第十一章 父の証明
コヨミはゴミを捨てるように投げられた。
固い地面と、固い壁だった。右肩と頭がぶつかり、止まったが、痛みは感じなかった。熱くなった皮膚が、悲鳴を上げた頭蓋骨がどこかにいたが、おかしいのだ。どちらもまるで、自分のものではないように、頭の斜め上の方で苦しんでいる。
歓声が聞こえる。
日本代表戦を控えたスタジアムのような、アーティストが登場したアリーナのような、狂騒的な熱気を帯びた歓声だった。
「「「「「うぉっ!うぉっ!うぉっ!うぉっ!」」」」」
たくさんの人が興奮したように騒ぎ出し、足踏みや手拍子の数がどんどん増えていく。小規模な地震かと勘違いするほどの地鳴りが起きている。
二人分の足音が近づいてきて、コヨミはそのまま足音の主に持ち上げられた。両肩を支えられ、どこかに引きずられていく。
ぼんやりとする頭を少し傾けてみると、自分を支えている誰かが、黒い傘を一緒に運んでいるのが見える。そして自分が、裁判所のような建物の中にいるのがわかった。天井のあたりに設けられたステンドグラスの周りを、コウモリやカラスが飛び回り、大理石の壁をムカデやクモが這っている。それよりも不気味なのは、ガーゴイルや悪魔を模した像が飾り付けに使われていることだ。裁判官が座る場所には一脚だけ豪華な椅子がしつらえてあり、傍聴席よりも少し高いところに鎮座している。
コヨミは玉座のような椅子と傍聴席の間をずるずると引きずられていく。ローファーのつま先が、ほとんどなくなるまで削られていく。歓声がより一層大きくなる。瞳だけを動かして見ると、傍聴席は白黒の人でいっぱいになっていた。全員の色がないこと、全員が機関銃や拳銃で武装していること以外には、陽の世界の人間と何ら変わらないように見えた。コヨミが目の前を通ると、彼らは悲鳴にも似た声で歓び、銃と銃を突き合わせてガシャガシャと鳴らした。
コヨミは玉座の方へ連れていかれる。そこには〝死〟が、屈強な男の姿で仁王立ちしている。
言われなくても奴が〝死〟だとわかる。あえて玉座にはつかず、民衆を鼓舞するように両手を何度も天に突き上げていたからだ。
玉座の左右には、残された黙示録の騎士が控えていた。右側で気だるそうに立っているのは、また新たな左腕をくっつけた〝支配〟、左側でスケバン座りしているのは、ザンドスニッカーを担いだ〝飢餓〟だ。
「影の同盟よ!」
コヨミが無理やり玉座に座らされたのを確認するや否や、〝死〟がヴィブラートのきいた低音で叫んだ。
暴走バイクの集団のように騒いでいた民衆が全員、口をもがれたかのようにさっと静まり返った。
「ついにこの時が来た――」
一転、落ち着いた口調で〝死〟は語り始める。
産毛を震わせるような、ピリピリとした緊張感が裁判所の中に流れる。
コヨミを運んで来た二人は、黒傘をぞんざいな扱いで放り投げる。黒傘はコヨミの肩にあたり、足元に転がる。そういったことすべてが、テレビの中の出来事のように、遠く見える。
コヨミは玉座の背もたれに寄りかかったまま、〝飢餓〟の太ももを見つめる。〝死〟の言葉が、ぼんやりとした頭を通過していく。
「陽の世界を滅ぼすだけの武器を、我々は手に入れた」
そうだ!そうだ!と何人かが叫ぶ。
「女王様が提供してくださった血で!血清も作り上げた!」
おぉぉ!とどよめきが上がる。
「その効果は!俺自身がすでに証明している。黙示録の騎士全員が、数日のうちに陽の光を克服するだろう――そして次は!皆の番だ……」
〝飢餓〟が聴衆に向かって満面の笑みを向け、片手でザンドスニッカーを高く掲げた。
それに呼応するように、また歓声が上がった。
「さらに!十六年間行方不明だった女王様の一人娘が!ついに我らの元に戻ってきた!」
民衆の視線が、一斉に自分に注がれるのを感じる。
しかし、コヨミはちっとも気にならなかった。
〝飢餓〟を見ていた。
〝飢餓〟だけを見ていた。
彼女がザンドスニッカーを掲げたとき、チカリと光るものがあったのだ。
それは首からぶら下げられた何かだった。
それが、いやに目についたのだ。見ていなければならない気がした。
それを見ることが――神のお告げのように――自分に課せられた義務だと思った。
『よかった――』
女王は安堵の吐息を漏らした。血がしたたり落ちる唇を、柔らかい形に変えた。
〝死〟を目前にしてまさか笑うとは思わなかったのだろう、黒いリボンをした自分が、怪訝そうに顔を歪めた。
『……なんだと?』
女王は笑みを浮かべたまま、確信をもってその言葉を口にした。
『あの子を殺したというのは、ウソね』
〝飢餓〟が首から下げていたのは、チェーンのネックレスだった。先端に何か長方形のものがついていた。彼女がザンドスニッカーを下ろしたことで、それは大きく揺れた。くるくると回転し、表裏がなんどもひっくり返った。回る度、露出激しい彼女の白い肌の上で、鈍い灰色に輝いていた。
目を凝らす。
よく見る。
それは、映画なんかで兵士が持っている――
『還ってきたのは……彼女のドックタグと――お褒めの言葉だけだ』
――そうだ、ドックタグだ。
『ぬがぁ!』
〝死〟が、黒い鎌を両手でつかみ、さらに深く押し込んだ。
刃についたかえしにより、肺がぶちぶちと引きちぎられていくのがわかる。しかし女王は、悲鳴も苦痛の声も上げない。
むしろ歓喜すら感じる。
彼の怒りが証明している。
コヨミは生きている!
