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影の戦争  作者: 影宮閃
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第二章 神の不始末

 コヨミは大変に寝心地のいい状態で目を覚ました。

 目覚まし時計に頼らず、太陽の暖かさと風の匂いで朝の訪れを感じ取った時のように、さっぱりと目が冴えた。

 ふわっふわだ。

 まるでできたてのメレンゲの上に横たわっているように、もっちもちのふっわふわだ。体が一番心地よい深さまで沈み、一番気持ちの良い反発力で包まれ、跳ね返る。

 しかしそれ以外は最悪だ。臭い。痛い。口の中でゲロの匂いがするし、鼻の先っちょがヒリヒリする。

 どうやら、どこかのベッドに寝かされているようだ。自分は今、高級そうな枕に頭を突っ込んで、うつ伏せに倒れている。

 起きた方がよいのだろうか?左腕もズキズキしてきたし、全身がベトベトする。手当てとシャワーが必要だ。

「俺はFBI捜査官のジョン・マッケンジーだ。こっちは同僚のジョー」

 金髪の捜査官の声だ。コヨミは素早く目を閉じて、寝たふりを続行した。耳と脳みそだけ炭酸ジュースをかき交ぜたように泡立てて、一言一句聞き漏らすまいと気合を入れた。

「俺たちはある事件を追って日本まで来た。その中で――」

「あなた方が追っていた人間が、彼女の情報を持っていた。そうですね」

 物陰からささやくような声、これは傘の男のものだ。落ち着いている時、彼はこの声で話す。

 しかし異様にいい声だ。低すぎるわけでもなく、それでいて男らしい。若干ハスキーながあるのもよい。VTuberとか向いてるんじゃないだろうか。いや、顔の造りがよかったので、そのまま顔出しでもいい。

「……あぁ、そうだ」

 金髪の捜査官マッケンジーが少しばかり不機嫌を混ぜた口調で答える。

「そして、彼女に話を聞く以外に、あなた方は事件・・の手がかりを失ってしまった」

「それに、彼女を保護しようとしたまさにその日に、彼女が襲われた。正直、疑念から確信に変わりつつあるよ……彼女がなんらかの、鍵ではないかと」

 鍵……?コヨミの頭の中に大きくはてなマークが浮かぶ。鍵ということはつまり、何かを開けるアレのことだろうそうだろう。しかしコヨミは鍵ではない。ピチピチの女子高生だ。ちょっとタバコを吸ったりして肺がしなびているかもしれないが、肌つやはまだバリバリ現役の十代だ。つまり鍵ではない。クマの子がいいなと思っている人間だ。

 しかしどうやら、FBIはコヨミを補導しに来たのではないようだ。これは安心してもよいのだろうか。少なくとも、施設の保育士ババアどもの耳に入ることはなさそうだが、それ以上にマズい事態ではないのだろうか?だって、死体が動いたが?それって普通なん?うちは普通じゃないと思うんじゃけど――コヨミは猛烈に誰かとこの状況を共有したかったらしい――これだったら、普通にタバコのことについて小一時間怒られた方がマシだった。なんてことは天地がひっくり返ってもないけど、いや、うぅん、見逃してくれんかな、全部が全部、何もなかった感じで。

 そうやってしばらく、コヨミがくだらぬ考えを堂々巡りさせるくらいには沈黙が続いた。

 傘の男も、FBI捜査官も、互いの出方を探っているのか、余計なことを口走らないように気を付けているのか、喋らなかった。

 ここはどこなのだろうか――コヨミはまた考える――そしてこの場にいるのは?マッケンジーと傘の男、それにマッケンジーが紹介したのだから、黒髪の捜査官、ジョーもいるだろう。ボーイフレンドはどこに行ったのだろう?無事だろうか、生きているのだろうか。しかし、状況がわからなすぎて、このまま「ねぇ、うちのボーイフレンド知らん?」と起きていいものなのか判断がつかない。コヨミは焦燥感と戦いながら寝たふりを続ける。

