オーダー1番席『ホットサンド』
1
手作りの味って、温かいよね。
それがママの口癖だ。食べることに好き嫌いをしない人だったからこそ、耳に残る説得力がある。
オレンジ印の看板。木材のインテリアで統一した隠れ家の店内には、白光が射している。子連れ客がカウンター席にて見守る静謐。マスターの稲餅さんはフライパンで調理していた。湯上がりパスタの風呂桶に、卵の黄身がお邪魔する。
小学五年生のボクは前のめりに彼のライブクッキングを観るふりして、上目遣いでチラ見する。紳士の微笑みが返ってきて、はにかんで俯いてしまう。
切れ込みを入れたバゲットで、纏まった黄金の糸を挟み込んだ。焼きそばパンのカルボナーラ版である。三当分にして、皿へ移す。
「お待たせしました、カルボナーラサンドです」
チーズを匂いで感じ、ママは食べる前から陶酔する。
「これこれ、日曜日に食べないと一週間が始まらないの!」
昨日の土曜も、ここで注文して同じことを言いましたよ。ボクは差し支えないですけど。
苦笑いの稲餅さんは、ボクへ向き直って別の皿を提供する。
「眠兎さんには、こちらをサービスします」
お菓子のバームクーヘン。好物を覚えていてくれた幸せで、胸が一杯になる。
「良かったね、眠兎。この子ったら、『今度はいつ、喫茶オレンジセントに行くの?』って毎日きいてくるのよ、椒さん」
悪戯の笑みでマスターに暴露する、我が憎き鬼の親。鬼の子も負けじと、牙を剥く。
「違うもん、お姉ちゃんに会いたいだけだもん!」
「はいはい、橙香ちゃんが好きなのね」
ママは本当のことを知っているくせに、ボクをからかうのだ。鼻唄交じりで、カルボナーラサンドを頬張ってやがるです。大嫌い、むせて罰が当たれ。
稲餅さんには、一人娘がいる。土日になると、お父さんの喫茶店を手伝っているのだ。ボクの一才年上で、小学校も同じ。学年問わず、女子から絶大の信頼を受けるほどスポーツ万能で清楚なのだけど、反対に男子からは畏怖の対象となっていた。
噂をすれば、その当人が厨房側の出入口から黒髪の小顔を現した。真っ先にマスターのもとへ、駆け寄る。
「お父さん、おしぼりの代えが届いたから裏に運んでおいたよ!」
「ありがとう、橙香。常連の御月さんがお子さんを連れて来ているので、休憩へどうぞ」
高身長の彼女がボクに気づき、笑顔を咲かせる。稲餅親子は美形だから、眩しすぎて直視できない。
「ミントちゃん、髪飾りのポンポン可愛い!」
「ママが新しいの買ってくれたの、トウカお姉ちゃん」
彼女はミニスイングドアから客席へ躍り出て、ボクの頭を撫でる。褒めてくれる人は、大好き。
「重たいもの持って、疲れてない?」
力仕事ばかりをしていて、ボクは心配だった。
「大丈夫! 私、力持ちなんだよ」
知っています。彼女の想い人が誰なのか。その気持ちは痛いほど、解るから。
「まるで、姉妹みたい。ママも最近、飯友達ができたのよね。ちょいと癖が強いけど」
「御月さんの友達なら、きっと心根が優しい人なのでしょう」
保護者の二人も客と店主の立場を忘れて、コーヒーで一服する。喫茶オレンジセントは、自由の楽園だった。
そして、ボクが中学生に上がった頃――。稲餅さんのお店は突然の営業停止処分となり、食い道楽のママは食中毒という非業の死を迎えた……
2
喫茶フルバーストの開店時間まで、残り五分。
ボクはゴム手袋を装着する。霧吹きスプレーボトルを左手に持ち、金属の冷たさが伝わる。ヘッドギアのフェイスシールドが機械音を奏でて下がり、視界全体に覆い被さる。
ガラス張りの一室より、喫茶店の内装を眺める。ストロベリー、ブルーベリー、マーマレードの三色が際立つ柄のテーブルクロス。厨房で調理する店主の奥様(ボクらはママさんと呼んでいる)によるアイデアで、不幸が続く世の中だからこそ、パステルカラーを選んだそうだ。ボクは賛成だったが、相棒である彼女は落ち着かないと否定していた。
ボクの隣、ノズルのトリガーに人差し指と中指をかけている右利きの女性。稲餅橙香、二十歳。シャギーカットの黒髪がフェイスシールドに垂れる。飾り気のないエプロンを着てても、絵になる凛々しさ。引き結んでいた口を開く。
「朝でも油断は禁物よ、眠兎。あの馬鹿マスターに、客への遠慮なんて皆無なの」
「うん、橙香。頑張っているママさんのためにも、目を光らせておくね」
鎖骨まで伸びる髪を耳にかけて、ボクは意気込む。
入り口の扉がドアベルを鳴らす。ウェイトレスを勤める、ママさんがイヤホンマイクの電源を入れた。ストレートロングの髪を尻尾のように振る。
『一名様、ごらいてーん』
ボクと橙香はガラス引戸を開いて、ノズルの銃口を店内へ突っ込む。
「除菌開始、いらっしゃいませ!!」
トリガーを引き、消毒液の水滴は滑空する。フェイスシールドが電子モニター画面で、その極小の水中を表示した。揺らめく光、海上へ飛び出すが如く、半透明の液体は揮発する。
画面の右下、機体状態の追加を確認。水色のキャスケット帽を被った、色白の女の子を彷彿とさせるアンドロイドが映っている。滅菌汎用機、ナーキッド。全長約、百μmくらいのスーパー・マイクロ・ロボットである。おっとり目の外部カメラで、等身大の景色をボクに見せてくれているのだ。