『わたしを殺すということは、今すぐにでもこの世界を掌握したい――あなたの焦りが生んだ愚かで稚拙な殺人が、今この瞬間なのです』
『黙れ!』
〝死〟の演説は続く。
観衆の歓声も続く。
そのどちらもコヨミは気にならない。
ドックタグの回転だけを、食い入るように見つめる。見つめ続ける。
ようやく回転が終わりを迎え――その片面が――文字を読めるだけの速度になる。
Angela Mackenzie
英語ができないコヨミにもわかった。
このドックタグが誰のものか。
誰が、娘のたった一つの形見を、後生大事に持ち歩いていたのか。
そしてそれを、無礼にも、自らの戦利品として持ち帰ったことを。
激昂が体を突き抜けたがしかし、コヨミは叫ぶのをこらえた。
ドックタグが、まだわずか、動いていたのだ。
最後にもう一度、ひっくり返る。
コヨミはかた唾を飲んで見守る。
『可哀そうに――』
『ぁに!?』
もう一人の自分が、苛立ったように声を荒げる。
『怖いのね、恐ろしいのね』
偽りの瞳の奥に潜む、黙示録の騎士に、女王は語り掛ける。
『わからないものを、理解できないものを、そうやって拒絶してきたわ、私たちの世界も』
白灰色の瞳が震えている。
『でもそれでは、本当にわかりあえる日は来ない。いつまでたっても手を取り合えない』
鎌を持つ手が震えている。
『勇気をもって、進まねばならない時がくるわ』
女王は自ら――鎌が食い込むのもいとわず――〝死〟の方へ踏み出す。
『そうでなければ、どちらも、待っているのは破滅だけ――ゴホッ――壊して、壊されて、終わりのない破壊の日々が――最後には、あなたの立っている世界まで――跡形もなく、消し去ってしまうのよ――』
もう一人の自分は、眉間に入っていたシワをより深くした。鎌を持つ手に、くっきりと血管が浮いた。
『貴様の言葉など誰が信用するものか。貴様は光の世界のスパイだ。我らの敵なのだ』
『違う――わたしたちが神官と結んだ不可侵の条約は――』
『同族のふりをするな愚か者が!』
『うぅっ……!』
〝死〟は黒い鎌を滅茶苦茶に揺らした。ノコギリのように一度引き、再び深く刺した。
真っ白な髪を振り乱して、黒いリボンをはためかせて、声の限り叫んだ。
『私たちではない!俺たちだ!』
「神の使者を気取った神官たちに閉じ込められたあの日から!俺たちがこの世界を守ってきた!」
裁判所を揺さぶるような声で〝死〟は叫ぶ。
「俺たちがこの世界を興した!今度は俺たちが奪う番だ!のうのうと光を浴びるやつらに!屈辱を与え!苦しみを与え!〝死〟よりも惨い最後を与えてやる!」
影の同盟の狂乱が、本当に裁判所を揺さぶっている。
とまっていたコウモリとカラスが全部羽ばたき、床を這っていた虫たちが逃げ回り、場内は騒然となる。
それでもコヨミは、ドックタグを見つめ続ける。
『ここで貴様を殺し!成り代わり!そして俺の子を次期女王にすげる!それですべてが変わる!影の世界に閉じ込められた!我ら5000年の屈辱と恨みを!ついに陽の世界の住人に味あわせることができるのだ!』
『いいえ!わたしたちの子は、あなたには渡しません!』
女王は毅然とした態度で迎えうつ。
『わたしと!わたしが愛したあの人の!』
『貴様らのではない!貴様の愛した〝戦争〟の血は!ただの一滴たりとも混じっていないのだ!』
心臓は切られ、肺は破れていた。
もはや残り僅かの命だった。
それでも、コヨミのため、自らの体に鞭振るった。
『黙りなさい愚か者め!』
ドックタグの、最後の回転がついに終わる。
『血だけが、人をつなぐのではありません!』
そこにメッセージが刻印されているのが、コヨミには見える。
『愛が、愛こそが!』
コヨミは息をのむ。
『わたしたちをつなぐのです!』
I LOVE YOU DAD
民衆の歓声をかき消すほどの大絶叫が、自分の喉から飛び出していた。
絶望の淵に沈んでいた記憶が、力が、感情が、天高く昇る龍のように帰ってくる。そのすべてに身をゆだね、コヨミは叫び続ける。
同時に手が、足が、石炭をくべた機関車のように動き出す。転がっていた黒傘をつかみ上げ、コヨミは立ち上がる。
血がつながっていないからなんだ。
自らを、命をとして守ってくれたマッケンジーを思い出す。
何度死にかけても、絶対に助けに来てくれた〝戦争〟を思い出す。
そんなことを、マッケンジーが気にしたか?〝戦争〟が?
