマにした。
「いぃ!?」
コヨミは激しい吐き気に襲われたのだが、それは決して、猛烈なスピードで地面が近づいてくるせいではない。
なんと、傘の男がゾンビの首根っこにかぶりついたのだ。見間違いでなければ、ごきゅごきゅと、スポドリをかっくらうサッカー部員のように体液を飲んでいる。
ゾンビは絞られた高野豆腐みたいに干からびていく。最終的には骨と皮だけになって、無造作に捨てられる。男はそうやって、実に三体ものゾンビを平らげる――〝飢餓〟のトンカチが、もう男の頭上まで迫っている。それを見てコヨミは、自分もあと二秒足らずで地面に激突するのだと思い出す――傘の男の左腕が、左足が、逃げまどう芋虫のように激しく波たつ。波たった後から、元通りに修復されていく。頭から流れていた血も止まる――コヨミは、もう目と鼻の先に地面が迫っているのに、傘の男が気になってそれどころではない――〝飢餓〟のトンカチが大地を揺らす。地球の反対側までぶち抜くような破壊音が一帯に轟く。瓦礫と埃のシャワーに遅れて、三日月のような軌跡が見える――それより速く、男が治った左足で地面を蹴り抜いている――
「うばっ!?」
突然視界が真っ黒に染まり、同時に、猛スピードで走る車にでも突っ込まれたかのような衝撃を体の左側に感じた。地面は思ったほど固くなく、頭蓋骨も肩もくしゃっとつぶれず、悲観していたよりも死ぬのは痛くなかった。などと思っていたら、三半規管がしっちゃかめっちゃかになるほど回転し始めた。遊園地のコーヒーカップに縛り付けられ、時速三百キロくらいで回転させられた気分だ。さっきとは別の意味でゲボを吐きそうになった。
わかった。頬に当たっている固い感触は誰かの胸板で、背中をぎゅっと抱きしめているのは左腕だ。
わかっていた。味方だと彼は言った。
とても熱かった。
落下の衝撃がようやく和らぎ、コヨミの回転がとまる。右頬を下にして、寝そべるような形で解放される。頭の後ろで、革靴が舗装面を叩く音がする。傘の男が、回転の余力を利用してそのまま立ち上がったのがわかる。
開いた視界の半分を、もう〝飢餓〟が埋め尽くしている。
下手な3D映画の何倍も飛び出して見えた。はるか後方で右往左往しているゾンビ軍団を何光年も彼方へ置き去りにして、巨大なトンカチを振りかざし、コヨミの目前に迫っている。
コヨミが悲鳴を上げるより速く、〝飢餓〟がトンカチを振り下ろす。視界の後ろから黒光りする剣が差し込まれ、コヨミとトンカチの間に割って入る。剣とぶつかった瞬間、激しい火花を散らし、トンカチが軌道を変える。そのまま、目の前の地面に突き刺さる。コヨミは両手で頭を抱え、砕け散った舗装面から身を守った。
視線だけ真上に向けると、傘の男が、黒い剣の柄で〝飢餓〟をしこたま殴りつけているのが見えた。動きが速すぎてよくわからなかったが、往復四回は殴ったように思う。これにはさすがの〝飢餓〟も鼻血をこぼし、とっさにトンカチから手を離し、後ろに跳んでさがった。
彼女は大きく股を開き、カエルのような姿勢で着地すると、なぜか少し嬉しそうに笑みをこぼし、鼻血を拭った。
「腕が……!俺の腕がああぁぁぁぁ!」
展開が速すぎて存在を忘れていたが、〝支配〟は左腕を切り落とされたのだった。地下道の方で一人叫んでいる。
先ほどからゾンビ軍団の統率が取れていないのは、おそらく彼のせいだ。傘の男は〝支配〟が死者を支配していると言った。支配者を失ったゾンビたちは、コヨミたちを追うわけでもなく、逃げ出すわけでもなく、スタジアム前の広場でうろうろと、指示待ちの新人のように彷徨っている。
〝飢餓〟の顔からすっと笑みが消え、はあぁ、とでかいため息をついた。胡乱そうに振り返ると、人差し指を立て、ゾンビたちに向けた。