この子の名前は、煇レイ。光量子機動翅で羽ばたいて、煌めく微粒子を噴出しながらマイクロスケール世界を飛び回る、この店の守り神。ヘッドギアで脳波を送り、ボクが遠隔操作しているのだ。
左側にて、消毒液の水玉が弾け飛ぶ。紺色のシェフハット(橙香曰く、もはや鶏冠)を頭部に据える白皙の機体、輝レイだ。怒っている印象の三角目カメラで、両腕にそれぞれ射撃武器ピッチャーライフルを構えている。
輝レイと煇レイは、連携運用を前提として同時期に開発した姉妹機であった。橙香の輝レイがお姉さん、ボクの煇レイが妹の立ち位置。操作している本人たちの関係性を表しているようだと常々、ボクは思い悩む。
ママさんの声がヘッドギアから聞こえる。必要時以外は、ナーキッドの操縦者である除菌士が待機する隔離部屋の引戸を閉めておく規則なのだ。保健所からの指示で決まっている。
『ご注文はいかがなさいますかー?』
ボクは煇レイ視点の画面を縮小して、そのやり取りを窺う。サラリーマンのお客様は一見さんのようで、どこか緊張していた。
『あの、この店に除菌士は駐在されていますか……?』
『はい、あちらに。妖精さんも、すでにシフト入ってますよー』
ママさんは都心のイメージアップのため、滅菌汎用機を妖精と呼称していた。ガラスで囲んだ隔離部屋には、「ナーキッド設置しています」のシールが貼ってある。ボクらのエプロンにも、「除菌士」のプリント付きだ。お客様は確認して、胸を撫で下ろした。メニュー表より、頼みたかったものを指差す。
『オーダー入ったよー、ちゃーくん。ホット・ワン、フルバトースト・ワンでーす』
梅干野茶介マスターが白い歯をこぼし、サムズアップした。ボクは胸騒ぎする。フルバトーストは店名に因んだ人気メニューであるのだけれども、店内のお客さんが一人のみだと、彼のある悪癖を発動させるのだ。
「眠兎、菌反応を感知したわ。集中しなさい」
橙香の指令で、ボクは煇レイの目線に切り替えた。マイクロスケール世界の空気中に漂う、埃やカビ。日差しがそれらを照らし、煌めく星々の宇宙と言っても過言ではない。その遥か遠方、傍点を目で捉えられた。投影する煇レイの外部カメラで拡大させる。
膨脹と収縮を繰り返す球形の被膜に単眼がぎょろついている。異形のバクテリア、食べ物に悪さをしようと漂泊する輩だ。群れを成して、真空包装から封切ったレタスが並ぶ厨房へと向かっていた。
Χ菌。六年前、突如として都心に出現したマイクロサイズの化物。発見した当初は対策と治療が遅れて、多くの犠牲者を生んだ悪魔の細菌。紫外線で死滅しない、呼吸では人に感染しない、食品のみを追い求めて付着する、など未知の特性を有していた。Χ毒素を体内で産生して、口にした人間は年齢問わず死亡する恐れがある。ボクと橙香にとっては、身内の不幸を招いた怨敵だ。
飲食店における最善の対処は、局所で撃破できるナーキッドを用いた殲滅戦である。
「目標捕捉、ブドウ球菌Χね。数が少ないうちに、殺菌する」
輝レイが左手に持つ直射型のピッチャーライフルを照射した。熱光線によって、直線上の敵集団を埃とカビごと焼き払った。Χ菌は体内部に核があり、それを破壊すると霧散する。
煇レイも攻撃に移った。左腕に装備していた円形の盾を右手で握ると、輪郭から刃が二つ飛び出る。取り外して、残存する敵へ投げつけた。Rトレイ・風火輪、フリスビーの要領で回転して切り裂く投擲武器だ。光の微粒子による軌道を描きながら、次々と撃墜していった。センサーで持ち主のもとへ帰り、刃を仕舞って左腕にくっつく。
レーダーに危険信号あり、ボクは煇レイで探し回った。まだレジ付近にいるから、追いつける。輝レイも駆けつけて、二人でその醜悪さを目の当たりにした。
無数の眼が蠢いてる。葡萄の房となって合体する、増殖形態のブドウ球菌Χが紛れ込んでいたのだ。
「あんなものに取り憑かれたら、店が潰れるわよ!?」
「厨房へ辿り着く前に殺菌しなくちゃ!」
光量子機動翅を大きくして、二機で突撃した。
「滅菌殺法、やるわよ」
橙香の輝レイが先行する。
「了解、参ります」
ボクの煇レイは、右腰からピッチャーライフルを引き抜く。
接近した輝レイは、右手に構える連射型のピッチャーライフルを撃ちまくった。敵の眼が一つずつ潰れていき、巨体を削っていく。
「つけない!」
橙香が合図する。
「ふやさない!」
ボクは呼応する。
対角線上に着いた煇レイが、ピッチャーライフルを連射する。二機による挟撃の円舞で減殺の勢いが早くなり、肥大して発光するΧの字を発見。増殖の要因である本体の核を露出させた。
「やっつける!!」
二人で最後の掛け声を合わせ、輝レイと煇レイは胸部リボンの孔から電磁砲弾を放った。
葡萄の妖怪は崩壊して、四方に霧散して消滅した。目標撃破、これで一安心。
『団体さん、入りましたー』
ママさんからの通信で、ボクは店内の様子を目視する。近所の高校生グループがジャージに身を包んで、来店していた。店の扉が開いた、それ即ち敵襲!
