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夏の終わり、レモンは溶けて

作者: 豆桶 サキ

高校生の時、部誌に提出したものを手直ししたものです。

 かたん、と音がして振り返る。重ねて水につけたままの皿が動いたようだった。

 布がすれる音。足音。ドアが開閉する音。鍵の音。一昨日あたりまでは聞こえるたびに確認していたけれど、こんなに空耳が続けば億劫になる。いっそのこと、幽霊でも見えていれば良かっただろうか。

 なんとなくつけていたテレビ番組。芸人がアミューズメント施設を紹介している。ぼんやりと眺めていたそれに、彼女の笑い声が聞こえた気がした。

 リモコンを取り上げ、目立つ電源のボタンを押す。遠くで子供の高い声がした。机に置いた音が乱暴な音を立てる。

 パーカーはどこにやったっけ。洗濯は終わっていたはずだけど。

 部屋の中には見当たらない。クローゼットを開ける。律儀にもハンガーにかけてあった。そういえば、しばらく着ていなかったかもしれない。

 チャックを下ろし、肩のところを引っ張る。自分の指先を目が追った。

「さかむけができてるじゃない」

 拗ねたような声。耳元で言われた気がして、思わず振り返った。当然なにもない。記憶が鮮明であるというのも困りものだ。

 パーカーを羽織り、ボディバッグを掴む。中に財布を入れたままだ。ほったらかしだったスマホを掴んだ手をポケットに突っ込む。控えめなストラップが揺れた。

 外に出て、速やかに鍵をかける。がちゃん、と静かなアパートの廊下に響いた。




 街を歩く。昼過ぎの高い位置にある太陽が、ジリジリと地上を焼いている。夏も終わる頃だというのに、どこを見ても攻撃的なほど眩しくて、目を閉じてしまいたくなる。せめて帽子でもかぶってきたらよかったか。

 部屋着だからとパーカーを羽織ったが、これも間違いだった。昨日は肌寒かったのに、まさか今日はこんなにも熱いとは。まとわりつく服がうっとうしい。なかなか人とすれ違わないのはこういうことか、とため息をつく。

 どこかで涼みたいけれど、丁度いいところはあるだろうか。自然と足は駅のほうへ向かっている。

 一度だけ行った店に閉店の張り紙があった。再び行くことはなかっただろうけれど、なんだか残念だ。

 店を通りすぎてしばらく歩く。数年前に彼女が素敵だと言った家は、メッシュシートに覆われていて見えなかった。

 そういえば、前にこのあたりへ来たのはいつだったっけ。彼女と出かけたときだろうか。記憶が随分遠いようにも、近いようにも感じられる。

 じわりじわりと汗がにじむ。しかしそれが流れ落ちる感覚はなく、服に染み込んでいるようだ。なんとなく体が重いような気がした。

 衝動的に外へ出てきてしまったが、これでは家にいたほうが幾分かマシだっただろう。

 外では目を閉じることもできない。耳を塞ぐわけにもいかない。仕方がないからため息をつくが、やはり息以外に吐き出されるものはない。

 乱暴に頭を掻く。伸びた爪に気が付き、眉根を寄せた。

 駅に着く。突然人が増えたようだった。さすがに、暑くとも寒くとも駅のあたりは人が多いようだ。すれ違った、スーツを着た男性は暑そうに目を細めた。大学生らしい三人組は涼しげな格好で、楽しそうに改札へ向かっていった。

 数日間、食料の買い出し以外で外出しなかっただけなのに、どうもこの場の人々と時間のずれがあるように感じられる。居心地の悪さを誤魔化すように袖をまくった。

 涼みたいのだが、どうにも店には入りづらくて、外から眺めて迷うふりをしながら通りすぎた。どこなら落ち着いて息ができるんだろう。

 どこを歩いても彼女がいて、立ち止まっているのは自分だけであることを突きつけられて、途方に暮れる。

 いっそ、僕の中の彼女ごと連れて行ってくれればよかったのに。それなら僕は目や耳を塞がずにいられた。彼女を嫌だなんて思うことは、きっとこの先なかったというのに。

 落ちた視線をぐいと上げて、どうにか行き先を探す。ぐるぐる歩いていては熱中症になりそうだ。

 ふと、コンビニがあることに気が付いた。いつも通るところとは違う道に出たようだ。あのコンビニには入ったことがない。

 導かれるように足を向けた。イートインスペースもあるようだ。なんだか丁度いいように思えた。

 自動ドアが開く。店内は空調が効いていて、ひんやりした空気が全身を包んだ。汗を吸って湿った服が、余計に体を冷やす。

 パーカーを着ていてよかったかもしれない。ああいや、パーカーを着ていなければ、そもそもこんなに汗をかかなかったのだろうか。

 客は多くない。入り口近くのイートインスペースでは、女性がスマホを片手にアイスコーヒーを飲んでいた。

 奥へ進む。冷えた天然水を手に取り、近くにあったアイスコーナーを覗き込んだ。

 色とりどりのアイスが並んでいる。時期柄だろうか、さっぱりした味のものが多い。

 じっくり眺めて、レモン味の棒アイスを掴む。食べたことがないけれど、彼女はこれを食べておいしいと笑っていたっけ。

 水とアイスなんて妙な組み合わせだが、そのふたつを持ってレジに向かった。

 イートインスペースを横目で覗き見ると、人が増えているようだった。と言っても、最初からいた女性に加え、二人組の青年が座っているだけだけれど。さほど広くないスペースだ、なんとなく入りづらい。帰る間に溶けてしまいそうだし、仕方がない、外でベンチでも探すとしよう。来る途中に見かけたと思うが、どうだっただろうか。