 そろそろ我慢の限界がきて、起きてやろうかと思った時、マッケンジーが藪から棒に言った。

「実を言うと」

「ジョン!待て、それは――」

「いいえ、結構です」

 マッケンジーを止めようとしたジョーを傘の男が止めた。コントぢゃないんだから、落ち着いて話せばいのに。

「燃えましたか、の光に触れて」

 燃えた、の光で――コヨミの脳裏に、人差し指を見つめるトラック運転手の姿が思い浮かぶ。そういえば、あいつとゾンビはどうなったのだろうか。

「……そうだ。そのとおりだ。我々の目の前で……焼け死んだよ……ドラキュラ伯爵みたいに」

 マッケンジーが静かに認めた。

 ドラキュラ!?小さいころに図書館で読んだ気がするが、そんなシーン、あっただろうか。コヨミは一人考え込む。

「お前は何者だ?どこの所属だ?いや、どの国の諜報機関だ」

「名乗るほどの者ではありません。正確に言えば、この世界の住人でもない」

 そして傘の男は何やら頭のおかしいことを言いだした。

 この世界?どの世界だ?コヨミの住んでいる地球以外に、いったい何があろうと言うのだろうか。いやしかし、全身をコウモリに分解できる人間など生まれてこの方見たことがない。今後もないだろう。というかあったら困る。そんなこと、頻繁に。

「あなた方が見た燃える人間と同じ――私は、こことはまったく別の世界から来ました」

「別の世界……?」

 マッケンジーもどうやら、コヨミと同じ疑問を抱いたようだった。

 傘の男の答えはシンプルだった。


「神の不始末によって作られた罪人の牢獄――名を、影の世界」


 影の世界――その言葉を聞くと、不思議と胸の奥が熱くなった。

 一晩中歩き回って探した目的地をようやく見つけたような、そんな安堵感と高揚感がコヨミの胸を沸き立たせていた。

「すべての始まりははるか5000年前――地上にはびこった悪魔を一掃するため、神が大洪水を起こし、地上の生き物は清算された。その後、二度と悪事を働けぬよう、生き残った悪魔は地獄に閉じ込められ、代わりに十一の聖人を地上に遣わされた。神に変わって、人類を導く存在として」

「あー……ノアの大洪水のことを言っているのか?」

 マッケンジーが確認のために割って入る。

「正確には違います。あなた方の知っている歴史は、後年、為政者の都合のいいように改ざんされたものだ」

「いや、そもそも神話の出来事が――」

 ジョーが何か言いたそうだったが、途中で口をつぐんだ。マッケンジーが遮ったのだろうとコヨミは想像した。

「それでノアの洪水と、燃える人、いや、影の世界か、何の関係が?」

 マッケンジーが(おそらく、失礼にならないように)丁寧な話しぶりで聞いた。

「悪魔は地獄に封じ込められましたが、それ以外の――悪魔に加担した天使あるいは――堕天した者たちを神は裁かなかった。忘れたのか、興味がなかったのか、それ以上、人類に手を差し伸べる価値がないと判断したのか……しかし彼らは、そのまま地上に遺すにはあまりにも強大で、危険な存在でした」

 傘の男の話は小難しいが、とりあえず神様が何もしないぐうたらの最低野郎だということは分かった。コヨミはそう決めつけて続きを聞くことにした。

「残された神官たちは、彼らを別の世界へ送ることを考えました。神が悪魔にそうしたように」

「そこで送られたのが、影の世界ってわけ」

 ジョーがつっけんどんに言った。広島県人がキチガイの相手をする時と同じテンションだ。はいはいはいはい、わかりました。って感じの。

「その通り」傘の男は気にした風ではなく、淡々と答えた。

「はっ……おめでたい話だ!この世界ともう一つ、別の世界がある?……ハッハッハッ、いったい誰がその話を信じる?子供に聞かせるおとぎ話じゃないんだぞ」

「なぜ?あなた方はすでに、別の世界の存在を認知しているはずだ」

「何を……」

 ジョーは食い下がろうとしたが、急に押し黙った。

 代わりに喋り始めたのはテレビだ。複数の人が代わるがわる意見を述べている。どうやら、深夜の情報番組のように思えた。


〔――つまり、福建省の奥地に未知の生態系が存在して、そこには未把握の民族もいたと〕

〔民族ではなく国家です。中世ヨーロッパの王政に近い。それに福建省だけではありません。アメリカのロッキー山脈、アフリカのギアナ高原、人が寄り付けない場所に次々と……!〕