そうだ。
私も愛している。
コヨミはまぶたを開く。
もう痛くない――怖くも――影の世界にだって陽を呼べる。この力をくれたのは――
白黒だった世界が、黄金に染まっている。
影の世界に太陽が降臨する。
裁判所の外から、黄金の光の塊が落ちてくる。ステンドグラスを通って、いくつもの光の線となって裁判所の中に切れ込む。玉座をすっぽりと覆いつくし、傍聴席にも何本も届く。光が届いたところだけが、色づいて見える。
「「「ぎゃああああ!」」」
先頭にいたメンバー数名が、陽に焼かれ燃え上がった。ボッと音を立てて炎が上がった。
それを見て、集団に恐怖が伝播した。
「うわあぁぁぁぁ!」
「逃げろーっ!逃げろおぉぉ!」
「きゃああぁぁぁ!」
恐れをなした影の同盟の面々は、我先にと逃げだした。彼らの背中も燃えていた。
〝支配〟と〝飢餓〟は玉座のそばを離れ、ステンドグラスの合間が作った陰の中にそれぞれ逃げ込んだ。
〝死〟だけが、コヨミの呼び寄せた光の中に変わらず立っていた。エメラルドのような緑の瞳を光らせ、せせら笑うようにコヨミを見ていた。
右手に持っていた黒傘が、メリメリと音を立てて砕け始める。
陽の光が当たったところから、ヒビの入った卵の殻のように割れ、表面の黒がはがれていく。
〝支配〟が、〝飢餓〟が、〝死〟が、影の同盟のことを忘れて見入っている。コヨミも目を奪われる。
黒い殻がはがれたところから、真の姿が現れる。
コヨミはそれを持ち上げて、陽の光で照らす。
「イザナミ……!」
蛇のような眼を見開いたまま、〝飢餓〟が思い出したようにつぶやく。
「やはりあいつが持っていたか」
知っていたぞと言いたげに〝死〟が頷いている。
それは〝戦争〟の持つイザナギと瓜二つの剣だった。
鍔がなく、ダイヤマークのてっぺんを伸ばしたような黒い刀剣だ。刃体の中心に、より黒い色で十字の線が走っている。
肌が燃えないことを確認するように、〝飢餓〟が一歩ずつ、ゆっくりと光の中に出てくる。ザンドスニッカーが黄金に色づく。真っ白な肌から真っ白な煙が上がり、黒いビキニから露出している部分が少しずつ焼けて赤くなる。しかし不十分だ。攻勢を迷わせるような威力にならない。彼女もまた、順応しつつあるのだ。
〝飢餓〟は顔をしかめつつも、ザンドスニッカーを肩に担ぎ、歩み寄ってくる。威嚇するヘビのようにシュウゥと鳴き、舌をヂロヂロと動かす。
「コヨミ様、それをお渡しください。私の戦利品に加えられたくはないでしょう?」
明らかに自分を格下と見下している態度に、コヨミはカチンとくる。
ふざけんな、と思う。
はらわたが煮えくり返る。
どうせコヨミのことを、侵略戦争の道具か何かとしか思っていないくせに。
自分の前に立ちふさがってきた者たちを、そこらへんに転がっているゴミとしか認識していないくせに。
お母さんが目指した陽の世界との友和など、これっぽっちも考えていくせに!
