第一章 裁定の儀
その日、女王は不機嫌だった。
彼女は元からここが好きではなかった。屋内でも屋外でも変わらず飛び続けるコウモリやカラスがそもそも苦手だったし、犬猫の代わりに地面を這いずり回っているクモやムカデもそうだ。だがそれらは、ある程度無視するか、慣れることでどうにでもなる。問題なのはここの造りだ。
貴重な大理石を惜しげもなく使い、必要な高さの何倍もの天井を築き、職人の腕によりをかけさせて彫刻を施してある。それらはガーゴイルや悪魔といった、醜悪な者達を模っている。それは一旦、よしとしよう。場内の広さはどうだろうか。より多くの市民が傍聴できるよう、端から端まで、走って20秒はかかるほどのスペースが設けられている。それは唯一、ここの造りで感心するところだ。民に開かれた議場ほど、評価に値するものはない。だがその代わり――あぁ、ここが問題だ――本来裁判官が座るべき場所には、荘厳な玉座が一脚置かれているだけだ。
たった一人で裁判などできない。
たった一人で判決を下してはいけない。
しかも、裁判官でもない自分が。
彼女はそこに座ることを最後まで拒否していたが、結局は腰掛けざるを得なかった。今は、袖が大きく垂れた黒いレースのドレスをはためかせ、平民が一生かかっても触れることができないひじ掛けで頬杖をついている。
彼女は民主主義を愛していた。彼女が生まれ、育った世界には、それがあったという。完璧ではないにしろ、誇れるだけの社会システムが。
「それで」
ブンブンと、アブの大群が十も二十も飛び回っているような喧騒の中、彼女は糸のようにか細い声をなんとかひねり出し、切り出した。
場内は水を打ったように静まり返った。
コウモリでさえ、空気を読んで羽ばたきをやめ、梁にぶら下がった。
「わたしの話を聞くつもりがあるのですか、ないのですか」
集まっている者達は大きく二分されていた。
女王を支持する者、そうでない者。彼女の声に振り返ったのは、後者の一番先頭にいた男だった。
民衆の期待と羨望に満ちた眼差しを背に受けていた。たった一人で高い位置に座る女王とは、対極にいるような男だった。
見た目もそうだ。
女王は混じりけのない白髪を、ドライフラワーでできた花束のような髪留めでまとめ上げ、左耳の上には、青い蝶々のブリーチを休ませて着飾っていた。目上から見下ろしているにもかかわらず、灰白色の瞳は、慈悲と優しさ、思いやりに満ちていた。薄い唇には申し訳程度の化粧しか施さず、チークも、病人のように青白い肌を隠すためだけの最低限のものだった。白い手袋をしてはいるが、それはあくまでも細い体を隠すための苦肉の策で、民と交わる時、彼女は必ず外して握手した。
対して男は、筋骨隆々、墨のように黒い短髪を、歯向かうように逆立てていた。腕の太さだけでも女王の胴ほどある。体躯はさらに、ゴーレムの生まれ変わりと言わんばかりにでかい。鎧など必要ないと一目見てわかる。彼は食器を拭いた後の布切れのようなものだけを身にまとい、それ以外には動物の小骨でできた腕輪をしているだけだった。精悍な顔立ちをしてはいるが、それが偽りのものであると私は知っていた。
「これはこれは、失礼をいたしました、女王陛下」
男はヴィブラートの聞いた低音で答えた。聴衆の半分が、クスクスと空気を震わせた。
女王はため息をつき、姿勢を正した。
「この審議はあなたからの申し出だと記憶していますが」
「おっと、そうでしたな」
小ばかにしたような男の返事に、女王は首元の黒いチョーカーに手を当てた。努めて不機嫌さを隠したのだと、私にはわかった。おそらく、聴衆のもう半分にも伝わったはずだ。
「あなたがわたしを嫌っているのは知っています。ですがここは神聖な場です。発言には気をつけなさい」
「命じられれば――」
男は右手を体の前でたたみ、腰を折りまげた。
「応じましょう。あなたは女王だ」
しかし顔だけは、卑しい目だけは、女王を見据えたまま、ギラギラと光っていた。
女王は背もたれに体をあずけ、疑うように首を傾げ、男を見つめ返していた。しばらくその姿勢のまま黙りこくっていたが、最後は諦め、男が望むまま命じた。
「影の女王が命ずる」
女王の言葉には力がある。
主従、使命、義務、明確な力が。男も民衆も、それをわかっている。だから、誰一人身じろぎせず、誰一人呼吸の音さえ立てず、聞き入っている。他ならぬ私も。
「〝死〟よ、黙示録の騎士よ、汝の申し出により、裁定の儀が開かれた。論述には、成しうる限りの誠実な態度を」
「ご命令とあらば」
男は満面の笑みで頷き、もう一度直立不動に戻った。民衆の半分が、はやし立てるように口笛を鳴らし、拍手を重ねた。
女王は嫌悪にも似た表情で男を見下ろした。
「では手短に終えましょう」
「あなた様にはそうする権限がおありだ」
「汝の望みを」
「〝戦争〟の追放」
民衆がどよめいた。
半分だけではない、裁定の儀に出席していた全員が、まるで予定外の死刑宣告を受けた囚人のように息を飲み、そしてすぐに口をつぐんだ。
女王自身、動揺を隠せずにいた。彼女は手すりをぎゅっと握りしめ、こめかみにうっすらと一筋の汗を流していた。
「陽の世界とは不可侵の条約がある。それを守るためには、我らの団結が必要です」
「同じく忍耐も、特にあなたには」
か細い声が、肩を揺さぶられたようにさざ波だっている。
男は勝ち誇ったように声を弾ませ、民衆の方へ振り向き、品評会で作品を紹介する時のように、彼らの姿を手の平に乗せる。
「無論、我ら全員に、そうです。そのためにも、〝戦争〟は排除すべき存在と進言します」