レーダーに数え切れない敵影、煇レイの外部カメラをズームインする。ボクはぞぞ髪立つ。ソーセージ形の胴体より多数の首を伸ばしている竜、サルモネラ菌Χの大群が押し寄せていた。周毛が進化した首で遊泳してるから、頭一つ抜けた運動性を持つ。このままだとテーブル席が全部、菌だらけになってしまう。
橙香の失笑を耳にする。ボクは血の気が引いた。
「あぁもう……目に毒なのよ」
彼女の暴走スイッチが入ってしまった。
「脚部変形、全砲門展開、オート・ロックオン!」
橙香のナーキッドは、両足が砲身になって正面へ向き、砲撃モードへ移行した。二丁のピッチャーライフルを左右に照準、胸部リボンの孔も雷電が迸っている。
「輝レイ一斉掃射!!」
連射と直射の熱光線が扇状に広がり、脚部から圧縮エタノール弾を発射、真向かいに電磁砲弾は追従する。敵に着弾した水球が拡散して、電撃を受けて引火。大爆発が巻き起こり、敵を一掃したのであった。
輝レイの脚部が元に戻り、足先からエタノール液の跡が揮発する。
「やり過ぎだよ、橙香!? お客様の肉眼でも、見えちゃう!」
「うるさいわね、客の周囲は避けてるでしょ!? もたもたしてないで、フォローしなさい」
「横暴だよ……」
輝レイは乱射魔に陥った。エネルギー残量の後先も考えず、飛び回っては全弾発射して爆殺、弾切れになれば霧吹きスプレーボトル型格納庫へと帰艦するため引き返す。橙香はガラス引戸をスライドして、昇降口が上がった母艦の消毒液へ着水させる。Χ菌との戦闘は基本、殲滅戦であるので彼女の機体が主力機なのだ。反論は許さない。
その間、支援機である煇レイが戦線維持の役目を負う。この子の武装は、エネルギー消費が激しくない、中距離から近接戦用を取り揃えてある。二機のコンビ名、<キレイ・キレイ>。煇の漢字も本来、「キ」と読むのだが、区別のためもう一つの音読み「クン」を開発元は公認している。姉機の都合に合わせるのは、妹機の宿命であった。
橙香は輝レイのエネルギー補給で苛立ち、足踏みしていた。彼女が荒んだ理由を存じているボクは、注意しません。お願い、噛みつかないでね。
喫茶店の動向も把握する。ママさんのイヤホンに通信を繋げた。
「三番席の団体さん、お水がなくなっています」
『ホントだー。ありがと、眠兎くん』
ついでに厨房の調理状況をチェック。レーダーに菌反応、ボクは動転する。嫌な予感が的中してしまった。お皿へ乗せた料理には、通常種のカンピロバクターが潜んでいたのだ。
「マスター、また鶏肉を生焼けにしてるよ!?」
「後でシ・バ・クわ……! 私も出る」
橙香は厨房めがけて撃ち込み、輝レイを発進させた。ボクもママさんに食中毒の危機を伝える。
「すみません、一番席に運ぶのを待ってください!」
『美味しくなる魔法をかけるのね、りょうかーい』
うちの店は、メイド喫茶ではありませんよ。
煇レイが先に到着する。こんがり食パン、しゃきしゃきレタス、うっすらピンクの鶏肉が重なる断層。マイクロスケール世界に、ホットサンドの断崖絶壁が聳えていた。フルバトーストの名物である、三種類のジャムを塗った魅惑の味は、いつまでも飽きさせない。その見た目のインパクトから、お客様は映え写真としてSNSにアップする。
「位置に着いた、始めるわよ」
「了解。加熱マイクロ波、放射!」
煇レイの胸部リボン孔より、広域マイクロ波を発生させて鶏肉層にのみ浴びせた。風景が陽炎で歪む。肉組織の水分子を振動させて、熱しているのだ。反対側からも、輝レイが同様の加熱処理を施している。温度計メーターにて内部を測定、対象が75度を突破。お客様、一分間ほどお待ちください。
カンピロバクター通常種、レーダーから死滅。加熱マイクロ波はエネルギー消費が難点の武装であるから、多用は禁物。すぐ様、お皿から離脱した。
『うーん、良い薫り!』
ママさんの反応で、作戦成功を見届けた。
「上手に焼けたね、橙香」
「まったく、世話が焼ける」
滅菌汎用機は持ち場に戻っていく。
「マスター、鼻唄を歌ってるよ……」
「人の苦労も知らないで……」
ドアベルが再び、戦いのゴングを鳴らした。橙香は頭を抱えて、ボクは溜め息をつく。お客様が心配なさらぬよう、引きつった笑顔で取り繕う。閉店時間まで、ナーキッドを操作するお仕事は終わらないのだ。
「切りがないわ。今度は、何?」
「ウェルシュ菌Χ、服についた食べこぼしが媒介してる。放っておくと増殖して、分裂体を料理へと飛ばしちゃうね」
通常種の別名、カフェテリア菌。大量の食事を作る給食施設でも、食中毒を引き起こす可能性がある厄介者。カレーやスープといった煮込み料理が原因となりやすく、来店した方は洗濯し忘れたのだろう。この御時世でも、割りとよくあるケースだ。
「その類いは、莢膜を形成してるわね。殺菌には、接近する必要があるか」
「そうだね。エネルギー残量が少ないし、交代で帰艦しよ」
「わかった――」
輝レイの死角より、Χ菌が来襲した。翼の両端に鞭毛をしならせるカモメの怪獣。身体を螺旋状に捻じ曲げて、橙香の機体に突進を喰らわせる。そのまま、埃の彼方へと連れ去った。
『ひゃっ!?』
ママさんの驚いた声がヘッドギアから流れた。どうやら彼女の身体に、輝レイが不時着陸した模様である。
『ちょっとー、今の眠兎くん? お客様の前で、変な声出しちゃったよー』
「ボクじゃないです!」
「すみません、私です。けど、ミニスカートをはいているママさんも悪いと思います」
『いいじゃなーい。わたし、まだ二十代よー』
ナーキッドの表面は、抗菌装甲によって電磁波を帯びている。それでΧ菌の接触を阻んでいるのだ。人体には、静電気の痛みが生じる。
「橙香、助けにいくね」
「いいえ、今撃ち抜いたところよ。それよりも、菌反応が急速に移動しているわ」
ボクは煇レイ視点から肉眼で、店内を見渡す。初老の男性が早歩きで三番席のグループへ近づいた。部活の顧問だったようだ。練習をサボっている生徒を叱っている。
一番席のフルバトーストに感染する危険が迫っていた。二枚の光量子機動翅をはためかせ、煇レイは飛行しながら武装を持ち替える。ピッチャーライフルを右腰に備え付け、反対側に提げている二本の刀へ両手を動かす。右は順手で、左は逆手で、柄を握る。