そんなことさせない。
お母さんが生んでくれたから、自分はここにいる。
お父さんが守ってくれたから、自分はここにいる。
マッケンジーやジョー、たくさんの人のおかげで、自分はここにいる。
今度はコヨミの番だ。
二人が目指していたものを、こんなところで散らしはしない。
陽の世界を滅ぼさせはしない。
「自信がないんか?奪ってみいや〝飢餓〟‼」
ケンカ上等だ。イザナミを振り回し、その切っ先を向け、コヨミは宣戦布告した。
逃げる途中だった影の同盟から、再び悲鳴が上がる。裁判所のドアというドアが開かれ、散り散りになって出ていく。
撤退する者たちを一瞥もせず、〝飢餓〟がザンドスニッカーを構える。人っ子一人いなくなった傍聴席に響き渡る大声で叫ぶ。
「……お望みとあらば!」
〝飢餓〟の蛇のような瞳が、尾を引いて見えた。
どうせ見えやしないと、昨日までのコヨミなら諦めていただろう。
しかし、今のコヨミにはある確信があった。
自分の血筋なら、それが可能だと思ったのだ。
やはりだ。〝飢餓〟の攻撃が見える。手に取るようにわかる。
彼女はコヨミを殺すつもりはないのだ。影の同盟の象徴にするつもりだから、当然頭、顔も狙わない。この一撃は足元を払いに来ている。
ザンドスニッカーの軌道に向かってイザナミを――テニスのラケットのように――振るうと、甲高い金属音が鳴った。
「ゔっ……!」
じいん、と腕がしびれたがしかし、イザナミはザンドスニッカーを受け止めてくれた。衝撃で振動こそしているが、一つの刃こぼれもしていない。
いける。
「う!りゃ!あ!あ!ぁ!ぁ!ぁ!」
コヨミは滅茶苦茶な太刀筋でイザナミを振り回した。
〝飢餓〟は明らかに驚いている。蛇の目を見開き、ザンドスニッカーを振り回して応戦したが、コヨミの攻撃よりワンテンポ遅れている。
「まさか!これほどとは!恐れ入りましたコヨミ様!」
〝飢餓〟は笑みを浮かべつつも、同時に額に汗していた。イザナミとザンドスニッカーがぶつかり合い、火花散る度に見えた。
肌から白い煙が出続けているのも影響しているのかもしれない。今まで見てきた〝飢餓〟の動きより一段、二段遅い。血清とやらの効き目の問題か、時間の問題か知らないが、まだ完全に陽の光を克服していないのだ。
逆に――ステンドグラスのない部分や、玉座などの障害物がある部分――陰の中に入ると、〝飢餓〟に軍配が上がる。
肌から上がっていた煙が立ち消え、ザンドスニッカ―を振り回す速度が跳ね上がる。スター・ウォーズのビームみたいな音が、どんどん甲高く、短い間隔で鳴る。
イザナミでいなすだけでは到底間に合わない猛攻だ。コヨミは身をよじり、首をすぼめ、なんとかかわしていく。際どいものは頭をかすめ、髪の毛を短く殴り切っていく。陰では白く、陽の光の下では蒼く見える自分の髪が、はらはらとあたりを舞う。
「〝支配〟」
コヨミの方をニヤニヤと見つめながら、〝死〟が口を開く。
「コヨミ様がご乱心だ。動きを止めて差し上げろ」
裁判所の壁際にできた陰の中で〝支配〟が動いた。口元の包帯を下ろし、肉がむき出しの唇で指をくわえ、大きな口笛を吹いた。
何が起こるのか、コヨミは知っていた。
「「「ぁぁぁああああぁぁぁぁ!」」」
裁判所の外から、この世ならざる者たちの声がする。影の同盟と入れ替わるように、開かれた裁判所のドアから、アンデッドたちがなだれ込んでくる。やつらは日向を避け、陰になっている部分を器用に、気持ち悪い歩幅で走ってくる。
ざっと見ただけで三十体は下らないだろう。このままでは数に押される。
コヨミは直感で動いた。
ザンドスニッカーを振り上げ、襲い掛かってきた〝飢餓〟に、左手の平を突き出すように向けた。目の周りの筋肉にぐっと力を込め、黄金の視界を引き絞った。
狙い通り、陽の光が飛び出した。コヨミの左手から。
「ぐっ――っう――!」
両腕でとっさに顔をかばい、〝飢餓〟が後退する。
まるで光のビームのようだった。懐中電灯の電源を素早く入れ切りしたように、ビカッ!とい光った。ビームが当たったところだけ、彼女の二の腕が濃い赤色に焼けた。
「っしゃあ!」
うち、アイアンマンみたいじゃ!