「あなたの言いたいこともわかるわ」
「ならば寛大な措置を」
「わたしはみなに対して寛大でなければなりません」
「お認めになれない?」
男は方眉を吊り上げる。
「〝戦争〟を認めれば、あなたの立場がなくなってしまう……そうではありませんか?」
女王は沈黙した。
白灰色の瞳で、男をじっと見つめたまま、長くながく、梁にとまっていたコウモリが我慢しきれず、飛び立ってしまうまで黙っていた。
民衆はみな、嵐があけるのを待つように、ほとんど祈るように待っていた。
キィ、とコウモリが鳴いた。バッサバッサと羽ばたく彼らをふと見上げた後、女王は語った。
「その言葉、わたしの身を案じてのことと受け止めましょう。しかし、確証のないことで身を滅ぼすでない、死に最も近い男よ」
「慈悲深いお言葉……今はただ感謝を」
男は怒る素振りも見せず、再び腰を折り曲げた。
「汝の申し出は認められません。これに異議申し立てがあるならば、審議に耐えうるだけの証跡を提示し、三人以上の後見人を立てよ」
「ふむ、では一つだけ、よろしいですか」
「発言を認めます」
「偵察の許可を」
男は体の後ろで手を組むと、のっしのっしと、我が物顔で議場を練り歩いた。簡素な布を引きしぼっただけの男の靴は、大理石の床を踏みしめても嫌な音一つ出さなかった。
静寂を味方につけた男の後姿を、民衆の半分が恍惚とした表情で追っていた。
「〝戦争〟に罪がないのであれば、私が抱いた疑念がいったいどこから来たものか、探らねばなりません」
「陽の世界に踏み入るつもりですか」
「証跡を揃えよとおっしゃられたのは女王陛下です」
女王はひじ掛けに右肘を立て、額に手を当てた。
もう限界だ。しかし、私には発言権が無い。このありさまを見ている他ないというのは、非常に無力なものだった。
「わかりました」
女王はため息をついた。
私には、ため息とともに諦めも吐き出したように見えた。
「ですが必要な日数のみです。長居は無用です」
男は満足がいったと言わんばかり頬を緩め、民衆の半分に向かって拳を――女王の手前、控えめではあったが――振り上げた。
民衆はまた湧いた。
これにて閉廷。合図と言わんばかりに、カラスが鬨の声を上げる。
議場内にいたコウモリたちが一斉に飛び立つ。
女王は玉座を降り、議場の裏、控え室へと消える。
私は急ぎ、彼女のもとへ向かう。
男が、ずっと、私の背中を目で追っているのがわかる。ヘビに睨まれたカエルというのは、このような心持ちでいるに違いない。常に背中がひやりとして、急き立てられるように心臓が早鐘を打つ。
間違いない。
最初からこの約束を取り付けるための申し立てだったのだ。
女王は最後まで不機嫌だった。
「なぁにしてんの、お前」
極めて不躾な「おはよう」が後頭部に当たっても、コヨミは窓の外を睨み続けた。
というより、考え事で頭がいっぱいで、この世で起きているそのほかのこと全てが、今日のアリさんの予定くらいどうでもよくなっていたのだ。
「なぁ」
「ぅわっ!」
右耳に吐息がかかって、コヨミは掴んでいた窓のサッシを危うく凹ますところだった。
いや、凹まんけど、うち、ただの女子高生じゃし。と彼女は否定したが、かんしゃくで施設の襖を破ったり蛇口を壊したのは彼女だと聞いている。
「なにするんじゃあいきなり!」
寝癖がピンピン生えまくった髪を引き連れて、コヨミは振り返った。
そこには、コヨミのボーイフレンドがいた。面長で、目も細長くて、高校生男子にありがちな、不揃いな髭がちょびっと生えていて、そして、馬のたてがみみたいな髪からは、コヨミと同じく寝癖が生えていた。よれよれの寝間着は、コヨミが着ているものと同じくくらい古めかしく、しみついた匂いが昭和臭い。
お互いの寝癖寝間着が見える時間帯から一緒にいるという事実が示す通り、彼もコヨミと同じく、ここの施設に預けられた身だ。様々な理由で親元で暮らせず、施設で寝泊まりし、学校にもここから行き、ここに帰ってくる。コヨミとボーイフレンドの場合、学校以外に行くことの方が多いのが少々問題だ。
「いや、お前が何してんだよ」
コヨミが叫びあげたというのに、彼はひょうひょうとしていた。声変わりはとうに済んでいて、どう聞いても四十代後半の疲れ切った係長のような声色で話す。コヨミ自身、彼が驚いたり怒ったりしているところを見たことがないと言う。若いのにたいしたものだ。達観するには数十年早い気がするが。
「確認しとんよ、ストーカーがおらんかどうか」
「ストーカー?」
「はは、なにそれウケる、そんなやついんの」
「どーゆー意味よ」
無事に朝の支度を終えたコヨミは、隣を歩くボーイフレンドに突っかかった。今日歩いているのは珍しく通学路だ。彼の方が十センチほど背丈が高いものだから、すでに削れまくっているローファーのつま先をさらに犠牲にして、顎に頭突きを食らわせるつもりで飛び上がった。
ちなみにコヨミは、彼のことをよくヒョロガリ、と評していた。
「いやー?物好きなやつもいるんだなって」
コヨミの蒼色の頭を片手で押し返しつつ、ボーイフレンドは感心したように言った。
「あぁ!?」
コヨミはもう一度頭突きを試みた。
電信柱や一時停止の標識、信号機を通過していく間、コヨミはもう一度昨日の夕刻について、すなわち黒傘の男について熱く説明した。徐々に学校に近づき、学生の数も増えつつあったため、声のトーンは抑え気味にした。
「もうすぐ十年の付き合いになるだろー?オレが言うんだから間違いねって、お前をストーカーするやつなんて……」
