プロローグ
甘い果実を一晩中貪り食ったようだった。
いくら飲んでも平気な蜂蜜酒を、浴びるように飲んだ気分だった。
その他、様々な言葉で書き起こそうにも表現しきれないほどの満ち足りた感情で男は目を覚ました。
ここがどこだか思い出すまでにひと時の時間を要したが、両手を伸ばしても端に届かないベッドと、床から天井まである大きなガラス窓のおかげで現在地がわかった。朝日が昇る前の薄明りで見える。同じ高さに建物が無い。自分の考えを裏打ちするいい証左だ。ここは行きつけのホテルの、行きつけのスイートルームだ。
「くあぁ~」
大きく伸びをして、自分が裸だと言うことに気付いた。
腕時計を探して読書灯の方を見上げると、すぐ隣で、女がごそごそやっているのが目に入った。
あぁ、と男はため息をついた。
太陽がまだ昇り切っていないのに、白い肌が眩しい。研いだ針のように鋭い銀髪が揺れている。肩にかかるくらいの長さのおかげで、なまめかしい背中を惜しみなく見せびらかしてくれている。女はクラッチバックに手を突っ込んで、手洗いでもするように両手を動かしている。その度に、背中の筋が浮かび上がって、情感を刺激される。
あの背を指でなぞったら……それだけでまた少し興奮した。
黒いショーツに包まれた大きな尻から、国宝級のヴィオラのように美しいくびれが伸びていて、昨夜、あの腰を我が物のように掴んで引きずり回したことを思い出す。
バーでばったり出会った女は少女のような見た目で、背丈も自分より二回りは小さかった。大胆なドレスから覗く胸元はお世辞を盛りに盛っても大きいと言えず、思わず、未成年者が何をしに来ているのかと問い詰めそうになったくらいだ。
吊り上がった緑の瞳は勝気な性格をよく表していたが、零れ落ちそうなほど大きかった。生意気なことばかり吐く口も大きく、にっこりと笑うのが魅力的だった。対照的に、鼻はホイップクリームをちょんとつついたように可愛らしいものだったが、そのアンバランスさが、余計に幼さを感じさせた。しかもこの女、見た目相応に甲高い声で鳴くのだ。ロリコンだと自認したことは一度もなかったが、年端も行かぬ少女にみだらなことをしている気分になって、味わったことのない征服感と背徳感に満たされた。
「んん~なに?どしたの――」
やはり我慢ができず、人差し指で女の背をなぞった。
女ははて、と手を止めたが、完全には振り返らなかった。再び手元に視線を落とし、クラッチバックで手を洗い続けた。
「私たちは影の同盟」
「え?」
昨晩一度も発さなかった低い声で女は喋った。
「この世界に宣戦布告する」
クラッチバックから稲妻のように手が引き抜かれ、大きな尻が、独楽のようにその場で回転した。まだ目覚め切っていない男の脳は、何が起きているのか理解できなかった。
体中の汗腺が開く。ひとりでに呼吸が荒くなる。尻の奥がぎゅっと縮こまって、じぃんと緊張が全身に広がっていく。何も言えない。何もできない。手が、足が、首も、舌さえも、痺れたように動かない。
女が、全身を舐め回すように見てくる。緑の瞳には、はっきりと軽蔑の感情が浮かんでいる。
一度、蛇のようにつるりと舌を出し入れすると、右手のそれをわざとらしく握りなおした。
「やはり日本人は平和ボケしている。もしこれが米国なら、一つ、ベッドの下まで転がり落ちて、マットレスを引き倒す。盾にするのだ。少しでも生存確率を上げるため、二つ」
女の言葉が耳に入らない。正確には、聞こえているのに理解ができない。
「恥もプライドも捨てて命乞いする。日本人なら土下座か、三つ」
鈍い鉄の輝きを目の当たりにして、寝起きの頭が覚醒せよと叫んでいる。それでも男は、突然突きつけられた現実を直視できない。引き金に指をかけているのは女だ。昨日、あんなに甲高く鳴いた。
「私が引き金を引く前に、銃口の内側にもぐりこむ。銃を無力化する距離までつめれば、あるいは、お前にも勝機が見出せるかもしれない」
「……あ……え……?」
「三つも方法を教えてやった。なぜどれ一つ試さない」
