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煙みたいに残る Smoldering  作者: 梅室しば
一章 また初夏がやって来る
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波立つ事のない、自然な冷たさ

 史岐の車でアパートまで送ってもらい、シャワーを浴びて、眠くなるまでベッドで読書をしてから明かりを消した。

 部屋を涼しく保つ為に動かしているエアコンが低く唸っている。その向こうには、街の寝息が聞こえそうなほどの静けさが広がっていた。

 利玖のアパートは、潟杜大から北に向かって勾配のきつい坂を上った先にある。市街地の末端にあたる場所で、ひときわ起伏が激しく、道も入り組んでいる。住宅の他にある建物といったら、いつ出番があるのかわからない公民館と、哀愁漂う雰囲気のコンビニエンスストアぐらいのものである。街灯の少なさも手伝って、夜になると不審者が潜む物陰の見本市といった様相を呈するが、そもそもの住民の数が少なすぎるせいか、入居して以来物騒な話は一度も流れて来なかった。


 いつもは気にならない、エアコンの内部でカタカタと何かの部品が立てる音がやけに耳についた。

 さっきまで読んでいた本に、史岐と似た雰囲気の男が出てきた。眠ろうとしても、その事ばかりを考えてしまった。


 彼との出会いは決して良い物ではなかった。むしろ、最悪の部類に入ると言っていい。バンドサークルの部室を訪ねた時、人を呼べないように鍵を掛けられて、灰皿を蹴り倒して脅された時は本当に怖かった。

 だけど、今になって思い返してみると、彼も起きてしまった想定外の事態に対して、何とかそれ以上騒ぎを大きくしまいと必死になって慣れない真似をしていたのだ、と思う。

 声を失い、呆然としている利玖を見つけた時、馬鹿正直に「口移しでしか元に戻せない」と史岐は伝えたが、初対面の異性にそんな事を言われて、首を縦に振る人間などいないだろう。自身の見目の良さを計算に入れていたという可能性も、ないではないが、そんな狡猾さがあるのなら、初めからたまたま通りがかった善良な他人を装って、医者に連れて行くふりでもして車に乗せてしまえばよかったのだ。『五十六番』の存在が明るみに出る前に利玖の口を封じてしまいたいのなら、その方がずっと事は簡単に済んだ。


 それが出来なかった彼の気質を思うたびに、何かがふっとほどけるような温もりが湧くけれど、同時に今の状況がとても不思議に思えてくる。


 鬼神よりも恐ろしい利玖の兄に釘を刺され、家同士の正式な和解も成立しているけれど、それでも、過去の行いが互いの記憶から消えるわけではない。『五十六番』の存在を秘匿する為に、一度は非情な手段を選ぼうとした己の暗い面を見せた事で、かえって史岐は、二人で会っている時には体面を取り繕わなくても良い、と思ってくれているのか、利玖の前ではいつも、どこか諦念にも似た、平らなひややかさを纏っていた。

 利玖もそれが嫌ではなかった。あれこれ気を遣われて、自分の話す事に一から十まで返事をされるよりも、好きに煙草を吸い、コーヒーを飲みながら、大学の課題を進めたり本を読んだりして、気が向いた時には利玖との会話に応じる──そういう距離の置き方が、利玖はちょうど良かったし、安心できた。


 自分達の間にあるのは、波立つ事のない、自然な冷たさだったけれど、それでも時には、その程度の熱量しかないのにこうやって何度も会ってくれる事に対して、なぜ、と思う日もある。

 しかし、それを考えようとするたびに、利玖は死角からふいに喉をつかまれたような息苦しさに襲われた。


 息苦しさが増すにつれて、耳をふさいでも決して消えてくれない音が鼓膜の奥から響き始める。

 水底に引きずり込まれ、影になって消えていく誰かの肺から、空気が泡になってごぼ、ごぼっと絞り出される音が。


 利玖は、身をよじるようにサイドテーブルに手を伸ばすと、照明のスイッチを探り当てて常夜灯を点けた。


 喉の内側が焼けつくように痛みを持っている。

 (くら)い橙色の明かりの中、うつむいたまま息を整え、ゆっくりと体を起こして膝を抱えた。


 口元に手を当てると、指がかすかに震えていた。

 こわばって、冷えた指先から、自分は何かを感じ取ろうとしていたように思えたけれど、そこからはただ使い慣れた石鹸の薄い匂いがするだけだった。

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