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煙みたいに残る Smoldering  作者: 梅室しば
二章 荒天の縞狩高原 
14/23

熱い。そして柔らかい。

 耳の奥でおびただしい数の羽虫が飛び交っている。

 そう感じるくらいに壮絶な耳鳴りだった。あまりに音が大きいので、実際に何かが鼓膜の内側に入り込んで、細い脚の先でひっかいている気さえする。

(あんな顔……)

 見た事がなかった。──いや、ほんの数分前まで自分が持っていたすべての記憶の中では、一度も見た覚えがなかった、と言った方が、今は正確だ。

 あの瞬間、肉の焼ける臭いも、部員達が騒ぐ声も耐えがたく苦痛に感じて思わず食堂を出てしまったが、その後どうするかは全く考えていなかった。体がこんな状態で、部屋まで帰り着けるとは思えない。

 どこか近くに、横になって休めるような場所がなかっただろうか……、と記憶を辿りながら壁伝いに歩き、ロビーに出た。

 ぽつんと点いている明かりの下に、昼間使ったソファがあるのを見た途端、気が緩んで、ずるずるとその場に座り込んでしまった。

 ぎゅっと体を小さくして、かまくらを作るように手を丸めて口に当てた。

 路地裏の喫茶店で史岐と過ごした、あの日の夜にも取っていた行動だった。


 唇が指先の熱を拾う。

 自分の手は熱い。そして柔らかい、と感じる。


 そう……、自分は、この感覚を思い出したいのだ。

 助けが来るまで必死に握っていた、誰かの手が、関節をぜんぶ石膏で固めてしまったように硬くなって、ほんのわずかに指を曲げさせる事さえ出来なかった。

 さすっても、揉んでも、皮膚は、骨の芯まで地下水が染み込んだように冷たいままだった。水から引き上げて、名前を叫んで体を揺すっても、熱が戻る気配はなくて……、だから……。


「──利玖ちゃん!」

 史岐の声がした。

 はっ、と息をした拍子に喉がひきつって、利玖は激しく咳き込んだ。

 後ろから誰かが駆け寄ってくる足音がして、すぐ隣に、史岐が履いているジーンズの膝が見えた。

 今、どんな表情で自分の元に駆け付けてくれたのだろう。それがわかる位置まで、頭を持ち上げる事すら出来なかった。

「びっくりした。お酒、強いと思ってたから」

「……酔ってなんか、いません」

 つっけんどんな口調で利玖が言い返すのを聞いて、史岐は少しだけ安心したようだった。

「酔ってる奴ほどそう言うんだよ、って返す事になってんの。大学って所はね」

 史岐は、かすかに湯気の立つマグカップを差し出した。

「ただのお湯だけど、よかったらどうぞ」

「……ありがとうございます」

 熱のある物に触れたら、またさっきの混乱が蘇るのではないかと、受け取る時にぴくっと指が震えたが、マグカップに満たされた白湯は少しぬるくなっていて、何の情動も呼び起こさずに体温と一つに溶け合っていった。


 狂った獣を振り切った後のような疲れだけが、体に残っている。

 脳裏をよぎった断片的な過去の記憶も、その虚脱感に紛れて、もうどこにあるのかわからなくなっていた。



 利玖を支えてソファまで連れて行き、二言三言、他愛のない話をしてから、史岐はロビーを離れた。

 一人にするのはまだ心配だったが、今の利玖には、誰からの干渉も受けずに考える時間が必要だと思った。しばらくは、ばれないように、何かあったら気づける近さにとどまっているつもりだった。