コヨミは余計なところで興奮する。
玉座まで駆け上ってきたアンデッドたちに相対する。
この距離まで来ると、多少焼けようが関係ない。〝支配〟はアンデッドをとにかく突っ込ませてくる。
燃えながら飛び掛かってくるアンデッドを一体、二体叩き切り、三体目をイザナミで串刺しにした。
「うぉぉおおおおお!」
手の平からくべた陽の光が、イザナミに刻まれた十字の線を伝って、アンデッドを焼いた。イザナミが内側から発光する。刺さっているアンデッドが、火力の強すぎたバーベキューのように火だるまになる。
このまま行ける。押し通せる――コヨミがそう思ったその時、怒れる〝飢餓〟が帰ってきた。
「いっ――」
痛いと、そう叫ぶことさえできなかった。
そうだ彼女は第三の騎士――〝戦争〟よりも強大な――黙示録の騎士だ。
アンデッドを何体も巻き添えにするほどの、滅茶苦茶な攻撃だった。コヨミはとっさにイザナミで防御姿勢をとったのだが、ザンドスニッカーはイザナミを弾き、そのままコヨミの腹部に直撃した。
内臓が破裂するような衝撃と、背骨が砕けるような衝撃が一度に襲ってきた。裁判所の壁まですっ飛ばされたのだ。後頭部も強打し、コヨミは両の鼻の穴から血を噴き出した。壁に伝って、ずとんと落ちた。
「ぐっ……はっ……はっ、あぁ……」
呼吸できるようになるまで何秒もかかった。黄金の視界が半分ほど消失していた。黒い画用紙を貼ったように真っ黒にふさがれていた。壁か何かの破片が直撃したのだと思う。右の眼球が破裂している。瞬きすることもできない。まぶたが切れてどこかに飛んで行ったのだ。
ずっくんずっくんと、右目のあたりが鼓動している。痛みよりも、見えないことの方がショックが大きい。これ、だいじょばないやつぢゃね?不安が、恐怖がよぎる。
〝飢餓〟が、ザンドスニッカーを両肩に担ぎ、モデルのように両足をそろえて歩いてくる。その顔が、世界記録を打ち出したオリンピアンのように勝ち誇った笑みに包まれている。
「やりすぎだ。いや、顔をつぶすな。さすがの女王様もお怒りになるぞ?」
大男から少年の姿に縮みながら、〝死〟が注意を飛ばしている。
今さらやつの変わり身などに驚きもしないが、続いて出てきた〝飢餓〟の言葉に、コヨミは激しい違和感を覚えた。
「〝戦争〟の身体能力は受け継いでいます。血を与えれば、元に戻るのでしょう?」
え、どゆこと?
まず、コヨミの頭をよぎったのはその言葉だった。
しかしすぐに、次の疑問が来る。
知らないの?
「ちょっ、待っ――」
「おっと――」
油断した――〝飢餓〟に声をかけようとした次の瞬間、〝死〟が懐にもぐりこんでいた――視界が半分つぶされていたことを加味しても、これは速すぎだ――足音も、近寄ってくるときの風圧も感じなかった――鼻先が触れ合うほどの距離に――これが第四の騎士――コヨミは急ぎイザナミを手繰り寄せる――
「――そうはさせん」
左腕に、かえしのついた刃が突き立っている。
いつ刺されたのかさえわからない。
「いっ!ぎゅ!ううぅぅぅうううう!」
遅れてやってきた焼けるような痛み、骨を削られる痛み、肉を裂かれる痛み。すべてが同時に襲い掛かってきて、コヨミの精神はぎゅうぎゅうに締め付けられる。
「余計なことを言ったら殺す」
ダース・ベイダーのような低い声で、コヨミだけに聞こえるように〝死〟は囁いた。
ぞくりと、首筋が凍り付いたように冷えあがった。
怖かった。恐ろしかった。右目は無くなり、左腕は死ぬほど痛い。〝飢餓〟も思っていた百倍は強かった。〝支配〟が呼び寄せるアンデッド軍団も、どうやって止めていいかわからない。
どうあがいたって、自分に勝ち目がないのは見えていた。
でも、〝死〟に、こんなやつに、勝利の確信を与えるなんてゴメンだ。
コヨミは左目に涙をいっぱい溜めながら、嗚咽を押し殺す。
針金を無理やり曲げるように、口角を上げて見せる。
「あぅ……いひひ……殺して、みいやぁ……全部言うてやるあああぁぁぁああ!」
〝死〟が、左腕の鎌を引き抜いた。骨と肉がぞりゅぞりゅと持っていかれる。その痛みで、気が狂いそうになる。
さらに、〝死〟は、引き抜いた鎌をひっくり返し、コヨミの左ももに突き刺した。
「ゔぅ!」