〔世紀の発見であることには違いありませんが、調査は慎重にしなければなりません。アマゾン川流域の原住民族と同じく――〕

〔お待ちください、お待ちください、今、会見が始まった模様です――繋ぎます〕

〔世界のみなさん、こんにちは。私はウラオー・ホタルです――〕


「タイムリーなニュースだな」とマッケンジー

 あぁ~、そういや、そんなことあったな~、とコヨミは頭を抱えた。いや、寝たふりをしていたので、実際は頭の中のイメージで抱えたのだが。

 数日前、施設で保育士ババアどもがこのニュースを見ていた。なんでも、中国の方でフェニックスやらドラゴンやら、ハリー・ポッターでしか聞かないような摩訶不思議な連中が発見されたと、そんな話だった。施設長はロード・オブ・ザ・うんたらがなんとか興奮していてオタクきもっ、と思った。そして、その窓口として立ち上がった環境保護団体の代表みたいなのが、ちょうどコヨミと同じくらいの年で、同じくらい可愛い女の子だった。亜麻色の髪をポニーテールにしていて、目の色が紅と蒼で左右違って、まるでお人形のお目めに宝石をはめ込んだみたいに綺麗だった。若いのに学校行かなくていいとか羨ましいな、暇なんだろうな、てことは金持ちなんだろうな、と妬んだのを覚えている。たぶん、さっきの会見もその子だろう。

 この件に関しては、世界中の偉い人が「貴重な生物を保護しなければ~」とか、「中国のナイセイに干渉するな~」とか言いだして、保育士ババアどもが年甲斐もなく頬に手を当てて「あらヤダ困るわぁ」とか言っていた。はぁ?中国の話だろ?困るわけねーだろバカかよと思っていたが、そうかぁ~関係あったかぁ~……………………困るぅ~。

ペンタゴンうえはアレの対応でてんやわんやだ。正直、これ以上世界が増えて欲しくない」

 マッケンジーも困っているようだった。さっきからあれだ、コヨミとマッケンジーはよく意見があう。ひょっとしなくてもいい酒が飲めるかもしれない。

「神の存在を忘れ、神官の言葉を忘れ、あなた方は目が曇ってしまったと見える。神の怠慢により、この世界には多くのひずみができている。それを一手に引き受けた神官には頭が下がる」

 傘の男は気分を害したように感じられた。こういう時、彼はささやくようなハスキーボイスをやめ、低い声を少し震わせながら喋る。「刮目せよ!」と言った時がまさにそうだった。

「じゃあ仮に、お前の話が正しいとしよう。影の世界は実在する。だとして、人体が発火する現象は?どう説明する?」イライラにはイライラで返す。ジョーは経験が浅いと見える。

「死人が再び動き出したことと同義。あなた方の理解を超える話だ」

「一応聞くよ、信じるからさ・・・・・・

「神官による呪いです。あなた方にとっては祈りか」

「呪い……?」

「影の世界は文字通り、あなた方の世界に存在する影の中にある。の光は届かず、色に乏しく、世界の半分以上が暗闇に包まれている」

 どゆこと!?

 コヨミはもうすぐで飛び起きて突っ込んでしまう所だった。

 例えば――うっすらと目を開くと――ベッドの読書灯に照らされ、部屋の隅に伸びる薄い影が見える。あの中に世界が、地球が丸々一個入っているとでも言うのだろうか。しかも暗闇に包まれてるって、太陽はどしたん!?仕事しろし!ちょっと何言ってるかわからない。イミフだ。想像もつかん。