「ったく……何をしている……飢えろ!欲しろ!」
ビキニスタイルの幼女が何をしたのか、コヨミはわかった気がした。
ゾンビたちがピタリと動きを止め、彼女の言葉を聞き入るように静かになったからだ。冷たく、重苦しい沈黙が、スタジアム周辺に渦巻いていた。
沈黙を破ったのは、先頭にいたゾンビだった。
「あがががががが!」
突然空に向かって吠えたかと思うと、両肩と両膝をびょんと跳ね上げ、方向転換した。向いた先はもちろんコヨミだ。ゾンビは全速力で走り出した。
それは他のゾンビにも伝染し、〝支配〟の時より速く、より荒々しく突っ込んでくる。道中にいる〝飢餓〟を、激流の中の岩のようにかわす以外は、一直線にこちらに突き進んでくる。
コヨミの頭をまたいで、傘の男がずい、と前に出る。堂々たる佇まいで、ダムの放水のように迫りくるゾンビの大群を一人迎え撃つ。
コヨミは上半身を起こして、男の持つ剣をまじまじと見つめる。
見たことのない形だった。日本刀というよりは西洋の剣に近く、黒傘と同じくらいの長さの両刃剣だ。持ち手も刃体も、黒曜石を切り出したように真っ黒で、鍔が無い。その代わりか、刃体の根元がトランプのダイヤマークのように鋭利に盛り上がっており、先端に向けて細く長く伸びている。それと、刃体の中心には十字の白い線が、根元から切っ先まで一直線に入っていた。
傘の男は素晴らしく美しい軌跡で剣を振るう。飛びかかってきたゾンビは一刀両断、脇をすり抜けようとするやつは首を切断して動きを止める。足元を払うように振り、四、五体の足を一斉に切り刻むと逆手に持ち替え、背後にいたやつを一突きで黙らせる。まるで舞踏会を見ているように優雅に、それでいて一切の無駄のない動きに、コヨミは見とれてしまう。
コヨミの元へたどりつけないと見るや、ゾンビたちの狙いは傘の男そのものに変わった。餌に群がるウナギの大群のように、互いの脇の下や股の下など、わずかな隙間でもあれば腐りかけの腕を伸ばして男を襲った。
男が剣を振るう速度が、一瞬でコヨミの視認できる速度を超えた。何をどうしたのかわからなかったが、とにかく、男に襲い掛かった十余体のゾンビ全てが、ルービックキューブのように細かい四角形に――正しくは立方体に――切り刻まれた。
腐った麻婆豆腐の向こうから、突然〝飢餓〟が表れる。トンカチを持っていなくても彼女は危険なのだと、コヨミは思い知る。傘の男は防御が間に合わず、素手の〝飢餓〟に殴り飛ばされる。
砲弾のような音とスピードで、傘の男はサッカースタジアムの案内板に突き刺ささる。〝飢餓〟が耳まで裂けた口でニッと笑い、チラリと横目でコヨミの方を見る。
もくもくと土煙が上がる方へゾンビ軍団が群がっていくのを、コヨミはほとんど見ていなかった。〝飢餓〟の視線が、コヨミの目の前に突き刺さったトンカチに注がれていることに気付いたからだ。
思い付きだった。使命感に突き動かされたと言ってもいい。でも、このトンカチがまた〝飢餓〟の手に渡れば、傘の男は瀕死の重傷を負うことに違いなかった。コヨミはオブジェのように絶妙な角度で突き刺さっているそれに手をかけた。
すぐに絶望した。とんでもない重さだ。ゾウかマンモス、どっちでもいいが、どっちか重たい方を持ち上げようとしているに等しい愚行だ。そもそも、地面を砕いた状態で斜めに傾いているのに、コヨミの全体重をかけても一ミリも傾きやしない。
案内板の方で、ゾンビたちが打ち上げ花火のように盛大にぶっ飛んだのを、視界の端で感じる。急げ、ゾンビが足止めしている間に、〝飢餓〟はこっちに来る。