あまりの痛みに、全神経が全部左ももに集中する。黄金の視界に、チカチカと星が舞う。
「あきらめろコヨミ。戦争はもう止められない」
「そんなこと……ない!うちが……お母さんが、ほんとにやりたかったことを、全部っ……みんなに話したら――」
「違う。わかっていないな我が娘よ。もはや影の世界だけの問題ではない。すでに始まっているのだ、影の戦争は」
コヨミの頭を引き寄せ、小さな声で〝死〟はささやく。
「お前も聞いたはずだ。俺たちはもう一年以上前から陽の世界で暗躍してきた。人を殺し、金を集めてきた……今さらそれを『はいやめました』で、陽の世界の人間が納得すると思うのか?そんなことはない。ほんの少し棲家をつつかれただけで、つまらん為政者が『メンツをつぶされた』と騒いで報復するような連中だ。人民のことなどみじんも考えていない。そうやって終わりのない争いを繰り返し、世界中を巻き込んで戦争してきたやつらだ!来る。やつらは必ず来る。俺たちが攻めずとも奴らの方から来る!影の世界を滅ぼすために!俺たちはそれを返り討ちにする!」
「そんなっ……ことない!」
歯の隙間から血をこぼしながら、コヨミは抗う。
「それはお前が考える世界じゃ!お前がそれしか知らんだけじゃ!戦争しちゃいけんって、わかっとる人だっていっぱいおる!話し合えば解決するって、信じとる人もいっぱいおる!まだ間に合う!うちが止めてみせ――ゔぅーっ!」
〝死〟はあっという間に鎌を引き抜く。肉と骨の花がまた咲く。
「言ってもわからぬなら、仕方ない――」
人が耐えきれる痛みなどとうに超えていた。コヨミはもう、泣けばいいのか叫べばいいのか、それすらわからない。滅茶苦茶に頭を振り回して、涙も、鼻水も、唾までまき散らしながら喚いた。
どれだけ泣こうが、どれだけ苦しもうが、誰も助けてくれなかった。
もういないのだ。
お母さんも、お父さんも、マッケンジーも。
コヨミを守ってくれる人は、もう、どこにも――
『〝戦争〟――』
『〝戦争〟――〝戦争〟――』
彼女にか細い声で呼ばれ、〝戦争〟は我に返った。目をしばたくと、そこは真っ黒な草が一面生えた海岸線だった。遠くには灯台も見えた。
日食は終わり、いつもの真っ黒な太陽だけが、空に浮かんでいた。
寝起きと同じように、目がしょぼしょぼする。何度も瞬きする。
一瞬、燃え盛る控室が見える。
頭を振るう。記憶を振り払う。
十六年前――影の女王が、彼女が、心変わりしてしまう前夜――――
自分の膝の上で、彼女が今にも止まってしまいそうな弱々しい呼吸を繰り返していた。
胸を一突きにされていた。真っ白な髪は返り血で黒く染まり、白灰色の瞳は血走っていた。左耳の上で羽を休ませていた青い蝶々のブローチは砕け散り、彼女が倒れていたところに残骸が転がっていた。
〝戦争〟は血反吐を吐きながら、無理やり上体を起こす。
コヨミの姿も〝死〟の姿もない。
あれからどれだけの時間が経ったのか――膝の上に彼女の幻影が見える――コヨミは無事なのか――早く助けに行かなければ――しかしどうする。
毒に侵され、胸を貫かれ、体はまともに動いたものではない。
どうやって復活すればいい――どうやって立ち上がればいい――どうやって、飛んでいけばいい――
『わたしたちの子は、いずれ、なるわ――』
ごぼごぼごと、血を吐き出しながら彼女は言った。介抱しようとする〝戦争〟の手を払いのけると、試験管のようなガラス細工を自分の胸元に押し当て、だくだくと流れ続ける真っ黒い液体を封じ込めた。まるで形見にしろとでも言わんばかりに、〝戦争〟の手に押し当てた。
『暴力と争いの連鎖を断ち切り、平和をもたらす』
〝戦争〟が試験管を握りしめると、彼女は一度まぶたを閉じ、短く息を吸った。
『光と影を繋ぐ架け橋になる』
そうだ――〝戦争〟は思い出す。
コートの内側に手を差し込む。
固いものが手に触れる。
震える手で、それをつかむ。引っ張り出す。
それは鎖でできたネックレスだ。先端に、真っ黒な液体が入った試験管のついた。
「うぅぅ……ぐうぅぅぅ!」
錆びついた足を呼び起こすように、何度も殴りつけ、立ち上がる。
試験管を握りしめる。固くかたく握りしめる。震える手で、顔の前まで持ち上げる。にらみつけるように見つめる。
意を決して試験管にかぶりつく。折るようにかみ砕く。