「閉じ込められたのは元天使たちだ。光を求め、の世界――あなた方のいるこの世界に――再び戻ろうとすることは目に見えていました」

「だから呪いをかけた」合点がいったとばかりにマッケンジーが答えた。

「影の世界の住人、すべてに影響を与える呪いだ。何の代償もなしには成立しえなかった」

「代償……?」

「影の世界の住人は、の光に当たると焼け死ぬ。それと引き換えに神官たちが差し出したのは、の世界の住人が、影の世界で生きられぬという縛りだった」

 あまりにも非現実的な話、あるいは都合のいい話だと思ったのか、ジョーが笑いだす。

「それって、俺たちに何のデメリットがある?」

「実質的には無いと言っていいでしょう。ですが、あなた方が私たちの世界に入り、その陰に触れると飲み込まれる」

「……飲み込まれる?」ジョーは笑うのをやめた。

「そう、飲み込まれる。その先には何もない。が広がっているだけだ」

 さすがのFBI捜査官も、それ以上理解が及ばなかったのだろう。二人とも黙りこくり、そして咳を切ったように質問の雨を浴びせた。

「待て、有る・・のか?」

「いやそもそも、影の世界の陰とはなんだ?じゃあそっちにも太陽があって――」

「言ったはずだ、あなた方の理解を超える話だと」

 傘の男は有無を言わせぬ口調でピシャリと答え、それ以上の説明をしなかった。

 説明するのがメンドイだけだったんじゃ……とコヨミは密かに思った。

「一つだけ確認させてくれ」

 長い沈黙の後、マッケンジーが切り出した。

「やつらは、我々の世界を――」

「――侵略しようとしている。そうです」

 マッケンジーが言おうとしたことを、傘の男は先回りして言った。

の光に当たると焼け死ぬのに?」

 揚げ足をとる子供のように、嫌味ったらしくジョーが付け加えた。

 コートの擦れる音がして、革靴が絨毯を優しく叩き、遠ざかっていく。

「待てどこに行く」

 ギシリ、と椅子だかソファだかの軋む音がする。マッケンジーが立ち上がったのだ。

 同時にドアの開く音もしたが、これは途中で止まった。傘の男の足音も。

「これ以上話しても無駄でしょう。あなた方は、自らの目で見るまで信じない」

「違う、どこに行くのかと聞いている」

「私の目的は彼女の命を守ることにある。今はあなた方がついている」

 大人たちの視線が一手に向けられたのがわかって、心臓が早鐘を打つ。どうか寝ているように見えますように見えますように見えますように。そう願いながら、コヨミはそれっぽい鼻息を頑張って出す。

「ずいぶんと信用されたもんだな。初対面だろ?お互い」

「信頼に値する」

「なぜ」

を見ればわかる」

 それだけ言い残すと、傘の男の足音はドアの向こうに消えた。




 監視カメラに、非常階段を昇っていく・・・・・傘の男の姿が映っている。

 ここは35階建の高層ホテルだが、彼は疲れた素振りを一切見せず、ロボットのように規則正しいスピードで昇り続ける。持っている黒傘を一度も手すりにぶつけることなく、丈の長いコートを踏んずけてしまうこともなく、静かに上を目指して昇り続ける。



「なんで行かせたんですか。彼女のこと、まだ聞きだせてません」

 ジョーが鼻息荒くまくし立てた。やはり彼は若いのだ。アメリカにいるのかわからないが、猪のような男だとコヨミは思った。あるいは餌を眼前に吊り下げられた犬だ。

死者アンデッドを跡形もなく食っちまうやつだぞ。しかもコウモリにばらけて。お前、止められるのか?」

 対するマッケンジーは冷静だった。相当なベテランなのだろうとコヨミは思った。よく補導に来る警察官の中にも、時おりああいうのがいる。要注意だ。こういうタイプは、コヨミが何を言ってものらりくらりとかわされる。そして気が付くと警察署にいて、保育士ババアの迎えを待っている状態に追い込まれる。世界の七不思議の一つだ。



 屋上に繋がる扉が開いた。

 巡回の警備員ですら滅多に来ないところだ。

 出て来たのは傘の男だ。彼は迷いなく歩き続けると、屋上の縁に立った。

 あと一歩でも踏み出せば、150m下の地上に叩きつけられて死ぬ。上空は風が強い。彼のコートが高速道路の吹き流しのようにはためく。そのままよろめけば、やはり地上に叩きつけられて死ぬ。しかし男の顔には微塵の恐怖もない。怒りも、悲しみも、全ての感情から解き放たれたように清々しい表情で、宝石が散りばめられたような夜の繁華街を端から端まで眺める。

 彼は傘を持っていない方の手を、コートの内ポケットに差し込んだ。

 名刺を探す営業マンのようにコートの内側を揉んだ後、手を引き抜いた。そこには、小ぶりなバナナほどある試験管が握られていた。

 試験管の中身はよく見えない。闇夜に紛れている。周囲でも一番高いホテルの屋上を照らす光は、月光以外に存在しない。一応、ガラスでできたコルクのようなもので蓋をされており、そこには金色の鎖が輪となって連なり、さながら悪趣味な科学者のネックレスのようであった。

 傘の男は、最後の松明に火をつける冒険者のように、決意のこもった表情で試験管を見つめ続けた。



「どうしますかね、これから」

 ジョーの言葉と共に、コヨミは体の左半分が少し沈むのを感じた。

 この野郎!女子高生が寝ているベッドに腰掛けやがったな!?