「袋どうされますか?」

「えっと、小さいやつ、お願いします」

 感じのいい店員がにこやかに尋ねる。つられて笑顔を作り答えると、店員は「かしこまりました」とやはりにこやかに頷いた。

 この頃人と会話をしていないから、滑らかに言葉が出てこない。けれど、笑顔を作ることはできた。引きつる感覚もなく、自然に笑うことができた。

 なんだ、笑顔は案外簡単じゃないか。ほうと息を吐き、会計を済ませ商品を受け取る。

 コンビニを出ると、暑さが一気に襲いかかってきた。一度涼しいところに入ってしまったから、余計にこのまとわりつくような熱が不快に感じる。曲がった背筋をそのままに、ベンチを探して足を前に出した。

 人通りは相変わらずで、駅からすこし離れれば、歩いている人はほとんどいない。おかげで、ベンチが埋まっていて座れない、なんてことにはならなさそうだ。

 来た道を戻ると、記憶通りベンチがあった。座っている人はもちろんいない。日陰になっていればよかったのだけれど、残念ながらそうはいかないようだ。ベンチを軽く手で払い、腰かける。じんわりあたたかかった。

 袋からペットボトルを取り出し、ふたを開け口をつける。よく冷えていて、喉が痛むほどだ。暑さがすこし和らいだ気がした。しっかりふたを閉め、横に置いておく。

 取り出したアイスはひんやりしていて心地いい。バリッと音を立てて袋を開け、アイスを引き抜いた。冷気が湯気のようにのぼっている。口を大きく開けてかじりついた。シャク、と軽やかな音を立てる。

 思っていたよりも酸味が強くて、甘くなくて、眉根が寄りしわを作る。美味しいとは言い難い。彼女はすっぱいものが好きだったけれど、僕の好みではない。

 ゆっくりとしか食べ進められなくて、アイスの表面がじわじわと溶け出してくる。まだ垂れてくるほどではないが、急ぐに越したことはないだろう。わかってはいるのに、飲み込んで次にかじるまでの時間を短くすることができない。口の中で転がしながらアイスを眺める。

 冷えた水とアイスのおかげで目が覚めたような気分だけれど、周囲を取り巻く熱が夢のように浮かされた気にもさせる。見たことがないが、明晰夢とはこんな感じだろうか。

 そういえば、明晰夢とはある程度操作できると聞いたことがある。

 もしこれが夢なら、今すぐ目覚めることができるのだろうか。思い通りの状況に変えられるのだろうか。

 やけに鮮明な視界に、冷たいアイスが痛みを伴い現実を教えてくる。ほうと息を吐き、咀嚼を続けた。

 アイスみたいに、彼女との記憶が、彼女に向けた想いが、溶けていくようで。

 溶けて、地面に落ちて、埃が混ざって、元の形を忘れてしまいそうで。

 けれど、溶けないうちに飲み下して昇華することもできそうになくて。

 どうにも落ち着いていられないのだけれど、動き出すこともできず、ままならない。アイスを飲み込み、またかじりつく。

 食べているうちに、酸味の奥に甘さを感じた。慣れれば美味しいのかもしれない。コーヒーもそうだったっけ。

 頬を伝う汗を拭う。じわじわ溶け出しているみたいだ。そうだとしたら、溶けたあとの僕にはなにが残るだろうか。

 最後のひとくちを飲み込んで、コンビニで貰った袋にゴミを入れる。ぎゅっと持ち手を結んで、空気を抜いて小さくした。口の中に残る酸味を洗い流すように水を飲み、立ち上がった。ゴミ箱に捨てられるといいけれど、また探し回るのも億劫で、仕方なく帰路につく。

 人通りは相変わらず。街並みも、来たときとなにも変わっていない。

 メッシュシートはやはり家を隠していたし、閉店の張り紙も角がはがれてすらいない。当然だ、一時間程度しか経っていないのだから。

 ふらふらとやって来た道を、確かな足取りで戻る。手に持っていたペットボトルの水滴が服に染み込んだ。誰も見ないだろうが、なんとなくそれを隠して歩いた。

 アパートに着き、鍵を開けて、速やかに部屋に入る。足音が聞こえた気がして様子を窺うが、おそらく隣かどこかの音だ。袋をゴミ箱に放り入れて、ペットボトルを机に置いた。表面の水が流れ落ちる。

 たとえば、時計の電池を抜いてみても、時が止まることはなく、流れた汗は拭うしかない。服に水が染み込んでも、それを抜く術を持たない僕は乾くまで誤魔化すしかない。暑い中でアイスは溶けるものだし、色はいずれ褪せてしまうものだ。

 思い出を捨てられないから、街並みに、アイスの味に、自分の指先に、テレビ番組に、彼女を見る。

 そしてまた背後で音がしたら、僕はきっと、何もないと知っていて振り返るのだろう。街へ出ては、彼女の存在を数えるのだろう。摂理のように、そういうものなのだろう。

 春はとうに過ぎ、夏も終わる。秋を前に、僕はようやく背筋を伸ばした。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 一体“僕”は彼女とどんな関係を築き、どういう形で別れることになってしまったのか、過去は語られなくとも“僕”の静かな悲哀が否応なしに伝わってきて、胸が痛むようでした。 幽霊でも見えていれば〜…
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