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煙みたいに残る Smoldering  作者: 梅室しば
一章 また初夏がやって来る
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五月が残していったもの

 廊下の突き当たりにある通用口から、研究棟の外に出て、階段を下りた。その先に広がる、砂利敷きの駐車場を突っ切って、ぎゅうぎゅうと園芸品種を詰め込んだ狭い中庭を通り抜けると、白い外壁の建物が見えてくる。以上が、神保研究室と生協の売店を結ぶ最短経路だった。

 煙草を吸うだけなら、わざわざ外に出て歩かなくても他に場所はあるのだが、とにかく外界からの刺激を取り入れていないと思考がまとまらなかった。

 人気のない裏口に、自立式の灰皿を置いただけの簡素な喫煙所に立って、一本目の煙草に火を点けた時、無意識に、

「熊野史岐か……」

と呟きが漏れた。

 名前まですっかり忘れていた。利玖以外の人間の口から聞いていたら思い出せなかったかもしれない。

 今年の五月――つまり、二か月と少し前に妹を襲った災難は、間違いなく許しがたい出来事であったし、今でも匠は、利玖の要請さえあれば史岐を殴ってもいいと思っている。だが、彼自身も他にあれこれと抱えている事があって、一応は解決したその事件に対する関心は、時間が経つにつれて徐々に薄らいでいった。


 利玖が声を取り戻してから一週間と経たないうちに、史岐は、当主である父親とともに佐倉川家を訪れた。

 (たいら)梓葉(あずは)との婚約が解消されたと聞かされたのも、その時である。

 来訪の日取りは事前に知らされていたので、匠は利玖も連れて帰って来ていたが、利玖は話し合いの場には現れなかった。

 顔を見るのも嫌だとか、腹の虫がおさまらないとか、たぶん、そういった理由ではなく、その時には『五十六番』にまつわる一連の出来事は利玖の中では綺麗に区切りがついていて、今さらどんな風に振る舞って良いかわからなかったのだろう。実際、アパートに送り届ける車中でも、両家の間でどういう話がされたのか、訊かれもしなかった。

 利玖はすっかり以前の調子を取り戻して、臼内岳(うすうちだけ)での実習を筆頭に学業に精を出している。兄としても、学科の上級生としても誇らしい限りである。それがまさか、自分の知らないうちに、熊野史岐とそんな関係になっていたとは……。


 ため息をつき、匠は短くなった煙草とともに、馬鹿らしい考えを捨てた。

 利玖は「食事をする」と言っただけではないか。彼女の性格からして、恋人として交際を始めたのであれば、遠慮無用と匠の所にも報告しに来たはずである。何なら、その場に東御汐子がいたって構わなかっただろう。それをわかっていながら、一体何をあれこれと勘ぐって、気を揉んでいるのか……。


 しばらくぼんやりとした後、匠は二本目の煙草に火をつけた。

 二十年近く同じ家で育ってきた妹の性格はよく知っている。

 だが、共通の試練を経験して全国から集まった学生が、何種類もの共同体(コロニー)に振り分けられ、四年間にわたる交流が生まれる、大学という特殊な環境が未成熟な若者に与える影響の大きさもまた、匠はよく知っていた。

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