最後の一言が「いねぇ」なのか、「いるわきゃねーだろ」なのか、コヨミにはわからなかった。それを言う前に、ボーイフレンドがこらえきれずに笑いだしたからだ。
「ぁによ!うちにはストーカーする価値なんて無いってわけ?」
当然、遺憾の意は表明した。
「うわぁ、なんか叫んでるよ」
「野蛮人……」
「しっ、目合わせちゃダメ、貧乏が感染るよ……」
乙女の最終絶対防衛ラインを主張しただけだと言うのに、コヨミの敵は今日も現る。
振り返ると、我らが母校のみすぼらしい校門のたもとに、三人の女子高生がたむろしている。
右から順にサル、ブタ、カッパ。にそれぞれ似ている。三蔵一行とコヨミは呼んでいる。コヨミのいる施設では夕方のニュースの後、休憩室のブラウン管テレビに録画アニメやドラマが流れることがままあり、そこから着想を得たのだ。見たのはもちろん西遊記だ。香取慎吾が主演のバージョンの。
「ちっ、あぁん!」
「おっ、バカ、お前、コヨミ――」
目玉おやじが誕生する勢いで目をひん剥いたところ、ボーイフレンドが止めに入った。が、しかし、怒りの導火線に一度火がつくとコヨミは止められない。周りに登校中の学生が多数いるにも関わらず、三蔵一行に向かって中指まで立てた。僕の母国では頼むからやらないで欲しい。銃で撃たれても文句言えないからね。
「目ぇ見て言えねぇのかよブぅス!」
だが、これこそ三蔵一行の思うつぼだったのだ。
三人はその場にいた目撃者全員にたっぷりと見せつけるように、AV女優も真っ青の――なぁ、もう少し表現をどうにかできないのか――演技力で泣き始めた。
「うっそ、信じらんない!」
「日陰さんがまた暴言はいた!」
「えぇ~ん!あたし、ブスじゃないのにぃ!」
あぁそうだな、お前はブスじゃない。ブタだよ。そう言ってやるつもりだったが、残念ここでゲームオーバーだ。
誰がチクったのか知らないが、中堅どころの男性教員が一人、校庭を横切ってこちらに来る。
ブス――ぢゃなかった――ブタは泣きやみ、袖の下で笑みを浮かべながら逃げていく。
「なんだなんだ?また日陰か?髪も染め直せと言っただろ」
「だぁかぁらぁ……!地毛です!」
「お前、まだそんなことを――」
「はいはいサーセン!」
いちいち説明する気力も湧かなくて、コヨミは白旗を上げた。
「なーんで我慢できないかね」
「うっせ」
放課後、校舎の一角、廊下の窓際に二人はいた。
グランドでは、野球部、サッカー部、それに陸上部、みな、めいめい好きなことにいそしんでいる。羨ましい限りだ。コヨミはランニングシューズ一足だって買うことができないのに。
「ストーカーにはビビり散らかしてたくせに」
「はぁ?じゃああんた、前からゾンビ、後ろからストーカーが迫ってきたら、どっちに行くわけ」
コヨミは履きつぶした上履きで、ひび割れた廊下のタイルをとんとん蹴った。
ボーイフレンドは「そうだなぁ」と少し考えた後、
「そりゃストーカーかなぁ、ゾンビになるのはゴメンだわ」と答えた。
「前からブス、後ろからストーカーなら?」
「その選択肢ならブスだな」
「そーゆーこと」
「自分より目下の者には強く当たりますって?人間様の悪いところ、もう少し出し惜しみしたらモテんじゃねーの?」
「出し惜しみしたら助けてくれんのかよ、誰かが」
正論は嫌いだ。コヨミは不貞腐れてお天道様を見上げる。もう一度、上履きでタイルを叩く。
「うちらが泣いたって、誰も見向きもせんじゃん」
「ま、そりゃ言えてるがな」
ボーイフレンドはいつも、最後にはコヨミを肯定してくれる。
傷のなめ合いだって、そんなことは分かっている。でも、こうやって否定しない人が傍にいてくれる。それだけで心地がいい。
普段、味方してくれる人は一人もいない。教師も同級生も保育士どもも、なぜかみんなしてコヨミの敵になる。
貧乏なのが罪なのか?
しかし、それを選んだのはコヨミではない。
だとしたら、そもそも生まれたことが?
それすら、コヨミには選択権がない。
ではいったい、どうすればみんな満足するのだろうか?
コヨミが死ねば、みんな喜んで祭りでもぶち上げてくれるのだろうか?神輿でも持ち出してくれるだろうか?もっとも、やつらのために死んでやる気は毛頭ないのだが。
「クスクス、また指導だって」
「ホンット、懲りないよね~」
「ゔぅ!」
三蔵一行がこれ見よがしに後ろを通過するので、コヨミはもうすぐで殴り掛かるところだった。
「がーまーん」
ボーイフレンドに腕をポンポンされて、コヨミの心臓は大人しくなった。犬か私は、と突っ込みつつ、教室からも靴箱からも遠い生徒指導室の前をわざわざ通った三人に対してもれなく激しい殺意を覚えた。
あーあぁ、今日の晩ごはん何かな、カレーかな、と関係ない話題で脳内会議のお茶を濁しつつ、再び窓の外に視線を逃がした時、コヨミはしゃっくりの逆再生のような悲鳴をあげた。
「うっえ、マジ!?」
来た、あいつだ。
闇夜を切り取ったような、大きな真っ黒い傘をさした男だった。
グランドのど真ん中で、一人たたずんでいた。
夕陽を背に受けて、大ききな影だまりを作って突っ立っている。
昨日と同じだ。
傘が本来作る影よりも、はるかに大きな影ができていて、男の全身をすっぽりと包み込んでいる。そして、コヨミの方を見ているのがわかる。
この時代に、教師にも用務員のおっちゃんにも止められず、学校の敷地内に入ってきたというのだろうか。
野球部も、サッカー部も、陸上部に至るまで、誰一人として男の存在に異を唱えるものがいない。ノックが千本に達したと叫ぶ監督、プレスをかけろと言うコーチ、あと一周だと告げるぶりっ子のマネージャー、それはたまにしか登校しないコヨミにもわかる、よくある放課後の光景だ。