ガラスの破片ごと、中に入っていた液体をすべて飲み込む。
度数の高いアルコールを一気に飲み込んだように、胸の奥底が焼ける。爆ぜる。
光に追いつくように、朦朧としていた意識が、視界が、自分のものと重なる。
そうだ――〝戦争〟は思い出す。
『影の女王が命ずる――』
女王の言葉には力がある。
『〝戦争〟よ』
胸の奥から、熱がこみあげてくる。
『黙示録の騎士よ』
まぶたを閉じれば、昨日のことのように思い浮かぶ。
『その命にかけて、守りなさい――』
彼女の瞳を、白灰色のその美しさを。力強さを。
『――――――――コヨミを』
彼女の、最後の命を。
『わたしたちの子を』
「ぅぅぅぅぅぅうううううううあああああああああ!」
彼女はもういない。
言葉を交わすことも、抱きしめることもできない。
それでも、〝戦争〟は彼女に応えた。声を張り上げ、叫び続けた。
彼女が残した血が、〝戦争〟に再び立ち上がる力を与える。
ガラスで切れた食道の傷がすぐさま元に戻る。胸に空いた穴が、砕き切られていた背骨が一瞬でつながる。霧が晴れるように、体を蝕んでいた毒が消え去る。
コートの裾を、ぱっくりと二つに割る。骨組みに薄い膜が張った、コウモリの羽のように変える。威嚇する鷲のように振り上げる。〝戦争〟を中心に陣旋風が巻き起こり、草花がすべて頭を垂れる。
イザナギを手に取る。
真っ黒な太陽を見上げる。
待っていろ。
必ず助ける。
我が子へ呼びかけ、〝戦争〟は飛び立った。
〝死〟がまた――玉座のへ――瞬間移動のように移動する。
左腕、左ももをやられた状態では、追いかけることはおろか、次の攻撃に備えることもできない。痛くていたくて、涙と鼻水が止まらない。ひんひん馬みたいな鳴き声が、コヨミの意思とは関係なく飛び出してくる。体の奥底から、寒さとは違う謎の震えが湧き上がってきて止められない。
「うぅぅ……ぅぅうううう……うぅ――」
左膝に力が入らなくなり、コヨミは片膝をつく。倒れることだけはなんとか防ごうと、イザナミを床に突き立てる。左足のローファーがあれよあれよという間に血だまりに飲まれ、左ひじから垂れる血が、ぼたり、ぼたりと重たい雨粒のように落ち続ける。
「〝支配〟!」
部下に苛立ちをぶつける上司のように、〝死〟が叫んでいる。呼ばれた〝支配〟が泡を食ったように飛び上がっている。新鮮な右手と、無理やりくっつけた左腕をしっちゃかめっちゃかに動かし始める。それを合図に、わらわらとアンデッドたちが集まってくる。
「……よろしいので?」
〝飢餓〟が〝死〟に目配せを送っているのが、ちらりと見える。
「お前の言うことにも、一理あると思ってな」
〝死〟は囁きながらも、尊大な態度で答えた。
「口がきけなくなっても構わん。見た目さえよければ、民衆はついてくる」
ものの十数秒で、裁判所の中はさながら満員電車のようになる。腐った死体、新鮮な死体、骨だけになっている死体――陽の光が差し込んでいる場所以外は、すべてアンデッドで埋め尽くされる。
「女王様には俺から説明する――死ぬギリギリまで痛めつけろ」
〝死〟の命を受けて、〝支配〟がアンデッドを動かす。
マヂかよ――コヨミは毒づく。
おびただしい数のアンデッドが、餌を眼前にぶら下げられた馬のように走り出す。
ちょっと、思い上がったかな――後悔の念も沸き立つ。
軽く百体を超える数が、一直線にコヨミに向かってくる。
もう、立ち上がることもできん――血を流しすぎて、頭がふらっふらする――さすがに、心が折れる。
ごめん、お母さん。
ごめん、お父さん。
ごめん、おっさん。
頑張ったけど、うち、ここまでじゃ。
もうすぐうちも、そっちにいくよ。
コヨミはあきらめて、左目を閉じた。
その時だった。
裁判所の天井が突如、爆発したように崩壊した。
コヨミはとっさにイザナミに体重を預け、顔を上げた。
ちょうど玉座とコヨミの間あたりだ。大理石でできた天井に巨大な穴が開き、周囲のステンドグラスや、ガーゴイルの石像が爆散している。
その破片と一緒になって、何かが、誰かが、黄金の光とともに落ちてくる。
羽ばたきながら、降ってくる。
それは渡り鳥のように優雅なものでも、獲物を狙う鷹のように鋭いものでもなかった。
ただ、力強かった。