ボーイフレンドを担ぎ上げた時の百倍の力で踏ん張る。可愛さなんてかなぐり捨てて、顔を真っ赤にして、こめかみの血管が千切れるほど力を込める。でもダメだ。コヨミの足の方が動いてしまう。手に汗をかきすぎて、トンカチの柄がぬるぬる滑る。
しかし、数秒の格闘の後、天に願いが届いたか――それとも、ポケモンのように原形もとどめず進化して尋常ならざる力を得たか――トンカチが数センチ、いや数ミリ、僅かに浮いた。
やった――赤点を回避した時の数万倍の歓びが全身を駆け抜けたが、一刻の後、それは絶望に変わった。
「どうも」
獲物を追い詰めたヘビのように舌を震わせて笑っていた。〝飢餓〟だった。彼女は人差し指と親指だけでトンカチの柄をつまみ上げていた。
「うぅ……!」
コヨミは渾身の力を込めてトンカチの柄を握ったが、汗ばんだ手はにゅるんと獲物をにがしてしまった。
「あっ――!」
〝飢餓〟はコヨミに目もくれず、傘の男のいる方へ走っていく。
切り刻まれ、蹴り飛ばされるゾンビたちに向かって、終末を告げるようにトンカチが振り上げられる。
傘の男は気付いていない。次から次へと迫りくるゾンビの相手で手いっぱいだ。
死を告げるレーザー音が、高らかに鳴る。
「危なぁい!」
なぜ、傘の男をかばったのか。気にかけたのか、コヨミにはわからなかった。
でも、またあの時の情景が脳裏を駆け巡った。
真っ暗な夜道だった。
お星さまは一つもなくて、まん丸のお月さまだけが輝いていて、街灯なんかよりも何倍も明るくて、そんな夜道を、コヨミは誰かに抱きかかえられ、見上げている。
汗をびっしょりとかいた誰かが、コヨミのおでこをつぅ、と撫でてくれる。大きくて冷たい指先が気持ちいい。コヨミから見ると――自分が小さいのか――指の一本一本が野球バットくらい大きく見える。
赤い瞳の男の人だ。走っているのか、赤い唇は半開きで、激しく息していて、それでも、春のように暖かくて優しい眼差しで、こちらを覗き込んでいる。
コヨミはそれを、ずっと、ずっと、この上なく幸せな気持ちで見上げている。
「お父さぁん!!」
まるで、その時、その場所で叫ぶことが予言の書に書いてあったように、確信をもった声色が口をついて出る。
コヨミの視界が太陽の色に染まる――真夏でも見ることがない――黄金色の太陽に。
時を同じくして、朝日を待っていた冬の空に、太陽とは違う何かが誕生する。
JRの駅から来た光とは違う。スタジアムの真上だ。
太陽ぢゃ、ない――
まるで天使が、光のいっぱい入ったバケツをひっくり返したようだった。
敵も、味方ももみくちゃになったスタジアム前に、全てを浄化する黄金の光が降り注いだ。
「なに!?」
「ぐああぁぁぁあぁ!」
トンカチを取り落として〝飢餓〟が驚き、残された腕で顔面を鷲掴みにして〝支配〟が苦しみだした。コヨミと傘の男をさんざん苦しめた二人は、黄金の光に焼かれ、全身が真っ赤に焼け始めた。
ゾンビたちは、まだ動いていた者も、沈黙していた者も、すべて一瞬で焼き切れ、黒いチリになって消えた。
傘の男が、手放しに戦闘をやめ、驚嘆の面持ちでこちらを見つめている。
コヨミは思わず安堵して、傘の男と見つめ合う。
彼はしばし、奇跡を目の当たりにした殉教者のように、コヨミのことを見ていた。しかし数秒後、思い出したように顔を歪め、コートの中に隠れるように身を縮めた。
「あっ――」
コヨミには見えた。
傘の男の顔が、その白い頬が、〝支配〟や〝飢餓〟と同じように、燃え始めている!
自分が何か、取り返しのつかないことをしてしまったのだと悟る。しかし止められない。黄金色に染まった視界は元に戻らず、スタジアムの上空からさんさんと降り注ぐ謎の太陽は快晴のままとどまることを知らない。
なにこれ――ナニコレ――何これなにこれ!!