「なに、どしたの」
「ほ、ほら!あれ!朝言った、ストーカーの……!」
コヨミはボーイフレンドの肩をバンバン叩いて引き寄せた。彼は朝と同じように額に手を当て、バードウォッチングを楽しむおっさんよろしくグランドをぐるりと見回したが、すぐに諦めた。
「なぁにが、いねーじゃん、どこにも」
「はぁ!?何見てんのよ、あそこに――」
グランドを指さそうとして、コヨミは血の気が引いた。
「ウソ……おらん……」
人差し指は行き先を失ってうろうろと空中をさまよった。砂ぼこりも、足跡さえも残さず、傘の男は影も形もなく消え去っていた。そう、文字通り、影すら残さず、だ。コヨミは眼をしばたいた。手の甲で擦りもした。しかし、どれだけ擦っても、スクラッチの宝くじのように結果が表れたりはしなかった。
千一本目のノックを打つ監督、プレスをかけた選手をねぎらうコーチ、お目当ての男子生徒にタオルを渡すマネージャー、グランドにあるのはいつもの放課後だけだった。
ごろごろ、とくるぶしが震え、コヨミは飛び上がった。
「ひぃ!?」
振り向いた先にいたのは、ドアを掴んだまま怪訝そうに立ちすくむ、生徒指導の橘先生だった。時代遅れな角刈りと、時代遅れなチェックのポロシャツ姿の先生で、時代遅れにシャツインしており、時代遅れに生徒をよく怒鳴る。コヨミがこの学校で一番苦手とする敵だ。
「どうした日陰」
橘先生は時代遅れな四角い眼鏡をくいっと上げて、疑ぐるような視線を向けた。コヨミがまた何かしたのではないかと、よくない想像をしているのは明らかだった。
ボーイフレンドの背中にかじりついていたコヨミは、恥ずかしくなってそそくさと降りた。
「いえ……なんでも……」
「ほら、入れ」
先生はグランドの方をチラリと見たが、すぐに生徒指導室のドアを閉めた。
生徒指導室は、普段と様相が違っていた。
生徒指導室の普段の様相を知っている時点でいささか不安を覚えてしまうのだが、コヨミにとってここはホームグランドのようなものだ。
生徒がリラックスして話せるよう、一般企業の応接セットのようなものが――つまるところ、ひざ丈の机と、それを挟んでふかふかの二人掛けソファが二脚――置かれており、窓際には花瓶に生けた黄色いガーベラで彩りを加えている。これは橘先生ともう一人いる女の先生、小川先生の趣味だそうだが、ここまでがコヨミの言う普段の様相だ。
当然、花瓶の花は季節折々変わるとして、今日はもう一つ、普段と異なる箇所があった。
コヨミが座るはずの応接セットに先客がいたのだ。それも二人も。
「初めまして、コヨミ・ヒカゲさんですね」
最初に声を上げたのは初老の男だった。コヨミから見て右手側に腰かけていた。ソファから腰を上げ、モスグリーンのスーツのボタンを締めなおしていた。どうみても日本人ではない。少し片言だし、金髪だし、瞳がコヨミと同じく青い。縦にも横にもだいぶん大きい。日本人の成人男性とは骨格からして違う。からすみ色のネクタイがスーツによく映えている。この着こなしも、日本人のおっさんには到底出来そうもないし似合わない。
もう一人、コヨミから見て左手にいたのが僕だ。当時、年は二八、身長6フィート5インチ、一応鍛えていたから、体重は210ポンドほどあったかな。黒目黒髪だが生粋のアメリカ人。鼻だけは高い。おばあさんが日系人だった。その日は紺色のスーツに赤色のネクタイをしていた。僕も同じように立ち上がり、うら若き乙女を爽やかハンサムな笑みで出迎えたのだが、どうやら、コヨミには不信感を与えてしまったらしい。
「だっ……誰です、か……」
コヨミは毒蛇入りの箱にでも近づくかのように、体を半身にしてじりじりと足をスライドさせた。
ごろごろ、と扉を閉める音がして、橘先生が中に入ってきた。
「お二人はFBIの捜査官だ。お前に聞きたいことがあると――」
「えっ!?FBI!?うううううち!タバコなんかすっとぅえません!」
コヨミは両手をしっちゃかめっちゃかに振り回した。
「は――っ?」
「え――っ?」
金髪の捜査官と、黒髪の捜査官――おや?――が、ほぼ同時に反応した。
「なんだ日陰、お前タバコ吸ってるのか?」
橘先生が腰に手を当て、呆れたようにため息をついた。顎を引いて、眼鏡の隙間から上目遣いで睨んでくる。コヨミは負けじと睨み返す。
「はぁ?!吸ってねーし!」
「今吸ってるって、言ったようなもんじゃないか」
「FBIって、コナンで出てくるやつじゃん!そんなん来るとか、聞ぃーとらんし!」
「なんでいちいちお前に言わにゃならんのだ。ほら、タバコ、出せ」
「だぁから!吸っとらんって!」
「あのですねぇ、未成年者の喫煙ごときで我々が動くわけないでしょう」
黒髪の捜査官が心底どうでもよさそうに会話に入ってきたが、この辺りからコヨミは聞いていなかった。
「そんなことより、大事なことが――」
「お言葉ですが、生徒指導の観点からすれば、非行を取り締まることこそ――」
橘先生と捜査官たちのやり取りが、校長先生のお話よりどうでもよく、町内放送より遠くに聞こえる。
コヨミはもはや、大人たちのどうでもいいプライド合戦を鑑賞している暇がない。
いるのだ。
いるのだ。また、あいつが。
今度は生徒指導室のすぐ外だ。窓のすぐ外に、真っ黒な傘をさして突っ立っている。
今回は見えた。男の顔が。
真っ暗な影の下、影と同じくらい暗い色で、眉にかかるくらいの髪、はっきりとわかるシャープな顎のライン、病人かと思うほど青白い肌、それとは対照的に口紅でも塗ったかのように真っ赤な唇、そして、コヨミを捉えて離さない、血走ったように赤い瞳。