光に照らされる二対の翼は、決して美しい形とは言えない。骨の周りにテントのような薄い膜が張られていて、ところどころ筋張ってもいる。空気を無理やり捉えて、力技で体を浮かせている。
それでもコヨミは、その姿に胸震えた。
右手に握られているのはイザナギだ。コヨミの持つイザナミと瓜二つな。
目にもとまらぬ速度で薙ぎ払われる。
裁判所そのものを切り裂くような、大斬撃が生まれる。
コヨミに襲い掛かろうとしていたアンデッドたちが、上下真っ二つにちょん切れる。
〝飢餓〟と〝死〟が手持ちの武器を掲げ、斬撃はそこで止まる。
〝死〟が大きなため息をつく。
コヨミは下唇を千切れんばかりに噛みしめ、コートの背中を見つめる。
〝戦争〟は還ってくる。
コヨミのためなら、何度だって。
「貴様ぁ!」
いつものささやくような声をかなぐり捨て、〝戦争〟は吠えた。
「我が娘に、なぁにをしたああぁぁぁ!」
彼の怒りが、びりびりと全身に伝わってきた。
影の世界に来て初めて、コヨミは安堵の涙を流した。
〝死〟が前に出てくる。
「手遅れだ……何もかもが」
「そう思のうなら、指を咥えて見ているがいい!これから私がすることを!さすれば、穏やかなる〝死〟が汝に訪れよう!」
〝戦争〟はイザナギを目にもとまらぬ速さで振るい、その切っ先を〝死〟に向ける。
〝死〟は憤怒の表情を浮かべ、紫の鎌の刃を右手の中で一回転させる。
「ふざけるな!俺こそが影の〝戦争〟だ!貴様を殺し!陽の世界を破壊し!全てを手に入れるまで止まりはしない!」
〝戦争〟と〝死〟、二人の姿が消えた。
紫の鎌とイザナギがぶつかる音だけが、裁判所のあちこちで鳴った。音が鳴る度にその方向へ視線を走らせたが、コヨミには二人の姿がとらえきれない。
「はっ!今さら!すべてわかっていたと強がりでも言うつもりか!?」
〝死〟の声があちこちから聞こえる。
「あぁそうとも、わかっていた」
〝戦争〟の声も右に左に移動する。
「なかったのは確信だ!」
傍聴席の柵が搔っ捌かれる。
「貴様の言う通り、私は愛に溺れた」
座席がはじけ飛ぶ。
「眼を見ればわかる」入り口ドアが、
「私を愛していた」大理石の床が、
「あの子を愛していた」無事だったステンドグラスが、
「すべての民を哀れみ、いつくしんでおられた!」
唯一無傷だった玉座が、血を浴び、破壊される。
「だから信じなかった」
先ほどとは別のガーゴイル像に、大きな切り傷ができる。
「貴様の、借りものの身体から発せられる言葉など!」
ひときわ大きな火花が散り、二人とも姿を現した。〝戦争〟は光の当たる玉座のもとに、〝死〟は傍聴席の陰の中に。
〝戦争〟は息も絶え絶えだ。〝死〟の鎌に切られたのであろう、わき腹や首筋、手足にいくつもの切り傷を負い、おびただしい量の血を流している。
対して〝死〟は、一つも傷を負っていなかった。呼吸も乱れていない。折りたたんだ左肘で、鎌についた血を拭う余裕すら見せた。
「影の女王が、私に残した最後の命令は二つ……そのうちの一つが、どうしても信じられなかった……よかった……私が愛した人は、間違っていなかったのだ!」
生きているのが不思議なくらいの状態で、しかし〝戦争〟はこれ以上の喜びはないと言わんばかりに声を震わせる。
「我が妻が産んだ子だ!忌み子として!我らの一人娘として!」
〝戦争〟は左手を大きく振り回し、コヨミを指し示す。
「どうして愛さずにいられる?なんの罪もなく!未来に期待と希望を抱いて生まれた我が子を!」
その言葉に、コヨミの涙腺はまた壊れる。
〝戦争〟は、お父さんは、コヨミの出自も自身の苦境もすべて受け入れて、乗り越えて、実の娘と同じように愛を注いでくれている。
「その未来を脅かす〝死〟より、私が守り抜いてみせる!我ぁが名は〝戦争〟!黙示録、第二の騎士!」
左ももを抑えながら、イザナミに頼りながら、コヨミは再び立ち上がる。
「貴様を撃ち滅ぼすもの!」
涙を流しながら、ニッと笑って、イザナミを地面に突き刺す。
ガチン!という音に〝戦争〟が反応する。コヨミと同じように、イザナギを地面に突き刺す。
〝戦争〟が次に何を言うのか、コヨミにはわかった。
親子二人で腕を組んで、堂々と胸を張った。
そうだ、これこそまさに――
「「――刮目せよ!」」