 真相を確かめるべく、コヨミは寝返りをうったふりをして顔の向きを変えた。薄っすらと目を開くと――よかった――すぐ隣に、コヨミと同じく寝ているボーイフレンドと、上着を脱ぎ、カッターシャツ姿になったジョーの背中、そして大きな窓ガラスに体をあずけ、腕を組んで思案顔になっているマッケンジーが目に入った。

 コヨミは貧乏なので実物を知らないが、ここはスイートルームとかいうやつではなかろうか。そもそも、コヨミとボーイフレンド二人が横に並んで寝られるという時点でベッドが田んぼみたいにでかいわけだし、ジョーの背中が異様に大きく見え、マッケンジーの姿がオウムのように小さく見えるのだから、部屋そのものがべらぼうに広いはずだ。

 しかし、部屋の大きさよりももっと驚くことがあった。

 コヨミが起きていることに――背中に、熱と冷気が一緒に走る――マッケンジーが気付いた。多分、いや絶対、目が合った。それなのに、彼はチョコムースのようにしっとりとまぶたを閉じ、一円玉の幅ほど小さな揺れで、首を左右に振った。その動作を見てジョーが振り返ろうとしたのがわかったから、コヨミは慌てて寝たふりに戻った。

「いずれにせよ、彼女が鍵を握っているのは間違いない。しばらくは目を離さないようにするしかないだろう」

 マッケンジーはなにも見なかったかのように、さっきまでと同じ声色で話した。

 コヨミ自身が鍵なのか、それとも鍵を握っているのか、違いはよくわからなかったが、とにかく今は寝ている時なのだ。そう言われた気がして、コヨミはぴっちりとまぶたを閉じた。



 その夜一番の風が吹いた。

 寂しい、カラッカラに乾いた風だった。

 傘の男の髪がなびく。漆黒の闇に紛れ込みそうな黒髪は、眉毛や耳にかからないよう、清潔な長さで切りそろえられている。

 男は試験管から赤い瞳をそらす。それを再びコートの内側にしまうと、かぐや姫でも探すように月を見上げる。おもむろに身を投げる。地上150mから地上へ、真っ逆さまに落ちて行く。

 肩から、足先から、黒いすすのような、煙のようなものが立ち上り始める。蜃気楼のように揺らめきながら、ズプズプと夜に溶けていく。傘の男は無数のコウモリに分裂する。キィキィ、バサバサ、甲高い鳴き声と騒々しい羽音が、ホテルの外壁を一気に滑空していく。



 沈んでいた左半身がぼよよん、と上下に揺れた。ジョーが立ち上がったのだ。

 彼がけたたましい足取りで窓の方へ走って行ったので、コヨミはまた薄目を開いた。

 ちょうど、コウモリの大群が窓の外を通過するところだった。

 コウモリたちは絨毯爆撃のような速度と物量で駆け下りていき、全く途切れることがない。窓の外にかかった漆黒のカーテンのようだ。コヨミは目を開き、なんなら頭を持ち上げて凝視したのだが、マッケンジーもジョーも気付かなかった。彼らも、コウモリの異常行動を食い入るように見つめていたからだ。

 全てのコウモリが通過した後、今度ははるか遠くに、先頭のコウモリが舞い戻ってきた。

 月に向かう黒い道のようになって、彼らは飛んで行った。




 そこは控え室のような場所だった。

 照明は控えめで薄暗く、彼女が落ち着いて準備ができるよう、小型の望遠鏡や天球儀といった彼女の私物もいくつか持ち込まれていた。部屋の大きさは小さな馬小屋程度だが、壁紙は白黒の花柄で、窓枠も暖かみのある木製だった。部屋の中央にはふかふかの絨毯が敷かれていて、その上に大きな揺り椅子が置かれている。揺り椅子から一番近くの壁には化粧台があり、この世界では珍しい、ゆがみのない一枚鏡が使われている。

 彼女はいら立っていたのだろうか、あるいは動揺していたのか、化粧台には青い蝶々のブローチが無造作に転がっており、床にはバラバラになった髪飾りのビーズが散乱していた。そして鏡には、揺り椅子の上で額に手を当てる彼女が映し出されていた。

「大丈夫?」

 彼女に声をかけたのは老齢な女性だった。乾燥シイタケのようにしなびた、しかし高級木材のように威厳を感じさせる声色だった。スラリと長い手足を隠すように、袖と丈が長い独特の衣装に身を包んでいた。裾の方に行くにつれて広がっており、さながら長いラッパのような形だ。頭の上には三日月のようにひん曲がった帽子をかぶっており、そこからは腰まで届く銀髪が伸びていた。シワだらけの手には長い爪が生えており、真っ黒なマニキュアが塗られていた。老女はその爪が彼女に当たらぬよう気を使いながら、ほっそりとした肩を励ますように握った。