女が銃口を下げた。助かった――男の緊張がゆるんだその瞬間――鼓膜が破れるほどの音で右のすねを撃ち抜かれた。
「あぁあああっ……!ぐあーっ……!」
銃声に顔をしかめた直後、焼けるような痛みに襲われた。男は体をくの字に折り曲げ、右ひざの皿を鷲掴みにした。
「お……おぉおぉお……!」
すねのど真ん中に、親指ほどの穴が開いている。反対側、ふくらはぎの肉がこそげ落ちた。赤いペンキをぶちまけたように、純白のシーツに真っ赤なしぶきが飛び散っている。傷口からどくどくと血が流れ出て、踵を中心に血だまりが広がっていく。
「かっ……!ああ……あぁぁ……!」
右足に心臓ができたようだった。鼓動するたびに激痛が走り、強くなり、弱くなるを繰り返す。
「黙れ」
女の手にも収まる小型拳銃。小さくとも重たい鉄の感触が眉間に押し付けられ、男は黙る他なかった。馬のようにひんひんと、甲高い鳴き声が喉を駆け上ってきたから、下唇を噛んで真一文字に結んだ。
女は銃を左手に握りなおすと、右手で男の頬をなぞった。その手は、男の左耳でピタリと止まる。
「いいものをつけているじゃあないか、私がもらっておいてやる」
女が猫なで声でそう言った瞬間、左耳に激痛が走った。
「んんー!んんんんん!!」
男は下唇が千切れるほど噛み締め、なんとか絶叫を飲み込んだ。
女は血だらけになった右手にキスをした。その指先に、鈍い銀色の光があった。男がつけていたピアスだ。
女はそのまま、血だらけの手でカバンをあさり始めた。今度手を突っ込んだのは革製のクラッチバック、男の持ち物だ。
目当ての物を見つけたのか、女は不敵な笑みを浮かべた。銃口が胸に、心臓のちょうど真上に押し当てられる。体重をかけられ、男は再びベッドに沈む。
顔の前に自分のスマートフォンが掲げられる。いつも何気なく見ていたロック解除画面が、二度と戻らない日常のように見えて泣きそうになる。
「頼む、頼む……殺さないでくれ……なんでもする」
男は藁にも縋る思いで懇願した。
女はまた、蛇のように舌なめずりした。
「そうか、では、お前の持っている株式、金、不動産……すべてを換金し、この口座に振り込め」
「……無理だ」
そう答えたとたん、拳銃が今度は左足の方に下りていった。男は半狂乱になって叫ぶ。
「無理だ!ちょっと待ってくれ!他になにか――あああああ!っぅぐ!ああああああ!」
今度は撃たれなかった。撃たれなかったがしかし、男が最も苦痛を感じる部分に銃口が突き立てられた。
「んんんん!んんんん!んんんんゔゔゔゔゔゔ!」
ぐりぐりと捻られるたび、体の奥底から震えがこみ上がってくる。全身からどっと脂汗が噴き出し、右足の痛みなど遠い過去の出来事に感じられる。
「違う!無理なんだ!巨額の売買だ!一日じゃ全部終わらない!」
「心配するな。お前の命一つにつき、一日待ってやる」
女が顔を近づけてくる。天にも昇るような甘美な匂いに包まれる。痛みとエロティズムの協奏曲が頂点に達し、男の体は、本人の意思を無視して盛り上がる。
「命のもとがたっぷり入った鞘を、お前は二つも持っている。きわめて健康であることは、昨日私が確認した」
いやらしい舌づかいで銃口をくすぐると、女はもう一度、心臓に銃口を突き立てた。
「あとはお前自身の命だ」
男は観念して、血まみれの手でスマートフォンを受け取った。
女はにたりと笑った。
「よかったな。あと三日ある」
「金がごっそり消えた?マジックじゃあるまい」
中年から脱却しつつある男、マッケンジーは、危うくサンドウィッチのマヨネーズで溺死するところだったと見える。少なくとも、僕にはそう見えた。
忙しい昼下がり、2ブロック先のサンドウィッチ店で購入したチキンサンドを頬張りながら自分の席まで戻ろうとしていた最中だ。彼の行きつけだ。僕にはわかる。
きっと僕が、安い映画みたいなネタを持ち込んできたから、あまりにくだらなくてレタスでむせたのだ。