目の奥が焼き切れるほど熱い。コヨミは自分の顔をひっかく。指の隙間から光のさす方を凝視する。
〝飢餓〟が、苦しみながらも――いや、苦しみにすら歓びを感じているのか――ケタケタ笑いながら立ち上がる。素肌から陽炎のような湯気を立ち上らせながら、トンカチを手に傘の男に突撃する。傘の男はコートの襟を立て、片手で剣を振るいながら必死にそれをいなしている。二人とも、体中から発火しながら戦い続けている。
「コヨミ!」
どこからか、ボーイフレンドの声がする。額から血を流した状態で彼は帰ってくる。コヨミは肩を揺さぶられる。彼の顔すら、黄金のフィルターがかかって見える。
彼が息を吹き返したことを喜べない。それどころではない。
死んでしまう。このままでは傘の男が死んでしまう。
自分を助けてくれた男が、傘の男が――
「――お父さん?」
瞬きするたび、満月の夜道が見える。
傘の男が抱きしめてくれたことが、昨日のことのように思い浮かぶ。嬉しい、嬉しい、嬉しい――コヨミの知らない感情が、こんがらがった心の奥になだれ込んでくる。
「コヨミ!どうしたんだ!しっかりしろ!」
「あう――!」
首がねじ切れるほど揺さぶられ、コヨミはようやく自分の意識が帰ってくるのを感じる。今までどこに行っていたのか、叱りつけて聞いてやりたくなる。何度か目をしばたく。視界を埋め尽くしていた黄金の光が消える。と同時に、スタジアム前に降り注いでいた太陽の光が消える。再び、朝日を待つ薄明るい空が帰ってくる。
〝支配〟を無視した命の奪い合いは、降り注ぐ謎の光がなくなっても続く。銀髪がパーマのようにチリチリになった〝飢餓〟が、頬や額にまだら模様の火傷ができた傘の男が、互いの存在を根底から消し去ってしまおうという禍々しい魂のぶつかり合いを繰り広げている。これが最後のやりとりになるのだと、コヨミは肌で感じ取る。
全身から立ち上るぷすぷすとくすぶった煙を置き去りにして、〝飢餓〟が、この日一番鋭い一撃をお見舞いする。
傘の男は左手で拳を作り、トップスピードで降ってくるトンカチを片腕一本で受け止める。
トンカチがぶるん、と震え、男の左腕がガラスの花瓶を落としたように砕け散る。コヨミは思わず、空っぽの胃をそのまま吐き出してしまいそうになる。
しかし――その瞬間――男は反撃の一閃を繰り出していた。
右手に握りしめた黒い刀剣を、〝飢餓〟を、その手に握るトンカチごと両断するかのように切り上げる。
忘れるな。
当たるのは、まだこれが一撃目だ。
真っ赤に腫れ上がった顔で、彼女は最後、笑った。
「やるじゃないか」
捨て台詞を残し、〝飢餓〟の姿が消える。
その直後、コヨミたちがさっきまでいたホテルの高層階で、爆発にも似た轟音が上がる。
遅れて見上げると、三十階付近の窓ガラスが全部割れ、ジャムおじさんが出勤したかのように真っ黒な煙がもくもくと上がっている。
完全に破壊された傘の男の左腕を見て、コヨミは全身の力が抜ける。今度こそ立っていられなくなる。
半分ほど地面に埋まってしまった案内板に、柔らかいオレンジの光がかかる。今度は東の空から、本物の朝日が昇る。
〝支配〟はヒイヒイ言いながら地下道に消えていった。傘の男はもう追わなかったし、コヨミもボーイフレンドも、そんな元気は残っていなかった。
ふと、傘の男が持っていた刀剣が、元の黒傘に戻っていることに気付いた。
彼は壊れてしまった左腕に悪態もつかず、文句も言わず、極めて事務的に傘を開いた。
少し遅れて、マッケンジーと僕が現場にたどり着いた。
もちろん厳戒態勢だ。日本警察に見つかれば物議を醸すことは承知していたが、拳銃は取り出したまま臨場した。
サッカースタジアムの前はまさに惨状だった。たしかここは、国際試合も開かれた由緒あるスタジアムのはずだ。それが今や、見るも無残だ。朝日が全てを平等に照らしている。いくつものクレーター、意味をなさなくなった案内板、そしてあちこちにある血だまり。再建された城の方に視線を移せば、手すりが一部吹っ飛んだ高架まで見える。不思議なのは、破壊のあとはお腹いっぱいあるのに、それをもたらした者が一人として残っていないのだ。まるで誰かが、きれいさっぱり火葬でもしてしまったかのように。
街の中心部から、けたたましいサイレンの音が立ち上がる。振り返ると、自分たちが泊まっていたホテルに、大きな穴が開いているのが見える。
サイレンは四方八方からやってくる。
僕はマッケンジーと頷き合って、スタジアム前を後にする。