「ぅっ……!」
本能的に足が下がる。体がのけぞる。震え出す。
今すぐここから逃げ出せと、頭の中でガンガン警鐘が鳴る。
男は瞬き一つしない。睨むわけでも、蔑むわけでも、孫に会えたおじいちゃんのように緩むわけでもない。赤い瞳は、まるで意思のないロボットのように無機質に、じっとコヨミを見つめ続けている。それなのに、きっと、コヨミがどこまで逃げても、あの瞳は後を追い続けるのだろうという確信があった。絶対に逃がさないと、ただならぬ意志の力を感じた。
「いやああぁぁぁぁああああああ!」
コヨミはこらえきれなくなって叫んだ。叫んで、一目散に逃げだした。
「あっ!こら!」
「待ちたまえ!」
「日陰!」
バチーン!と閉じた扉の向こうで、先生と捜査官が慌てていたが、コヨミの耳にはもはや届かない。
「おぉ!?コヨミ?なんで――」
グランドをぼけっと眺めていたボーイフレンドが、顔だけで振り向く。
「ぁあいつ!すぐそこまで入って来てんの!」
コヨミは走りながら顔だけで振り向く。
「あぁ!?ストーカーが?いなかっただろ!」
「ぃるんだってえぇぇーーーー!!!」
靴箱でローファーに履き替える時間も惜しい。そんな暇があったら隣駅まで逃げれる。焦るコヨミの脳内では、東大生でも導き出せない超理論がめくるめく科学方程式により導き出され、承認の議決をすっ飛ばして採択されていた。
上履きのまま昇降口を出ると、なんと左側、校舎の外周を、傘の男が舞妓さんのようにしずしずと歩いてくるではないか。
「ぅぅう嘘ウソうそ嘘ウソうそ嘘ぉ!?」
飛び上がりながら走り、走りながら叫んだ。たぶん、今、人類は初めて空中を蹴った。その様子も、傘の男は寸分たがわず目で追っていた。
もう、100%ガチの絶対マジで間違いない。あの男はストーカーだ。
「お、おい!日陰!待ちなさい!」
橘先生は校門を出たところでギブアップしたようだった。走る足音が一人分減って、代わりにぜえぜえと、痰のからんだ呼吸音が増えた。
後ろをチラリと振り返ると、FBI捜査官二名が、さすがのバイタリティで追って来ていた。その後ろを走るボーイフレンドが、コヨミと同じように顔を左側に向け、コヨミと同じように飛び上がっていた。
「……マっジかよ――コヨミ!」
「待ちたまえ!」
大通りに出たところで、コヨミはとうとう捕まった。喜んでいいのかわからないが、コヨミの腕をつかんだのはストーカーではなく、金髪のFBI捜査官だった。
「うっ……離っ……せ!」
「落ち着きなさい!我々は君を捕まえに来たのではない!」
金髪の捜査官は、その老齢な瞳と説得力のある声色で語り掛ける。
危うく信じてしまいそうになるコヨミだったが、いかんせん今はそれどころではない。タバコよりも補導よりも重要な、命の危険が目の前まで迫っているのだ。
「知るか!警察と一緒じゃろお前ら!信じられんわ!」
大通りの反対側を見る。歩行者用信号が点滅している。買い物帰りのおばさんや、下校途中の女子生徒が、横断歩道を小走りで渡っている。
振り返る。ちょうど、ボーイフレンドが黒髪の捜査官を追い抜かしたところだったがしかし、その後ろから、黒い傘の男が、幽霊のようにスーッと滑って近づいてくる。等身大ルンバだ。等身大ルンバだあんなん!怖すぎる!
「違う!我々は日本警察とは関係ない!」
「じゃったら先に!あのストーカーをなんとかせえや!昨日からずっと追われて――」
「コヨミ!」
「うわっ!」
ボーイフレンドがソニック・ザ・ヘッジホッグのように回転しながら突っ込んできて、金髪の捜査官は画面外に消えた。
「こら!君ぃ!」
黒髪の捜査官が遅れてたどり着いたが、ボーイフレンドはアメフト部顔負けのタックルでこれを押しとどめた。
「逃げろ!早ぁく!」
うん!というコヨミの返事は、背後から来た轟音にかき消された。
大砲でも撃ったような、すぐそこでガス爆発でも起きたような、日常生活で絶対に起きてはいけない音だった。
「え――」
コヨミは振り返る。
自分でも制御できないほど速く動いたのか、それとも、周りの世界が一斉に遅くなったのか。蒼い髪が視界にへばりついて離れない。
「Oh!God!」
FBI捜査官二人が、コヨミのことを放り出して大通りの交差点に向かっていく。コヨミは右手で髪をかき分け、よろよろと歩いて行く。
キーン、と、耳鳴りのようなものがずっと耳の中でこだましている。太陽が傾き始めたせいか、まぶしくてよく見えない。
びちゃ――水たまりを踏んだ時と同じ音がして、コヨミは視線を落とした。
変だ。
水たまりが、赤い――コヨミの上靴を、じわじわと、赤い色で侵食していく。
赤い水の出所を見ると、砕けたココナッツのようなものが転がっている。薄い茶色の皮で、もこもこの毛みたいなものが付いていて――
「あっ」
ココナッツぢゃ、ない。
そう思った瞬間、ミュートを解除したスマホのように、急に音が戻ってきた。視界が開けた。
ファンファンファンファンファンファンファン…………けたたましいラッパのような音を鳴らしているのはトラックだ。高速道路でよく見るような巨大なトラックが、交差点のど真ん中に止まっている。その鼻先は、誰かが殴りつけたようなへこみがいくつもあって、その全てに、ペンキをぶちまけたように真っ赤な血がついている。
「大丈夫か!」
「おい!しっかりしろ!」
捜査官二人が、倒れた人たちを懸命に介抱している。周りにはすごい数のやじ馬が集まっていて、その中から、何人かが走ってくる。みんな、てんでバラバラの方向に走っていく。