急行する最中、輝レイを襲った同種の怪獣カモメ、カンピロバクターΧが立ちはだかった。対話できない故、推して参ります。
抜刀、ピックブレード。超高温の熱刀で、二連撃の居合斬りを敵へお見舞いした。霧散したかを一瞥、カンピロバクターΧは露と消えていた。体勢を立て直す。煇レイの左手を回転させて、両方とも順手にした。突きの構えで、光の微粒子を噴出して推進する。
ウェルシュ菌Χは、お客様の服を根城にしている。放物線を描くように、下方から接近した。ナーキッドは人間の力で、手も無く潰れてしまう。歩行する足のアーチを掻い潜り、テーブルの地下空洞を昇って、服の生地すれすれで飛び、目標を捕捉。食べこぼし地帯に建つ、塔の姿をした生物。外壁をゲル状の莢膜で覆い尽くしているため、距離があるとピッチャーライフルの熱光線を無効化してしまう。殺菌方法は、粘質物を武器でぶっ刺すこと。
突貫、勢いに乗せて熱刀を莢膜へ押し込んだ。外壁まで到達して、超高熱で被膜を蒸発させた。二本の刀を左右に切り払い、こじ開けた。溶断した細胞の中、籠城していたΧの文字を見つける。
むすび流剣術・覇気双除。両側から真横に熱刀で挟み込んで核を切断した。ウェルシュ菌Χは跡形もなく崩れ落ちた。
煇レイは刀を鞘に納める。滅して、御免。
「ご苦労様、眠兎。私と交代しましょう」
橙香の命令に従う。引戸を開けて、霧吹きスプレーボトル型格納庫へ煇レイが帰艦する。消毒液の水面へダイブすると、整備班のナノマシンたちが集まってきてピッチャーライフルのエネルギーパック交換や機体修復を執り行う。
三番席の行く末が気になったので、覗いてみる。顧問の先生は教え子と相席して、くつろいでいた。角の取れた人柄のようで、談笑している。ボクも微笑む。この情景を未来の先まで残したいから、除菌士は戦っているのだ。
そうして午後の二時まで、ナーキッドは働き続けた。
輝レイと煇レイが向かい合って、アイコンタクトを送った。互いに、ピッチャーライフルの銃口を相手へと照準する。二筋の熱光線がすれ違う。背後にいたサルモネラ菌Χを討ち取った。喫茶フルバーストの店内宙域に、菌反応はゼロ。
「滅菌完了、オーダーストップ!!」
本日の業務はこれにて、終了。輝レイと煇レイを格納して、橙香とボクはフェイスシールドが上がったヘッドギアを外し、グータッチする。
隔離部屋からホールへ出ると、ママさんがソフトクリーム入りアイスコーヒーの差し入れを用意してくれていた。
「お疲れ様ー、橙香ちゃんと眠兎くん」
ボクらはお礼を申して受け取り、スプーンでご褒美にありついた。頭を使って操作するから、疲れた脳に糖分が染みる。昼休憩もなく、補給の合間にサンドイッチを口へ放り込んでいたから、ようやく味を楽しめるのだ。
腕捲りした男性が、厨房からホールへ足を運んだ。
「二人とも、頑張ったな!」
梅干野マスターである。その労いの言葉が除菌士の二人組に響くわけはなく、静まり返っていた。
橙香が純銅製マグカップをテーブルの上に置いた。片腕を引き、彼へ殴りかかる。溜まりに溜まった暗黒グーパンチが、むかつく顔面に直撃して視界を奪い、吹っ飛ばす。
「あれほど火を通せって言ったのに、やってくれたわね」
八重歯を剥き出しにして見下ろす鬼の化身、橙香お姉様。
床で悶える夫を、ママさんが抱きついて庇う。
「ちゃーくんを赦してあげて。お客様に喜んでもらいたかっただけなのー」
一番乗りのお客様へのサービス精神で、彼は張り切りすぎて、鶏胸肉の柔らかさを損なわない火入れに挑戦してしまうのだ。妻が口にする料理は失敗しないのだけれど、赤の他人だと気が緩むため、困った人なのである。
橙香は容認しない。
「ママさんが甘やかすから、調子に乗るのよ!」
ボクも提言する。
「ナーキッドがない時代でしたら、とっくの昔に潰れてましたよ、この店」
バカップルの雇い主たちに、反省の色は見受けられない。
「でも、暴力は駄目だよー」
「そうだぞ! パワハラしてると、結婚が遠のくからな!」
橙香の地雷を踏んでしまった。ボクは冷や汗をかきながら、彼女へ首を向ける。虚ろ目で微笑を浮かべていて、びくつく。
「はぁ? 何で私が男と結婚しないといけないわけ? 少子化なんて、知ったことではないわ。男が産めばいいのよ」
耳が痛いです。ボクは閉口する。
橙香はエプロンの紐を解いて、厨房の横にあるクローゼットへ歩き去っていく。ボクもこの後、用事があるから身支度しについていく。
除菌士のエプロンをかける彼女の小言が、耳に入る。
「零門さえいれば、私がキッチンを担当できるのに……」
「仕方ないよ、零門くんはエリートだもん」
喫茶フルバーストにはかつて、もう一人のスタッフがバイトとして働いていた。ボクの同級生であり親友でもある、蜜口零門。高校卒業を機に公務員となったので、辞めざるを得なかったのだ。それでも置き土産に、第一世代機だった輝レイと煇レイを改良していってくれたのだから、感謝しなければならない。
ボクと橙香の機体は、<ver1.5(ワン・ポイント・ファイブ)>。四捨五入すれば「2」だ。つまり、第二世代機に匹敵する性能で、火力と機動力を底上げしてある。初期モデルであるせいで、遠隔操作における若干の遅延までは直せなかったけども、Χ菌を倒すには十分だ。
「私はマスターの仕込み作業を監視しているから。任せたわよ、眠兎」
彼女からの信頼で、ボクの顔は綻びる。
「うん、橙香の分まで働いてくるね」
水色のキャスケット帽を目深に被り、出口へ向かう。
ドアノブに手をかけようとした。ママさんが「待ってー!」とボクを呼び止める。おもむろに頭の膨らみを手で弄り、整えたのだった。帽子のつばから、前髪が出る。
ママさんは頬に手を当て、見とれていた。
「さらさらのセミロング、女の子にしたいくらいのベビーフェイス。ねえ、眠兎くん。スカート、はいてみないー?」
この人も大概である。ボクは目を逸らした。
「……嫌です」
「えー、どうして!?」
「出稼ぎに行ってきます」
扉を開けば、そこは車が行き交う大通り。追い縋るママさんの泣き声を都会の喧騒で掻き消した。
3
菌死禍――。
Χ菌による感染症が流行する都心の現代を、新聞やインターネット上ではそう表現している。生鮮売場の店舗は減少する一方で、薬局は増加傾向。食事は家庭でも、ゼリー飲料を十秒で済ませる毎日。高額のナーキッドを購入している世帯は、極僅か。潔癖症になりつつある世論。六年前に比べて、食生活の常識が「細菌」の二文字で崩れ去っていった。