マッケンジーは聞く価値なしと判断したようで、そのまま歩き続けた。口からはみ出した黄緑の葉は前歯で手繰り寄せていた。だが、この時の僕は興奮を抑えきれなかった。
「本当に消えた。イリュージョンだ」
「どうやって」
「振り込みの先の口座がこの世にない」
「それじゃ振りこめない」
「だが確かに振り込まれた。世界に流通するアメリカドルのうち、25億ドルが忽然と消えた」
国家予算クラスの金額に、マッケンジーははたと足を止めた。口の中に残ったパンを、しぶしぶ飲み込み、僕が持っていた書類を――おそらく、嫌々――手に取った。
そこには、僕が調査してきた金の流れがびっしりと、事細かに記載されている。吸い出された口座の情報から一件ずつの金額詳細まで、もし仮に今日がエイプリルフールだとしても、ここまで緻密に作り上げるのは無理だろうと思われるレベルで。
「……財布ごと排水溝に落としたじゃ説明がつかない。消える額じゃない」
「問題なのはそこじゃない。これが、今消えている額ということだ……総額じゃない」
「……は?」
「一年前からずっと追ってきた。未だ証拠はつかめていない。だが、通算して、84億ドルが消え、そのうちの59億が戻ってきている。代わりに消えているのは銃だ。弾薬だ」
マッケンジーはもうためらわなかった。
「――――国防総省に」
影の戦争
施設の裏、塀の向こう。
そこに忘れ去られたように置かれた自販機。
そこだけがコヨミの居場所だった。
だって、灯台下暗し。ここなら、小うるさい保育士に見つからない。だそうだ。
「っはー」
右手で吐き出したガムをつまみ、耳の裏にしまいながら、左手を自販機の取り出し口に突っ込む。自販機の下段、あったか~い商品が並んだアクリル窓に、蒼い髪の毛が反射している。コヨミは目の色だって青い。染めてもないしカラコンも入れてないのに、毎回怒られるから学校は嫌いだ。
スカートが地面につかないギリギリまでお尻を下げて、落書きだらけの塀に背中をあずける。熱い缶コーヒーをちびちびやる。からっと乾いた冬の晴れ空が忌々しい。制服の下に着ているパーカーだけじゃ、ちっとも暖かくない。これだって、施設に余っていたおさがりだ。腐ったスライムみたいな薄緑色で、素材はぺらっぺらの紙みたい。おしゃれもへったくれもない。しゃらしゃらした手触りのタイツの方が、まだ体温の保持に一役買っている。
空になった缶コーヒーを地面において、制服の内ポケットをまさぐった。
頭上の電線に止まっていたカラスが、カァ、と鳴いて飛んだ。
「んっ」
ふと、妙な視線に気が付いた。
へし折れたタバコをくわえたまま、ひと時、誰もいない裏通りを凝視した。
正面にはぼろの空き家があるだけだ。自販機から顔を覗かせ、左右に首を振ったが、エッチな仕事の勧誘が貼られた電柱か、ポイ捨てされたホットスナックの包み紙くらいしかいなかった。
「んん~?」
首をかしげながら、残り三本になったタバコをくしゃくしゃに丸め、内ポケットに戻す。オイルがほとんどないライターを何度も鳴らす。おかしい、カラスが飛び立つとき、たしかに見た気がしたのに。
闇夜を切り取ったような、大きな真っ黒い傘をさした男だった。
視界の端にかろうじて引っかかったような違和感のある見え方だったが、確かにいた。と、思う。
雲一つない快晴なのに何をしとるんだこの男は、と思ったのだから間違いない。スラリとした長身で、全身黒づくめで――見間違いでなければ――遠くから、こちらを凝視していた。
きっと気のせいさ。ニコチンの妖精とタールの守り神が、鼓膜の内側でささやく。
肺の中に汚い満足感が流れ込んでくる。別に嬉しくはない。残りカスが、きかんしゃトーマスの煙みたいに口からぷすぷすと出て行く。
そう、私の居場所なんてなかった。
最初からなかった。
私を捨てたろくでなしの母親のことは嫌いだし、存在した痕跡すらない父親は恨むとか以前の問題だ。
せめて見てくれだけはよく造ってくれたことに感謝してやる。でもそもそも生むなって話。責任持てないなら。
愛の結晶?