一人ではない。三人も四人も、交差点の中に転がっている。目玉が飛び出して、横断歩道の縞々一つ先に転がっている人、両手両足が折れ曲がって、別々の方向を向いている人、買い物袋の中身と腸が一緒くたになってつぶれている人――恐るおそる足元を見ると、それはコヨミと同じ制服を着た女の子だった。コヨミが踏んでいる赤い水たまりは、彼女の身体からこんこんと湧き出る血だまりで、それを作っている主は、アスファルトにうつ伏せになったまま、ピクリとも動かなかった。
「シッ、ししし――」
――死んでいる。
「マジかよ」
ボーイフレンドが後ろでつぶやいている。その声を聴きながら、コヨミはその場にへたり込む。
呆然としていた。
今自分が何をしていたのか、何をするべきなのか、一切合切がわからなくなっていた。
轢かれたのは、地面に転がっているのは、コヨミと無関係の人たちだ。せいぜい、同じ学校の子が一人混じっているくらいで、でも、この子だって、背格好も顔も名前も知らない。
それなのに、こんなに苦しい。
喉の奥、肺の入り口を見えない誰かにきゅっと絞られたみたいだ。息苦しい。事故の衝撃で泣き出す子や、血を見て上がる悲鳴、スマホが焚くフラッシュの光、ものすごい情報量がどっとなだれ込んできて、処理が追い付かない。倒れている人を助けなくちゃいけない気がした。そうしている人たちもたくさんいた。でも、自分は何もできない。立ち上がることさえできない。
靴下やスカート、パンツに至るまで、赤い水たまりを吸収しているのが分かったが、それすら別人の、自分ぢゃない誰かの身体に起きていることだと、どこかで俯瞰している自分がいる。
「ダメだ」
「やむを得ん、日本警察に連絡を――」
FBI二人が話し込んでいる最中、トラックの運転席がギィ、と開いた。
運転手と思しき男が、高いたかい運転席から、梯子を下りるように出て来た。灰色のつなぎを着て、キャップ帽を目深にかぶった男だった。冬だからか、黒いネックウォーマーのようなものをつけていて、顔はよく見えなかった。軍手のような手袋もしていた。
運転手は歩き出し、どうやらコヨミの方へ向かって来ているようだった。
しかしなぜか、ピタリと立ち止まった。
ちょうど、トラックの陰と、日向の境目だった。
運転手は少し考え込むと、付けていた軍手を外した。人差し指をぴんと立て、針に糸でも通すかのように、ゆっくりと慎重に日向の方へ差し出した。
熱したフライパンに水を落としたように、ジュワッ!と熱い音がする。水蒸気のような煙も上がる。音の出所も、煙の出所も、男の右手、人差し指の先端だ。夕陽に触れたところが、高温のガラスのように黄色く光り、作りかけの風鈴のように膨れ上がっている。
「おっとぉ……やっぱりダメかぁー……」
耳にへばりつく猫なで声で、運転手はつぶやく。不必要に語尾を伸ばす。
トラックの周りにあるいくつもの死体、今まさに懸命な蘇生を試みているFBI捜査官や行きずりの人たち、男はそれら勇気ある人々を気にも留めない。自分の右手を顔の高さに持ち上げ、水膨れになった指先を、工芸品の採点でもするようにくるくる回して眺めている。
なに、してるの……コヨミは言葉にならないつぶやきを漏らした。
運転手のキャップ帽のツバがひょい、と左を向く。視線の先には、自らが轢いた男性と、その止血に奮戦する若い女性がいる。彼女も買い物帰りなのだろう、自分のマイバッグから転げ落ちたトマトやレタスには目もくれず、目の前の命を救おうとしている。運転手の男には気付いていない。
「そうら、出番だぞぅー」
男は火傷していない方の指を咥え、口笛を吹いた。
羊飼いが牧羊犬を呼びつけるような、端的で鋭く、優しさのかけらもない吹き方だった。
何かとてもよくないことが起きる合図だと、コヨミは直感した。
そしてそれは、最悪の形で当たった。
口笛を聞いた途端、倒れていた男性がピクリと動いた。
AEDなど使っていないのに、肘から先が折れているのに、右手が確かに跳ねた。
止血のために傷口を押さえていた女性が、何事かと手を離した次の瞬間、折れていた右手が突然グリン!とひっくり返り、女性の頭を直撃した。
「あぁっ!」
女性の悲鳴に気付き、金髪の捜査官が振り返る。
彼はスマホで誰かと通話していたが、男性が動き出したのを見て素早くしまい、右手を腰の後ろに当てた。
「アガガガガガガガ……バガガガ」
男性の手足がガクガクと震え出し、ゴリュゴリュゴリュ!と音をたてて立ち上がった。まるで糸に引っ張られた操り人形のように、重力を無視した動きだった。
「Holly……」
「Shit!」
FBI捜査官二人が、何事かと目を見開く。
動き出した男性の目は虚ろで、左右の視線がてんでバラバラの方向を向いている。口は開きっぱなしで、よだれと血が混ざったものが垂れ流しになっている。よたよたと歩く男性だったものを、その場にいた全員が息を飲んで見つめる。
「だっ……ダメですよ、動いちゃあ……」
介抱していた女性が、それの肩に手をかけた。
「ヴぁああああああ!」
それが合図だったかのように、それは身の毛もよだつ咆哮を上げた。女性にとびかかり、突然肩に噛みついた。
「い!いやあーっ!」
まるでフライドチキンにむさぼりつく空腹の子供だ。それは一心不乱に女性の肩を食べ始めた。女性は絶叫し、その肩からは間欠泉のように湧きだす鮮血と、ぐちゃぐちゃと筋肉が破れる音、バリバリと骨が砕ける音が飛び出していた。