 彼女はこめかみに手を当て、眉間にしわを寄せた。元々真っ白だった髪は、さらに病的なまでに色を失ったようだった。

「……わたしには無理です」

 か細い声をさらに細く、長くして、彼女は絞り出した。

「大丈夫、大丈夫……あなたならできるわ」

 老女は彼女の両肩を掴み、シワくちゃの顔で覗き込んだ。瞳はすでにシワの中に引っ込んでいたが、優しそうな白い光が、奥の方に見えた。

「〝死〟が迫っています。すぐそこまで」

「〝戦争〟のことも、あなたのせいではないのよ」

「本当にそうでしょうか……?わたしがこの混乱を招いたのだとしたら……?」

「そうだとすれば、民はあなたのために団結するべきだわ」

 私は、二人が中で話しをしているとは知らず、この時ちょうど部屋の戸を開けた。

 老女が彼女に優しく、それでいて有無を言わせぬ口調で語り掛けているのを目撃してしまい、咄嗟に謝罪の言葉が口をついて出た。

「――失礼しました」

 個人的な話をしていると、そう思ったのだ。

「いいえ、大丈夫よ」

 老女の言葉で私の来訪にようやく気付いたのだろう、彼女が、細い指先で揺り椅子のひじ掛けを掴み、泣きはらした顔で振り向く。

「どうしたの?」

「接触しました」私は余計な詮索ができぬよう、素早く答えた。

 彼女は夕立の中に束の間現れた晴れ空のように、喜びと悲しみが入り混じった表情かおになった。と、同時に呼吸が荒くなった。自分の中の不安を落ち着かせたいのか、首元の黒いチョーカーに手が伸びる。

 彼女の肩をさすりながら、老女が問う。

「気付かれてはいない?」

「最善は尽くしています」私は再び、素早く答える。

 彼女はチョーカーの表面をつまむように押さえつけ、切羽詰まった声で問う。

「どうだった?感触は?」

 私は、今度は、慎重に言葉を選んで答える。

「信頼は得られたと思う。懸念事項があるとすれば……あちらの世界は、影の同盟に対処できない」

 老女は、私が言葉の裏に隠した真意を見透かしていたのだと思う。おそらくは彼女も。だから努めてそれを見ないように、気付かないようにしたかったのだろう。老女は床に膝をつき、彼女の両手をしっかりと握って言った。

「まだ侵攻が始まったわけではない。それは今からあなたが止めるわ」

「いいえ、女王、わたしたちは間違えました」

「女王はあなたよ、しっかりしなさい」

「でも――」

「愛が、世界を滅ぼす愚かなものだと言うのなら、私はあなたを軽蔑するわ、影の女王よ」

 老女はしっかりとした口調で言った。その力強さは往年の姿となんら変わらないものだ。威風堂々としていた。今からでもすぐに公務に復帰できるだろう。

「怒りや憎しみで世界は繋がらない。彼らのやり方では、決して道は開かれない。あなたたちの起こした奇跡こそが唯一、世界を救うものなのよ」

 私はもうすぐで跪くところだった。それほど重みのある言葉だった。彼女に代わり、一人頷いたところ、首に下げていた明るい色の鎖がチャキリと鳴った。

 その音を聞いて、彼女はまた、泣きそうになった。

「でも、わたしは恨まれるわ、きっと」

「なら、そうならないように頑張らなくちゃ。笑顔で彼女を迎えられるようにね」

 老女は、まるで本当の孫娘を鼓舞するように微笑んだ。

 その言葉が嬉しかったのか、はたまたのしかかる重圧に耐えきれなかったのか、彼女はさめざめと涙した。

 老女の聡明な瞳がこちらに向けられる。その言わんとすることを察し、私は頷く。

 たとえ契約が切れようとも、忠誠に値する。

 そう思っていたから。

「待って」

 部屋の外へ片足を踏み出した時、私は彼女に呼び止められた。

 閉じかけた扉に手をかけ、顔を覗かせる。いつだって、これが最後かもしれないと思って、私は彼女の顔をじっと見つめる。穴が開くほど見つめ続ける。

 白百合のように凛々しく、石楠花のように儚い彼女を。

 目にいっぱい涙をためて、声は今にも壊れてしまいそうで。

 それでも、自分のことよりも愛する者たちの安寧を願っている。

「気を付けてね――〝戦争〟」

 その美しさに、私は震えた。

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