それでも人間は、温かい御飯を求めて、飲食店へと訪れる。ただし、都会で生き残っているのは、ナーキッドの重要性に先立って気づけた店主のみ。柔軟性を欠いた者は、バイ菌と運命を共にした。
ボクはスクランブル交差点の赤信号に捕まって足止めとなる間、ビルの屋外広告を眺めた。飲食店業界のトップである、戚利グループのロゴが壁面の映像に流れて、新型の滅菌汎用機を宣伝する。<ver3>の型番が際立つテロップ。思わず、独り言を呟く。
「輝レイと煇レイ、もう第三世代機がロールアウトされてる……」
戚利グループのCMは、その性能の高さをキャッチフレーズで締め括る。
『菌を殺すためなら、分身だってやります――』
ボクは苦笑する。
「そんな時代なんだあ」
お姫様の意匠で心惹かれるけど、きっと貧乏人には手が届かない値段だ。実戦投入するのはおそらく、行列ができる人気店からだろう。開発競争で格差が広がっていくばかり、これも現実である。
鞄を撫で、その中で眠る愛機へ語りかける。旧式であろうとも、ボクは頑張り屋の煇レイがお気に入りだよ。ずっと、橙香の輝レイを守っていこうね。
塞き止めていた人波を、青信号が放流する。ボクは出遅れてしまい、慌てて進み出す。
通りがけのショーウインドウに映り込む自分が目に入った。煇レイとお揃いの帽子、借り物ではあるけど気分が上がる。面接に合格して、ボクは幸運だ。
「君、もしかしてアイドルに興味ある?」
唐突の声かけに、心臓が飛び出そうになる。スーツを着用した青年が、恵比須顔で側にいた。
「驚かせて、すみません。実は、こういう者でして」
名刺をボクに渡す。巷で噂のナーキッド喫茶に勤める、スカウトマンのようだ。除菌士という職業が一般化した世の中、コンセプトカフェとしてお客様に推してもらうやり方がある。仕事内容が実力主義であるため、就職難の乙女たちへの救済措置となった。
その反面、顔面偏差値というカースト制度で成り立っているとも聞く。
「君の可愛さなら、この菌死禍でみんなを癒す女神になれると直感したんだ。力を貸してくれないかな?」
多分、女の子だと識別している。ボクは返答できず、心破れの記憶が甦ってしまう。「何だ、男かよ……」体操服の男子中学生が、合同レクリエーションのドッジボールで突き放す光景。過呼吸となり、過ぐる日の乱暴を受けた腕は、麻痺した。
「――悪いが、その子はうちの従業員なんだ」
女性のハスキーボイスが割って入る。
「引き抜きは、遠慮願う」
日本人の骨格に合ったアジアンフィットのサングラスと、支給品の春コートで完全武装する彼女は、スカウトマンを威圧する。胸に並ぶ「Cafe & Restaurant Secure」の名称を直視して、ライバル会社の男性は逃げ出した。
知り合いと会えて、ボクは安堵する。
「ありがとうございます、楪さん」
「これも仕事の一環さ。さあ、私が送っていこう」
楪薫子、掛け持ちしているバイト先の人事担当だ。その背中についていき、彼女が受け持つ支店へ出勤する。
戚利グループがチェーン展開するブランド店、カフェ&レストラン・セキュア。ターミナル駅や高層建築物に店舗を構えて、都心の王者として君臨する飲食店だ。除菌士を抱える規模は県内トップで、倍率は国家公務員に名だたる食品防衛部隊と同格。入社できれば、勝ち組だった。
ボクは誰もいない更衣室で制服に着替える。ジェンダーレスを掲げた会社方針だから、男女兼用のパンツスタイルで右肩にリボンの飾り付き。志望した動機の一つだ。キャスケット帽は社員を判別する目印であり、通勤の間だけである。
部屋から出ると、外で見張っていた楪さんが「やはり、似合っているな」と賛辞を呈する。いくつになっても、褒めてくれる人は大好き。
店内の中二階へ上がり、先輩とシフトを交代する。C&Rセキュアは除菌士を、下層で飲食するお客様の目につかない場所へ配置する。そうやって、菌死禍の憂いを一時でも忘れて頂くのだ。ヘッドギアのフェイスシールドが戦闘態勢に入り、霧吹きスプレーボトル型格納庫のトリガーで、煇レイは出撃した。
隣の女子が悲鳴を上げている。臨時のバイト店員で実戦慣れしていないせいか、複数のサルモネラ菌Χが巻きつく拘束に遭っていた。
救援に馳せ参じた煇レイが二刀流のピックブレードで、細菌のヒュドラを退治する。急降下の一閃で二匹を斬り伏せ、折り返して残りの半分を斬り上げた。蝶のように舞い、蜂のように刺す、妖精の騎士。バイト女子は殲滅主力機のカメラアイで見惚れていた。
操作している子に言葉を掛ける。
「大丈夫だよ。ボクがサポートするから」
「氷上くん……、助かる!」
バイト先の除菌士は、ボクを苗字で呼ぶ。距離を感じるぐらいが、むしろ人間関係に苦悩しなくて楽だ。
休憩する二人組の女子がひそひそ話をしている。
「ねえ、氷上くんって可愛い系だけど、頼りになってかっこよくない?」
「そうね、厨房の男どもとは大違い。あいつら、わたし達に守られてるくせして偉そうだし」
「彼女とか、いるのかな?」
「もしかしたら、彼氏かもよ?」
ボクはゴシップの対象か。喫茶フルバーストのキッチンスタッフだったとき、お客様より経験済みだから気にしない。
C&Rセキュアでは、午後三時から六時までのシフト表に加わっている。日給一万円のお仕事。大企業さまさまだ。総帥が代替わりしてからは、年功序列から成果主義に転向したと聞き及ぶ。
戚利グループは三つの業種に着手している。OEM(相手先ブランド名製造)供給した滅菌汎用機の開発事業、C&Rセキュアの全国展開を目指す飲食事業、除菌士学校を各地域に設置する教育事業。Χ菌の抑止力となったことで、日本の都心において菌死禍の救世主だった。
日払いの封筒を鞄に入れて、胸が踊る。これでまた一歩、橙香とボクの夢に近づいた。喫茶オレンジセントを再建する。そうすれば、あの人だって帰ってきてくれるはず。
「眠兎くん、良かったら少し一服しないか?」
楪さんが裏口から帰宅しようとするボクを誘った。大人のデートみたいで、胸がときめいてしまう。
