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煙みたいに残る Smoldering  作者: 梅室しば
二章 荒天の縞狩高原 
15/23

本当に鹿ですか?

 締め付けのない服に着替えて、柔らかい布団に入った途端、あっという間に意識が遠のいた。

 目が覚めてから、利玖は自分がすっかり眠り込んでいた事に気づき、慌てて辺りを見回したが、幸い、窓の外はまだ夜の暗さを保っていた。

「起きたかい」

 広縁との境に置かれた(つい)(たて)の向こうから、匠が顔を覗かせた。

「今、何時ですか」

「悪かったね。おまえの部屋に行くには、他の女子部員の部屋の前を通らないといけなかったから、ここに連れて来るしかなかった」

「出かけます」

 起き上がって、クローゼットから上着を取り出そうとすると、匠が大股で歩み寄って来てその手を押さえた。

「待ちなさい」

「約束しました。ちゃんと聞くと……、だから……」

「汐子さんが抱えている問題の事なら、もう訊いた」

 利玖は、(がく)(ぜん)として匠を見上げた。

「どうして……」

「昼間のあれを見たら、誰だって気づくさ」

「そんな話をしているんじゃありません!」

 利玖は兄の手を振り払って、叫んだ。

「気づいていたのなら、なおさら、どうしてわたしや史岐さんに何も言ってくれなかったんですか。兄さんは、いつもそうやって……、何もかも、先取りして……、相手がどう思うかなんて、考えもせずに……」

「おまえらしくもない事を言うね」匠は緩慢な動きでクローゼットの戸を開き、利玖の上着を取り出す。「部屋に戻って、もう寝なさい」

 利玖は唇を歪めた。

(おまえらしくもない、だって……?)

 今の自分が、普段と様子が違っているというのなら、兄は完全におかしくなっている。

「汐子さんは、何を話したのですか」

「利玖」

淺井(あざい)瑠璃(るり)さんは今、どうしているのですか」

 匠の動きが止まった。

 利玖の上着を掴んだまま、長いことクローゼットの中を見つめていたが、やがて、上着を寄越しながらきっぱりとした声で言った。

「どちらか一つだ。選びなさい」

「…………」

「まあ、いずれにせよ長い話になる」匠は指で眼鏡を押し上げ、クローゼットを閉めた。「茶を()れておくから、その間に決めなさい」

 利玖は、何も言えぬまま、やり場のない怒りをぶつけるように両手で上着を握りしめた。

 いつの間にか、きつく歯を食いしばっていた。

 腹が煮えて仕方がなかった。自分がどちらを選ぶかわかっていて、そんな提案をしてくる兄にも、それをわかっていながら兄の思惑通りになるしかない自分にも……。

 深呼吸をして、利玖は、手の力を抜いた。

 今さら、それが何だと言うのだ。兄に対してこの程度の事でいちいち腹を立てていたらきりがない。どうやら今の自分は、本当に平常心を欠いているらしかった。

 上着に袖を通しながら、利玖は、匠の前に座った。

「約束を優先します。汐子さんの話を聞かせてください」

「うん。わかったよ」

 匠は二人分の茶を湯呑みに注ぐと、東御汐子の身に起きた一連の現象について語り始めた。


 事の発端は、一か月ほど前、東御汐子と梶木智宏が下見の為にこの縞狩高原を訪れた日にある。それは、汐子が神保研究室を訪れるよりも前の出来事だった。

 二人は汐子の所有する車で縞狩高原を訪れ、帰り道の運転も汐子が行っていた。暗い山道を走っているのは、汐子の車一台だけだった。

 スピードは、ほぼ法定速度だったが、曲がりくねった道にぼうぼうと夏草がはみ出して、見通しが良くなかった。

 あるカーブを曲がった時、汐子は、草むらから飛び出してきた影を避けるのが間に合わなかった。

「まさか、人ですか?」

「いや。汐子さんが言うには、鹿のような獣だったそうだ」

 匠は茶をすすった。

「それとなく梶木君にも話を聞いてみたんだけど、彼はぶつかった瞬間を見ていない。昼間、運動場の草むしりをした疲れで、助手席で眠っていたそうだ。急ブレーキに驚いて目を覚まし、隣を見ると、汐子さんが青ざめた顔でハンドルを握りしめて固まっていた。二人で道路に降りて、何か残っていないか確認したけど、見つかったのは数滴の血痕と、割れたヘッドライトの破片だけだった」

 しかし、それは始まりに過ぎなかった。

 汐子はそれ以降、潟杜(かたもり)に帰った後も体に付き纏う異臭に悩まされるようになる。吐き気をもよおすほどの獣臭さは、シャワーを浴びても、部屋の換気を行っても消える事がなかった。

 友人達の反応から、汐子は、その臭いが自分にだけ感じ取れる物だと気づく。

 慣れない香水をつけて鼻を誤魔化していたが、やがて、臭いだけではなく、特に一人でいる時に、背後に何者かが忍び寄る気配や足音を感じるようになった。

「……その極めつけに、昼間の騒ぎだ。一人で抱え込むには限界が近かっただろう。おまえは、いいタイミングで声をかけたよ」

 利玖は黙っていた。

 考え事をする時の癖で、手近にあるちょうどいい柔らかさの物体を両手で掴み、握っては、少し指の力を抜くという動きをくり返している。今日は、彼女がさっきまで頭をあずけていた枕が手中にあった。

「罪悪感から、幻聴や幻嗅を起こした……、と考えるのが、最も妥当なのでしょうね」

 利玖は、ぽつりと言った。

「すると、今日の僕らは集団ヒステリーを起こした事になるかな」

「ええ。……ですが、それ以上に、何か()に落ちません」

 利玖は枕に鼻先を押しつけて目をつむった。

「山道で車を走らせている途中に野生動物と接触するという事例は、特別珍しい事ではありません。むしろ、県内出身者の学生なら、車に()ねられた動物の死体を一度も見た事がないという人の方が少ないのではないでしょうか」

「自分が車をぶつけたせいで死なせてしまった、となれば、話は別なんじゃない?」

「死体を見ていないのでしょう? 二人とも……」

 利玖はそこで「あっ」と目を開いた。

「……兄さん」

「何?」

「本当に鹿ですか?」

「記憶に残りやすい外見の特徴は、ほぼ一致する」

 匠は茶を煮出す為に、急須の蓋を取ってポットの下に置いた。

「ただ、首の先に、老人の顔がついていたそうだ」

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