尋常ならざる事態に、黒髪の捜査官が拳銃を引き抜いた。
「Hey!ジョーッ!落ち着け!」
片手を腰に当てたまま、金髪の捜査官が制止する。
黒髪の捜査官は拳銃を構えたまま素早く近づき、それの背中を蹴飛ばした。それは女性の肩肉を噛み千切って吹っ飛び、地面でめちゃくちゃに転がると、再び上半身から起き上がった。
「止まれ!止まらないなら撃つ!」
警告の言葉とともに、銃口が向けられる。それは右肩を少し下げ、動きを止める。考え込むように。
ジョーの言葉を聞き入っているように、コヨミには見えた。
しかし――
「ゲアアアアアアアアアアアアアアアア!」
それは突然走り出した。ジョーが反射的に拳銃を放った。コヨミも、周りにいたやじ馬も銃声の恐ろしさに身をすくめた。ドラマで見るようなパンパン乾いた音ではなかった。鼓膜が破れそうになるほど大きく、胸骨が震えるほど重たかった。
だが、銃声よりも恐ろしかったのはそれだった。
右肩に銃弾が命中したにも関わらず、それは止まらなかった。
「ぐぅぅぅううううう……ぐあああ!」
「What!?」
わずか数秒ひるんだだけで、すぐに走り出した。驚くジョーを跳ね飛ばし、でたらめな歩幅でコヨミの方へ走ってくる。
「なんだよ、ありゃ!」
やじ馬の中から恐怖の声が上がる。それは訳の分からないことを叫びながら、食い破った女性の肉片をまき散らして走る。狂ったやじろべえのように顔がぶんぶん揺れるのに、コヨミの方へ一直線に来る。折れた右腕と、まだつながっている左腕を機関車のように振り回して、どんどん迫ってくる。
「ひ、ひえぇ……」
コヨミは血だまりの中でもがく。試し切りするはさみのように太ももを左右に動かしたが、それが精いっぱいだ。腰が抜けて立ちあがれない。力が入らない。
「おい!コヨミ!」
誰かの腕が、左ひじに引っかかる。コヨミはUFOキャッチャーの景品のように引っ張り上げられる。さっきまでコヨミがへたり込んでいたところに、それが頭からつんのめる。そこに転がっていた、同じ学校の女の子の死体に倒れ込む。
「逃げるぞ!」
助けてくれたのはボーイフレンドだった。彼がこんなに切羽詰まった声を出すなんて、コヨミは知らなかった。
ボーイフレンドは、機嫌の悪い馬を引っ張っていくのと同じように、もたつくコヨミの手を引いて走る。学校への道を逆走する。でもコヨミはお礼の返事も言えない。自分を襲おうとしたそれから目が離せない。女子高生の死体に覆いかぶさったまま、ピクリとも動かなくなったそれから目が離せない。ボーイフレンドに引きずられるように、がに股でなんとかついて行く。
「アグ……アグアグアググググググ……」
それが、女子高生の後頭部に何度も口づけするように震え出す。呼応するように、女子高生の死体がガクガクと動き出す。
もうイヤじゃ、もうヤメテ、これ以上は――そう願うコヨミを裏切るように、それが起き上がる。つられるように、女子高生の死体がゆったりと体を起こす。彼女はつぶれた頭をフクロウのように180度後ろに捻る。破裂した眼球が、こちらを見る。
コヨミと目が合う。
「んうぎゅぁあぁあぁあああああ!」「ヴァアアアアアア!」
それらは一緒くたになって黄泉がえった。
それは折れた右腕を千切れんばかりに動かして、女子高生の死体は首を背中側に回したまま、後ろ向きに走り出した。
「いっ……いやあぁーっ!」
コヨミは絶叫し、一目散に逃げた。死んだはずの人間が動き出した。しかも伝染している!
脳裏にゾンビの三文字が浮かぶ。だってそうだ。そうとしか考えられない。このまま追いつかれたら、あの女の人みたいに食われるのだ。どれほど痛いだろうか、想像しただけでぞっとする。そして今度は自分も、あれらの仲間になってしまうのだ。
必死になって逃げるコヨミだったが、いくつもの足音が追いかけてくる。どんどん増えていく。バタバタバタタバババタタ――どう聞いたって、一人二人のものではない。もはや振り返ることすら怖くて、コヨミはボーイフレンドの手をつぶしてしまいそうなほど握りしめる。
「あっ――」
忘れていた。
コヨミの身の安全を脅かす、もう一つの存在を。
上履きのゴムがアスファルトに焦げ付くほどの急ブレーキをかけ、コヨミは立ち止まった。ボーイフレンドの手を思いっきり引っ張ってしまい、彼は闘牛士のマントのように空中を舞って、落ちた。
「コヨミ!?何して――」
コヨミと視線が合わないことに気付き、ボーイフレンドは振り返った。
そうだ。コヨミが見つめる先には――傘の男。
男は大きな黒傘を持ったまま、学校へ続く道を塞いで立っている。
もうすぐ落ちてしまいそうな夕陽を受け、黒傘はとっぷりと大きな影を作っている。そのせいで顔はよく見えない。だが、コヨミを待ち受けていたのだということはわかる。
騎兵隊でも相手にしているかのような威圧感だ。
怖い。
このまま進んで行ったら、確実に殺される。
その考えが、脳裏にこびりついて離れない。
「まっ――あいつか?」
こんな時に、そんなことで?ボーイフレンドがそう問いたいのだと、コヨミにはわかる。だが答えられない。スカートの裾を握りしめて、その場で足踏みすることしかできない。
「ゲエエエェエエエエ!」
後方にはゾンビの集団が迫っている。その数は4、いや5人――とうとう、トラックに轢かれた人全員がゾンビにされてしまった。
さらにその後ろから、金髪の捜査官が追いかけてくる。彼は拳銃を構え、ゾンビに狙いを定めている。なのに撃たない。手を震わせながら、目を細めて、何度もなんどもためらっては狙いなおす。
なんで撃たねーんだよクズ!