 食堂ではまだ宴会が続いているらしい。賑やかな声がここまで届いて来る。利玖の異変に気づいて出てきたのは、どうやら自分だけだったようだ。

 冷房の効いていない廊下にいるせいか、額に汗が滲んだ。

 乱暴に手のひらを押しつけてそれを拭う。飲み過ぎた訳ではないが、少し前から頭痛がしていた。ただ、彼の場合、原因は明確である。

 この際、雨に濡れてもいいから、駐車場に停めた車に戻って誰にも邪魔されずに一服してこようか、とも思った。しかし、そもそも手持ちの煙草があと一本しかない事を思い出す。思わず舌打ちをしてしまうほどの突発的な苛立ちは、明らかにアルコールの影響だった。

 曲がりなりにも、この一帯はリゾートである。少し歩けば、煙草を売っている場所が一つくらいは見つかるかもしれない。しかし、本当にそんな店があったとしても、この頭痛の解消には全くと言っていいほど役に立たない事は、史岐自身が一番よくわかっていた。

鬱陶(うっとう)しい……)

 避難口にぼうっと灯った緑の光さえ不快に感じて目をつむった瞬間、すぐ(かたわ)らに、ぞわっと肌が粟立つような気配を感じた。

「わざわざ白湯を作ったのか」

 機械のような声がそう問うのと、史岐が弾かれたように顔を上げたのとは、ほぼ同時だった。

「匠、さん……」

「なぜ? こんなに蒸し暑いのに。水もスポーツドリンクも、そこら中にあったのに」

 匠が一歩詰め寄る。

 背後には長く廊下が伸びていたのに、史岐は、後ずさる事も出来なかった。


 匠の顔には、時代も文化も遠く隔たった所ではるか昔に作られた土人形のような、ぽかっと(いびつ)な微笑みが貼り付いていた。

 真っ黒な目の底に、その瞳の色よりもなお濃い、闇があった。


 爪先から這い上がってくる震えを必死の思いで押しとどめた。

 この男は、いつだって自分に風当たりが強いが、こんな気配を向けられたのは初めてだった。


 殺気とは似て非なる物だ。

 そんなに生(やさ)しいものでは、ない。

 匠の気が済むまで──彼が史岐の口から引き出したい情報をすべて吐き出させるまで、どんな手段を用いても追跡し、拘束するという、刻み込まれたように強い意思の(あらわ)れだった。


 今、目の前に立っているのは、誰なのだろう。

 自分が今まで「佐倉川匠」だと思ってきたものは、一体、何だったのだろう……。


 けたたましい音量で離脱を勧告する脳と、指一本動かす事も出来ない体の衝突(コンフリクト)の中で、ふと、それらとは全く性質の違う思いが浮かび上がってきた。

 壁の向こうに、まだ利玖がいる。

 史岐から求めている物を引き出せないと判断したら、匠は彼女の所に向かうだろう。

(……それは、絶対に駄目だ)

 史岐は、思い切って息を吸い込むと、顎を上げて匠を睨んだ。

「いつも、食事の時、ホットの飲み物を頼むから」

 匠は一瞬、怪訝そうな顔つきになった後、ふっと眉を開いた。

 それを境に、史岐のよく知る男の表情が戻ってきた。

「そうだね。……利玖はもう、ずっと、そうだ」

 痛みを伴う記憶に触れているように、匠は眉間に手を当てたまま、しばらくうつむいていた。

 そして、顔を上げ、ロビーに向かって歩き始めたが、途中で「ああ、そうだ」と呟いて史岐の方を振り向いた。

「悪いけど、食堂に行って汐子さんを引き止めておいてくれるかな。たぶん、今は後片付けをしているから」

「構いませんけど……」

 どうせ汐子からも何か聞き出す心づもりなのだろう、と思うとうんざりした。

「匠さんも後で合流してくれるんでしょうね?」

「もちろんさ。だけど、利玖をあのまま放っておけないだろう? 僕の部屋まで連れて行って休ませるよ。女子棟にずけずけと、入って行く訳にもいかないからね」

 匠は人当たりの良い笑みを浮かべて、ぽんと史岐の肩に手を置いた。

「妹の事、気にかけてくれてありがとう」

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