コヨミに言わせれば、無責任の動かぬ証拠だ。
誰かが見ているわけでもない裁判。
裁かれるべき人間がとんずらこいた裁判。
そしてそれを、誰も咎めない裁判。
残されたコヨミは、ここで命の前借りをしながら幸福をすするしかない。そうしなければ、とても生きてなどいられない。
つまんでいた指先に熱が迫る。このまま持っていると爪が焼ける。そうして、ロウソクみたいに指先から緩やかに焼け落ちて死ねるならどんなに楽だろうか。しかし、存外それができずに困っている。
アスファルトにタバコをぐりぐりと押し付け、可愛くもなんともない、ガサガサの爪ではじき、飲み干した缶コーヒーの中に放り込む。屈伸の要領で立ち上がり、用済みになった缶コーヒーを自販機横の回収ボックスに荒々しく捨てる。残ったタバコとライターはヘアゴムでコンパクトにまとめ、耳の裏に保存しておいたガムで自販機の裏に引っ付ける。
もうすぐ太陽が落ちるところだ。
茜色とも黄金色ともつかない、眩しいと眩しくないの狭間にいるお日様が照らす先を、コヨミは見つめる。
鉋でもかけたように薄く削れたローファーの踵から、ぐぅんと影が伸びていく。
その先に、いた。
まるで最初っからそこにいたかのような存在感で、ぽつんと立っていた。見間違いぢゃなかった。
闇夜を切り取ったような、大きな真っ黒い傘をさした男だった。
長く伸びたコヨミの影を踏みしめるように、さりげなく、それでいて堂々と佇んでいた。
男の持つ傘は、この世のものとは思えない異質な代物だった。皮ともゴムともビニールともつかない質感で、言うなればそう、コウモリの羽のようだった。太陽の光を全て吸収し、意地でも背景と混じりあうもんか、と自らの存在を主張していた。そして本来傘でできる倍以上の大きな影を作り出していた。男の足下までとっぷりと覆いつくす、大きくて暗い影だ。面白く聞こえるように言ってやるなら、まるで男が、一斗缶いっぱいのイカ墨を道路にぶちまけて、その上に立っているように見えた。影が濃くて顔は見えない。真っ黒なコートも、ブーツも、影の色となじんで詳細なディティールはわからない。
わかることは一つ。
傘の男は、私を見ている。
恐怖が全身を駆け巡る。
数瞬前まで何もなかった空間に、突然男が現れたのもそうだし――目元が見えないのに――間違いなくこちらを見ているということがわかるのも、意味が分からない。
男から視線を引きはがし、できるだけ早足で最初の角を曲がった。施設の表門まで、一秒でも早くたどり着きたかった。
それなのに、次の曲がり角まであと半分というところで思わず足を止めてしまった。
聞こえたのだ。羽ばたく音が。
コウモリだ。小さくて素早い、コウモリの羽ばたく音がする。
それだけでなぜか、確信が持ててしまう。
振り返ると、ちょうど曲がり角の所に、傘の男がいた。どこから集まったのか、男の周囲には、たくさんのコウモリが黒い紙吹雪のように飛びまわっていた。
あいつは歩いてきたわけでも、走ってきたわけでもないのだ。見ていなくてもわかる。自販機のところで見た時とまったく同じ姿勢で立っていたのだから。人差し指の角度さえ変わっていない。
「ひぃっ」
人生で初めての悲鳴を上げて駆け出した。まだ口の中からタバコの匂いがするのに。絶対に怒られるし、お金の出所を聞かれるし、下手したら偉い人に報告されて色々面倒くさいのに!
「あらコヨミちゃん、お帰りなさい」
玄関で息つく私を、初老の保育士が迎え入れてくれる。コヨミは返事をする余裕もない。
他人のものみたいに激しく上下する肩越しに、振り返る。こめかみに蒼い髪がへばりついている。まつ毛の先に、汗の粒が引っかかっている。
閉じていく自動ドアの向こうに、あいつはいなかった。そこにはいつもの日常があった。
なんてことはない。車がすれ違えるかギリギリの車道と、自転車はすれ違えない細い歩道。そこからこの自動ドアに繋がる、官公庁にありがちなコンクリートのスロープと、ひび割れた階段。
会社帰りのサラリーマンや、部活帰りの学生が横切る以外には誰もいない。
傘をさした不気味な男など、痕跡すら残っていない。
違う。
コヨミの本能が訴えかける。
「コヨミちゃん?」
保育士が私に話しかける。
うるさい。
見間違いなんかぢゃない。
背中にまだ、あの男の視線が痛いほど突き刺さっている。
汗が出るほど走ったのに、寒気と震えが止まらない。
コヨミはそのあとずっと、タバコのことを怒られている間も、自動ドアの向こうから目が離せなかった。