コヨミは二倍の速度で足踏みし、頭の中でののしる。
「うぅ……」
ストーカーの方を見る。黒傘は一ミリたりとも動かない。揺れもしない。
「ゲエエエエエ!」
「あぁ!」
後ろ向きゾンビが目と鼻の先まで来ている。ねじれた首の、皮膚のシワ一本いっぽんまで見える距離に来ている。
「逃げるぞバカ!ストーカーなんて!気のせいかもしれねえだろ!」
再び、ボーイフレンドに手を引かれる。
「うーっ!」
こうなったらもうヤケだ。コヨミは覚悟を決めて、ストーカーのいる方へ走り出す。怖くてとても見ていられない。ぎゅっと目をつぶり、ボーイフレンドの手だけを頼りに走る。
もう通り過ぎただろうか、それともこれからだろうか、いや、もうすぐだ、もうすぐ、ストーカーのそばを通るはずだ。真っ暗な視界の中、コヨミはそう思う。思うたび、手の平の汗がじわっと増える。心臓の鼓動が速くなる。首を亀のようにすぼめ、唇まで縮め、何も起きませんようにと祈りながら走る。
「ご安心ください。私はあなたの味方です」
すれ違いざま、傘の男がつぶやくのをコヨミは聞いた。
物陰からささやかれているような、ひどく静かな声だった。しかし、芯のある、はっきりとした口調でもあった。
コヨミは思わず立ち止まる。男の背中が見える。ようやく全身をつぶさに観察することができる。男は膝下まで届く真っ黒なコートを羽織っていて、足元には上品に黒く光る革靴が見えている。彼は迫りくるゾンビ軍団と、地平線の向こうへ消えつつある夕陽の方を見つめたままだ。
つまり、コヨミに何もしなかったのだ。
ボーイフレンドが三度コヨミの手を引く。
「動くな!」
大砲のような力強さと鋭さで、傘の男が叫んだ。
驚き、おののいたボーイフレンドがパッと手を離す。
コヨミは不思議でならない。背中にも目がついているとしか思えない。男の位置からは、コヨミも、ボーイフレンドも、見えているはずなどないのに。
「今、証明する」
夕日に向かって男は宣誓する。太陽が完全に落ちる。ふっ、と気温が下がる。コヨミも、男も、ゾンビたちも、足から伸びていた影が無くなる。地平線の下から照らす茜色の光と薄い雲、そして夜とが混じりあい、空をマーブルに染め上げる。
男は必要なくなった傘を閉じる。引き絞り、パチンと留め金を閉じる。抜刀するサムライのように、傘を腰元に構える。
「――――――――刮目せよ!」
一瞬の出来事だった。
男の姿が影のように真っ黒に溶け、一気に三メーターも五メーターも瞬間移動する。どこから湧いて出て来たのか、大量の小型コウモリが男のあとを追ってしっちゃかめっちゃかに羽ばたいている。
一番近くまで来ていた女子高生のゾンビの背後に――首を回しているので、正確には正面に――ぬっと顕現すると、男は閉じた傘をゾンビの胸につき立てた。
「グェエーーーーーッ!」
背中から内臓と肉片と傘の先端を生やし、女子高生のゾンビは断末魔を上げた。180度回転していた首ががっくりと下を向き、その足が止まる。
女子校生ゾンビを仕留めた男の両脇から、別の四体のゾンビが走って抜ける。
「ひっ」
コヨミは悲鳴を飲み込む。
さっき、傘の男に「動くな!」と怒られたことがトラウマのようになって、逃げたいのに足が動かない。
しかし心配は無用だった。
傘の男は全身を何十羽ものコウモリに分解し、紫に変わりゆく空へと飛び立った。
コウモリたちは二手に分かれると、走っているゾンビ二体にそれぞれ襲い掛かり、イネに群がるバッタのように食いつくしてしまう。あとには骨も残らず、ゾンビだったチリの破片が、夜風に流されてどこかへ飛んで行った。
コウモリたちは集結すると盛り上がって人の形を作った。くす玉から出て来た紙吹雪のように散り散りになると、その内側から傘の男が現れる。
残るゾンビは二体だ。ちょうど目の前を通過した一体を、男は傘の持ち手で引っかけ、転ばせる。ゾンビが地面で転がるより早く、傘を逆手に持ち替え、ゾンビの頭蓋骨に突き刺してとどめを刺す。
最後の一体、右腕の折れたゾンビがコヨミに手を伸ばす。視界の外からボーイフレンドが割って入る。ゾンビは折れた右腕でボーイフレンドを弾き飛ばす。
コヨミの両手が――意志など関係ない――とっさに顔を覆う。ゾンビにひっかかれ、口から悲鳴と、左腕から血が飛び出す。自分の体重が、その重心が、徐々に徐々に、後ろに倒れていくのがわかる。
ゾンビの口が、ガパリ、と開かれる。コヨミの頭に近付いてくる。視界を圧迫する。血の匂いがつん、と鼻の奥をさす。折れた歯や、裂けた頬の内側が見える。
あっ死んだ――
ゾンビの口がガチン!と閉じる。閉じるところを、コヨミはまだ見ていられる。鼻の皮膚が表面だけジャッとそげ、折れていたゾンビの歯が衝撃に耐えきれず、トウモロコシの粒のように何本か飛んで行く。
「あ……あぁあ……」
猛犬を押さえつける首輪のように、ゾンビの首に、傘の持ち手が引っかかっている。
その背後に、赤い瞳が現れる。
片腕一本で、ゾンビにひっかけた傘を握りしめているのは、ストーカーだと思っていた男にほかならなかった。
「ヴウ!ウウゥ!ウガアアァァァ!」
ゾンビは何度も何度もコヨミに噛みつこうとした。唾と血とが混ざったものが、何度もなんども、コヨミの蒼い髪にかかった。
傘の男はびくともしない。ゾンビがどれだけ暴れても、微動だにしない。ゾンビはもはや前に進むことすらできず、回し車に乗せられたハムスターのようにその場で走り続け、靴が破け、足裏の皮がずるむけになっても、まだ走り続けていた。
男の赤い唇が、柔和な笑みを浮かべる。穏やかなその表情に、もう心配はいらないのだと、コヨミは空気が抜けたようにそう思う。
男は両手で傘を握りこんだ。体を半身にして、右肩で傘を背負うような体勢を取ると、そのまま一気に引きずり倒した。
ゾンビの首がもげた。
胴と頭が泣き別れになり、首の皮膚と筋肉が、おかしの袋みたいに綺麗に裂けた。頭蓋骨に引っ張られ、血と肉の中から、首の骨と背骨が龍のように登り立ち、宙を舞った。
飛んでいく生首を見て、コヨミは気絶した。