開放感のある店内に位置する窓側席、夜の帳は都会をネオン街に色付かせた。彼女がコーヒのブラックを啜り、ボクはと言うとカフェオレに砂糖を混ぜてスプーンで撹拌していた。
「君には感謝している。うちの子を支えてくれているからね」
セキュアで見せた戦いぶりのことだろうか。ボクは照れ笑いする。
「そんな、煇レイのお仕事を全うしてるくらいですよ」
「謙遜しなくていい。君は特別だ」
御礼を言いたいのは、ボクもだ。正社員でなくても頻繁に依頼してくれて、レギュラーメンバー待遇だった。これも彼女の計らい。雇い入れた除菌士に水色のキャスケット帽を着用させて、通勤中のトラブルがないよう巡回する、社員想いな方である。
「ナーキッドを操るには、才能がいる。傾向としては、お人形遊びをした経験がある者ほど適正だ。故に、女性の割合が多い。君が良く知る、食衛隊の元エースである大葉小隊長も女性であるしな」
食品防衛部隊の略称、食衛隊。その生ける伝説こそ、ボクと橙香に零門くんの師匠、たった一人で分隊相当の戦果を叩き出したと謳われる<イエローバンダナ>だ。本人にとっては黒歴史だから、異名を呼ぶの禁止であった。
「その弟子とあれば、喉から手が出るほど欲しい人材だ。本当は彼女も雇いたかったが、上層部が納得してくれなかったものでね」
「相棒の橙香は、菌を殺すことしか頭にない系女子ですので、不採用が正解です」
照準の微調整はAI任せの二流、反抗期の真っ盛りで独断行動が引っ切り無し。これで大企業に就職できたら、びっくりだ。普段、口に出せないから好き勝手を言いまくる。
「橙香くんとは相変わらず、仲が良いみたいだね」
「どうでしょう、どちらかと言うと片思いしてる気分です」
楪さんは頬笑み、ボクの冗談を大人の対応で受け止めてくれる。
「実は話したいことがあって、君に時間を割いて貰った」
懐のポケットから、チラシを差し出した。C&Rセキュアが主催する、カフェテラス・イベント。五年ぶりの屋外飲食を実現するため、他店舗からも除菌士を募集しているそうだ。開催場所は、市内の総合公園。防衛作戦は半日がかりで行う。
「お手伝いしましょうか?」
「いいや、その逆だ。眠兎くんは参加しないでほしい」
ボクは予想外の申し入れで驚く。
「テラス席の本場である、フランス企業の社長が視察しようと来日される。高額報酬である通り、常にΧ菌が押し寄せる死闘だ。もしも失敗したら、君のキャリアに傷がつくかもしれない。守りたい店が、あるのだろう?」
会社の利益より、ボクの将来を心配して下さるのだ。彼女は立ち上がり、伝票を手に取る。
「ボクが払いますよ!」
「気にしないでくれ。君との時間は、とても楽しいんだ。また、お茶しよう」
会計を済ませる楪さんの背中に、心が高鳴った。話しやすくて、程よく気にかけて、人前で着替えたくない事情を理解の上、手助けしてくれる。
これって、恋なのかな……?
電車で二十分、ボクは梅干野夫妻の店舗付き住宅へ帰り着く。裏口の玄関から入ると、ママさんが霧吹きスプレーボトル型格納庫を片手に同居者を出迎えた。
「おかえりー、眠兎くん」
フェイスシールドより、満面の喜色を浮かべている。お昼にボクが冷たくしたことは怒っていないようだ。
「菌反応なし、上がっていいよー」
「あの、ごめんなさい……」
「ん、なにがー?」
「ここで住まわせて頂いてるのに、刃向かっちゃったから」
彼女の顔色は変わらない。
「女装のことー? わたしは諦めてないから、気が向いたら教えてねー」
裏を返せば、自由に決めて良いということだ。この人のお気楽さは、好感が持てる。
ママさんは配備していた機体を帰艦させた。フェイスシールドに映る二つの光点が消える。彼女の特技である、ナーキッドの二機同時操作だ。
梅干野むすび、旧姓は大葉。ボクたちを一人前の除菌士に鍛え上げた大先生であり、結婚をして食品防衛部隊から名誉除隊したトップエリートでもある。三年前までは軍人気質だったけど、疲れたから止めた、と自ら語っている。
「そう言えば、五時頃に零門くんが来てくれたんだよー」
「え? じゃあ今、中に!」
「もう帰っちゃったけどねー」
ボクは落胆する。彼は今年の春、食衛隊に志願して訓練で会えなかったのだ。ようやく終了したかと思いきや、最前線の部署に配属となったから足が遠のいてしまった。
「会いたかったな、零門くん……」
「それでー、お話は協力要請だったのー」
デジャブが起こる、食衛隊とは関わったこともないのに。キッチンとダイニングがくっついた居室へ階段を上ると、橙香は椅子に座ってチラシと睨めっこしていた。晩御飯の調理に興じる、梅干野マスター。日常風景の均衡を崩したのは、ボクの相棒だった。
「眠兎、さっそくだけど次の日曜日の予定を空けておいて」
ボクは戸惑う、話が見えなかった。
橙香がチラシを持ち上げて、提示する。それは楪さんが警告したカフェテラス・イベントの募集と同一のものだった。重要項目を指差す、報酬金額は一人当たり二十万円。
「ママさんもどうですか? お店のリニューアルで大金を使うし、足しになりますよ」
経理担当が悩む素振りをする。喫茶フルバーストの財布の紐を握ってるのは、ママさんなのだ。さらに(恩を売っておいた)食衛隊の元上司から、型落ちした滅菌汎用機を譲り受けていた。
「おれオリジナルのスパイスカレー、出来たぜ」
空気の読めない梅干野マスターが、食事タイムをお知らせする。ママさんの決心は固まったようだ。
「わたしはパス。引退しちゃったしー」
夫の腕に抱きついた。
「ちゃーくんと出会って、気づいたの。誰かがお家でご飯を作ってくれるのって、幸せなんだよー」
個人経営の喫茶フルバーストで、お腹いっぱいなのだ。それが、むすび流・武士の一分。
「二人がお休みなら、お店も臨休にして、ちゃーくんと配信中の映画でも見よっかー」
「そうだな、オススメは<自由と正義の戦士>だぞ!」
永遠の新婚気分たちが盛り上がる一方、ボクは心のわだかまりに苦しんでいた。
夕食後、自室で実家の固定電話と携帯を繋いだ。
「うん。橙香も元気にしてるよ、パパ」
除菌士学校でライセンスを取得して、ボクは喫茶フルバーストのバイト店員から住み込みの正社員へ転身した。前妻を亡くして傷心の父親が不安がらないよう、小まめに連絡しているのだ。
パパは息子に質問した。気になる女性はいないのか?
「……」
橙香と楪さんが浮かび上がる。しかし、タキシード姿の自分を想像して、待っている先の未来は暗闇に沈んでいった。
「ううん、いないよ。明日は早いから、もう寝るね」
逃げるように通話を切った。携帯をベッドへ投げ捨て、ウサちゃん人形に抱きついて寝転がる。
「ごめんね、パパ……」
アルベルト・アインシュタインはこう指摘する、「常識とは、十八歳までに身につけた偏見のコレクションである」と。だったら、ボクは断捨離したい。良い子で塗り固めた美術品を売りに出します。まずは優しい嘘を0円で。落札はございませんか? わたくしめの裏表がなくなりますよ? 続きましては、性別に合った服装です。この社会通念を買い取って頂ける政治家様は、いらっしゃいませんか? 今なら、投票者付きですよ?
ウサちゃん人形を天井へ掲げた。楪さんの言葉を心の拠り所にして生きようと、自分に暗示をかける。
「お人形遊びが得意な男の子は、最強だもん」
庇護者のママを奪った世界でだって、Χ菌なんかに負けたりはしない。
開扉する音が、聖域を脅かす。
「眠兎、武装の相談なんだけど――」
ボクは飛び起きる。侵入者の正体は、橙香だった。
「ノックなしで入ってこないでよ、お姉ちゃん!?」
彼女は呆れ顔で、本性丸出しの相棒を見やった。
「あなた……十九歳だってのに、まだウサちゃんを抱いて寝ているの?」
「いいでしょ、ボクの勝手だもん!」
涙目で訴える。取り上げないで、これはママの形見なの。
橙香は察したようで、半眼が仏様の表情になる。
「取って食ったりしないわよ。それより、日曜日は煇レイも火力重視に換装したらどうかしら?」
その提案は橙香の十八番であるが、道理にもかなっている。カフェテラス・イベントは防衛戦、Χ菌をお客様の付近へ到達させてしまった時点で敗北なのだ。敵軍のど真ん中で戦い続けるなら、熱刀の各個撃破よりも殲滅戦向けの砲手を増やして、日本史における長篠の戦いで大勝の決め手となった三段撃ち戦法を真似るべき。攻めのタイムロスが削減して、阻止線を維持できる。
でも、ボクは楪さんの厚意を無視できなかった。
「ねえ、橙香。この作戦、嫌な予感がするよ……」
「Χ菌相手に日和るなんて、珍しいじゃない?」
彼女にも、カフェテラス・イベントが高額報酬である訳を説明する。
「バイト先で聞いたよ、フランス企業の社長がいらっしゃるって。この御時世で外国から苦情が来たら、ハジカミさんのお店を建て直せなくなっちゃう」
彼女のお父さんが行方不明である現在、ボクらの数少ない希望を失ってはならない。
橙香の瞳が鋭くなった。
「そんなものが怖かったら、店を開けれないでしょ!」
「ボクが頑張るから、こつこつ貯めていこうよ、お姉ちゃん!」
「私を姉と呼ばないで!!」
挙げ句の果て、彼女の逆鱗に触れてしまった。
「昔、あなたに優しくしてあげたのは、女の子だと意識していたから。私は眠兎を、家族とも、好きとも思っていないわ。戦わないのなら、赤の他人よ」
そう言い捨て、橙香は扉を叩くように閉める。
置いてけぼりのボクは、一歩も動けなくなった。
4
女の子に生まれたかったと、真剣に嘆いたのは小学六年生の秋だった。
深夜の自宅、居間で鳴り響くパパとママの口論から目を背けようと、布団に潜り込んで震えていた。
「セーラー服を着たら、眠兎がクラスでいじめられるだろ!? 今だって、馴染めていないんだぞ!」
「貴方は、食べることが大好きな女を選んでくれたのでしょ!? この子にも、好きなことをさせてあげなさいよ!」
価値観の違いによる摩擦は、家族間でも衝突を起こし、争いの火種となる。双方とも非などないのに、愛し合っているのに、子供を守りたいだけなのに。
勝敗は芯の通ったママに軍配が上がり、ボクはセーラー服を購入できた。しかし、パパへの後ろめたさを拭いきれず、予備の学ランも用意した。
そして案の定、ボクは中学校で孤立してしまう。クラスメートからは腫れ物扱い、教師陣も食い道楽モンスターペアレントに手を焼いて混乱。思春期に、生物学上の性別が男の子だと教育現場で女の子として生きるのは、困難であると痛感した。
一学期末の三者面談で日常生活の改善方針を固めようとした矢先、その悲劇は起こった。
異形のバクテリアにより、緊急事態宣言が発令。医療機関での治療法が確立する前にママは、出血性と凝集性を併せ持ったハイブリッドΧ菌に感染してしまったのだ。急性腎不全での早世、ボクには理解が追いつかず、現実を受け止めきれなかった。
それはパパも同様で、葬式の際に放心して涙を流していた。お線香を絶やさない寝ずの番につくときは、ボクが代わりに上げる。この儀礼には、故人の魂が冥土へ迷わず行くための道標とする役割があった。
また、没後に食べられるのは香りだけという謂れがあり、<故人のごはん>でもあるのだ。善行を積み重ねたママにはせめて、空腹になってほしくない。大好きな食事ができますよう、ボクは眠気に負けず、最後まで担った。
火葬を執り行う予定の朝になっても、パパは妻の棺から一時も離れなかった。ボクは決心がつき、棚の奥に保管していた学ランを取り出す。
「……パパ、元気だして」
彼は振り向き、我が子の出で立ちに目を見開いた。
「ボク、良い子でいるから」
父親の精神的負担を軽くしたくて、自分が原因である揉め事に終止符を打つ。
この日、ボクは女の子でいることを諦めた――。
喫茶オレンジセントの店先へ訪れる。扉の貼り紙「閉店のお知らせ」を、憎悪の落書きが取り巻いていた。不運にも、Χ菌感染症の第一例目が稲餅さんの料理だったのだ。
胸を痛めて、うずくまる。女装するボクを庇護してくれていた人たちが、立て続けに消えていく。災いを呼び寄せてしまうほど、悪行だったのだろうか。
「ミント……ちゃん?」
その声に、顔を上げた。黒髪とセーラー服が調和した女子生徒。大人の雰囲気になったが、その美顔を忘れたりしない。
「トウカお姉ちゃん……なの?」
小学校を卒業して、中学が別々となった稲餅橙香。信じられないものを見る目で、ボクを正視する。
「男の子……だったの?」
学校帰りであったから、制服のまま。ボクは罪悪感を覚える。男子に辛辣である彼女が知ってしまえば、交遊関係は潰えてしまうだろう。それが怖くて、真実を打ち明けられなかったのだ。
「泣いてるの? まさか、いじめ!?」
歩み寄る彼女に、幸せだったあの頃を思い出して、ボクは泣き崩れてしまった。
「誰がやったの? とっちめてやる!」
「ママが……バイ菌のせいで……」
彼女はそのワードで、すべてを悟ったようだ。
「うそ、御月さんが……」
憂い顔で悔やむ。
「美味しそうに食べる、いいお客さんだった。私もね、大切な人がどっかへ行ってしまったの……」
後に教えてもらったが、失業したお父さんが署名済みの離婚届けを残して、音信不通になってしまったのだ。疫病神のレッテルで、妻と娘を巻き添えにしないため。橙香も学内で父親への悪口に遭い、同級生と争ったらしい。
「知ってる? ニュースでね、すごく小さなロボットが活躍して、あの化け物を駆逐しているそうよ。大企業の寄付で、その機体を操るための専門学校ができるわ」
彼女は立ち上がって、ボクへ手を差し伸べた。
「二人で一緒に、悪い菌をやっつけよう!」
逆光を受けながら微笑みかける彼女の眼差しは、まるで女神様のようだった。生きる道標がここにある。手を取り合って、Χ菌との戦いに身を投じた。
その愛情さえも、社会の荒波が攫っていった……。
除菌士学校へ進学して、橙香が三年生、ボクが二年生となったある日のこと。
「眠兎のパパと結婚するなんて、聞いてない。お父さんを愛していたんじゃなかったの!?」
ボクは狼狽えて、声を発せずにいた。氷上家に橙香のお母さんも招き入れた四人で団欒していたところ、親同士が陰で付き合っていた事実を知ったのだ。
「貴女をあの学校へ通わせるのに、貯金はもうないの。奨学金だって返済しないといけないから、自分の首を絞めるわよ!」
「お母さんの先入観で、決めつけないでよ!!」
パパも口を挟めないでいた。推察するに、橙香のお母さんとは趣味の話で楽しげだったから、愛し合って決めたことだ。学費を論題に出したのは、悩みの種となっていた娘の反発による失言だろう。
橙香だって、ボクのパパを嫌ってなどいない。母親を赦せないのは、お父さんの存在が自分の人生であること、一途さの反動からだ。
ボクは宥めようと、手を伸ばす。
「お姉ちゃん……」
「私は姉じゃない!」
彼女は振り払い、我に返った。痛がるボクを目にして、涙ぐむ。
「わかった。お母さんがそのつもりなら、家から出てってやる」
橙香は荷物も持たずに、夜の街へ飛び出していった。
一時間が経って、彼女のバイト先である喫茶フルバーストから電話がかかってきた。娘さんが来て、うちで預かってますと。ボクは無事を確認できて、ほっとする。
「そうですか。梅干野さんのお家なら、気が休まります」
お母さんは涙声で吐露する。
「あの子の気持ちが分かりません。どうして、お父さんの店にこだわるのか……」
ボクには解る。橙香は食い道楽のママと似た、信念があるのだ。好きなものに素直でいられる喜び。それは何事にも代え難い、幸せだった。
襖の裏で独り、一筋の涙を溢した。羨ましいなあ……。
5
カフェテラス・イベント、当日の早朝。
喧嘩したあの夜から、橙香とはまともに話せていない。最低限のやり取りで除菌士の仕事をこなし、「おはよう」や「おやすみ」と話しかけても無反応だった。
自室の机に飾った写真立てを手に取る。除菌士学校に特待生で合格したボクへ、先輩となった橙香が肩を組んでいた。その相手がスラックスをはいていても、お構いなしに。
「……嘘だよ。橙香は変わらず、ボクの味方になってくれたもん」
彼女はすでに、開催地である市内の総合公園へと出発していた。下駄箱にランニングシューズがなかったから。
霧吹きスプレーボトル型格納庫で出撃待機する煇レイをショルダーバッグに連れて、階段を下りる。今ならまだ間に合う。ローファーを履いて、ひとりぼっちの相棒を追いかけた。
悪い菌をやっつけることが、橙香とボクを繋ぐ唯一の絆だから。